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「カミュー、今から皆と音楽室へ行くんだが、一緒にどうだ」
図書室の書見机の傍に人の気配を感じたカミューは、顔を上げた。 机に片手をついて長身を屈めているのは、上級士官学校の数少ない級友、マイクロトフだった。
声を落すようにして囁くのは、時折ページをめくる音が響くだけのこの部屋の静けさを慮ってのことだろう。
ちらりと戸口に目をやると、数人の友人達の姿もある。
だがカミューは小さく首を振った。
「遠慮しておくよ」
「そうか」
頷いたマイクロトフは、踵を返す。
その後姿を暫し見送ると、カミューはまた厚い本に視線を戻した。

最近カミューの周囲では、とあるピアノ曲を弾きこなすことが流行っている。
きっかけは友人の一人が持ってきた、上流社会で人気のある、さる高名な作曲家の楽譜だった。
上級士官学校まで進学するのは金銭的にも余裕のある、所謂名門の子息達だ。楽奏の技術も、教養の一つとして幼い頃から教え込まれている。 最も普及しているピアノは当然のこと、他にも数種の楽器を弾きこなすことができる者も少なくない。
そんな彼らでも、宝石と同じ扱いで取引されると言われている、かの作曲家の楽譜は初めて眼にするものだった。
勿論彼らの殆どはその作曲家の名前は知っている。だがその名前と並び有名な、その稀少性のゆえに、眼にすることは叶わなかったのだ。
楽譜を持ち込んだ青年は仲間内で一躍英雄になり、皆が技巧的なその曲をいかに弾きこなすかを競うようになった。
それはいかにも良家の子息に相応しい、粋で気の利いた余暇の過ごし方だった。
だがカミューはそれに全くといって良いほど興味は無かった。
余裕が無いと言ったほうが正しいかも知れない。
次代の幹部生、官僚の育成を目的とする上級士官学校のカリキュラムは、専門性が高い。内容も騎士団中枢に関わる機密事項の取り扱いから、士官学校で学んだ各分野の応用と幅広いものだ。
もともとマチルダ人としての、騎士団と共に息づいているこの地方特有の風土に関する素地がないカミューは、根本的なところで他の級友に数歩は遅れをとっている。
にもかかわらずカミューは、士官学校を卒業した時、マイクロトフから奪回した主席の座を守り抜くつもりだった。
主席の座、それ自体にあまり重きを置いているわけでは、カミューは無い。だが、何かにつけ好敵手であるマイクロトフの下につくということが、カミューにとって何よりも耐えがたい屈辱なのだった。
更に厄介なことに、外面を装うことを覚えた彼は、己のプレッシャーを素直に外に出すことを良しとせず、あくまでも穏やかで闊達な優等生という己のスタンスを保っていた。 それに加え上級士官生として上官に仕える従騎士の役目で、一日中意に反して微笑を浮かべ続ける必要もある。
そんな訳で、ここの所カミューには休日にピアノ競奏をする友人達に交じるだけの、心の余裕は無かった。
実益もかねて図書館に篭るか、気前の良い上官が貸してくれている馬での遠駆けをすること。それがここ最近のカミューの余暇の過ごし方だった。
だが、今日の空模様は雨。
これではとても城外にでることは叶わないだろう。
窓の外を眺め、内心溜息をついたカミューは、戸口に立つ一人の赤騎士と眼があった。
思案げな表情を浮かべ室内を見渡していた相手は、その瞬間ふっと表情を一転させ、こちらへ向かってくる。
胸に飾られている徽章は相手が役付き騎士だと言うことを示していた。
「取り込み中失礼。カミューだな」
「はい」
内心感じたうんざりした気持ちを抑え、直立不動で敬礼をするカミューに、相手は頷くと、封書をさしだす。
「赤騎士団第七隊長ロールズだ。すまないが、君の友人にこれを渡しておいてくれないか」
依頼の形を取った命令の言葉に、またかと内心一人ごちた。ロックアックスでは稀な色彩を身に纏い、その上目立つ容貌をしているせいでカミューは士官学校へ入った時から注目の的だ。相手はカミューの事を知っていても、彼の方は知らない人が多い。
