トルコさんとギリシャさんと日本



『帰りにうちに寄ってもらえませんかねぇ』
 トルコからそう誘われたのは、世界会議の昼休みのことだった。
 いつものようにイタリアとドイツと談笑していた日本は、いきなりのその誘いに眼を瞬かせたが、『いえ、うちの地下鉄工事の件で日本さんにご迷惑かけてんですが、まずは現地を見ていただければと思いましてね』というトルコの言葉に、仕事関係のことでしたらお邪魔させていただかなければなりませんね、と思い、『では喜んで』と答えたのだった。
 その後ろで、今日はどうやって日本を誘おうかと朝からそわそわしていたイギリスが般若のごとき顔になり、「これだから元ヤンは」とフランスからニヤニヤ笑われているという一幕があったのだが、それは彼の与り知らぬところであった。
 
 さて、視察といってもさほど時間がかかるものでもない。
 一通り現地の工事現場で説明を聞き、ざっと見て回れば事も終わる。「じゃあ仕事はこれくらいで、折角なんで後は観光と食事でもどうですかい?」とトルコとしてはこちらが本題だった言葉に、「いいのですか?」と答えようとした日本のその腕を、がしりと掴んだ手があった。
 ぐいと引寄せられる強い力にびっくりして振り向けば、なぜかそこにいたのはギリシャだ。
「ギリ……ヘラクレス君?!」
 咄嗟のことながら、往来でギリシャと呼ぶのは拙い、と名前を呼んだ日本に、ギリシャはいつもの無表情に微かな笑みを浮かべる。だが、すぐその笑みを消し去ると、仮面越しにも分かる殺気を湛えたトルコに向かい、
「お前、もう用事済んだって言った……菊は…俺とあそぶ……」
 と宣言した。
「てやんでい! 菊は俺にあいにきたんでいッ! オメーはスッこんでろ!」
 ぐいぐいと引っぱっていこうとするギリシャに、慌ててトルコはもう一方の腕をとり、己に引寄せようとする。
 となると当然真ん中にいる日本は、相反する力の中心に位置することになり……
「イタイッ……痛いです……!」
 端的に言って痛い。ものすごく痛い。体格の良い中東の男達の馬鹿力で引っぱられれば腕が抜けるか、身体が裂けるか。
 青くなって、だが遠慮がちに控えめな悲鳴を上げても、抱え込まれ掴まれた両腕から力が抜けることはない。
 普段ならば日本のくしゃみ一つでおろおろする男達は、どうやら相当頭に血が上っているのだろう。
「やだ、俺が菊とっ」
「抜かせ、小僧ッ! 菊は、」
「あ、あの二人ともっ…」
 両腕を引っぱられながら、言葉が届かぬ男達に、どうしたものかと日本は途方に暮れる。いや、途方に暮れる余裕などなく、とにかくこの状況をどうしたものかとぐるぐる対処法を探すべく、頭をフル回転させた。
(あーなんかこういう話ありましたよね、そう……ええと…)
「……手を離した方が本当のお母さんですよ!」
 ぱっと脳裏に浮かんだ言葉を叫ぶと、その途端手が離れた。
(おおお、有効でした。良かったです。あとちょっとで腕が抜けたでしょうからねぇ)
 ぼんやりそんなことを思っていると、我に返ったのだろう。
「う、うわあああああ……すまねぇ!!」
「ご、ごめん!」
 目に見えて冷や汗をかき、全身で申し訳なさを示す二人に、
「おや、二人ともいいお母さんです」
 とわざと日本はとぼけた顔をしてみせた。二人とも自分に親愛を抱いてくれているのは分かるし、目に見えてあらわされるそれはとても心地よく嬉しいものだ。ただちょっと二人がかち合うとトラブルになるのが困りものだが、それも自分に対する好意が元なので、嫌な気持ちになって欲しくない。
 軽口でいなそうとしたその言葉に、
「お母さん……」
 と難しい顔でギリシャは考え込む。いや、そこは笑うとこですって、と思いながら、
「ああ、こんな爺相手にお母さんだなんて、冗談でも失礼ですよね」
 と笑ってみせれば、真面目な顔でギリシャは首を振った。
「イヤじゃない……お母さんなら菊を風呂に入れて、一緒に寝てあげる」
 お母さんでいい、と呟いたギリシャに、「寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえ!!」と噛みついたのは、案の定トルコだった。
「お前と風呂で一緒に寝るだぁ?! こんなエロガキの前で裸になんぞなっちゃあ、どんな目に遭わされるか分ったもんじゃありませんで、菊さんッ!」
「俺、一緒に風呂と寝るって言っただけ……変なこと想像するお前がいやらしい」
「なッ……! いやらしいとはなんでぃ! 大体おめぇが……」
 公道でまたもや罵り合いを始めた二人に呆れつつ、さて次はなんと言って止めたらいいものか。もういっそこのまま二人を置いて帰ってしまおうか。
 力なく笑いながら、ふと思ってしまった日本だった。
 
 
 
 
   



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