ひそやかな笑い声が微睡の中で聞こえる。
髪の先を撫でる感触が心地よく、段々と醒めゆく意識にも眼を閉じたままで、マイクロトフはその手の優しさを楽しんでいた。
暫くしてすっと頭からひいたそのてのひらに眼をあけると、うつ伏せで身を少し起こした体勢のカミューが、カーテンの隙間から射し込む光に眼を細めていた。
視線に気がついたのか、振り向くと枕にぱふっと頭を預ける。眩しそうに眼を細めたままで微笑んだ彼は、小さく囁いた。
「おはよう、マイクロトフ」
「ああ」
「熟睡していたね」
ふんわりと、まるで卵をたくさん使って焼き上げたケーキのような笑みを浮かべている。
「ああ…なんだか良い夢を見てたような気がする」
「うん、気持ちよさそうな顔をしてたよ」
額に触れる指先も、肌に気持ちよい温みだ。
「そうか。そういえば…」
優しく往復するその指先の動きに促されるように、薄れていく夢の名残を捕まえようと、眼を閉じる。
懐かしい、何か懐かしい夢を見ていたような気がする。
だが追いかければ追いかけるほど、手のひらにくみ上げた水のようにするりとこぼれてしまう、夢の薄皮にマイクロトフは眉根に皺をよせた。
そんなマイクロトフの様子を見て、カミューはふっと微笑を浮かべる。
「いいよ、思い出さなくて。夢は人に話さなかったら正夢になるっていうしね」
良い夢だったらそのままにしておいたほうが良いさ。
そう笑うその表情に、素直に頷く。
「どうする、もう起きるかい?」
「そうだな。起きてもよいが…カミューはどうする?」
答えながら窺う城内は、まだしんと静まり返っている。
陽が昇ったばかりだからということもあるだろうが、夜更けまで続いた昨夜のどんちゃん騒ぎの翌朝だ。大半のものはまだ眠りの中だろう。
それを思えばカミューがこの時間に目を覚ましていること自体奇跡のようだった。
「そうだね…折角だからまだ寝とこうか」
予想通りの彼らしい答えに、マイクロトフも異存はない。
何しろ昨夜は部屋に帰るのが遅かったのだ。その上眠りについたのは、それから更に時間が経ってからで…そこまで考えるとまた頭の芯の辺りから、眠気が襲ってくる。
「眠そうだ、マイクロトフ」
囁くようなその声に、瞼を閉じる。
「ああ、少しな…」
「眠ればいいよ」
誘いかける声に背中を押される間も無く、マイクロトフの意識はすぐに現から離れた。








「こら、いつまで寝てる気だ」
鼻を摘み上げられる感触に驚いて、マイクロトフの意識は水面に浮かび上がるような感覚で急激に覚醒した。
眩しい光に薄眼を開けるが、逆光で覗き込む相手の顔が翳になっている。
だが光を放つような煌びやかな髪、そして笑みを含んだ少し甘いイメージのする発音は、同室の友人の声だ。
「カミュー…」
「普段はどんな年寄りかと思うくらい早起きのくせに新年早々寝坊とはね。昨日の酒が効いたか?」
悪戯っぽい顔で腕を組む彼の機嫌はいつになく良い。
否、昨夜の酒宴の時から、彼の機嫌は上向きだったのだ。
士官学校、騎士団共にこの時期は冬期休暇で城に残っている人数は少ない。
騎士団の上層部は大晦日から元旦にかけて、領内の有力者等を招いての夜会も催されるしきたりになってはいるが、下層の騎士には所詮縁のないことである。
代わりにそのような平騎士には、祝い酒としてある程度の酒が振舞われる。年越しの無礼講ということで、寮に残る学生もそれに交じることができ、貴重な先輩騎士との交流の場ともなるのである。
もっとも友人には先輩騎士との交流などどうでも良かったようで、途中までは大人しく先輩騎士達に愛想を振りまいていたのだが、ちょっとした隙に大量の酒瓶を両手にどこぞへと雲隠れしてしまった。
そんな彼の尻拭いで、昨夜はいろんな人から、カミューはどこだと絡まれて大変だったのだ。どうやら自分とこの同室の友人は、セットと思われているようで、彼の代わりに飲まされたり、彼の行き先を知ろうと酔いつぶそうとしたりするものもいてなかなか酷い目にあった。
お陰で今朝の目覚めは最悪。
一年の計は元旦にあるはずなのに、当のその朝がこれでは、今年の運勢は見えたようなものだ。
それに引き換え、カミューの様子は見るからに絶好調である。
もしかしたら一睡もしていないのではなかろうか。
妙にすっきりした彼の顔を見ていると、日頃の寝汚さを知っている身としてはそんな考えも浮かんでくる。
「ほら、鈍々してると朝食食いはぐれるぞ」
寝床から追い立てられ、身支度を整えながら周囲の寝台を見ると、自分達以外はまだ夢の中だ。
どうせなら自分のことも放っておいてくれてもよかったのに、と恨めしい気分になりながらため息をついていると、目の前にタオルが突き出される。
思わず見上げると、相変わらず上機嫌なカミューの顔があった。
「ほら、いつまでも寝ぼけてるなよ」
寝ている同室者達を憚ってか、小声で囁かれた言葉はどこかで聞き覚えがある。
「洗顔一分、歯磨き三分、残りの身支度合わせて計五分」
これは…いつも時間切れぎりぎりまで布団の中で寝こけている、眼の前の友人を起こす時の自分の口癖だ。
さぞいつもとは逆転したこの構図が楽しいのだろう。いつになくカミューの機嫌は好調のようである。
「無駄に時間かけたら置いていくぞ。朝飯食いはぐれるのはごめんだからな」
しかし。
もしかして今まで夢うつつという風情で、自分の言うなりに動いていた寝起きの彼は、実は寝ぼけていたわけでも何でもなく、頭は起きて働いていたのだろうか?
