L'Épiphanie


 『Morceaux de Amérique』収録のカナダ話の序章です。
 これだけでも読めます。





 おいしいお菓子を作るコツは、新鮮な材料を使うことだとフランシスは言う。
 それと愛情もたっぷりこめること。
「そう、そうやって空気を含ませるんだ。粉はダマにならないように切るように混ぜて、牛乳は少しずつ入れる」
 朝採った卵とフランシスが海の向こうから持ってきた小麦粉、それから普段より色が薄い上等な砂糖。一緒に使うのは昨日作ったばかりのバターだ。冬に作るバターは色が白くて夏の黄色いバターに比べると見た目はよくない。けれども新鮮なのが一番とフランシスが言うから、バター桶を混ぜるのをマシューも手伝った。
 朝早くからフランシスはそのバターでパイ生地を作った。
 マシューは作業台に手が届かない。椅子に立ってもやっとだから生地を伸す作業は無理だ。そのかわりフランジパーヌは混ぜるだけだから手伝わせてもらえた。最後に煮詰めるのはフランシスの仕事。
「これも入れちゃうの?」
 マカロンはフランシスがおやつに作ってくれたものだ。
 それが最後のアーモンドプードルで作られたと知っているマシューは、入れてしまうのが惜しくてフランシスの顔を見上げた。
「そりゃ、フランジパーヌですから。入れないとただのクレーム・パティシエールだ」
「……ぼくのおやつだと思ってたのに」
「お前のおやつにもなっただろ。……しょうがないな」
 しょんぼりと俯いていると、はい、と端をちぎって食べさせてくれたフランシスは、「少々アーモンドが足りなくても別にいいか」と笑う。
「ぼくは気にしないよ。クレーム・パティシエールでもいいよ!」
「それはだめ。ガレット・デ・ロワじゃなくなります」
 いつものように「また作ってあげるから」と言ってくれないことにがっかりしたマシューに気づいていないのか。
「型に流し込んだら二、三回トントンと叩いて余分な空気を抜く。あとはフェーブを入れないとな」
「エンドウ豆とインゲン豆?」
「良い子だ、よく覚えてるね。でも今日は豆より素敵なものを準備したから、後ろを向いておいで」
 そう言ってフランシスは楽しそうに鼻歌を歌いながら、フェーブをケーキの中に隠していく。
 フェーブの入ったケーキが当たったら、その人はその日の王様。どんな我が儘も聞いてもらえる。
 昔、フランシスが作ってくれたガレット・デ・ロワには、エンドウ豆とインゲン豆が入っていた。
 冬は寒いからお兄さん凍えちゃう、と言って夏のほんの短い間しか来ないフランシスと初めて公現祭を過ごした時のことだ。
 エンドウ豆は王様。
 インゲン豆は王妃様。
 インゲン豆が当たったフランシスは、何も入っていなくてべそをかいたマシューに、はい、とそれをくれた。二人で食べるには大きすぎたケーキからエンドウ豆が出てきたのは翌日の朝、残りを食べていた時のことだった。
 とっておかなくてもいいんだよ、とフランシスは言ったけど、あの時の豆は今も大事にとってある。
 何を入れているのだろう。
 エンドウ豆よりも素敵なものってなんだろう。
 その素敵なものが自分のケーキの中から出てくることを想像すると、わくわくする。
 期待に胸をふくらませたマシューは、さっきまでのがっかりした気持ちをすっかり忘れてしまっていた。
「さて最後は生地で蓋だ。外れないように卵白をしっかりつけて……そう、卵黄はまんべんなく塗る」
 黄色くつやつやした表面にフランシスがナイフで飾りを彫り、鉄釜に入れた。あとは焼けるのを待つだけだ。
「そんなに張り付いてなくても大丈夫だよ」
 ちゃんと焼き上がるだろうか、火が強すぎたりしないかしら。
 心配で釜戸の前をうろうろしていたマシューを、フランシスは笑って抱き上げた。
「ちゃんとおいしくできるかな?」
「そりゃもちろん。お兄さんが不味いものつくったことあった?」
「フランシスさんの作るものは全部おいしいよ!」
「ふふ、当然さ。お兄さんはたっぷり愛情をこめて作ってるからね」
