1/30日英同盟



 時計を確認したイギリスは、受話器を取り、短縮ボタンを押した。
 ロンドンより9時間早い極東の彼の地では今は既に真夜中だが、彼は必ず起きているだろうという確信があった。
 呼び出し音を何度も待つこともなく、柔らかい声で「はい、本田です」と返る。
「Hello, イギリスだ。夜分にすまない」
「ああ、これはイギリスさん。こんばんは」
「優勝、おめでとう」
 告げると、ぱっと華やいだ声になった。
「ありがとうございます! 見ていてくださったのですか!」
「ああ、実に素晴らしい試合だった。アジア王者と共に、世界王者タイトルの防衛も成功だな」
 以前に冗談で教えた、非公式サッカー世界王者(UFWC)というイギリス発祥のタイトルをネタに軽口を叩くと、くすくす笑う。いつも物腰柔らかで穏やかな日本が、こんなに素直に高揚を示す様は初めてだった。
 一頻りトーナメントや選手について雑談を交わすと、イギリスはおもむろに切り出した。
「その……すまなかったな、行きたいのは山々だったんだが、北アフリカのごたごたで、国をあけるわけにはいかなくて……」
「ああ、なんだか大変なことになっているらしいですねぇ。こちらにはあまり情報が入ってこないので分らないのですが」
「そうか」
 おっとりと返す言葉は、遠い世界のことを話すかのごとき響きだ。
 その物言いに、イギリスは小さく笑った。
 チュニジアの独裁政権打倒に端を発するエジプトの騒乱で、欧州株式市場、NY株式市場ともに株価が急落し、原油価格は急騰した。エジプトはアメリカと友好協力関係を築き、内情はどうであれ国内外の安定化をはかっていた国だ。数日前にも市民抗議の対策支援を求めて国防相をアメリカへ派遣したばかりだという。その政権に対する民主化を求める市民の動きが、数日前からネットやメディアを通じて世界に伝播されている。
 インターネット回線を遮断するという政府の乱暴な方針によって現地からの情報も錯綜し、その騒ぎに乗じて情報戦も激化している。イギリスも持てる限りのチャンネル使い情報を収集し、逆に国益を上げるための情報を流し、同時にドイツやフランスと対応を協議しているところだった。数時間うちには共同宣言を出さねばならないが、いまだに立場を明確にしていないアメリカはこの局面にどういう対応をとるのか。
 仮にこの騒乱で、政権が倒れるとなると影響は近隣のアラブ諸国のみならず、独裁政権を敷く諸国にも及ぶ可能性がある。
 彼が標榜する自由や民主化を訴えて立ち上がる民衆に与することは簡単だが、アメリカと緊密な関係を持ち現政権と友好関係にあるイスラエルの反発や、中東の安定が乱されることを嫌う国々からの働きかけはもちろん、現政権打倒後にイスラム原理派の勢力が伸張する可能性、中東における自国の影響力をいかに保持するかなど、アメリカにとって頭の痛い懸案材料には事欠かない。
 アラブ諸国の中でにあって反米を旗印に掲げずに行われているこの騒乱の結果、仮に新政権が建つとすれば、それは親米か、イスラム色を強めた反米路線をとるのか。
 アメリカが困るのには個人としては溜飲が下がる思いだが、この件に関しては基本、協調路線をとっている国としての身なれば、楽しんでばかりもいられないところだった。
 トルコやギリシャも、エジプトとは連絡がとれないという。この政変がエジプトの国家としての性格を決める変数はいまだ確定せず、EUの国々も現地の趨勢から目が離せない状態だ。
 だが、そんなこちらの奔走は、電話向こうの彼にとっては地球の裏側、遠い世界のことなのだろう。