一字一句違わぬず、自分の常の口癖をなぞったその言葉に、そんな嫌な勘繰りも浮かんでくる。
だったらいつも人に死ぬほど迷惑をかけないでくれ…。
そんな言葉を今この状況で言えるわけもなく、大人しくタオルを受け取ったマイクロトフは、ただただ深く深くため息をついた。



しんと静まり返った寮内には、ちらほらと人影が見える程度だった。
学校があるいつもならば、大勢の生徒達でにぎわっている時間帯だ。
マイクロトフも普段この時間には、裏の道場で朝錬の半分はこなしている。
冬期休暇でロックアックス市内、近隣村落出身者の殆どが帰省している。それでも残った者は学校がある時と同じ時間通りに起床し、自習して一日を過ごしているのだが、今朝の食堂には誰も居らず、かろうじて馴染みの賄夫が一人だけ、朝餉の準備をしていた。
「はやいな、お前等」
「おはようございます」
若い頃に怪我が元で騎士団を退団したという、中年の域も通り越したこの男は、この寮の賄い所の主だった。
縦に長く細い身体に、数年前に廃止になった青騎士団の略服と赤と白の極細縦縞の前掛けをつけている姿は、どんな早い時間でもこの食堂が開いている時には必ず見つけることができた。
毛一つなく禿げあがった頭に、捲り上げられた右腕には三本、古い刀傷が走っている。鋭い眼光は士官学校で一番恐ろしいと囁かれている作法のカランダル師もかくやで、包丁を握っている時には近づきたくないと恐れられるのも頷けるところだった。
差し出された朝餉のトレーを礼を言って受け取る。
「そういえばカミュー、昨日の酒はあれで足りたのか」
「はい、助かりました」
席を決める後ろで交わされる会話に、聞くともなしに耳を傾けていたマイクロトフは、そういえば、と思い出した。
光がいっぱいに射し込む窓際に向かい合って座り、手を合わせた後に口を開く。
「で、昨日はどこへ行っていたんだ」
「道場の二階だよ」
物置になっているあれだろうか。
驚き確認を取ると、レンズ豆スープをすすりながらカミューは小さく頷いた。
道場の奥の物置の扉の陰に隠れるようにある、本当に小さな階段を上るその部屋は、存在すら知らないものも多い。
毎日出入りしているマイクロトフは、寮監に頼まれてたまに掃除に入るが、古い家具や武具、わけのわからないがらくた等がとりあえず置かれている狭苦しい空間なのだ。おまけに半端じゃなく寒い。
「何もわざわざそんな所へ行かなくてもいいじゃないか」
寒いの嫌いな癖に。
その呆れた声に、
「背に腹は代えられないだろう」
「どういう意味だ」
「あんな所では美味しく酒も味わえないってことだ」
怪訝な感情を見て取ったのか、肩をすくめてカミューは続ける。
「大勢によってたかって弄られて、美味しく酒が飲めるわけないだろう」
「だったら一人で抜けないで、俺も誘ってくれたらよかったのに」
「そんなことしたら目立つだろうが」
確かに昨夜のカミューのとった行動は実にスマートだった。
空いた酒瓶を手に、補充を貰ってくると言い残し、樽のある厨房まで行く振りをして姿をくらましたのだ。否、厨房まで行ってしっかりと酒を手に入れている辺りが要領の良い彼らしい行動だ。あまりに自然な態度だったから、結構長い間カミューが行方をくらませていることに誰も気がつかなかった。
もっとも彼の行方不明が判明してからが、自分にとっては長い時間だったのだが。
「お前…人を手伝いで寮に引き止めておいて随分な言い草だな」
薄情者、と恨めしげに睨めど、
「どうせ暇だったんだろう、良いじゃないかたまには」
と意に介した風もなく、舐めるように牛乳を飲む。
確かに家族もこの正月はロックアックスに帰ってくる予定ではないし、祖父母からも用事があるのならば帰ってこなくてもいいとは言われてはいた。
だがそういう問題ではないだろう。
不穏な空気を察したのか、カミューは自分の黒パンを寄越す。パンごときで懐柔される気はさらさらなかったが、マイクロトフは一応大人しく受け取った。
「それよりも昨日は随分飲んだんだろう。こんな時間まで寝過ごしてるなんてな」
「ああ」
