Sweet ! |
「だから、その数値は理論上のものなんだろ? ――はぁ? メタボのとこなんか好きに言わせておけ!」
不意に声を荒げたイギリスに、運指を止め、日本は顔を上げた。
襖を開け放した隣の部屋で仕事の電話中の恋人が慌てたようにこちらを向き、眼があった彼は電話口を押さえて、「すまない」とばつの悪い表情を浮かべる。緩く微笑んでみせると、幾分声を抑えながらも不快そうな声で部下に指示を飛ばしていく。
胡座をかきながら、ぴんと背筋を伸ばしているその姿に、日本は襦袢を置いてこたつから立ち上がった。
和建築の日本邸にも洋室はある。
応接室として玄関の横に設えてある広々とした部屋は、大理石の床に絨毯敷きだ。暖炉やソファーセットを備え、窓辺には書き物机も置かれている。
そのソファーセットと同じ意匠が彫り込まれた木製の火鉢に薬缶をかけ、日本はこちらも揃いのワゴンテーブルにイギリスからもらった銀製のティーセットを用意した。
普段は花瓶置きとして上蔽いをかけている火鉢は、シガー灰皿にも湯沸かしにも使える特注品である。
昨日から熾を絶やさぬようにしているおかげで、カップを算段しているうちにぽってりとした黒い鉄薬缶は白い湯気を吐き始めた。
「イギリスさん」
「――あ、ああ」
居間に戻れば、イギリスは相変わらず少し気難しい表情でさらさらと万年筆を動かしている。声を掛けられてはじめて日本の気配に気づいたように、はっと顔を上げた彼に微笑む。
「そろそろお茶などいかがかと思いまして。切りの良い所で、洋室の方へ起こしいただけませんか?」
「お茶か。ああ、そんな時間だよな」
紅茶で一服する時間を何よりもこよなく愛する国民性を体現するだけあり、イギリスは一瞬にして表情を和らげ、いそいそとインク壺に蓋をする。少し険しい目許も穏やかにほどけ、うーん、と伸びをする仕草にも開放感が滲んでいる。
洋室に入ると頼むまでもなく、当然のようにお茶を淹れ始めるイギリスに、家主であるにもかかわらず客人のような顔で大人しく座った日本は、目の前に茶器が供されるのを待った。
「やっぱりイギリスさんが淹れてくださった紅茶は自分で淹れたものとは味が違いますね」
「そうか?」
一口含み、その馥郁とした香りと渋みを感じさせない味にしみじみと感嘆を漏らせば、首を傾げるイギリスは満更でもない顔だ。
「毎日何度も飲んでりゃ、子供でもうまく淹れるようになる」
「確かに。たまに淹れる程度では、イギリスさんと比べるのもおこがましいですね」
何しろ彼は英国を象った存在。毎日とはすなわち、国の歩みだ。イギリスの歴史の味と思えば、いっそう味わい深い。
しみじみと味わう日本に、ぼそりとイギリスはつぶやく。
「あー・・・・・・お前が淹れる緑茶も、悪くないと思うぞ」
とってつけたような言葉だが、イギリスにしては最大限の褒め言葉なのは長いつきあいで分かっている。
だが、それはあくまでも褒め言葉。彼は自分が紅茶を好む程には緑茶を好きではないことを知っている日本は、淡く微笑み礼を述べるに留めた。
彼我の嗜好の違いを相手に対する感情の熱量と同一視するのはばかげている。理性ではそう納得しているけれど、寂しい気持ちが沸き起こる。この感傷はただの自分の我が儘だと理解しているから、浮かべるのは微笑みだけだ。
そんな日本に、何を感じ取ったのか、イギリスは首を傾げた。
「どうした?」
「いえ、それこそお茶請けが緑茶用のもので申し訳ないなと思いまして」
他人と巧くつきあうのは苦手だと自他共に認めているくせに、たまに人の感情に驚くほど敏い彼は、こうして日本の感情の揺らぎを察することがある。
内心を面にださない自信はあるのに、と嬉しいような悔しいような気持ちで話を逸らすのはテーブルに載せた甘味への話題だ。
泉屋のクッキーは午前中に出したし、空也のもなかはお抹茶のお供にしたい。さかぐちのあられは論外だろう。先週アメリカが押しかけてきたばかりで、常備の菓子棚は空に近く、出せるものは部下の土産のかりんとうと、ついこの季節になると買ってしまうコンビニのチョコレートだけだった。
