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 北欧の冬は長い。
 じきに正午になるというのに厚い雲にさえぎられた太陽は、わずかにその存在を影に示しているだけだ。それでもそんな明るさに人々は馴れきって、いつもと変わらず街は動いて行く。重低音のエンジンを響かせながらゆっくりと進む除雪車。石畳の表も見えないほど硬く凍りついた氷の道を、危なげない歩調で歩いていく人々。雪と氷に蔽われたこの街は寒さにその機能を失うことはない。
 後から後から降り続く雪はパウダースノウ。湿気を含まずさらさらしているこの雪は、払えばすぐに落ちるため傘などさして歩く人は殆どいない。
 降る雪が少し粒の大きさを増したような気がして、空を仰いだ。
 薄灰色を背に淡い白が見る見る間に視界に広がる。
 眼にはいる雪を払うため何度も瞬きを繰り返す。それでもそのいくらかは睫にかかり、体温で溶け出した雪は涙のように頬を伝ってゆく。
 その感触が気持ち良くて、夢中になって瞬きを繰り返していると背後から声がかけられた。
「キヨシ、一体君は何をしてるんだい」
「人体の機能の素晴らしさについて再認識させられているところさ。眼の機能はすごいぜ、ハインリッヒ!異物が侵入しそうになったら反射的に眼が閉じ、睫が侵入を阻止する。睫がフィルターの働きをしているんだよ。」
「確かにまつげの働きが素晴らしいのは認めるよ。長いまつげが人を美人に見せる効果があると思っている人は多いからねぇ。ご婦人方はそれを十分に認識していて、わざわざつけまつげなんてものを装備してるじゃないか」
「素晴らしい睫の働きを、錯覚を起こさせる小道具としてしか認識できないのは悲しむべきことだよ」
「でもまつげの持つ付加的な効力を開拓したその精神は、尊敬に値するものだと思うがねぇ」
 いつものように他愛の無い会話を挨拶代わりにして、肩を並べて歩き出す。
 久しぶりにおいしい魚料理でも食べに行かないか。ついでに話したいこともあるんだ、とハインリッヒに誘われ、待ち合わせをしたのはセルゲル広場。そこから食前の運動と称し、新市街からリクスブロン橋を通り、国会議事堂の石造りの門を抜けると、様々な店が建ち並ぶ旧市街に入っていく。
「しかしやけに夢中になって空を見ていたじゃないか。日本は暖かい国だというから雪がめずらしいのかと思ったよ」
「日本の北方ではともかく、確かにもと住んでいた横浜では雪はめずらしかったよ。年に降って二、三回さ。」
「成程。じゃあクリスマスに雪なんて望めないね」
 そう言って笑う彼の背後、大きなショウウィンドウの中には大きなもみの樹が見えた。
 三日後にクリスマスを控えた今日は日曜日。
 立ち止まっている自分の傍を、プレゼントであろう大きな荷物を抱えた人々が通りすぎていく。
「…雪のクリスマスか」
 ショウウィンドウに映る幸せそうな顔をした人の流れを見つめるうちに、何年か前のクリスマスを思い出していた。