そんな知らない相手に呼び止められ、用事を言いつけられるのはいつものことだった。
「失礼ですが、友人とはどの友人でしょうか?」
「君の元同室者だよ」
あいつの上司か。
赤騎士団の内で配属を転々と変えている友人の上官など、カミューは把握していなかったのだが、どうやら眼の前の赤騎士が今の上司らしい。
「…マイクロトフですか」
確認の言葉に、赤騎士は頷く。
「君のことは彼から良く聞かされているのだが」
なるほど、彼の片思いと言うわけか。
何を話したあいつは…という気持ちが一瞬表情に出たのだろう。目敏くそれを読み取った相手は、むっとするような不穏な言葉をさらりと付け加えた。
マイクロトフとカミューの仲が密に取りざたされるのは、同室になった数年前からのことだ。この手のことに鈍いマイクロトフは何も気がついていないようだが、カミュー自身は面と向かって揶揄されたこともある。
いまでこそ落ち着いてはいるが、むしろ彼に対しては当初から敵愾心にも似た競争心を抱いている身としては、腹立たしいことこの上ない噂である。
だがそれに真剣に相手するのも馬鹿らしく、最近ではいちいち反論するのは止めていた。
「こちらはお急ぎでしょうか」
「そうだな。よろしく頼むよ」
場所柄微かなその呟きに、カミューは聞こえなかった振りを通すと、敬礼してさっさと部屋から退散した。









屋根があるだけの回廊に降り込む雨を避けながら、カミューは士官寮へと足を早めた。
湿気を含んだ初秋の冷気は、服の裾から体温を奪っていくようだった。
いつもよりは冷たいながらも、それでも乾いた寮内に入り、人心地つく。
マイクロトフが行くといっていた音楽室は、地下にあった。
入寮した当初に探索で一度、それから友人達に誘われてつい最近二度目を訪れただけで、カミューはその部屋に馴染はない。
躊躇いながら、重い扉をそっとあけると、友人達がグランドピアノの周りを囲んでいるのがみえた。
ちょうど曲を弾き終え交代する所だったのだろう。
演奏席から立ち上がった友人が、カミューの姿を認め、声をかけた。
「すまない、邪魔をする気ではなかったんだ」
一斉に振り向く友人達の視線に、微かな居心地の悪さを感じ、無意識のうちに早口になる。
「カミュー、聴きに来たのか」
「いや。マイクロトフへの預かりものだ。…ほら」
驚いた表情で立ち上がったマイクロトフは、差し出された封書を受け取る。
「急ぎのものじゃないのか?」
「いや、ただの伝令だ」
中の文面にさっと目を通しただけで、すぐにまた元に戻した彼は、友人の問いかけに端的な返事を返す。
そしてカミューに向き直ると、その肩に手をかけた。
「折角だから聞いていかないか」
「次はマイクロトフの番なんだ。ちょうどいいから聞いていけよ」
「たまにはいいだろう」
「いや、…」
ここへはただ、頼まれた物を届けに来ただけで、友人達にに交じってピアノを聴く気などさらさらなかったのだ。
だが手にした荷物を奪われ、奥の革張り長椅子に追いやられては、抵抗する余地も無い。
諦めて腰を下ろすカミューの眼の前で、マイクロトフは演奏席に座る。
何度か椅子の高さを調整する姿に、友人の一人が揶揄の声をかけた。
「カミューが見てるから緊張してるのか」
だがその言葉が聞こえないかのように、真剣な面持ちで鍵盤に向かい、ポジションをとった彼は、やがてゆっくりと音を奏ではじめた。
初めの音は沈黙に溶け込むような、柔らかい高音。
その上にゆったりとした和音が重なり、やがて一つの流れを作り上げる。
華やかな旋律の中にも、狂いの無いどこか堅実な響きがあった。
それは弾き手、マイクロトフの生真面目で実直な性格が滲み出ているのだろう。
ゆっくりと眼を閉じて、彼の演奏に聞き入る。
演奏の才はないと自負しているカミューだったが、演奏を聴く機会ならば数え切れないほどあった。
聴くことにかけては、素人なりの良し悪しが分かる。
マイクロトフの演奏は、もちろん玄人のそれとは比べ物にならないものではあるが、少なくとも聴くに堪えない段ではない。
相当に難しい曲であろうにもかかわらず、迷いも躊躇いもない弾き方は、聞き手に安心感を与えるものだ。