誰かさんのお陰でな、と続けたい所をぐっとこらえて、頷くにとどめる。
「二日酔いは?」
「は?」
「二日酔い」
「あ、ああ…」
「大丈夫そうだな。さっきまで気持ちよさそうに寝てたしな。高鼾で寝言まで言っていたぞ」
にやりと笑う同室者に、パンをちぎる手も止まる。
「本当か?」
「嘘」
手にしたチーズを千切ってはスープに投げ込みながら、カミューはあっさりそう言い放った。
「でも顔はにやけてた。どんな夢見てたんだか」
「夢…」
そういわれてみるとなにやら夢を見ていたような気がする。だが思い出そうにも内容の方はさっぱりで、欠片すらも思い出せない。顔がにやけていたと言われても、全く実感がなかった。
思わず食べる手も止めて、考え込んでしまったマイクロトフは、
「いいさ、思い出さなくて。夢は人に話さなかったら正夢になるっていうしな」
そう笑う言葉に顔を上げた。
窓一杯に降り注ぐ冬日和の光に、眩しそうに眼を細めながら微笑む友人は、天使もかくやという風情だ。その性格をしらなければ眼福で感涙に咽べる所だろう。
その性格を熟知しながらも、思わず見とれてしまったマイクロトフは、ふとこの場面に激しい既視感を覚える。
「…その言葉さっきも言ってなかったか?」
「なんだ、それ」
怪訝そうに返ってきた言葉に、首をかしげる。
つい最近同じ言葉を聞いたような気がしたのだが…。
そう考え込んだマイクロフは、唐突に思い出した。
さっきまで見ていた夢の中で、同じように友人がそう言って笑っていたのだ。
今と同じように陽射しに眩しそうに眼を細め、同じ台詞を微笑みながら囁いていた。
でも夢の中に出てきた友人は、なんだか今とは様子が違っていたような気がする。目の前でチーズを匙でつぶしている友人をちらりと見ながら、そう思う。
確かもっと髪が短くて、輪郭も雰囲気も大人びていたようだった。それに何よりも態度が違う。
それまで見たこともないような甘い表情、横たわる隣から伝わる温もりを思い出し、眼の前の友人とは別人だと確信する。
溶けないチーズを面白くなさそうに突付きまわしている彼は、間違ってもあんな表情を周りに向けることはないのだ。
でももしかするとあれは何年か後の彼の姿かもしれないな、そう思いついたマイクロトフは、口を開いた。
「そういえばカミュー、赤騎士団に入るつもりなんだよな」
「なんだ、唐突に。…一応な。上級学校へ入れたら入って、その後は赤騎士団に希望を出すつもりだけど」
不審そうな表情を浮かべつつ、そう答えるカミューに、なんでもない、と返しながら考える。
上級士官学校では与えられる部屋は一人部屋だという。となると、次にカミューと同じ部屋になる可能性があるとすれば、同じ団に入団するしかないだろう。
もし本当に、夢を人に話さなければそれが叶うという話が事実ならば、努力次第であの夢も実現するかもしれないのだ。
ならば努力あるのみ。
夢で見た友人のやわらかい微笑みに心奪われたマイクロトフは、未来の青図を勝手に構築する。
そんな食べる手も止まった彼の様子を、カミューは怪訝そうに窺う。
だが自分の考えで頭が一杯になっている彼はそれに気がつくよしもなかった。
「…お前、いらないんだったらもらうぞコレ」
呆けたような表情で自分の世界に入り込んだ友人に呆れつつも、カミューは隙を逃さなかった。 新年でも変わらない献立だが、唯一いつもより一品多い焼き林檎のクリーム掛けを手に宣言する。
その言葉におざなりに頷き返しながら、マイクロトフは赤騎士団に入団することを決めていた。









「そういえばあの頃は赤騎士になろうと思ってたんだよな…」
傍らに眠る濃い金髪を、頬杖をついて見下ろしながらマイクロトフは呟いた。
二度目の目覚めは快適だった。
眠っていたのはそう長い時間ではなかった筈だが、その短い間に城内に静かな活気が戻ってきていた。
だが横で眠る彼は、そんな気配も自分の小さな独り言も届いていないようだ。小さな寝息が規則的に肌に伝わる。