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 御手洗がその店に飛び込んだのは、店主がドアに"CLOSE"の札をかけようとしていた、まさに閉店間際ぎりぎりだった。
「ごらんの通り、すまないがもう店じまいなんだがねぇ」
「ご心配なく。欲しいものは決まってるんで、閉店時間までに用事は終わりますよ。ほらまだ三分もある」
 おっとりとした口調で照明を落とした店内を指差し、暗に入店を断る店主におかまいなく、ずかずかと中へ入っていった御手洗は、
「これ、これが欲しいんですよ」
 と指差した。
 埃除けのため掛けてある白布を勢いよく引きどけると、二脚のアンティークチェア−が姿をあらわす。数ヶ月前石岡と二人でこの店に入ったとき、いいなぁ、と彼が溜息をついていた椅子だった。樫材の装飾の少ないそれはがっしりとした造りで、日本の既製品より一回り以上大きい。明らかに体型の違う、外国人仕様の物だ。
「これかね。これは二脚で…」
「一脚でいいんですよ」
「だがこれは二脚セットの売り物なんだがね」
「残念ながら僕は二脚も買えるほど金持ちじゃありませんのでね。二脚で一脚分の金でいいと言われるなら、考えないこともないですが」
 そりゃだめだと首を振った店主は、
「一脚だけ残ると売れなくなってしまうんだよ」
 と腕を組んだ。
「可愛い恋人がどうしてもこれが欲しいと言い張るんですよ。めったに我侭を言わない恋人の望みだ、僕も叶えてあげたい。あなたが首を縦に振ってくださるまで、僕は居座りますよ」
 と、お得意の口先三寸の嘘をまくし立て相手を脅すと、しぶしぶながら店主は頷く。
「しかし本当に一脚だけだと売れなくなるんだけどねぇ…」
 溜息をつきながらなおもぼやく店主に、
「大丈夫ですよ、そのうち僕のような貧乏人か、物好きが買っていきますから」
 と自信たっぷりに請合うと、一瞬驚いたような顔をした店主は窓を眺め、
「そういえば今日はクリスマスイブだったな」
 と呟いた。
 窓の外にはイルミネェ−ション。雪のない都会に華を添えるように、眩い光が夜を彩っている。
 このまま持って帰るからと包装を断り、リボンだけつけてもらった椅子を肩に担ぐと御手洗は電車に乗りこんだ。普段ならばこの時間は通勤客で一杯の車両も、みんな家へ急いだのか心なしか客が少ない。大きな椅子を抱えて楽しそうに鼻歌を歌う男を見ても、怪訝な顔をする者もなく、かえって微笑ましそうに頬を綻ばせる者もいる。
 一つ手前の駅で降りた御手洗は線路沿いに家を目指して歩いた。いつもは寒いとしか感じない十二月の冷たい夜風も、今夜は肌に心地よい。一人楽しげに歌う歌は'The First Noel'。不意に鼻先に冷たいものを感じて、空を仰ぐとちらほらと雪が降っていた。すっかりうれしくなって声を張り上げて歌うその姿を、すれちがう人々は振り向いて眺めてゆく。
 ただいまと声をかけてドアを開けると、石岡はいつものようにエプロン姿で忙しそうに夕食の支度をしていた。
「遅いよ御手洗、こんな時間までどこ…」
 振り返って文句を言いかけた石岡の瞳がまるくなる。
「御手洗、これ…」
 言葉も無い石岡に御手洗はウインクして見せた。
「メリークリスマスだよ、石岡君」
「…信じられない!高かっただろ、これ!」
 差し出した椅子を受け取るどころか、凝視したまま動かない石岡にじれた御手洗は、
「気に入らなかったのかい」
 と尋ねた。
「気に入るもなにも…最高だよ!」
 頬を紅潮させて、思いっきりとびついてきた彼の身体をよろめきながら受け止める。
 一緒に暮らすようになってもう何年にもなるが、こんなにうれしそうな石岡の笑顔を見たのは初めてだった。華がほころんだように艶やかな表情を今まで彼はどこに隠していたのか。うれしくなって思いっきりその身体を抱きしめた。
「そりゃ、よかった。じゃあ、早速使ってくれたまえ」
「え、ちょっと待ってよ。僕が使うのかい?」
 その言葉を聞くと、おとなしく抱きしめられるがままになっていた石岡が顔を上げる。
「当たり前だろう。僕は君のために買ってきたんだよ」
「でも僕は君が座ると思って…」
「何を言ってるんだい、君が欲しがってたんじゃないか」
「だって君が前に日本の椅子じゃ足が余るって…」
 なおも言いつのろうとする石岡に顔を寄せて反論を封じると、今度は瞳を閉じて大人しくしたがった。
 次の日眼が覚めると外は一面銀世界で、その寒さに鼻と頬を赤くした石岡が眠っている自分の額の上に雪を乗っけて、その冷たさに驚いて眼が覚めたのだった。
 でもこれは君のために欲しかったんだ、と言い張る彼の言葉に負けて、再び雪の中をはしゃぎながら店を訪れた。少し驚いた顔で二人を迎えた店主はそれでも、もう一脚もください、と言った石岡の言葉に形相を崩し半額に負けてくれた。そして二人があの御手洗と作家の石岡和巳ということに気づくと、どこからか本を取り出してサインを求めたのだった。
 しかしあんた方がねぇ…と何度も首をかしげる店主に、石岡が怪訝そうな顔をして。そんな彼に気づかれないようこっそりとしたウインクで、人の良さげな顔の店主の疑問を封じたことも昨日の事のようにはっきりと覚えている。  何もかもがきらめいて幸せだったあの頃。いつか二人別れて別々のクリスマスを祝う日が来ようとは考えることもすらなかった。
 だが、あの雪のクリスマスから自分は気づき始めていたのだろう。
 子供のように無邪気な、それでいて他の誰も真似できぬほど艶やかな彼の笑みに心を奪われた時、初めて彼を失いたくないと願っていた。その願いはやがて毒のように静かに長い時間をかけて自分の心を蝕み、やがてくる喪失の予感に恐れと痛みが蓄積されていった。
 自分を騙し、心の奥に潜むその恐れに気づかぬ振りをして。けれどもその痛みに耐え切れなくなったとき、自分は彼のもとを去ることを選んでいた。
 今でもその選択を後悔してはいない。あのまま二人、ただひたすらに同じ時間を共有することだけを選んでいたら、確実に自分たちは駄目になっていただろう。自分は彼を失うであろう、いつかくる未来に怯え。そして彼は自分の可能性を信じることもせずに、それ以前に自分の可能性に気づくこともできずに。
 自分が彼のもとを離れた後、彼は一つの大きな事件を解決した。助けを求める手紙が届いたとき、すぐさま駆けつけたいという心を押さえて彼の持つ力を信じた。解決を告げる手紙を読みながら、一抹の寂しさと供に自分の下した選択の正しさに確信を深めたことを覚えている。あの時、確かに自分は彼と離れて生きる決定を下せた自分自身を誇ることができたのだ。