眼を閉じたカミューが長椅子に背を凭れかけるのには、そんなに時間はかからなかった。
優美で広がりのある旋律は、広い部屋の隅々まで溢れ、身体全体をゆったりと包む。
形を変えて繰り返される高音の主旋律。
時折交じる強い音のアクセント。
聴いているだけでは、指の動きなど想像もつかないような、細かい音の連なり。
漣のような音の流れに誘われ、時折ふっと意識が宙に浮くような高揚を感じる。
マイクロトフが曲を弾き終わる頃には、カミューは危うく眠り込む寸前だった。
最後の一音が、広い部屋に響いた。
その音が空気に溶けるように吸いこまれていくと、鍵盤の奏でる音に支配されていた部屋に張り詰めた空気が飽和しきったような沈黙が落ち、そしてそれもすぐに青年達の声や足音にかき消された。
「ノーミスか?」
取り囲む友人達の問いかけに、マイクロトフは首を振った。
「いや、三頁目の和音の真中の音が二箇所抜けた」
「あと、最後の連符、微妙にこけてなかったか?」
「それは細かすぎるだろう」
「俺はマイクロトフの自己申告が無ければミスに気がつかなかったぞ」
楽譜を広げながら熱心に論議しあう、そんな彼らの声に、カミューはゆっくりと立ちあがった。
先程まで感じていた、真綿に包まれたような軽く温い空気が、友人達の声に薄れていくのが分かる。
およそ空気の動きというものも感じさせず、ひっそりとドアに向かっていた彼は、ふと振り向いた。
視界の端に、何か言いたげな顔をしたマイクロトフの姿が映る。
それに片手をあげて微笑むと、マイクロトフはただ黙ったままで見つめてきた。
けして強いものではないその視線を感じながら、カミューはそっと部屋を出た。
暗く光の射し込まない階下は、こんな雨の日には燭台の灯さえも特に薄暗く感じる。
部屋の中と比べると格段に冷たい湿った空気に、カミューは身を震わせた。
だがその時身体に感じたのは、心地よい疲労感だった。




++ 2 ++


カミューが読みかけの図書館の本がないことに気がついたのは、消灯の時間が迫った頃だった。
普段借りた本を置いている枕もとにも、机の上にも無い。
物が殆ど無い、空間ばかりが目立つ部屋のどこにも目的の本は見当たらない。
どこへ置き忘れてきたのだろうか。明日の講義の前に読んでしまいたかった本なだけに、悠長に構えることもできず、カミューは部屋をもう一度探しながら、記憶を探った。
「…そういえば」
最後にあの本を持っていたのは、数日前に音楽室へ届け物をした時だった。
あの時友人の一人に手にしていた本を取り上げられて、そのまま返してもらった記憶が無い。
もしかすると、あの音楽室のどこかにあるのかもしれない。
そう思い当たったカミューは顔を顰めて、小さく舌打ちをする。
廊下の端に置いてある、古い柱時計で消灯の時間までまだ少しの猶予があることを確認すると、足早に階段を下りる。
上からの明かりに頼るだけの薄暗闇に包まれた地階の廊下は、気温も僅かに低く感じる。
刺すような、というほどではないが、剥き出しの肌にその冷たさを主張するような空気だった。
出る前に羽織ってきた上着を喉元でかきあわせ、心持ち足を早めていたカミューは、だが、音楽室へ続く角を曲がった所で歩調を緩めた。
扉の横に掲げられた燭台に灯が入っている。
どうやら先客がいるようだった。
少しの逡巡の後、カミューは薄く扉を開いた。
途端に廊下へ流れ出た音の奔流に、慌てて身体を部屋の中へ滑り込ませる。
背を預けるようにして扉を閉じてほっと一息つき、顔を上げると、驚いた表情のマイクロトフがピアノの前にいた。
「すまない。邪魔したな」
弾く手を緩めたマイクロトフに、早口で謝ると、曲は元の速さに戻る。
「どうしたんだ、カミュー」
「忘れていった本を取りにきただけだ。心配するな、すぐに退散するさ」
部屋を見渡すと、探すまでも無く目的の本が、部屋の隅の譜棚に並べられているのが見える。ここに置いた友人も、そのままその存在を忘れてしまったのだろう。
件の本をやっと取り戻したカミューの背に、マイクロトフは声をかけた。