 チュッチュッ、と音を立てて頬にキスをするフランシスは、夏の草原に咲く白い花のように良い香りだ。つやつやの長い髪をリボンでまとめ、ひらひらと霜のように薄いレースがついた洋服を着ている彼はマシューが知っているどの女の人間よりも綺麗で、彼の手は誰よりも美味しいものを作り出す。
「……ねぇ、ぼくも大きくなったらおいしいガレット・デ・ロワが作れるかな?」
「マシューはパテシィエの才能があるから大丈夫だよ」
「フランシスさんみたいに?」
「Mon petit cochon! 嬉しいことを言ってくれるね。マシューはお兄さんの可愛い弟だから当然さ!」
 コツンと額を合わせてにっこり笑うフランシス。眼の色も髪もそっくりだとフランシスは言ってくれるけど、自分もいつか彼のようになれるのだろうか。
 優しく見つめる菫色の美しさにぼぅっとなったマシューは、不意に躯が揺れる強い衝撃に目を丸くした。
 くるんと天井が見えて、次の瞬間に目の前が暗くなる。
「──ざけんな! 誰がてめぇの弟だ!」
「なにすんのさ、このバカ眉毛! マシューに怪我させる気かよ!」
「てめぇが寝ぼけたこと抜かすからだろうが。マシューはおれの弟だ。さっさと放しやがれ!」
 フランシスの肩越しにアーサーの怒った顔が見えて、ふっと躯が浮く。あっという間にフランシスの胸の中から、アーサーの腕に抱かれたマシューは、すぐ横にあるミルク瓶が倒れなくて良かったと思った。
「こんにちは、アーサーさん」
 帽子も肩も雪で真っ白なアーサーは、ひんやりと冷たい空気をまとっている。ぶるっと震えながら挨拶すると、それに気がついたアーサーは、雪を落としながら笑ってくれた。
「元気そうだな、マシュー」 
「アルフレッドも一緒なのかい?」
「ああ、あれ? 先に飛び出していったんだが……」
 アルフレッドは普段別々に暮らしているマシューの兄弟だ。
 どこにいるのだろう。きょろきょろするマシューの横で、フランシスは背中を摩りながらアーサーに話しかけた。
「来るって聞いてた日から十日以上過ぎても来ないから、どっかで凍死してくれたかと祝杯上げてたのになんで今更来たのかねぇ、最悪」
「誰が凍死するかバーカ! 仕方ねぇだろ、アルフレッドが自分とこのやつとプレゼントの交換がしたいって言うから出発が延び延びになって……」
「それにしたって、もう公現祭だろうが。降誕節を一緒に祝うのをマシューが──」
 自分の名前が聞こえて二人の顔を見ると、二人とも会話をやめた。
「マシュー、悪いけどアルフレッドを探してきてくれ。あいつ勝手に森の中に入りこんだのかもしれないからな」
「あ、外に行くんならちゃんと外套を着て、それから帽子も被っていくんだよ」
 外は今日も雪が降っている。言いつけ通り外套と帽子とミトンをつけたマシューが扉を開けようとした瞬間、目の前でバタンと大きな音を立てて開き、押されて尻餅をついた。外套のおかげで痛くはなかったけど、びっくりして見上げると大きな真っ白い雪だるまがいた。
「アーサー! 先に行っちゃうなんてずるいんだぞ!」
「お前こそどこに行ってたんだ、アルフレッド!」
「君が馬の世話をしてる間に、荷馬車の中で先に運ぶ荷物を選んでたんだぞ。それなのに君、荷物も持たないで行っちゃうしさ。やあフランシス、見てくれよ、おれが来る途中でやっつけた熊! こんなに大きかったんだぞ!」
 白い雪だるまに見えたのはアルフレッドで、自分よりも大きな荷袋を担いでいたのだった。
「こら、その前にちゃんと挨拶をしろ」
「もう、アーサーはうるさいなぁ。こんにちは、ご機嫌よう! これでいいだろう?」
 そう言ってアルフレッドはアーサーの小言に頬を膨らませるが、すぐに大きな熊の手を自慢げに見せる。
「これはまたでかい熊だな。アルフレッドが仕留めたのか?」
「そうさ! お腹を殴ったら一発だったんだよ」
 カチコチに凍った熊の手は、アルフレッドの顔と同じくらい大きい。お腹……と呟いてフランシスは黙りこむ。
「熊、殺しちゃったのかい? かわいそうだよ」
「なんだいマシュー、君いたんだね。熊がかわいそうだなんて女みたいなんだぞ」
 馬鹿にしたような顔をする兄弟に、むっとしてマシューは言い返した。
「冬の熊はやせっぽちで、美味しくないよ。食べる必要がないのに殺すなんてかわいそうだよ」
