重厚な灰白石の空間の中、見慣れぬ鮮やかな緑が眼に飛び込んできた。 クラウスは首を微かに傾げると、ホールの階上から、下を見下ろした。 突き当たり中央に位置する石版の横に置いてあるのは竹という植物のようだ。ハイランドには自生しない品種だが、南方のこの地では稀に山で見ることができる。 その竹がなぜここに。 浮かんだ疑問は、その植物を取り囲む人々が手にしているもので、氷解する。異国の祭事の一つとして、朱雀月七日に竹の葉に願い事を記し吊るすものがある、とは昔書で読んだことがあった。 それはこの地方のものではなかったはずだが、恐らく同じように書か伝聞でそれを知った誰かが、その祭事を行うよう提案したのだろう。 もっとも、出身が多岐にわたるこの同盟軍ならば、誰かがそれを習いとする地方と縁がある可能性も高い。 いずれにせよ、小休止中とはいえ、戦時の最中にも人々の心を浮き立たせる何かがあるというのは喜ばしいことだ。 立ち止まる僅かな間にも、途切れなくやってくる老若男女が、近くに置いてある色紙に願いをしたため、笹に願いを吊るしていく。 己もその中に交じるという考えなど露思い浮かべず、クラウスはただ微笑ましい気持ちで手摺から階下を見下ろす。 「あなたはもう書かれましたか?」 そんな彼は、不意に横から掛けられた声に、驚き眼を瞠った。 足音も気配も察知させず、いつの間にか横に並んでいたのは赤騎士団長カミューだった。 はんなりと笑む端正な顔は、なまじの女より整って美しく、間近で直視するのが躊躇われたクラウスは、目を伏せ黙礼することで視線を逃がす。 「いいえ、まだです。カミュー殿は?」 「私もまだなんです。どうも願い事を一つに決めかねているんですよ。自分がこんなに欲深な人間だとは、初めて気がつきました」 二人きりで話したことなどない相手は、そんなことを意にした風もなく、親しげな声を出した。 恐ろしいほど整った顔立ちに似合わぬ、さっぱりとした物言いに、内心の構えを無意識に解いたクラウスは、いつもの笑みを取り戻す。 「七夕の願い事は一つでなくてはいけないのでしょうか?」 「さて、どうなのでしょうね。私が読んだのは、『笹の葉に願い事を書き吊るす風習がある』というそっけない一文だけですから」 東の著名な歴史家の、一部では密かに有名な博聞記の名を挙げたカミューに、ああ、とクラウスは頷いた。それは彼も目にしたことのある書だった。 「私が読んだものの中には、願い事を書き笹の葉に結びつけるもう少し具体的な手順が書いてありましたが、特に幾つまでとは記されていなかったようですよ」 「しかし、願い事を幾つも書くと効力が分散されそうな気がしませんか?」 悪戯っぽい視線を向ける男に、上手い返し方を知らないクラウスは、さぁ、と首を傾げるだけだ。 だが、ふと思い出した言い伝えを口に載せた。 「願い事は、当事者が願うよりも、周囲の者が代わりに願うなら、その効力が高くなるとは聞いたことはあります」 その言葉になるほど、と頷いたカミューは、「では行きましょうか」となぜか不意にクラウスを階下へ誘う。 何が彼を行動にうがなしたか分からぬまま後ろに従うクラウスの前で、ご丁寧に置かれた机の前でさらさらと願い事をしたためたカミューは、白いこよりで色紙を笹の葉に吊るしていく。 無作法だろうかと思いながらも、ちらりとそれを盗み見れば、書かれていた文字は、彼の親友の体調回復を願う言葉だった。 そういえば青騎士団長は先月末から体調を崩し、今は面会謝絶で医療室に収監されている。 たくさんある、と零していた願いの中から選んだものが親友を思っての願いということに、クラウスの目の前の男に対する認識が少し変わる。 そんなことを知らぬカミューは、振り向くと、 「クラウス殿はいいのですか?」 と尋ねた。 己のことに関しては、極端に自己認識が鈍いことを自覚しているクラウスは、早々に己個人の願いを探すことを放棄する。 生まれ捨てた国に残したものへの未練や、鈍い痛みはあれど、それに関する願いは記せず、それを除けば父も己も息災な現状に、他者へ希うほどの強い願いはない。 暫し考え、ふと思いついた言い伝えに、クラウスは筆をとった。 したためた言葉は文字にして眼に飛び込むと、我ながら気恥ずかしいものがあった。 怪訝というよりも驚きに近い表情で、じっと色紙を見詰めるカミューに内心焦りすら感じたクラウスは、それでも平静を装い、笹の葉に紙の紐を結わえていく。 「・・・恋に溺れ仕事をしなくなったために天帝に引き裂かれた恋人達が、唯一逢瀬を許されたのがこの七夕の日だという言い伝え、カミューさんはご存知ないですか?」 「あぁ、その話なら読んだことがありますが、あれは今日のことだったのですか」 じっと文面を見詰めていたカミューは、そう呟くと、不意に姿勢を正す。 「ありがとうございます、クラウス殿」 そうしておもむろに丁寧に礼をとる男の姿に、クラウスは眼を瞬かせた。 「・・・カミューさん?」 「クラウス殿に教えていただくまで、あの話が七夕と関係あるとは知りませんでした。教えていただけて一つ賢くなれました」 にっこり笑む顔は、晴々として実に嬉しそうだった。 その満面の笑みを内心不思議に思いながらも、彼の騎士団長はきっと向学心が強い人なのだろうと認識したクラウスは、いいえ、と首を振る。 「ああ、思いがけずお時間をおとりして申し訳なかったですね。お礼に今度お茶でも奢らせてください」 にこやかに笑いながら軽やかな足取りで去っていくカミューの姿を見送ったクラウスは、笹の木を見上げた。 階上まで届こうという大きな木は、色とりどりの色紙で飾られ華やかな装いだ。 その全ての願いが叶えばいい、そんなことを考えながら、クラウスも歩き出す。今頃作戦室ではなかなか帰らない副軍師を上司が怪訝に思い始めた頃だろう。 『引き裂かれた恋人達が再会できますように』 ふと通路の窓の外を眺めれば、見上げる空は綺麗な青だ。 クラウスの願い事は、今日は叶うに違いなかった。 |
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