「せっかくだから聞いていけばいい」
「悪いが、この本を読まなければいけないんだ」
「聞きながらでもいいじゃないか。なんだったら邪魔にならないような曲を弾くぞ」
「……お前は俺に聴いて欲しいのか」
「ああ」
さてどうしたものか。
手にした本を玩びながら、カミューは思案げな顔をつくった。
だが、考えるまでもなかった。
地階だけあってここには明かりを採るために何本もの燭台が部屋中に置いてあり、自室の机の蝋燭一本の明るさとは比べ物にならない。
その上暖房用ストーブが部屋を暖めていて、誰が持ってきたのか毛布も長椅子の上に置いてある。
どうせ消灯時間を過ぎたとしても、上級士官生ともなれば士官生の頃と違い、点呼すら行われない。
結論は早かった。
「じゃあここで読むさ」
その言葉に頷いたマイクロトフは、上手に間奏を挟み、ゆったりとした曲に変えた。
「これくらいの曲だったらどうだ?」
「べつに前の曲でも俺は構わなかったんだが」
「あの曲は後半が煩いぞ」
そう笑って振り返ったマイクロトフは、不意に曲調を早め激しい音を出す。
「こんな感じになるんだが」
「わざとやってみせるな」
ちょうど脱ぎ終わったブーツを、軽く投げる真似をすると、謝罪の声と共に軽い笑い声が返ってきた。
リラックスしきった表情で笑っている彼は、本当に楽しそうにピアノを弾いている。
その様子を見ていたカミューは、ここでピアノを弾くということが彼なりのストレス発散の機会ではないかと、ふと気がついた。
やはり帰った方が良いかという考えは、こうして毛布に包まれ長椅子の上にしっかり収まってしまった後だと億劫さに負ける。
どんな気の迷いでかは知らないが、誘ったのはあちらなのだから、いまさら文句を言われることも無いだろう。
せいぜい静かに本を読むか。
そう結論づけ、開いた本に意識を集中させた。
ページをめくる頃には、カミューは完全に文字の世界に没頭していた。
時間の流れから意識を乖離させていたうちに、どれくらい経ったのか。
やがて切りが良い章末でふと気がつくと、曲はどこか聞き覚えのあるものになっていた。
曲名はわからないが確かに知っている旋律だ。だがその曲調は記憶にあるものより、滑らかで独特な華のあるものだった。
「その曲もあの作曲家の曲か?」
何度も繰り返される同じモチーフを聞いているうちに、ここの所何度か耳にした友人達が夢中になっている曲と共通する雰囲気に気がつく。
「ジョルジョ・ウィスティン?」
「あぁ」
「そうだ。もともとあった曲を、編曲したものだけどな」
弦楽用に書かれていた作品の主旋律を、ピアノ用に書き直したこと。
作曲した曲の殆どは、依頼を受けて個人のために書いた曲だから、所有者以外はなかなか楽譜も見られないこと。
このような編曲した作品だけが、一般には出回っていること。
そんなことをぽつりぽつりと語るマイクロトフに、ふと浮かんだ疑問が口をついた。
「高いんだろ?その曲?」
「高い?」
「質の悪い宝石なんかとは比べ物にならないくらい値段がするって聞いたぞ」
「あぁ、楽譜のことか。そうらしいな。この曲は俺のピアノの先生から教えてもらったから、楽譜は見たことないんだ」
そう語っているうちに曲は終盤を迎え、力強く細かい連符を重ねた後、長い長符で曲は締めくくられる。どういうタッチをしているのか、あくまでも柔らかい音の余韻を楽しむと、マイクロトフはもはや耳に馴染んだいつもの曲を弾き始める。
「ジョルジョ・ウィスティン、好きなのか?」
「ああ。古典といわれる音楽もいいが、彼の曲はわかりやすい綺麗な曲が多いし、それに弾いてて楽しいからな。一番好きな曲は『彩の乱舞』なんだが、これは昔どこかで聞いたことがあるだけで弾けないんだ。有名な曲だから、複製した楽譜が幾らか出回っているらしい。どこかで見る機会があれば良いんだけどな」
「ふーん」
「綺麗な曲でそんなに難しくないから、カミューも弾いてみると良い」
「……気が向いたらな」
誘いの言葉に、一瞬返答が詰まる。
それに気がつき、カミューは内心臍を噛む気持ちに襲われた。
