Morgen
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 人気のない朝の廊下を歩きながら、少女は窓を眺めた。
 宵藍と山の端から気色を強める乳白の混じりあった不思議な色。
 刻々と勢力の変わる夜明けの空を見るのが好きだ。起きてすぐ窓から眺めた空は藍の色が強かったが、こうして身支度を整えて部屋を出るまでの少しの時間でも空の色は彩度を増し、周囲の景色を変えてゆく。
 気持ちのいい朝だ。
 腕に項に絡む、冷たく少しだけ朝独特の湿気の混じる空気を感じながら思う。
 廊下の奥まった窓際で立ち止まると、いつもの場所にひっそりと置かれている物を認め、少女は微笑んだ。
 さぁ、今日は何を歌おう。
 少し考え、こんなに綺麗な朝に相応しい曲を思い出すと、息を小さく吐く。
 鳥の囀りに交じり、階下から早朝訓練をしているのであろう騎士達の掛け声が聞こえてくる。
 短いソルフェージュで声を整えると、始めの音を奏でるべく喉を震わせる。甘く澄んだ歌声は爽やかな朝の風に乗り、薄く明けゆく空に広がり朝の訪れを告げ始めた。
 
 
「おはよう。今日もいい歌声だ」
 心持ち伸ばした最後の母音がゆっくりと朝の空気に溶けていくのを、うっとりと感じながら曲を終えると同時に拍手が聞こえた。
 朝から一分の隙もない、身のこなしをした姿がまだ暗い廊下から浮かび上がってくる。
 たまにこんな朝早くに顔を合わす相手だ。
 初めて会ったときはその堂々とした姿に圧倒される気がしてろくに言葉も返せなかったが、気にする風もなく毎回親しげに声を掛けてくれる相手に次第に緊張もとけた。兄のような友人達とも意気投合してよく楽屋裏にも顔を出してくれ、今ではあまり広くない自分の交友関係の中で高い地位にいる。
「おはようございます。すみません、起こしてしまいましたか?」
「いいよ、こんなに綺麗な目覚ましで起こされるなら本望さ。おや、朝も早くからファンからの貢物かい?」
 窓際に置いてある物??小さな花束に目を留めそう尋ねられる。
「時々ここに置いてあるんです。」
 この場所で歌うようになって、次の日から時折置いてある小さな花束。
 けして高価なものではない。野を歩けばいくらでも生えていそうな小さな野花で作ってあるささやかな花束だ。
 けれども彩りを考えて組み合わされ、丁寧にリボンを掛けられたそれは、どんな高価な花束よりも贈り手の心が伝わってくる。
「へぇ、それは奥ゆかしいファンだね。誰か目星はついてるんだろ」
「えぇ…」
 彼女がこの場所で歌うようになったのは、理由があった。
 ルカ・ブライト率いる王国軍との戦い。兵士達を励ます為にと軍師から要請され配属されたのは、老騎士マクシミリアンと青騎士団長マイクロトフが指揮する騎馬部隊だった。従軍はもちろん、戦場すら経験したことのない少女にとって、慣れない遠征軍は大変なものだった。しかし騎士たちの細やかな気遣い、そして同行してくれた友人達の励ましによって期待された程度の働きはできたのだろう。少女の歌によって傷ついた兵士達は気力を奮い起こし、結果として最前線に配属された部隊とは思えないほど少数の戦死者しか出さずに済んだのだった。
 そして城に戻り一息ついた少女を訪なったのは華やかな花束を抱えた赤騎士団長だった。
 
 
 『これはマイクロトフからです。本人がお届けできればよかったのですが、リーダーのシュエさまと遠征に出てしまい、お渡しする暇がなかったので私が代わりに預かってきたのです』
 
 『あなたにはとても感謝していました。あなたの歌声で傷ついた兵士達にも力が湧いて、安全な場所まで撤退できたとのこと、くれぐれも礼を伝えてくれと頼まれました』
 
 『私からもお礼を言わせてください』
 
 
 自分ではたいした事をしたとは思っていない。
 歌うことは好きだ。
 その自分の歌で、勇気付けられ、多くの人の命が助かったなんて夢のようだ。それだけでも嬉しかったのに過ぎるほどの謝辞と、今まで腕に抱いたことがないような豪華な花束、それに城中の女の子が密かに熱い視線をおくっている青年騎士団長からまるで貴婦人にされるように手の甲に接吻けされて、困惑しつつも嬉しいという気持ちが抑えられなかった。
 その喜びが少女の常では思いつかないような大胆な行動を取らせた。
 自分の声が彼らを勇気付けたというのならば、もしかしたら喜んでもらえるかもしれない。
 そう思い立って朝早くこの道場の階上で歌うことにしたのだ。
 青騎士団が毎朝早朝訓練を行っているのは同盟軍でも有名な事実。
 朝早く起きるのは得意だ。
 たまに朝早く起きだして、木立の中で歌うこともある。どうせ歌うのならば、少しでも喜んでくれる人に聞いてもらいたい。
 そう思いドキドキしながら歌い、次の朝恐る恐る訪れた同じ窓際にひっそりと置いてあったのは、小さな花束だった。
 花束のほか、何も残されていないからそれが青騎士団長からかどうかは分からない。
 一度だけ、遠征から帰って来た直後に彼と眼があったことがあるが、体格の良く重装備をつけた姿に圧倒され、花束のお礼どころか微笑みすら返せなかった。とても厳格そうな威厳があり、怖そうな風貌な彼がこんな花束を持っている姿など想像ができないのだ。むしろ赤騎士団長の青年の方がまだ想像しやすい。もっとも華やかな美貌を持つ青年騎士団長ならば、こんな小花では翳んでしまいそうだが。
 だから本当はこの花束が誰からのものなのか、分からないし、誰にも聞かない。
 少なくともこの花束は贈り主が自分の歌を喜んでくれていることを教えてくれるのだから。
 それならば自分がするのはただ歌うだけだ。
 ささやかな、しかし自分にとってはとても大きな意味を持つ花束を贈ってくれる人に、少しでも自分の気持ちが届くように、感謝を込めて毎朝歌う。
 多分それで自分の気持ちは通じている筈だ。
「変な手合いだったらすぐに私に言うんだよ。片付けてあげるさ」
「ありがとうございます」
 紳士、いや、騎士らしい礼儀正しい態度をいつも示してくれる彼らならば、きっと大丈夫だと思いながら、そう言ってくれた相手に感謝を示す。
「悪い、邪魔してしまったね。まだ歌うんだろう」
 ここで聞いてていいかい?
 そう尋ねてくる言葉に笑って頷いた。
 何気ない一言。
 小さな花束。
 そして自分の歌に向けられる微笑。
 そんな些細なことが、歌いたいという気持ちを強めてくれて、本当に自分は歌うことが好きなのだと確認させてくれる。
 だから自分はここにいるのだ。
「ではもう一曲――」
 壁にもたれて拍手をしてくれる相手に一礼をして、少女は口を開く。
 
 楽しそうに自分の歌を待ってくれる人。
 そして毎朝大きな幸せをくれる誰かわからぬ人に。
 
 少しでも自分のこの嬉しい気持ちが届きますように
 
 
 
 そう想いを込めて。


 




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