夢中になって書いていたワープロのディスプレイから眼を上げた。
大きく伸びをしてふと眼を窓の外にやると、一面に広がる闇の中に混じる白いものに気がついた。 立ちあがって窓を開けると冷たい空気が部屋に入り込んでくる。思わずカーディガンの前を引寄せて、身を縮めると真暗な空を仰いだ。空から舞い降りる白は、紛れもなく雪だ。 「わぁ…!」 深夜の住宅街には殆ど明かりがついていない。限りなく深闇に近い空間に白い色が舞っている。あまり馴染みのないそれは今年の初雪だった。その神秘的な光景にすっかりうれしくなって、アリスはこの光景を誰かに見せたいと思った。 けれども反射的に思い浮かんだ人、江神さんは今ここにはいない。それどころか休みの間中、長期のバイトを引き受けた彼とは、連絡のつけようがないのを思い出した。 「せっかく見せてあげたかったのにな」 そう呟いたアリスの横で、 'Tululululu…' と軽やかな電話の呼び出し音が響く。 こんな時間にかけてくるような相手は思いつかない。一瞬戸惑ったあとで、ベッドサイドの電話をとる。 「はい、もしもし」 『アリスか』 「江神先輩!どうしたんですか一体」 『いや、たいしたことやないんやけどな』 困ったような声を出す彼に黙って続きを促す。 『こっち雪がすごくつもっとるんや。それでアリスに見せたいと思ってな』 「すごい偶然ですね。こっちも初雪が降っていて、ちょうど先輩に見せたいって思ってたんですよ」 『なんや、二人して同じこと思ってたんやな』 そうですねと同意しようとして、でもその代わり出たのはくしゃみだった。 『風邪ひいたんか、アリス』 「大丈夫です、窓開けてたからちょっと寒いだけ。それより江神先輩こそ元気なんですか」 『元気やで。寒いんやったら暖かくせなあかんよ、お前は風邪ひきやすいんやから』 こんなに優しい声の人だったのだろうか。穏やかに話すその口調がなぜかたまらなく懐かしく感じられて、知らないうちに涙があふれてくる。 『どうしたんやアリス、泣いとるんか』 「だって先輩がいないから…先輩いつ帰ってくるんですか」 『あほやなぁ、そんなことで泣かんでもええのに。心配せんでももうすぐ帰るに決まっとるやろう』 それにどこにいても可愛い後輩のことは心配しとるんやで…。少し困ったような、それでいて穏やかな声に頷くことしかできなくて、見えないのは分かっていても電話のむこうで何度も頷いた。 + 暗い部屋の中で眼が覚めた。 頬に伝わる冷たい感触にそれが涙なのに気がつく。 原稿を書いているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。手探りでスタンドライトを点けると、白熱灯の明かりが真暗だった部屋を薄く照らした。火の気のない部屋がよけいに寒々と感じられ、身震いをする。 はっ、と思いついて窓のカーテンを開けてみる。しかしそこには微かに期待していた雪の白はみとめられず、ただ闇が広がるだけだ。 「ゆめ…か」 正夢であって欲しいというその願いが叶うはずがないことは知っていた。例え今雪が降っていても、それを伝えたい人から電話がかかってくることなど望むことができないのだから。 わかりきっていたその答えにいまさらながら喪失感を覚え、失意の溜息をもらしたその時。 'Tululululu…' かかるはずの無い電話。 それでもまさかという思いも捨て切れられず。恐る恐るベッドサイドの電話に手を伸ばす。震える手でゆっくり耳に受話器を当てると、 「なんだアリス、やっぱり起きてたんじゃない」 耳元に響く明るい声に、失望より驚きを覚えた。 「マリア?どうしたんやこんな夜中に」 時計を見ると11時半。あまり人に電話をかけるのに適した時間帯とは言えないから、夜中と称しても間違いじゃないだろう。 「なに寝ぼけたこと言ってんのよ。今日はクリスマスイブなのよ!EMC恒例の朝まで飲み会の日じゃない!」 当たり前という口調で話すマリアに、大学一年のクリスマスの夜を思い出した。イブに江神さんの下宿に転がり込んで、みんなでうだうだ言いながら飲み明かして。神道の国日本でどうしてここまでクリスマスがはやるのか、とか、それならバレンタインも同罪だなどと青臭い論議を交わしたり、サンタに出した手紙はどうなるかなどというくだらない問題に、みんなで珍回答を出し合っていた。 「ごめん、連絡ないからないんやと思っとった」 毎年変わらず江神さんの下宿で行われていた飲み会も、今年はその場所がない。 「なに言ってんの、何度もかけたわよ。アリスが寝てただけじゃないの」 ほらさっさと来なさいと言われて、どこへ行けばいいのか戸惑う。そんなアリスの背後の窓に、何かがあたったような微かな音がした。 あわてて窓の下を見ると、マンション前の道路に止まっている一台の乗用車。見覚えのあるそれはモチさんの愛車だ。運転席の窓から身を乗り出して、手を振っている姿がわかる。思わず窓を開けて手を降り返す。 「ほら、さっさとしないと'サンタさん頑張って&お疲れさまパーティ'がただの'サンタさんおつかれさまパーティ'に改名しちゃうじゃない」 "そうやな、じゃあ'サンタさん頑張って&お疲れさまパーティ'っていうのやったらどうや" 穏やかな声で話すその言葉が耳によみがえった。クリスマスは史実的に見てキリストの誕生日じゃないのにキリスト教で祝うのはおかしいという話のときに、江神さんがポツリと呟いた言葉。 なんでもないその言葉に、江神さんの影を見ることができて涙が出てくる。例えあの人がそばにいなくてもみんな彼のことを忘れてはいない、その証のように思えて。 一分以内に来ないと置いてくわよ、といって切られた受話器を置くと涙をぬぐった。マリアらしからぬ乱暴な電話の切り方に、素直じゃない彼女の自分を気遣う気持ちが見え隠れしていて自然と微笑みがうかぶ。きっと他の二人も自分のことを心配して、わざわざようすを見に来てくれたのだろう。そんなみんなのやさしさに、寂しかった気持ちが少しずつ溶け出していく気がした。 ふとさっき見た夢を思い出す。今日がクリスマスイブなら、もしかしてあの夢はサンタがプレゼントしてくれたものなのかもしれない。穏やかで優しいその声は、いま自分が一番欲しいと思っていたものだ。きっと夢でなら、とサンタが自分にプレゼントしてくれたのだろう。あの夢のおかげで例え今は会うことはできなくても、同じ空の下で大好きなあの人は元気に暮らしていると思うことができる。そしてそばにいなくても、あの人を想う気持ちは変わらないと信じることができたのだから。 そんな優しい夢をプレゼントしてくれたサンタに'頑張って&お疲れさま'、それから'ありがとう'を。 そしてやさしく自分を見守っててくれる仲間に'メリークリスマス'を言うために、アリスは部屋を後にした。
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