「いや、このチョコレートも、『みるくてぃー』も美味いぞ」
傍らに置いた可愛らしいかりんとうの紙袋には大きくミルクティーと記されている。どや顔で胸を張るイギリスは、ひらがなならば支障なく読むことができるから、『みるくてぃー』を菓子名と思ったのだろう。これがアルファベットで書かれていたならそんな間違いはしなかったのだろうが、褒めてほしそうな気配を醸し出す彼に、さて、どう返したものかと日本は思案した。
「お口に合ったようで良かったです。チョコレートはともかく、かりんとうはいかがなものかと思いましたが、ミルクティー味ならさほど違和感がなかったのかもしれませんね」
「・・・・・・かりんとう?」
「はい。これは小麦粉を練り揚げて、糖衣をかけたものなんですよ。最近はいろんな味が出ておりまして、これはミルクティー風味ですね」
「これ、ミルクティー味、なのか?」
「ええ、まぁ一応。だからミルクティーでも間違ってはないです、はい」
「ミルクティー・・・・・・」
これのどこがと言いたいのかもしれない。
なんと評したら良いのか迷っているような顔でもう一つ摘んだイギリスは、「まぁ美味いな」と味の詳細についてのコメントは避けた。
「寒さは大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
火鉢だけでは大理石の床のこの部屋は当然寒すぎる。朝から床暖房とオイルヒーターを入れているこの部屋は、居間と同じくらい暖かくなっていた。
「よろしければこちらでお仕事の続きをしませんか?」
「・・・・・・なんだよ、あっちでやったら邪魔か?」
「いえ、そういうわけではないのですが、こちらの方が使い勝手が良いかと思いまして」
どんな時でも紳士らしくぴんと背筋を伸ばしているイギリスは、畳で胡座をかく時も姿勢を崩さない。その姿が窮屈そうで、気にかかっただけだ。
午前にも勧めて断られた提案だ。同じことを繰り返し、鬱陶しく感じられただろうか。
黙り込むイギリスは少し不機嫌そうに見える。
「あれは、私もたまに使っている机なんです」
視線で示すウオールナット材の物書き机は英国家具を範とした横浜造り。菊の象嵌や艶やかな曲線で美しい装飾が細微に施されたそれを、日本は手紙を書く時に使っている。
机に向かうと、いつもイギリス邸の独特な空気を思い出す。
それはその机が日本がいつも宛がわれる部屋の書き物机とよく似ているからかもしれない。色も材木も違うけれど、滑らかな木目、机の高さ、絹張りの椅子の座り心地は、彼の屋敷で机に向かっている時に感じる静謐で重厚な雰囲気を思い出させ、ふと追想に筆を止めては、沸き起こった想いを書き綴るのが日本の常となっていた。
「イギリスさんのお家の机によく似ているので、畳敷きの居間よりは仕事が捗るのではと思うのですが」
「・・・・・・お前は、・・・どうするんだ?」
「私、ですか?」
じっと見詰めてくるイギリスに、少し首を傾げる。
これは居てほしいということだろうか。
しかし、あちらの居間なら開け放しているとはいえ形式的には隣の部屋だが、ここは完全に同室。仕事中、傍に居て良いのかと日本は迷う。もちろん、見られて困る書類など持ってきているはずはないのだが、対外的にどうなのだろう。
そんな躊躇を巡らせるが、何も言わなければ自分は別室に居るに決まっていて、それは彼も当然想定していることだろう。だから、これは傍に居て欲しいのかもしれないと解釈して、おずおずと申し出た。
「そうですね。こちらで続きをさせていただければと・・・・・・もちろんお邪魔でなければですが」
「何言ってるんだ。お前は家主だろう、自分ちで邪魔とか考えるなよ」
「はぁ」