「しかたないんだぞ。家畜小屋の豚を食べようとしてたんだからね。悪いヤツは退治しないとなんだぞ」
 それなら仕方ないとマシューも納得をした。
「豚は助かったのかい?」
「やられてダメだったんだ。だから持ち主に熊をあげる代わりに豚肉をもらったんだよ。大きな熊だったからね、おれはお土産で君たちに見せたかったけど、アーサーが運べないって言うから手で我慢したんだぞ」
「当たり前だ、あんな持ち上げるのも大変な熊を運ぶなんて何考えてるんだ」
「えー、おれなら大丈夫だって、ちゃんと運んでみせたじゃないか。もちろんマシューには無理だろうけどさ」
「ぼ、ぼくだってこれくらいの熊なら運べるよ……多分。夏に捕まえたバッファローと同じくらいの大きさだもん」
 どれくらい大きかったのかアルフレッドに教えていると、後ろでフランシスとアーサーが話すのが聞こえた。
「なぁ、お兄さん、あの子達の会話についていけないんだけど…あれくらいワイルドなのが最近の流行なのかね」
「爺のてめぇにはそりゃ無理だろうな」
「じゃあ坊ちゃんは素手で熊倒せて、運べるわけ?」
「……あの熊のトドメを刺したのはおれだ」
「ああ、そう。文明の利器って偉大だよね」
 大人なのに行儀悪く顔を見ないで喋っているのは、二人ともまだ喧嘩しているからだろうか。
 不安になったマシューに気がついたのか、「そろそろご飯にしようか」とフランシスは笑った。


 フランシスが作ってくれた公現祭のご馳走は、普段の年に食べるご馳走よりも豪華で美味しかった。
 羊のもも肉のロースト、バタースープ、塩漬け豚と糖みつ入りの豆の煮込み、魚のパテクリームにじゃがいものスフレや胡桃とライ麦パンとふかふかの小麦のパン。それから酸っぱいピクルス。
 アルフレッドが熊の代わりにもらった豚はゆで豚にして、大きなその半分をアルフレッドが食べた。とっておきの干しクランベリーのパイやカボチャのパイもあるし、スグリのジャムや去年の冬の終わりにとったメープルシロップも、今日はいくらかけても怒られない。
 皆でお腹がはちきれそうになるまで食べて、一番たくさん食べていたアルフレッドも「もう食べられないんだぞ!」と言って、ディナーはおしまいになった。
 ディナーが終わると、フランシスは台所で片付けをし、アーサーはカンテラを持って薪と水を取りに出かけた。なにしろ薪の箱をいつも一杯にしておかないと、吹雪が来たら皆たちまち凍えてしまう。
 マシューとアルフレッドは二人の手伝いだ。言いつけられた仕事をしないと、お待ちかねの楽しみは出てこないことを知っているので、せっせと働いた。
 テーブルがすっかり片付き、薪箱も水瓶も一杯になった頃には皆お腹に余裕ができはじめる。そうすると次はデザートの番だった。
 クッキーやサブレ、果物のシロップ漬けが並んだテーブルの真ん中に、つやつやの黄金色に焼き上がったガレット・デ・ロワがうやうやしく置かれる。
「今日のガレット・デ・ロワはマシューも一緒に作ったんだよな」
 フランシスの言葉に、すごいじゃないか、と二人から褒められ、切り分けたピースを誰に渡すか決める役はマシューがさせてもらうことになった。
 皆に行き渡って、フォークを握ったマシューはドキドキした。この中にフェーブは入っているだろうか。
 でも喜びの声を上げたのは、アルフレッドだった。
「あ、入ってたんだぞ!」
 紅茶のカップで洗って皆の前に出したのは、陶器の指ぬきだ。白磁に冠を被った女性が描かれている。
 マシューはがっかりしたが、もう一つ残っているのだと気を取り直した。だがもう一つのフェーブは、アーサーの皿から出てきた。王様の絵が描いてある金貨だった。
「随分いいフェーブを使ってるな」
 ランプの光にかがやく金貨は、アーサーの濃金の髪と同じで、がっかりし過ぎて悲しくなっていたマシューは、アーサーならしょうがない、と思うことにした。アーサーは本当に王様みたいに堂々として、偉いのだから。
 諦めて俯いたマシューの横で、アルフレッドが大声を出した。
「いいなぁ、アーサー! おれ、クィーンなんていやなんだぞ! 取り替えてよ!」