眼の前にいる友人は、その長身で武骨そうな外見からは似ても似つかぬような曲を弾きこなす繊細な指を持っている。
そしていつもは鈍いくせに、肝心な所で急所を突くようなことをずばりと指摘する。それだけではなく、己では気がつかなかったことまでもさらりと言い添えることができる。そんな聡さのある青年だった。
きっと今の短い沈黙だけで、マイクロトフは今まで慎重に隠していたカミューの劣等感に気がついただろう。
同じ上級士官学校へ上がった仲間の中で、カミューだけが皆と交じってピアノを弾くことができない。
それはカミューがグラスランド出身で、マチルダの、すくなくともロックアックスの中流以上の子供が受けるであろう教育を受けられなかったからではない。
カミューが引き取られた家の家人は、遅まきながらも彼に普通のロックアックスの子供が当然受ける以上の教育を施してくれて、それにはピアノのレッスンも含まれていたのだ。
それを止めたのは自分だった。
左右で異なる指の動きが気持ち悪くて、どうしても性に合わなかったのだ。
そしてその結果がこれだ。
ある程度までは弾けるとはいえ、到底友人達に交じって披露できるだけの腕ではない。
だが彼らにそう言うと、きっとグラスランド出身だからと言う同情の篭った眼で見られるに決まっている。 それは引き取ってくれ、過分な教育を施してくれた家人にあまりにも申し訳ない。
だからと言って自分の根気の無さを露呈するような、自分自身古傷となっている事実を告白するのはもっと御免だった。
ただ興味がない振りをして、実際あまりなかったのだが、いつもピアノを競奏する彼らとは一線を画しているのが、カミューなりの精一杯の防御策だったのだ。
気づいてくれるな。
いや、気がついても気がつかない振りをしてくれるだけでもいい。
平静さを保った表情の裡側で、祈るような気持ちでそう願う。
そんなカミューの願いもむなしく、ピアノの奏でるしっとりした和音の流れとはそぐわぬ冷静な声が彼の耳を打った。




++ 3 ++


「なぁカミュー、最近ピリピリしてるだろう」
やはり…来たか。
気がつかぬ筈もなく、そうやって気がついたものをそのままそっとしておいてくれるような可愛い性質でもない。
「だったらなんだ」
強いて何事も無かったような声を出そうにも、どうしても隠せぬ険が篭る。
そしてそんな自分の青臭さに、余計に心は苛立つ。
「いや、ピアノを弾くのはかなり良い気分転換になるからやってみたらいいんじゃないかと思ってな」
胡乱な眼で見つめると、曲調を緩やかなものに落したマイクロトフは、俺の責任もあるし気になってな…、そう続ける。思いも寄らぬ言葉に、カミューは眉間に皺を寄せた。
「お前のせい…?」
だがその言葉に返すことなく、演奏の手を止めたマイクロトフは困ったような顔で続けた。
「ピアノを聴く分には気持ちよさそうに聴いてるからどうかとも思ったのだが、カミューはなかなか聴きに来てくれないしな。ピアノを聞きながら眠れるならまだしも、眉間に皺を寄せて本を読んでるだろ。どうせ起きてる時間を有効に使うんだったら気持ちの良いことをしてストレス発散した方が良いんじゃないかと思ってな」
「それはお前に心配してもらうことじゃないだろう」
黙って聞いているうちに段々不機嫌になったカミューは、眉間に皺をよせた。
たしかにピアノが流れるように弾けて、他の友人達と腕を競えるくらいの腕前だったら、それはストレス解消にもなるだろう。だが、それだけの技量を持った彼から、ストレス解消になるからと軽く薦められても、苦手という言葉を抱えるこちらとしてはストレスが溜まる一方だ。
どこをどう見ても、あまりにもデリカシーというものの欠片も見当たらない言葉だった。
「確かに、お前にとっては些細でどうってことないようなことに見えるかもしれないけどな、人によって感じ方はそれぞれだってことくらいちょっと考えてみて分からないか」
苛立ちのあまり投げつけたきつい言葉に、だがマイクロトフは素直に頭を下げた。
「すまない。俺の認識不足だったな。お前がそんなに ――――――― 寝不足に苦しんでいたなんて知らなかったんだ」

………は?


