キーボードを叩く音がやけに耳に触り、火村はソファに自堕落な格好で寝そべって没頭していた本から目を上げた。 カシャカシャと高く響き音がうっとおしい。 「おい、アリス。お前のその音どうにかなんねーのかよ」 「…………」 無言でデスプレイを睨み、一心不乱にキーを叩き続ける彼の横顔に、火村の声が届いた様子は伺えない。 一つ溜息をつくと起きあがり、静かに彼の座る椅子の後ろに立つ。気配もなく近づいた火村に気づいた様子もない彼の項に、ふぅっと息をかけると『ぎゃっ!』と怪獣のような悲鳴を上げたアリスは椅子から跳ね立った。 「なにするんや、このアホ!折角ええ調子で話が進みよったんで!邪魔するんやない!!」 「人の読書の邪魔しておきながら、いばるんじゃねぇよ」 「俺がいつお前の邪魔したんや?」 「今現在」 人を喰ったその答えにアリスは目をつり上げる。 「巫山戯るんやないで!だいたい読書って言っても、俺のゴルゴ13やないか。漫画如きで人の仕事邪魔するんやない!こんボケ!」 おい、きいとんのか? 噛みつくアリスを一顧だにせず、火村は音の発生源を手に取った。 男にしてはさほど大きくない節々もすんなりとした手。その白い指の先に尖っている爪は、明らかに白い部分が多く伸びすぎていることは一目瞭然だ。 「………こいつのせいか」 「こ、これがどうしたってゆうんや?」 低く呟かれたその言葉に、何かしら不吉な響きを感じたのかアリスの返事に狼狽の色が混じる。 心なしか引けた腰に気がついたのか、火村はゆっくりと口角をつり上げにやりとしか表現できない笑みを浮かべた。 「アリス……お前いつ爪を切った?」 「あ………っと…。………二週間前」 勿論まったくの嘘である。 正直爪を切った日など、覚えていない。 だがそう正直に答えたところで良いことなど一つもないことを、アリスは悟っていた。 正直者は馬鹿を見る、それが短くない火村とのつきあいでアリスが身にしみて学んだことだった。 だが。 ばれる嘘をつくぐらいなら正直者であった方が幾分もましというのが現実であった。 「ほう…。お前の爪は二週間でこんなに伸びるのか?二十日前に俺が来たとき、確か盛大に背中に爪痕付けてくれたよな。確かあの時薬を塗ってもらった記憶があるんだが」 「………」 思い至らなかった事実を突きつけられて、沈黙するしかない。 「何度耳元で爪たてるなって言っても、人の言葉なんか耳に入っちゃいねぇ様子だったよな。涙浮かべていやいやする姿が可愛かったからよーく覚えてるぜ」 「お、お前っ!!なんてこと言うんやっ!」 真っ赤になっていきり立つアリスを気にした風もなく、片手で手を掴んだまま引出しをかきまわし目的のものを探し当てると、火村は厳かに宣言した。 「問答無用、分かってるだろうな」 手には銀色に光る爪切りが握られていた。 深い沈黙の中で時折、パチンパチン、と音が響く。 「…なぁまだなん?」 いいかげん黙って手を任せるのにも飽きてきたアリスに火村が返すのは、ああ、とかもうちょっとなど生返事だけである。 せっかく波に乗った状態だった原稿が気になり、どうにも落ち着かない。両手の爪の手入れが終わったところでほっとし、おざなりに礼を言いさっさと原稿に戻ろうとしたアリスだったが、それを阻んだのは火村の手だった。 「ちょっ…なにすんや!」 「どこへ行く気だアリス」 「どこって…原稿するんにきまっとるやん!締め切り近いんやから邪魔すんやないで!」 そう言い捨て、さっさとワープロに戻ろうとする。だが掴まれた足首を強く引かれ、アリスが無様にひっくり返った先はまたしてもソファーの上だった。 「足の爪がまだだったな」 「いらん!足の爪くらい自分で切れる!いや、切って見せるからほっといてくれや」 「いいや。いい機会だ、今切っとくぞ。お前の自主性に任せてたらいつになるかわかんねぇからな」 もっともなことを宣言して足を抱え込んだその強引さに、アリスはあきらめておとなしく身体をソファに預けた。 しかしこうしておとなしく寝そべっているのも案外所在のないものである。 どんな熱中の仕方なのか、丁寧に爪を詰み続ける火村は一言も発さない。 ひ、ひまや…。 内心溜息をつきながら眼の前に跪いている男の姿を見下ろしていると、ふとあるものに気がついた。 黒い髪に一本だけ混ざっている白髪である。 昔から若白髪のある親友は、あまり気にしていないようだが、こうしてみるとそれだけが眼に付き、どうにも気になってしかたがない。 そっと髪に手を伸ばし、撫でる振りをしながら黒に混じるその一筋を探しあてる。 親指と人差し指で狙いをつけていたその髪を押さえたアリスは、熱心に小指の爪の攻略に取りかかっている男の様子をうかがった。 こちらの様子に気がついているようではない。 ならば… 指に力をこめた次の瞬間、悲鳴があがった。 「痛っっ!」 だがそれは予期されていた人物のものではなく。 「それはこっちの台詞だ。何するんだ、いきなり!」 憮然とした顔の火村の視線の先には、アリスの指の間から垂れる数本の髪の毛。 数秒前には彼の頭に生えていたそれを、忌々しげににらむ様子にアリスは慌てて弁明した。 「いや、ほら、白髪があったからついな…。そ、それより今の痛かったで!絶対深爪しとるんとちゃうか。血がでとったらどないしよう」 ここは被害者振るに限ると、大げさなまでに文句を垂れはじめたアリスに、火村は醒めた眼で無表情を向ける。 だが、ふとなにを思ったのか、 「そりゃ悪かったな、」 と言うなり火村は身を屈め。 それと同時にアリスの愚痴は、次なる悲鳴に変わった。 最も今度の悲鳴は、『うひゃぁ!』というなんとも情けないものだったのだが。 「こうやって舐めておけば痛くなくなるだろう」 前触れもなく小指を口に含んだ男の頭を、慌てて押し退ける。 だが悪びれた様子もないままわざとらしく舌を伸ばして、とろりと舐めて見せる仕種に、アリスは真っ赤になった。 「お、お、お、おまえっ!なにすんやぁっ!!」 「何って、痛くなくなるように舐めておいただけだが。あぁ、もしかすると痛くなくなるどころか、気持ち良くなったりするかもしれねぇな、人によっては」 お前はどっちだろうな ――― そう耳元で囁かれ、顔を引き攣らせる。 変態や…変態がここにおる…。 あまりの仕様に硬直したアリスをよそに、さっさと手入れの後始末をしてしまった火村はといえば。 「さて、その気になってくれたところで、しっかり御代を払ってもらおうじゃねぇか」 ヤクザ顔負けな凶悪なまでの微笑でもって、固まっているアリスを押し倒す。 こうなるといくら抵抗しても無駄というもので。 否応無しにしっかり身体で代金を払わさせられたアリスがすべての後に、二度とこいつに爪切りを任せまいと心に誓ったのは言うまでもなかった。 |
20020219/Fin
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MODELED BY HIMURA&ALICE / ARISUGAWA ALICE
LYRIC BY AYA MASHIRO
* Left Eye * Simplism *