「おいおい」と困ったような声で、でもアーサーはダメとはいわない。
「指ぬきならアーサーの方が似合ってるじゃないか! レース編みだって刺繍だって上手にできるだろ。おれ使わないもん。ねぇ、お願いだよアーサー」
「まったくアルフレッドはしょうがねぇな。ほら、やるよ」
 仕方ないと言いながら、優しい眼で笑うアーサーは、アルフレッドの頭を撫でている。それを見ているとなんだか胸がずきずきと痛くなって、見ないように下を向いた。
 アルフレッドは女王のフェーブを持っているのに、王様のフェーブまでもらえている。なのに自分は何も持っていないのだ。自分も欲しいといえばよかったのだろうか。
 でももうフェーブはアルフレッドのものなのだった。
「アーサー、お前、甘やかすにしても少し考えろ」
 溜息まじりのフランシスに、「ああん? なんだよ」と怖い声を出したアーサーは、不意に黙り込むと、困ったような声を出した。
「……あーマシュー……ええとだな、そうだアルフレッド! お前のクィーンをマシューにやれよ」
「いいよ、これいらないしね」
 え、と驚いて顔を上げたマシューは、アルフレッドがぽいっと投げた指ぬきをわけが分からぬまま受け止めた。
 手の中に白い陶器の指ぬきがある。女王のフェーブだ。
 欲しかったのは王様のフェーブだけど、女王のフェーブだって充分嬉しいはずだった。
 だけど、欲しかったはずのフェーブがもらえても、わくわくして嬉しいはずの気持ちはどこにもなくて、なぜか鼻の奥がつんとなるような悲しい気持ちになる。
 それでも他の人から物をもらったら、お礼をいうのが礼儀正しいことなので、マシューは小さい声で「ありがとう」と言い、お皿の横に指ぬきを置いて俯いた。
 どうしてか分からないけど、指ぬきを持っているとどんどん泣きそうな気持ちになるのだ。こうして俯いていれば、物をもらっても喜ばない欲張りな子だとも、すぐに泣く弱虫だとも気づかれないだろう。
「王様のフェーブはアルフレッドのものだけど、王様の命令の権利は、お兄さん認めないよ。物の移譲はお前らのことだから口を挟まないけど、付随する権利には拒否権を発動させてもらう。権利の移譲はフェアじゃないからね」
 フランシスの言葉に、アルフレッドはえええーと声を上げたが、フェアじゃないという言葉に渋々OKと言った。アルフレッドは公平ではないという言葉に弱いのだ。
「それからマシュー、お前は指ぬきを使うのかな?」
 声をかけられたマシューは、慌てて顔を上げ首を振った。アーサーは特別だから誰もおかしいと言わないけど、本当は刺繍もお裁縫も女の仕事だ。マシューはしない。
「だったら、これはアーサーにあげればいい。アーサーなら使うだろうし、アルフレッドはそう思ってアーサーにあげようとしたんだからね」
 その言葉にほっとして、フェーブを差し出すと、アーサーは困ったような顔をした。
「お前もフェーブを欲しかったんだろ? 持ってていいんだぞ?」
「…でもぼく、つかわないから。アーサーさん、どうぞ」
「もらっとけよ、アーサー。これならフェーブが当たった者同士、等価交換で公平ってもんだ」
 少し迷ったような顔で、それでも「ありがとう」と受け取ってくれたアーサーは、アルフレッドにするように頭を撫でてくれた。それが嬉しくて笑うと、
「じゃあ、王様の命令はなしってことで、その代わりお兄さんから良い子達にプレゼントだ」
 とフランシスは台所の棚からプレゼントを出してきた。
 公現祭のプレゼントは降誕節一番の楽しみだ。
 丸や棒の色とりどりのキャンディーが詰まった絹のハンカチがフランシスからのプレゼントで、降誕祭にプレゼントを渡すつもりだったというアーサーからは、手編みの白い毛糸の帽子をもらった。
 それからアーサーが、ヴァイオリンを弾いてくれて、それを聞く頃にはマシューは悲しかった気持ちなど全部忘れて、今日の公現祭が今までの中で一番素敵な公現祭だと思うようになっていた。
 なにしろフランシスとアーサーとアルフレッドの四人で過ごす公現祭なんて初めてなのだ。
 アーサーはヴァイオリンが得意だ。
 楽しい曲を何曲か弾いた後、アルフレッドが好きなLucy Locketも、マシューが好きなLady Greene Sleevesも弾いてくれた。
