白い手が複雑な紋様のテーブルクロスの上を優雅に動く。 細い指だ。 女性のそれとは明らかに質感、形に差があるが、しかしロックアックスの猛者に混じるとたおやかな印象が勝るのは否めない。 銀器を操り、濃い琥珀色の紅茶を繊細なカップに注ぐその様は、まるで一幅の絵を見ているようだった。 「……マイクロトフ、マイクロトフ」 「あ、あぁすまん」 ぼーっとその手を見つめていたらしい。 呆れたような眼で見つめられ、慌てて居住まいを正す。 「人の話を聞いてなかったな」 咎める言葉とは裏腹な、優しい口調と柔らかい微笑が彼が機嫌を告げている。 嬉しいのは自分も一緒だった。二人揃っての団長位在任から早一年が経過し、その間いろいろなことがあったが、先日やっと思いが通じ合え晴れて恋人同士という立場に収まったばかりである。親友同士から恋人という関係になってから、妙にカミューの顔を見るのが照れくさく、それでいて姿を見ないと落ち着かないという日々が続いている。だがお互い騎士団の二峰の旗頭という重責をになう立場上、激務の中で顔すら合わせられない日々が続くことも珍しくなかった。 騎士団主催のお茶会、それはまさにそのようなすれ違いの日が十日も続いた穏やかな初春の日に、降って沸いた話だった。 城下の貴族や商工会の重鎮を招いた園遊会とそれに先立つお茶会を騎士団主催でおこなう。前触れもなく提起されたその催事は白騎士団長ゴルドーの起案だった。赤月帝国の滅亡とそれに伴う都市同盟南部の動乱という世情を鑑みると、緊張に欠けるとの批判の声も文官からは挙がったとも聞くが、騎士団内に於いて白騎士団長の声は絶対である。 四月の半ばに急遽組み込まれたお茶会と園遊会の準備に向けて、催事を取り仕切る文官は勿論、通常はそのような煩雑な雑務の処理とは一線を画し担務や鍛錬に明け暮れる騎士も準備に駆り出されている。 それは団長位にあるカミューやマイクロトフも例外ではなかった。 騎士団主催とはいえ客分は女性だけで構成されているため、文官長は騎士団にもっとも縁が深く社交界でも最年長のレディ・ブランシェに女主人の役目を依頼した。だが非公式に打診を受けたレディ・ブランシェはその翌日、正式に使者を立て女主人役の辞退を告げ、主人役の代わりとして赤騎士団長カミューを指名してきたのである。 曰く『私より騎士団内に於いてもっとも領内の女性達に覚えの目出度いカミューさまの主人役の方が、皆さまお喜びになるでしょう』 騎士団外部の人に依頼するからには、出席するメンバーの中でもっとも立場の高い女性に依頼するのが本来の形式である。その筆頭候補からきっぱりと断られ、その上代役の指名までされた以上、更なる依頼は図りにくい。だが女性だけが集うお茶会の主人役を男性が行うというのも聞いたことがない。 頭を抱えた文官長がカミューにそのことを恐る恐る告げると、彼は苦笑してその役目を承諾した。経緯をマイクロトフに話した時に『軽い嫌がらせだろう』と呟やいたことを思えば、どうやらレディ・ブランシェはカミューの知り合いのようだった。それもある程度古馴染みの女性らしい。懐かしげに細められた瞳を眺めながらマイクロトフはそう判断した。 何はともあれ、そんなわけでカミューは一番の大任である茶会の主人の役目を全うすべく、作法をおさらいをしているのだった。 城内のあわただしい空気とはまるで別空間のような静けさの漂う赤騎士団長室の中、聞こえるのは茶器の触れ合う微かな音だけ。この静かな空間だけでも、ここ数日間慣れない雑務に追われていた身としては何よりもありがたい安らげる空気だ。 「お代わりはいかがですか」 「……いや、その…結構だっ」 茶会の主人らしくゆったりとした口調で尋ねてくるカミューに眼をやったものの、不意打ちのように向けられた満面の笑顔が眩しくて思わず眼を逸らしてしまう。 「おや、マイクロトフ殿まだ一杯目ですよ、お口に合いませんでしたか?」 「いや、その…わぁっ!」 茶会という場面を想定してかいつもよりさらに柔らかく穏やかな声で、他人行儀に呼ばれる名前に、思わずカップを取り落としそうになった。 「危ないだろうマイクロトフ、少しは落ち着いてくれ」 咄嗟に差し出された手が、あわや純白なレースに零れそうになった紅茶カップを掬い上げる。 「…カミューがそんな笑顔見せるから」 「何か言ったかい?」 