「最近妙にイライラしてるし、この間俺の曲聞いていた時も、最初機嫌最悪だっただろう。でも最後の方少し寝むれてたみたいだったし、機嫌も良くなってたから大丈夫かなと思っていたんだ。だからピアノの一つでも弾いて、ストレスでも発散すれば少しは眠れるようになるかとも思ったんだが…。まさかそんなに寝むれなくて苦しんでるとは思わなかったんだ」
すまなかった。
そう頭を下げられ、混乱する。
…不機嫌?…寝不足?…ピアノ?
何がどうなっているんだ?
「ちょっと待て、お前、あの時まじめにピアノ弾いてなかったか?俺が寝てたってなんで…」
混乱した頭のままで、カミューはとりあえず今のマイクロトフの言葉で引っかかった部分を指摘した。
この長椅子はピアノの演奏席の斜め後ろにあるのだ。少なくとも自分の意識が確かなうちにマイクロトフが振り返ってこちらを見た記憶は無いのだが。
だがカミューの呆然とした声に、マイクロトフは胸を張って答えた。
「気配でわかるだろう、それくらい。同じ部屋にいるんだからな」
至極当然という風情で断言する友人に、眩暈を覚える。
お前はどこの獣だ、野生動物だ?
そう問いただしてみたい気持ちにぐっと耐えたカミューは、気力を振り絞り弱々しく反論する。
「……いや、普通は分からないと思うぞ。それにあの時他の奴らも一緒にいたし、お前の錯覚じゃないのか?」
「でも俺は授業中にカミューが居眠りしているのとか分かるけどな。やっぱり二年以上同じ部屋だったから、お前の気配に敏感になってるのかもな」
やっぱり獣だ。動物だ。
呆れているうちに、カミューにいつもの冷静さが戻ってくる。
「確かにここの所寝不足なのは事実だけどな。でもそれがお前とどういう関係があるっていうんだ」
彼から主席の座を守り抜くために、夜遅くまで勉強をしているという点では、確かに多少の関わりはあるかもしれないが、それは彼の知るところの事情ではないはずである。
それを俺のせいだと言いきってしまうと、そこまで行くといっそ嫌味だろう。
胡乱な目付きに気がつかないのか、促す言葉に友人は素直に口を開いた。
「去年もこの位の頃から俺のベッドに入ってきてただろう。最近寒くなってきたから寝つきが悪いんじゃないのか。朝起こしてもぎりぎりになるまで起きないじゃないか」
「…それがどうした」
「だから、去年から俺が、一人で寝ろ、一人で寝ろって言ってたから寒くて寝付けなくても来れなかったのかなって……」
「だからお前のせいだって言いたいのか」
そう問い詰めると、困ったような表情のマイクロトフは一つ肯いて俯く。
前言撤回。
こいつは獣で、動物で、その上頭の悪くて鈍い馬鹿だ。
こいつに人の心の機微や劣等感など理解できるなど、とんだ買いかぶりだった。
黙っていると理知的に見えなくもない面差しの友人の顔から眼を背け、カミューはそう自嘲する。
「…大体狭い狭いってぼやいてたのはどっちだ」
安堵と虚脱が交じった言葉でそう悪態をつくと、生真面目な顔をしたマイクロトフが反論した。
「確かに二人で寝ると狭いけど、寝不足になるよりは良いだろう。図書室で寝たり、ここで寝るだけでは根本的な解決にはならないからな」
「いや、しかし…」
「大丈夫だ、お前が壁側に寝れば寝ぼけて落ちることもない」
主観に満ちた上、的外れな意見を一方的に述べた友人は、そう自信満々に胸を張る。
「そういえばお前よく俺を蹴り落してくれてたよな」
「それはお前だ、カミュー。蹴り落すどころかお前は寝ぼけて殴ってただろう。朝起きて瘤ができてたことが何度あったか。その上たまに歯軋りもして鼾をかかないのが唯一の救いだったぞ」
