満月の夜だった。
　台風一過で澄んだ空にぽっかりと月が浮かんでいる。
　リリリ、ロロロと声を潜めて虫が鳴く静かな夜に、日本は中国とイギリスと酒を飲んでいた。
「実に綺麗な満月あるなぁ」
「そうだな。邪魔者がいなければ完璧な月だ」
「フン、後から来た邪魔者はお前ある。文句があるならさっさと帰るよろし、誰もお前を呼んでねぇある」
「俺は日本のコ、コイビトなんだからな！　お前と違って呼ばれなくても来る権利があるんだよ」
「我は日本の兄ある。自称恋人ストーカーと違ってここにいる正当な権利があるね」
「おい、自称とかストーカーとか勝手につけんな」
　言葉こそはいつものように刺々しいものだが、腹もくちくなり、美味しい酒と綺麗な夜空を前にしているからなのだろう。彼らの声に険はない。のんびりした口調で交すやりとりは、もはや習い性のようなものか。
　くすりと笑いながら、日本はぐい飲みに酒を注ぐ。月影に艶めく黒い輪島塗りの杯の中で、細い黄の花びらがくるくると踊った。
　今日は重陽の節句。
　日本の人としての名を冠した異名でも知られているこの節句に合わせ、時折中国はふらりとやってくる。
『我がお前にやった節句あるからな。可愛い弟の節句を祝いにやってくるのは当然あるよ』というのが彼の言い分で、『なんで旧暦で祝わないあるか』などと文句をつけながらも、日本の暦に併せて祝いにきてくれるのだった。
　イギリスから来訪の知らせがあった時は念のために断ろうかと思ったのだが、来るとも分からない中国のために恋人を断るのはいかがなものか。そんな判断は結局裏目に出たが、『今日は菊の節句ですから』と角を突き合わせる二人を仲裁したことも、いつになく平和な夜を作りだしている要因なのかもしれなかった。
「菊、我の杯にも花びらを入れるよろし」
「おい、俺の前で馴れ馴れしく菊なんて呼ぶな、顎で使うな」
「なんか言ったかアヘン？　菊は我の可愛い可愛い弟あるよ。誰が許されなくても我だけは菊って呼んでいいある」
「イギリスさん……」
　むっとした顔で言い返そうとするのを宥めるようにそっと手を重ねると、イギリスは口を噤む。
　ほっとして感謝の笑みを向けると、やや不満げな表情を残しながらも、夜闇にも美しい碧がやわらかい容になった。
　さらりと乾いた大きな手は、いつもより少し熱が高い。普段呑みつけない日本酒のせいで酔いが回っているのかもしれない。
「こら、日本。なんでそっち向くあるかぁー、そんな眉毛みたら呪われた眉毛がうつるあるよ」
「感染るか、馬鹿。非科学的なこといってんじゃねぇ」
　中国からは重ねた手は見えないはずだが、少し蜜度が高くなった空気は伝わったのだろう。
「中国さん、あんまり意地悪なことばかり言わないで下さい。酒が不味くなります。……ああ、そんなに一気に呑むような酒ではありませんのに」
　すっと手を離すと、ぽってり大きな徳利をとった。
　不機嫌そうに杯を傾ける姿に苦笑しながら、「ゆっくりどうぞ」とお酌をした酒に花びらを浮かべる。
　それだけで中国は覿面に機嫌をなおす。
「しかし本当に良い月ですこと」
　夜空に浮かぶ月を見上げると、中国もつられて視線を向けるのが分かる。
「そうあるな。……お腹すいたあるか？」
「お腹ですか？　夕食足りませんでした？」
　そっと伸ばした薬指が彼の指先に触れる。
「違う、前に月の兎が餅ついてるから見たらお腹すく言ってたのはお前ある」
　手探りで求める動きはお互い同じで、不器用にぶつかり合う指がもどかしい。
「……ああ、そう言われてみれば」
　だがひかれあう指はすぐに一本ずつぴったりと絡まり合った。
　指の柔らかい部分から伝わる体温の違う熱に胸が高鳴り、酒精が一気に躯中を巡ったかのように血が沸く。
　ただただ心が浮き立ち、隠しようのない笑顔になる。
「しましたね、そんな会話。私中国さんの作った粽と、大根餅が食べたいです。今度は作って下さいね」
「月見のとき食べるのは、月餅あるよ」
「勿論月餅もお願いします」
　指だけで伝える熱は、焦れったい。同じ温度に溶け合う熱がなぜか少し残念で、ほんの少し嬉しい。
「しっかたないあるなぁ。まったくにほんはいつまでたってもくいしんぼうある」
　くすくす笑う中国は酔いがまわっているのか、呂律が怪しくなっている。
　少しだけ指にこめられた力は合図だった。
「ぽちもそうおもうあるよなぁ」
　機嫌良さそうに笑いながら足元のぽちに話しかける中国の声。
　それをどこか遠くのもののように聞きながら、唇を重ねる。
　子供の戯れのような触れるだけの小さなキス。
　ささやかな共犯の成功に、悪戯っぽく視線を絡ませあう。
　繋いだ指の熱が際だつような、涼を含んだ風がそよ吹いた。
　足元に薄く漂う蚊遣りの煙だけが夏の名残の夜だった。





　 　



今年の重陽の節句はほぼ新月でしたが、2006年は満月だったようですよ。
http://www.astroarts.co.jp/phenomena/moon/moon-calendar.pl