意識してかしないでか、カミューは自分と一緒に寝ている時は、起きなければならないという自律観念をどこかへやっているようで、口煩く起こすまではいつまでも寝ていることが多い。自分が不在の時は、そんなに従騎士の手を煩わすこともないという。
もしかするとあの頃からカミューは、そうだったのだろうか。
今見ていた夢の中の小さい少年の姿を思い返しながら、マイクロトフはふと思った。
懐かしい夢だった。
年末、寮に残っていた年というと、士官学校最後の年のことだから、もう十年以上昔の話だ。
朧げに残っている夢の欠片を手繰り寄せながら、あの頃の事を思い返す。
あの頃のカミューは言葉遣いが今よりも悪くて、今よりも尖った言動をしていたような気がする。
それでもなぜか自分はそんなカミューが嫌いではなかった。もっとも最初の数年はカミューの方は自分のことが苦手のようだったが。
見下ろす恋人の寝顔に、その頃の名残を見つけようとした。だが見つめれば見つめるほど、昔の姿が記憶から薄れていく。
じっと見つめてるうちに、青い血管も透けるほど白い目蓋がゆっくりと開いた。
「どうしたんだ、マイクロトフ」
間近で感じる視線に驚いたように、カミューは睫を瞬かせる。
「いや、…随分と育ったもんだなと思って」
「何の話だ」
怪訝そうな表情のカミューがおかしくて、マイクロトフは笑みを浮かべた。
「懐かしい夢を見たんだ」
「さっきの夢の続きかい」
そう問われて首をかしげる。
先の夢を覚えていないので、同じかどうかは定かではないが、同じ感覚が残るのでもしかするとその夢の続きだったのかもしれない。
「さぁ。でも士官学校の頃の夢だったぞ。覚えてないか、正月に一緒に寮に残ったことがあっただろう」
「……三年の時?」
「あぁ、お前が別荘にしてた図書室の掃除を押し付けられて、結局俺も手伝いで残っただろ、あの時の夢だ。あの頃は赤騎士団に入りたいと思ってたんだよな」
その言葉にカミューは懐かしそうに眼を細めた。
「そういえばそうだったね」
結局その夢は当時の青騎士団副長の勧誘や、元青騎士で士官学校時代に世話になった料理人を初めとする周囲の強い勧めもあり、潰えたのだが。
今となって、己の性質も併せ考えると、あの時の選択は正しかったのだろう。
「結局どうして赤騎士団に入りたいって言ってたんだ?あの頃は教えてくれなかったよな」
「…それはお前と同じ団へ行きたかったからだ」
「そんな理由で赤騎士団へ入りたいって言ってたのかい」
あの頃はとても出ないが口に出せなかった理由を白状すると、カミューは唖然としたような顔をした。
「それは…なんというか…」
よほど意外だったのだろう、言葉を捜しあぐねるように詰まる親友の姿に、頬が高潮するような思いだった。
しかし何故一緒の団に進むことに、あんなに固執したのか今となっては不思議なくらい、あの頃はそう堅く誓っていたのだ。何かきっかけもあったのだろうが、今となっては覚えていないのだが。
「でもまぁ、お前は青騎士団へ行って良かったんじゃないか。うちの団じゃ絶対昇進できてなかったぞ、きっと」
「むぅ……」
言葉に詰まる姿に、嘘だよ、とカミューは笑う。
「冗談は抜きにしても、お前が青騎士団へ行ったから、今この生活があるのだからね。よかったんだよ、これできっと」
眼を細めて微笑む頬に、接吻けを落とす。
確かに今までの何一つが欠けても、今のこの同盟軍での生活は無かったのかもしれない。それよりもなによりもこうしてカミューと恋人同士になれていたかも、定かではないのだ。
そう思うと覚えていない過去のすべても貴重なものに思えてくる。
「そろそろ起きるか」
腕の中の大事な温もりにそう囁くと、恋人の表情を浮かべていた彼も頷く。
扉の向こうでは賑やかな日常が、いつもの顔をして待ち構えている。
けれども今日も昨日とは違う、未来へ続く新しい日の始まりだった。





20030116〜20030122

MODELED BY MIKLOTOV&CAMUS / GENSOUSUIKODENN2
LYRIC BY AYA MASHIRO






Blue & Red * Simplism