 暖炉の前で毛皮にくるまって、アーサーのヴァイオリンを聞いていると気持ちよくて、眠たくなってしまう。寝るのがもったいなくて必死に眼を開けようとしていたけれど、Mary, Mary, Quite Contraryを聞いているうちに、瞼がくっつきそうになる。必死に眼をこすって隣のアルフレッドを見ると、彼はすっかり眠っていて、それにほっとしてマシューも眠ってしまった。





 ゆらゆらと揺れる感覚とぼんやり響く音に、マシューは少しだけ眼をさました。でも眠たくてたまらなくて、眼はあけられない。
「……なんだから、気をつけてやって」
 少し冷たい布の感覚とフランシスの声が聞こえて、彼がベッドに運んでくれたのだと眠い頭で気づく。
「言われなくてもちゃんと気をつけて可愛がるつもりだ」
 怒ったようなアーサーの声に、また二人は喧嘩をしているのだろうかとマシューは不安になった。
 喧嘩なら止めないといけないのに眠くて眼が開かない。
「ならいいけど、……でもどうもお前の気をつけるは不安なんだよねぇ」
「うるせぇ、だいたいお前にとやかく言われる筋合いはない。今は英領カナダだ。たかだか数エーカーの雪と砂糖を秤にかけて、選んだのはお前だろうが」
 ぼくの名前だ、と気がついたけれど、何を話しているのかは分からない。でもフランシスが言い返さないから、喧嘩じゃなかったのだとほっとして、またマシューは眠ってしまった。




 フランシスとアーサーとアルフレッドが一緒だと、毎日がとても楽しかった。フランシスはほっぺたが落ちそうなくらい美味しい料理を作ってくれるし、アーサーのヴァイオリンや面白いお話で外で遊べなくても退屈ではない。
 最初はマシューのことを赤ちゃんのようにあしらってたアルフレッドも、マシューが薪運びでアルフレッドに勝ってからは見直したようで、一緒に遊んでくれる。どんなこともアルフレッドが「競争なんだぞ!」と言うと、ゲームみたいに面白いものになる。たまに話を勝手に決めてしまって困ることもあるけれど、顔がそっくりな自分の兄弟がマシューは大好きになった。
 降誕節の最後の日、主の洗礼の祝日まで一緒に過ごして、次の日に三人とも帰ることになっていた。
 アルフレッドは自分の家に、フランシスとアーサーはもっと南の氷のない港から海を越えて自分の家に帰るのだ。
 春まで一緒にいればいいのに。砂糖雪が降って美味しいメープルシロップがとれるまで一緒にいて欲しいと言っても、長いこと本国を空けるわけには行かないのだという。
 明日には皆いなくなるのだと思うと悲しくて、最後の晩にはなかなかマシューは寝つけなかった。
 部屋の向こうの寝台でさっきまで寝ろ、寝ないと争っていたアーサーとアルフレッドは、もう眠ってしまったようだ。マシューと一緒の寝台のフランシスは、眠れないマシューを怒らずに、ひそひそ声でどれだけ今回の降誕節が楽しかったか話すマシューに付きあってくれた。
「本当はお兄さん、あの金貨のフェーブ、マシューにあげたかったんだよね」
 ガレット・デ・ロワを作ったのが楽しかったと言うと、フランシスは残念そうな顔をして、そう言い出した。マシューも欲しかったけど、当たらなかったから仕方がない。
「ぼく、前にもらった豆のフェーブがあるからいいよ」
「そっか、あの豆をまだ大事にとってくれてるんだな。……なぁ、マシュー。フェーブが当たっていたら何のお願いをしようと思ってた?」
 フランシスのその質問に、マシューは本当のことを言っていいのか分からなくて黙った。『けんかをしないで、四人で一緒にくらしてほしい』と言ったら、フランシスもアーサーも困った顔をするだろう。
 どうしてアーサーさんと喧嘩をするの? と以前、フランシスに聞いたことがある。
 その時、アーサーの悪口をひとしきり言って、『戦争をすると哀しいことを思い出すけど、でもせずにはいられないんだ』と最後に寂しそうな顔で、フランシスは笑ったのだった。
 だから、マシューは少し考えて、次の願いを言った。
「……フランシスさんのマカロンが食べたいって」
「そっか」