「そりゃ鼾はお前の専売特許だったからな。数少ない特技を盗るのは気が引けてね」
「……確かにカミューには特技が山ほどあるよな。寝坊とか、授業中の居眠りとか、…ッ…その手癖の悪さとか」
鮮やかに翻ったカミューの右手を恨めしそうに見上げ、デコピンされて赤くなった額を擦りながらマイクロトフは口を尖らせる。
「図星を指されたからといって暴力に訴えるのはよくないと思う」
「暴力をふるわれるようなことを言う方が悪い」
「カミュー…お前やっぱり何かストレス解消を考えたほうが良いと思うぞ。そうしたら少しはその狂暴な性格も大人しく…」
まだ言うかと振り上げた手から庇うように首を竦めたマイクロトフの姿に、不意に笑いが漏れる。
一体どこにありもしない元同室者―― しかもライバルでもあるのだ ―― の寝不足を己のせいと思い込む馬鹿がいると言うのだろう。だがそのやたらな責任感の強さと、どこかずれた思考回路のまま突っ走るのも、マイクロトフらしいと言えばいかにも彼らしい。
肩をふるわせて笑うカミューのその姿に、不審そうな眼を向けていたマイクロトフだったが、やがてそっと鍵盤に指を落した。小さな和音から滑り出した曲は静かにその幅を広げ、豊かな曲相を奏でだす。
一頻り笑ったカミューは、じきに黙って片腕を黒塗りの上に預け、その音辿りだした。
どこからそんな音を紡げるのか、近くで見るといよいよ不思議さを感じる親友の指先の動きを黙って見つめていた。
「でもやっぱりカミューはピアノを弾いたら良いと思う」
不意にかけられた声に肩を震わせる。
「弾けって言わないのか?」
想像より控えめなその言葉に、苛立ちよりも疑問の方が強く浮かんだ。
「そうだな…気が向かないなら無理に弾けとはいわないさ。カミューのことだから本当に弾きたいと思う時は、周りが言わなくても弾くだろうからな。ただ、カミューは本当に気持ちよさそうにピアノを聞いてるからな、きっと弾くのも楽しんで弾くんじゃないかと、俺は勝手に思ってるんだけどな」
そう笑ったマイクロトフは、ゆっくりと高音へ指を移し、トリルを奏でる。
しんと乾いた部屋にさみだれのような音の欠片が響き渡った。
「まぁ、考えてみるさ」
思わずそう呟いた自分の言葉に驚く。
だがいつにないその素直な返事のわけに気がつき、薄く笑みを浮かべた。
なんの計算もない素直な友人の言葉は、かさぶた一枚被せただけの膿んだ自分の弱点を傷つけることなく、天邪鬼な自分の心にすらまっすぐ届く。
保身や、反応の先の先まで読んでしまう自分にはとても真似のできない芸当だ、そう素直にカミューは思う。
それともこれも彼の計算のうちなのだろうか。
結局この黒い楽器に対する蟠りを、いつのまにか流しかけている自分の返事にそんなことも考えてしまうけれど。
やはりこいつには敵わないよな…
悔しさ半分諦め半分の苦笑を受けとめたマイクロトフは、そんな身の裡もしらず、ただ嬉しそうに一つ頷いただけだった。








ロックアックスの街から雪の白が消えた春の夕刻のこと。
非番の週末、外泊から帰ったカミューがその足で向かったのは寮の談話室だった。
「おお、カミュー!帰ったのか」
「随分ゆっくりだったんだな」
「不本意ながらな。それより、ほら、届ものだ」
いいかげん配達人の真似事は返上したい、そう思いながらも、既に慣れてしまったカミューの手付きに無駄はない。
寛いでいる友人達に、城門から寮に至るまでの道中や寮の入り口で頼まれた手紙や伝令物の束をばら撒くと、部屋は一段と喧騒に包まれた。