不機嫌そうな顔はそのままで、「書類とってくる」と言い置いて出て行ったイギリスのカップにはまだミルクテイーが半分以上残っている。普段ならば数杯はお代わりを繰り返しながらのんびり会話を楽しむのだが。よかれと思いつつも余計な差し出口で機嫌を損ねたか、それともアフタヌーンティー用の茶菓子を用意しなかったのが悪かったのか。
「・・・・・・かりんとうはともかく、チョコレートは甘さが足りませんでしたかね」
茶請けのチョコレートを一つ口に含んだ日本は、悄然と呟いた。
イギリスの家のチョコレートは日本より甘く、それに舌が痺れるほど濃厚なトフィーやキャラメルを一緒に食するのを好んでいる彼には、日本人の嗜好に合わせたこんな小さな袋チョコレートでは物足りないのかもしれない。
急なイギリスの訪問に舞い上がっていたとはいえ、一番大事なお茶の時間のお菓子くらい手配しなかった自分の至らなさに肩が落ちる。
「――ほら」
自己嫌悪に俯いていた日本は、不意に差し出された襦袢に驚き、慌てて受け取った。
あっという間に荷物をまとめて戻ってきたイギリスは、部屋の隅に置いていたオットマンを寄せると、手の伸ばしやすい位置に裁縫箱を置いてくれる。
「あ、ありがとうございま・・・・・・す?」
慌てて礼を言う日本の語尾は、当然の顔をしてソファーの隣に座るイギリスに、困惑し、疑問形をとった。
なぜ隣に座るのだろう。
先ほどまでは向かい合わせに座っていたイギリスの意図がつかめず、ちらりと横目で伺う彼は、ソーサーとカップを手に持ち、平然とした顔だ。
「あの・・・・・・」
「なんだ?」
「いえ」
微かに薫るパフューム。すぐ隣に感じるイギリスの気配にそわそわとしてしまう。
沈黙が居心地が悪い。
あっという間に飲み干してしまったカップを、横からすっと取り上げられ、ああ、おかわりを注いでくれるのか、と礼を言おうとした瞬間だった。
え、と思うまもなく頤を黒手袋の指にとられ、流れるような動きで唇が重ねられた。
なんでいきなり? と固まる日本の混乱などよそに、我が物顔で柔らかい舌が腔内に入り込んでくる。
文字通り目の前、至近で見つめ合う翠の瞳が眇められ、その色気にカッと頬が紅潮し一瞬で逆上せあがった。眼差しを受け止められず目を伏せれば、とろとろと口蓋の裏、敏感なところをくすぐる舌先の動きをいっそう鮮明に感じられる。怯えて縮こまる舌を追いかけ絡められたところで意識が融け、気づけば荒い息の中、ゆっくりと唇が離れていくところだった。
名残惜しそうにじんじんと腫れぼったい口唇を舐め取られる段になって、ようやく長いキスが終わったのだと気づく。
ふわふわと甘く霞がかかったような頭。
うっすらとした記憶の中、煽られるがままに舌を絡め合い、熱を高め合っていたような気がする。
「・・・・・・甘さが足りないと言うよりも、名前負けだよな」
「・・・・・・え?」
あんなキスをした後なのに、平然とした顔のイギリスは、机の上のチョコレートをとると、その包装を破り、日本の口に入れた。
訳が分からないまま、チョコレートは口の中で溶けていく。
「"Melty Kiss" ――どっちが甘かった?」
瞬きを三回分で、ようやく彼が何を言いたいのかに気がついた日本は、真っ赤になった。
「知りません、それよりさっさと仕事されてください」
覆い被さるような躯をぐいと押しのけようとしたところを逆に押し倒され、艶やかな笑みを浮かべるイギリスを見上げる形になる。
――あ、この体勢はまずい!
「分からないなら、おれも確かめてやるよ」
「だから、仕事・・・・・・」
言いかけた言葉はまた接吻けで封じられる。
チョコレートより甘いそのキスに、抗うはずの指は縋る弱々しさでイギリスのシャツにしがみつく羽目となった。
Melty Kissを眺めて、なんでこんな名前と紳士は思ったに違いない。
たまにチョコってを食べたくなりますね。
かりんとうもうまうま。きっと甘さが足りない・・・と思いながらイギリスさんも和菓子をむしゃむしゃしてると思います。
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