 けれども。
 こんな寒い季節はあの微笑みが恋しくなる。
 今でもその選択を後悔したことは無いのに。




「…キヨシ、キヨシ」
 気がつくと気遣わしげな顔で、覗きこんでくる友人の顔が目の前にあった。
「すまない。すこしぼぉっとしていたみたいだ」
「それはかまわないよ。昨夜も徹夜だったんだろ、それじゃ歩きながら居眠りの一つもしたくなるだろう」
 あっさりとした顔で肩をすくめて笑う彼に、
「最近は眠りながらシャワーを浴びるコツも覚えたよ」
 と軽口を返す。
「そういえばこの休暇に何か予定は入ってるかい」
「いや別にないね」
 リーダーを務めている脳外科チームは一昨日からクリスマス休暇に入っている。世界各国から集まってきたドクター達がクリスマスを家族と過ごすために、余裕を持って休暇がとられているのだ。
「そうか。じゃあ、三日早いクリスマスプレゼントだ、キヨシ」
 そう言って差し出された手には航空チケット。
 東の果ての島国へのそれは、明日の日付が入っている。思わずハインリッヒの顔を見つめると穏やかな笑顔が返ってくる。
「もしかして君が言おうとしていた話とはこのことだったのかい」
 確信しながらも尋ねると、案の定肯定の返事が返ってきた。今日の約束を電話で決めた時彼が毎年一族で迎えるクリスマスに招待するような話を匂わしていたので、すっかり油断していたところに不意を衝かれたような気分だった。
「本当はレオナの母国でのんびり年越しをしたかったんだが、あいにくと仕事が入ってしまってね。君を我が家のクリスマスに招待したかったんだが、そういうわけで無理になったんだ。まったく残念だよ」
 心底残念そうな顔をして見せる眼が笑っていて、嘘だということを告げていた。
「年越しにしては日付が早過ぎるね。君の一族が日本に住んでるとは知らなかったよ」
「仕事が入った時点でキャンセルしようかと思ったんだが、君なら有効活用してしてくれるんじゃないかと思ったのさ。せっかくの長期休暇だ。どうせならクリスマスもそこで過ごせばいいと思って予約変更して代えてもらったんだよ」
 こんなに年末の移動の多い時期に、イブ合わせで目的地につくような予約変更は全くとは言い切れないが、どう考えても不可能に限りなく近すぎる。こじつけたような説明を真顔でおこなう年上の友人に思わず笑いがこみ上げてきた。
「ハインリッヒ、一体いつ君はこんな洒落たプレゼントを思いついたんだい」
「出張が私のスケジュールに乱入してきた晩に、サンタクロースの天啓を受けたのさ」
 ひとしきり二人で大笑いしたあとで、ハインリッヒが真顔にもどった。
「たとえ家族はいなくても、日本には君を待っている人がいるだろう、キヨシ。こんな寒い季節は大事な人達と一緒に過ごすものだよ」
 そう言った彼が暗に誰を指しているのかはわかる。月に一度海を越える手紙。短い文面のそれには近況報告と自分を気遣う言葉だけが記されている。懐かしい筆跡のその手紙を、自分が密かに心待ちにしていることを彼は知っているのだろう。
「雪のないクリスマスか…」
 彼の住む町の天気予報をチェックしてしまうくらい、今でも心を残している自分に呆れてしまうけれど。もう大丈夫かもしれない。彼も自分もあの頃とは違う。闇雲に別離を恐れるほど自分たちは弱くなくなった。
「…それもいいかもしれないな」
 多分彼はいつものようにシャンパンとケーキを自分の席にも用意していてくれているだろう事は、容易に想像がつく。突然帰ってきた自分を、驚いて、それから笑顔で迎えてくれるだろう。
「ハインリッヒ」
「なんだい、キヨシ」
 振り向く年上の友人に
「ありがとう」
 心を込めて告げるとばんばんと背中を叩かれる。
「そうと決まれば魚料理だ。ついでにおいしい白ワインがあると言うことないんだが」
「君の目的はそれなんだな」
「いいじゃないか」
 笑う彼にあきれたように肩をすくめて見せ、凍りついた路地をまた歩き出した。
 

 帰ったらまず彼になんと告げよう。
 なんにせよきっと彼は自分の大好きな笑顔で微笑んでくれるだろうことを御手洗は確信していた。




20001222改訂/Fin
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MODELED BY KIYOSHI MITARAI/ SOUJI SHIMADA
LYRIC BY AYA MASHIRO





 *  Left Eye  *  Simplism  *