小さく呟いた言葉は彼の耳には届かなかったらしい。怪訝そうに首を傾げる姿に、首を振った。 「いや…手馴れているようだなと思ってな」 「お前は苦手のようだね。それこそ私なんかよりこういうお茶会の席は慣れているだろうに」 「まぁ確かに何度か祖父母の名代で行ったことはあるが…。しかしどうにもこういう…なんというか…こういう事は苦手なんだ」 青騎士団の重鎮だった曽祖父、そして祖父の関係で幼い頃から、いろいろな場に引っ張り出されていたのは確かだが、幼い頃から可愛がってもらい気心の知れた年配者ばかりのお茶会でも得意ではなかった。ましてやそれが女性ばかりとなると、どうなることか自分でも想像がつかない。 「気持ちは分かるけどね、巧くレディをもてなすのも騎士の勤めだよ。『レディ、今日のお召し物も素敵ですね。こんなチャーミングな方の笑顔を独占できるなんてご主人に嫉妬してしまいそうですよ』くらいさらりと言えるようにならないとな」 「そんな心にもないことは言えるわけないだろう」 それにそんなくさい台詞考えもつかん。そう小さく呟くと、確かにくさいな、とくすくすと笑ったカミューは、でもと続けた。 「私は言えるよ。私は本当は冷たくて酷い人間だからね。心にもないことを言うのも得意だし、平気で嘘だってつく。目的のためには人を傷つけるのも構わない」 思いがけない言葉に驚いて、ティーポットを抱えるカミューを振り仰ぐ。 「軽蔑したかい?」 視線に気がついたのか伏目がちに窓の外を眺めていた顔が、まっすぐに見つめてきて。 「……カミュー」 なんと答えれば良いか分からず困惑したマイクロトフに、静かな沈黙が部屋を流れた。 マイクロトフが口を開くことができたのは、無言のまま二杯目の紅茶を勧められた後だった。 「本当は俺もそうでなくてはならないんだろう。つまり…目的のためには手段を選らんではいけない。奇麗事では団長位は勤まらないからな。」 唐突に語り始めた言葉に、カミューは静かに耳を向けている。 幼い頃、強くあれ正しくあれと自分を諭した祖父が一度だけ『…難しいことだが』と呟いた意味が最近やっと理解できるようになった。 正しく公平であろうとすればするほど感じる重圧。 慣例や保身を盾に妥協を迫る勢力や、ともすれば揺らぎそうになる己の自信。そんな時に思い出し、自分を鼓舞するのは正しくあれと繰り返した祖父の言葉と、親友の眼だった。 己をいつでもまっすぐに見詰める彼の眸は、今も無表情のまま黙って自分を見つめている。 「俺がそういうことが苦手な分、カミューが動いてくれているのは知ってる。だから…感謝をすれこそ軽蔑などできるわけないだろう。むしろ謝らねばならないのはこちらだ」 本当に昔から、それこそ出会ったばかりの頃から、彼が自分の為に陰日向なく助けを差し伸べてくれていたのを、知っていた。目に触れぬ形で出された助けに、後になって気がついたことが何度あったことだろう。 「カミューは冷たくなんかない。それにもしカミューが自分のことを冷たい人間だと思っていても、俺はカミューが本当は冷たい人間じゃないことを知っているし、そんなところ全部ひっくるめて俺はカミューが好きだ」 己を守り、正しき道を歩めるよう見守ってくれる彼はそう、まるで守護天使のようで。伸ばされた助けの手には、感謝してもしきれない。 自分を冷酷と断じる言葉は、彼の本心なのだろう。だが彼自身や自分を守るために装うそれを断じる、その潔癖さをむしろ愛おしく想う。 「敵わないな、お前には。自分のほうがよっぽど歯が浮きそうな言葉を吐いていると分かっているのかい」 「そうか?」 「そうだよ。それに無自覚なだけに性質が悪いんだ」 小さくそう笑う彼の眸が少し潤んで見えたのは、気のせいばかりではないはずだった。 気の利いた言葉のひとつも思い浮かばず、黙ってその顔を見つめると、お茶のお代わりを尋ねられる。 所望の意を伝えると、部屋にはまた小さな沈黙が流れた。 静かな、とても静かで穏やかなその空気。 沈黙だけで満ちたりた空間に紅茶の香りが色を添える。 柔らかい微笑みと共にカップに添えられた指が、取ろうとした指と触れて。 見つめ合った瞳に、どちらからとなく引き寄せられるように唇を合わせる。 触れるだけの優しい接吻けはさらりとしてとても甘いものだった。 |