賑やかしい室内をゆっくりと横切り、カミューは目当ての人物の前に立った。
牛乳片手に、紙面に眼を落としていたマイクロトフは気配に気がついたのか、顔を上げた。
「カミュー、夕食は?」
「食べてきた。それより、マイクロトフ」
人差し指で、クイクイ、と手招き微笑するカミューに不審そうながらも大人しく顔を傾ける。
「いい物を見せてやろう」
大声出すなよ、と人差し指を唇に当てながらそう囁くと、マイクロトフの眉ははっきりと顰められた。
だがその表情は、カミューから差し出された数枚の紙切れに眼を落とした途端、すぐに驚き、否、驚愕の表情に取って代わられた。
「おい、これ……」
手にした紙片に、眼が釘付けになっている。
短い言葉から伺える、友人の興奮振りは、十分カミューを満足させるものだった。
「な、良いものだろう」
「良いものもなにも…お前これどこで手に入れたんだッ?!」
「欲しいだろう?」
「欲しいッ!!」
質問をはぐらかしてそう笑うカミューに、マイクロトフは間髪入れず即答を返す。
ぎこちない手付きで最後まで楽譜を捲り、譜末の銘に眼を留めるとうめくような声を漏らした。
「ジョルジョ・ウィスティンの直筆楽譜なんて…信じられん…」
「いや、信じなくても本物だからな」
「カミューッ!!」
縋りつくような眼で見上げ、ついでにがしりと両手で手を握り締める青年に、カミューは、でも、と続けた。
「写しを取るにあたって条件が一つ」
「なんだっ!!」
気迫が篭った小声で迫る友人に、
「お前と俺とでこの曲を演奏してみせろとさ」
さらりと端から聞くと易しいものに聞こえるその条件を告げる。
「……お前と…一緒に?」
「要は連弾みたいなもんだな」
だがその言葉は当事者の片割れにとっては、水の上を歩けと言われるくらい途方もないことに聞こえたであろうことは、一瞬にして崩れたその表情からして窺えた。
「カミュ〜〜〜ッ!!」
手をがしりと掴みながら、哀願する眼ですがる友人に、カミューはゆっくりと口を開いた。
「『気が向かないんなら無理に弾けとは言わない』って言ったのはお前だよな」
「………………あぁ」
「悪いけど、今俺はピアノなんか弾くような気じゃないんだ」
華のようなと称される微笑を浮かべながら、そう鬼か悪魔かな宣言したカミューに、マイクロトフの身体は府抜けてゆく。
捨てられた子犬のように瞳を潤ませながら紙片を見つめる友人の手から、するりとそれを抜き取ると、「あああ…」となんとも悲痛な声と指がその後を縋る。
へにゃけたその表情に、次席卒業生の威厳の欠片も見当たらない。
ちょっとした気まぐれで知人に問いかけた楽譜の貸し出しは、思いも寄らなかった方向へ転がり、ここ数ヶ月貴重な休日がやりたくもなかったピアノの特訓に費やされたのだ。思い返すだに己の正気を疑う休日の過ごし方だった。まぁ、結果として前ほどあの柔らかな音色に対して含む所が無くなったのは確かなので、結果オーライというところなのだが。
さて、いつこの楽曲を習得済みと教えたものか、そう内心一人ごちたカミューは、ひょいと瓶をとり牛乳を呷った。
やっぱり人間そう簡単に望むものが手に入るのはよくないよな…
恨めしげに空の牛乳瓶を振っている友人の顔を眺め、小さく笑う。
マイクロトフが首尾良く切望していた幻の楽譜を手に入れるのには、もう暫く時間がかかりそうだった。






tutti
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LYRIC BY AYA MASHIRO




Blue & Red * Simplism