 やっぱりまた作ってあげるよ、と言ってくれないフランシスに、「もう食べられないの?」 とマシューは訊ねた。
 困ったように黙るフランシスに、やっぱりもう作ってもらえないのだとマシューは悲しくなった。
 今日からおれがお前の兄になるからな、とアーサーがやってきて、それからアルフレッドに会って、自分にも兄弟がいるのだと嬉しくなったけれど。アーサーの弟になったということは、そういうことなのだ。
 もう会えないのだろうか。フランシスは自分のことが嫌いになってしまうのだろうか。
 急に怖くなって泣きたい気持ちになる。
「ああ、泣かないでおれの可愛いおちびちゃん」
「泣いてなんかないよ、ぼく弱虫じゃないもん」
 涙を堪えてそう言うと、「そうだな、弱虫じゃない」と頭を撫でてくれた。
「……すぐには無理だけど、マシューが大きくなってもお兄さんのことを忘れないでいてくれて、まだ食べたいと思ってくれたら食べさせてあげるよ」
「ぼく、フランシスさんのこと忘れないよ、絶対だよ」
 大きい声で叫びたいのを我慢して一生懸命そう言うと、フランシスはぎゅっと抱きしめてくれて、マシューの大好きな甘い花の香りがした。
「可愛いマシュー、これからはアーサーの言うことをよく聞いて、いい子にしているんだよ。眉毛でどうしようもなく無神経で最悪な野郎だけど、お前のことは可愛がってくれる。アーサーの愛はきっとお前を傷つけるけど……でもその愛は必ずお前の身の守りになるよ」
 フランシスの言っていることは難しくてよく分からなかった。でもアーサーのことを嫌いにならなくていいということだけは分かってマシューはほっとした。だってフランシスもアーサーも大好きなのだ。どちらかを嫌いにならないといけないよ、と言われたら困ってしまう。
「本当に……お前はどんな国になるんだろうね」
「ぼくは国になるの?」
 びっくりして訊ねると、
「おれたちが人と違うのは知ってるだろう?」
 とフランシスは言った。
 フランシスもアーサーも『国』だ。人間より綺麗で、偉くて、歳をとらない。
 マシューは彼らの『弟』だから、普通の子供みたいにお父さんとお母さんはいないのだと言われた。だからアルフレッドが自分の兄弟だと聞いて、とても嬉しかったのだ。
 でもマシューは『国』ではなく『弟』だ。マシューが『国』になるなんて今まで誰も教えてくれなかった。
「いつかはお前も国になるんだよ、きっと。自分の王様をもって、自分の国民や文化をもつ。その時にはお兄さんの可愛いマシューとはすっかり変わってしまってるかもしれないな」
「ぼく、変わるの?」
「そうだな……お兄さんにも分からない。でももしかすると全然違う姿になって、お兄さんのことを嫌いになってしまうかもしれない」
「だったらぼくは変わらないよ。フランシスさんのこと、ずっと好きだよ」
「ありがとう、おれの可愛いNouvelle-France」
「あたらしいフランス……?」
 やさしい声で額にキスをくれるフランシスの不思議な言葉に、マシューは首を傾げた。
「お前が昔持っていたもう一つの名前だよ」
 そんな名前、あっただろうか。
 眠たいせいか、なんだか上手く思い出せない。
 マシューはまだ小さいから、いろんなことを覚えていられないのだ、とアーサーが教えてくれたことを思い出す。
『半年前のご飯に何を食べたかなんて覚えていられないだろう、それと同じだから心配しなくていい』と頭を撫でてくれたのだ。
 あれはなんのことを話していたんだっけ。
 トントンとゆっくり背中を叩いてくれるフランシスの手が気持ちよくて、眠たくてたまらなくなる。

 ──Nouvelle-France

 なんだか懐かしい響きを持つその名前を心の中で繰り返しながら、マシューは眠りに落ちていった。




 それが一七六四年の降誕節だったのだとマシューが認識したのは、フランシスとアーサーの関係が理解できるくらい大人になってからのことだった。
 そしてあの数日があの当時の彼らの関係からすると、信じられないような歩み寄りだったことも、そしてその譲歩がなぜなされたのかに気がついたのも、随分と後になってからのことだ。  




+ Home +