イギリスさんと日本さん




 ――こ、これはなんの拷問だ……
 
「ダメです、……イギリスさん、動かないでッ」
 囁く日本の、彼が唯一至高の愛を捧げる国の吐息が耳にかかる。
 同じ男とは思えぬほど細くて柔らかい指が耳を掠め、柔らかく髪を撫でつける。その小さな所作に限りない甘さが感じられて、イギリスは痛くなるほどの胸の高鳴りを覚えた。
 彼が動くな、と言うのであれば、息を止めてでも微動だにしない覚悟はある。
 しかし、こんなにも近く彼の肌を、熱を感じながら動かずにいるというのは拷問だった。
 そわそわと胸が、背筋が、甘ったるい何かで満たされて、身動ぎの一つでもせずにはいられないこの感覚はなんだろう。
「なぁ、日本……ちょっと…」
「……なんでしょう?」
 何かしゃべらなければこの熱に溺れて、制止が効かなくなりそうだ。
 とはいえすっかり逆上せ上がった頭ではろくな言葉も思いつかず。
「その、あー……痛くないか?」
 思わず訊ねた問いの迂闊さに、イギリスは内心で己に激しい罵倒を浴びせかけた。
 『痛いのか?』 などと聞いても、彼が素直に答えるはずはない。我慢強いこの国は、己の不快など相手への遠慮の前では綺麗に押し隠し通す性質であった。
「いえ、私は……も、もしかして、イギリスさん、痛いですか? 申し訳ありません!」
「いや、ち、違う、違う、俺は平気だ!」
 違う意味で平気ではないけれど。
「そうじゃなくてだな、その、あー……俺、重いだろう。すまない」
 身長はともかく、彼我の体格の違いは顕著だ。体重がそれなりにある自分がのしかかっている彼の負担が気になり、おずおずと謝れば、「……ああ」と呟いた彼が、耳許で小さく含み笑ったのが分った。
「……本当にイギリスさんは紳士でいらっしゃいますね」
「そ、そうか?」
 多分今頭の中を覗かれたら、日本など飛んで逃げてしまうか、軽蔑で一生口をきいてくれないか。そんな妄想で頭が一杯になっていて、多分そういうのは紳士とは呼ばないと思う。
 なにしろ日本の言いつけ通り微動だにしないのは、ちょっとでも動けば理性が妄想に押し流されそうだからだ。
 
 (耐えろ、俺! 日本は俺のことを紳士だと思ってくれてるんだ!)
 
 彼の尊敬に満ちたあの優しい眼差しを得るためなら、自分はどんなことでも耐えられる。
 『耐えられる』、という言葉にふと、さきほどの己の問いに、彼が直接の答えを寄越さなかったことに気がついた。
 たとえそう思っていても社交辞令で否定を返すのが彼の常ならば、否定の言葉がないというのはやはりかなりの負担を彼に強いていることに、他ならないのではないか。
 その推察にすっと冷や水を浴びせかけられた気分になり、固まったイギリスに気づいてか、それとも気づかないでか。
「……イギリスさんが気持ちいいなら、私は嬉しいですよ」
 さらりと告げられた言葉に、冷や水が一転。
 全身の血液といい、体液の全てが沸騰したような感覚を覚えた。
「あッ、な! え? …あッ?!」
 ひっくり返った声を出すイギリスに、
「はい、こちらは終わりました」
 と日本は穏やかな声で、耳かきの終了を告げる。
 雰囲気に促され頭を上げながら気になるのは、顔が赤くなっていないかだ。
 
「いかがでしたか?」
「気持ち……良かった気がする。うん、気持ちよかった!」
 当初の耳に異物を入れられる違和感など、彼の膝の感触と、触れられる指の熱量、そして至近で囁きかけられる声で全て消し飛んで、正直耳かきの感触など綺麗さっぱり覚えていない。
 だが、色んな意味で試練の時ではあったが、それを上回る多幸感に満たされたのは事実である。
 力一杯頷くイギリスに、日本は嬉しそうに笑った。
「よかったです。もう片方もいかがですか?」
「え? あ、いや……」
 
 (――ちょっと待て。)
 
 気持ちよかった。嬉しかった。幸せだった。ああ、そうだとも、プラスの感情をこれでもかというくらい並べ立てても追いつかないくらいの至福の時間ではあったが、しかしそれを今もう一度と言われたら激しく困る。
 何が困るって、主に理性とか、下半身とか、およそ紳士的とはいえない事情でだ。
 万が一にも己の理性が焼き切れて、うっかり彼を押し倒しなんかした日には、ドーヴァー海峡に身投げでも図るであろう己の後悔も予想できるが、しかしあの距離でもう一度優しくあの指に触れられたらそれだけで己の理性は吹っ飛ぶに決まってる。
 これは最早確信だった。
 
 (どうやって断ればいいんだ……!)
 
「あの、お嫌でなければ遠慮なさらずに……」
 おずおずとかけられる声に、反射的に返すのはもう習いの性になった天の邪鬼な言葉だ。
「べ、別にお前に遠慮してるわけじゃないぞ! 俺のためなんだからな!」
「……え?」
 だが、口に出し、日本が怪訝な表情を浮かべた瞬間、その言葉があまりにも正鵠を射ていることに気づき、イギリスはパニックに陥った。
「いや、そうじゃなくて、だな! ええと、あー……」
 何をどう説明したらいいのか。あの三枚舌とも呼ばれた話術は天に召されてしまったのか。
 進退窮まった彼がとれた活路はただ一つ。
「すまん、トイレ借りる!」
 実に古典的で、そしてこの場面でこれ以上なく実用的な遁れ道に逃げ込んだイギリスを、「……あ、はい」と見送った日本は、小さく首を傾げた。
 
  「……イギリスさんって時々難しい方ですね」
 
 
 
     
 
 
 
 
きっとイギリスは自分の足の痺れを心配してくれているのだろう、と日本は幸せな誤解をしている、イギ片思いの話。
イタちゃんが耳かきしてもらってるのをみて、さりげなく強請って、地雷にぶち当たったんだと思いますよ。
トイレの中で涙目で声を殺して悶々と自己嫌悪の海に溺れるイギとか想像すると可愛いですな。



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