 先の大戦以来、経済的な急成長を果たし世界第二位の経済国にまで上り詰めた日本だが、その地位に反比例するかのように国際社会での発言を控えるようになった。
 アメリカの陰に隠れ、その意見に追従し、曖昧な笑みと穏やかな物腰で場をやりすごす。
 あの同盟を組んだ頃も確かに口数少なく、掴み所がない部分はあったが、『強くなりたい』という盲信にも似た一念を細い躰に漲らせ驚くほど短期間に大国へと上り詰めたあの頃は、積極的に世界の中心へ打ってでようとする姿勢を見せていた。だが出る杭は打たれるという諺の通り、イギリスと同盟を解消してからの日本は、徐々に国際社会から孤立していき、今にも折れそうな抜き身の刃が国際情勢や時代の波で研ぎ澄まされ、鋭い凶器となってイギリスと、世界と対峙したのは先の大戦のことだ。
 最後の最後まで抗っていたものの、圧倒的な国力を有するアメリカに屈し、敗戦を受け入れた時の日本は無残に折れた刀のように痛々しいものだった。それを直視できずにイギリスはかつての友の傷ついた姿から眼を反らしたのだった。
 同盟を解消したとはいえ、イギリスにとって日本は初めての友であり、敵対関係にあったとはいえ、けして憎しみから相反する立場に身を置いたのではなかった。
 その後、囲い込むようにして日本を作り替えていくアメリカに盲目的に服従し、別人のように言葉少なに”Yes”とだけを繰り返す日本の姿に苛立ちを感じたこともあったが、少なくともあの時の満身創痍の日本よりはましだ、とイギリスは彼の変化を受け入れた。
『もともと引きこもりの島国でしたから……正直公の場で自分の意見を述べるというのは苦手でして』
 良くないとは分っているんですけど、と困ったように笑う姿が、もしかすると本来の日本の姿なのかも知れない。
 そう思えば、願わくばいつまでも浮き世から離れ、平和ぼけと揶揄されるほどの平穏な国のままで、とすら思う。
 もちろんそれは、儚い願望だとは分っているけれど。
「そちらは変わりないのか?」
「ええ、豪雪被害と火山の噴火の自然災害で少々ドタバタしておりますが、それ以外は大過もなく過ごしております。イギリスさんはいかがですか?」
「うちも変わりない。……今回は申し訳なかったが、もしよければ来月にでもそちらへ行っていいか。久しぶりに日本の露天風呂に入りたくなった」
「ではイギリスさんがお好きな日本酒を準備してお待ちしておりますね」
 疲れた身を慰撫するような優しい囁きに、自然笑みが浮かぶ。レポートを持ってきた部下が驚いた顔を見せるがそれを黙殺し、
「――楽しみにしてる」
 とイギリスらしからぬ多分に甘みを増した声で返した。
 友好関係を取り戻せば、日本はかつてのような笑顔をイギリスに向けてくれ、地球の裏側という距離も逆に幸いしてか、国同士の反目を生じさせるほどの重大な問題も存在していない。
 ”かつてない良好な状態” と謳うその成語に違わぬ良好な関係は、国としてはもちろん、個人的な友誼にも及んでいる。
 広い世界の中、二人だけで手を繋いだ蜜月のようなあの同盟期間を懐かしむのは、懐旧趣味と揶揄される自分の良くない癖なのだろう。
 大丈夫だ。
 世界がどんなに激動しても、自分たちの仲は揺るがない。
 そんな確信を抱きながら、イギリスは電話を切った。

























 名残を惜しむかのように、ゆっくりと受話器を耳から離し、電話機へと置いた日本は深く溜息を吐いた。
 暗く底冷えのする廊下で、吐息は白く曲線を描き虚空へ溶ける。

 今年も、イギリスは来なかった。

 毎年正月明け頃に、この時期を指定してイギリスから訪問の打診がある。それに二つ返事で快諾すれど、実際の来訪があるのは数年に一度。直前に、酷い時は前日に丁重な断りの連絡が入るのにももう慣れたことだ。
 落胆するほどの期待など、はなから抱いてなどいなかったはずなのに。
 こうして性懲りもなく溜息が出てしまう己の愚かしさがいっそ腹立たしい。

 日英同盟。
 日独伊三国同盟。
 そして現在も続く日米同盟。

 どれも日本にとって大事で、今のこの身を形成する基となった同盟だ。
 現在も続いている日米同盟はともかく、同盟が解消しても変わらぬ、いやむしろ深い友情で結ばれている三国同盟は今となっては懐かしい気持ちしか残っていない。
 だが、日英同盟は、懐かしいという言葉一つでは言い表せぬ感慨に、今この瞬間も心が揺れる。
 ちょうど109年前の本日、締結され即日施行された彼との同盟は、日本にとっては世界に認められる大国への階の一歩だった。
 ――双方共に大いなる未来を信じていた輝かしい時代の象徴。
 それはきっとイギリスも同じなのだろう。
 口に出しこそはしないものの、多忙な彼が毎年最初の同盟を結んだ今日のこの日を指定し、会いに来るのは昔を懐かしんでに違いない。
 初めての友達だから、という言葉に眼が眩んでか、彼は同盟当初から過分なほどの親愛を示してくれていた。
 不幸な時代を経て、再び友誼を結ぶようになってからも、その好意は変わらない。

『イギリスは日本には親切だよね』
『欧州にいる時とまるで別人だよ?』
『本当に仲が良いんだね〜』

 周囲からの冷やかすような言葉に覚えた優越感が後ろめたさに代わり、『友情』というものに幻想を抱いているらしい彼が寄せる無条件の好意が苦しくなったのはいつからのことだろう。
 毎年かけられる訪問の言葉に胸を高鳴らせ、指折り数え、そして落胆の淵に沈むようになったのは。
 共に過ごしたいのであれば、自分から出向けばいい。そう分かっているのに一歩が踏み出せず、常に受け身にまわる自分は醜い。
 言ってしまえばいい。
 この身に巣喰う妄執にも似た恋情を口にしてしまえば、苦しいばかりのこの関係は形を変えるだろう。
 そうすれば――


「……意気地なし」
 己を唾棄し呟く言葉は、大画面から響く優勝に沸く喜びの歓声に消され、誰の耳にも届かなかった。


   




非公式サッカー世界王者(UFWC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%8E%8B%E8%80%85
現王者が1試合ごとに世界タイトルをかけて挑戦者と対戦し、挑戦者が勝利すればタイトルが移動するというシステム。
スコットランドのサッカーファンが考案、イギリスのサッカー雑誌が編集に携わっている。
現在の世界王者は日本。(2010FIFAワールドカップ優勝国スペインに勝利したアルゼンチンを破りタイトルを保有)



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