ウソツキな唇
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さらりと微かな衣擦れの音が、寝返りをうつカミューの耳にやけに大きく響く。 起きなければならない。 それは分かっているのだが、主の意識よりも身体のほうが眠りを希求して眼を開けてくれない。 先ほど揺り起こされてから随分時間は経っているはずだから…、と考え、ふと湧き上がった怒りに、寝言にも呪詛にも似た呟きをもらす。 「マイクロトフのヤツ…」 それは一度は起こしには来たものの部下に呼ばれいなくなってしまった恋人の名前。 カミューが寝不足でベッドに沈み込んでしまう原因を作り出した張本人のものだった。 晩の食事を共にした後、どちらかの部屋で酒を飲むのはよくあることだ。 昨日もいつもよりかなり遅い時間に帰ってきたマイクロトフと一緒に食事をとり、そのままなんとなく彼の部屋へ流れ、そしてなんとなく一緒に酒を飲み始めた。何杯かグラスを重ねるうちに気がつくと抱き寄せられ、ベッドになだれ込んだのも成り行きだ。 明日も通常の職務が待っているということもちらりと脳裏を掠めたが、久しぶりに抱きしめあう腕の心地よさにそんな無粋な考えも霧散する。 もう恋人同士になって何年も経つというのに、未だに冷めることのない互いに対する熱情を確かめ合うひとときはけして嫌いなものではない。むしろ好きな時間と言ってもいいだろう。 だから普段よりも丁寧な、それでいて率直な欲望を曝すマイクロトフの行為を甘受したのは事実で、そのことになんの不服もない。 だが、その後が問題だった。 指先一つすら動かすのも億劫な心地よい倦怠感の中、早鐘を打つような鼓動を整えていたカミューに圧し掛かってきたのはつい今の今まで肌を重ねていた恋人だ。 まさか、とは思えど、だが執拗なまでに肌を辿る手も、欲を孕んだ眼差しの強さも、嫌な予感を高めるものでしかなかった。 「ちょっ、マ…」 慌てて掛けようとする制止の声は、放埓な唇に封印されてしまう。 「明日は夕方から盟主殿の遠征に同行するように言われてるんだ。暫く留守にするからいいだろう」 ああもう今日だな、と一頻り唇を貪った後のんびり呟いた彼は、今日はそれまで休みを取ったし、などといけしゃあしゃあと宣ってくれる。 それに対して渦巻く抗議はあれど、息も絶え絶えのカミューにはそれを口にする余裕などなかった。 そして当然のように抱き込まれてしまえば、溶けたバターのように芯のない蕩けきった身体では抵抗などできるわけもなく。 それからまた好きなだけ美味しく頂かれて、その挙句が本日の睡眠不足というわけだ。 睡眠不足だけではない。 身体にはてんで力が入らないし、睡眠不足や口に出せないような諸々のせいでやけに神経が過敏になっているのが分かる。 どうにか起き出して、半死人のような状態を周囲に悟られないよう気力だけで持たせているが、少しでも気を抜くと睡魔に襲われてしまいそうになる。 折りしも窓から射し込むのは、眠気を誘う春のうららかな陽光。 いっそ全てを投げ出してこのまま眠り込んでしまいたいという誘惑に駆られるが、恋人との私事が職務に影響するなど、カミューの矜持が許さない。 この始末、どうしてくれよう…。 「カミュー様、どうかなさいましたか?」 羽ペンを握り締め、復讐を誓う姿に不審を抱いたのか。 首を傾げる副官に「なんでもないよ」と莞爾と返すカミューの脳裏は、マイクロトフへの意趣返しの算段で占められていた。 マイクロトフがカミューの執務室に現れたのは、正午も近くなったお昼時だった。 「今朝は随分と中途半端な起こし方だったね」 そばについている副官の眼を憚り、形ばかりはにこやかに話しかけるカミューの眼つきは冷たく底光っているのだろう。 視線を逸らしたマイクロトフは居心地悪げに、 「すまない」 と謝ってくる。手土産に持ってきている茶葉は、さしずめ機嫌取りの品といったところか。 それは遠慮なく受け取れど、言葉の端々に潜ませる棘は尖らせたままにしておく。 「今日は休みだと聞いていたけど、随分と忙しかったようじゃないか」 「武道場の使用時間の件で傭兵部隊と少々行き違いがあってな」 「行き違い?」 「あぁ。月毎に使用時間を変更する約束になっていたんだが、担当者が休みをとっていて連絡が行き届かなかったようなのだ。ほら、今日は四月の一日で月替わりの日だろう。だから急遽俺が呼ばれたというわけだ。結局調整に手間取って、その上稽古もつける羽目になってな。今まで時間がかかった」 笑顔のくせに笑っていない眼と対峙するのは、相当居心地が悪いのだろう。普段に比べると些か饒舌が過ぎるくらい言葉を重ね、こわごわと表情を窺ってくる。 それににっこりと笑って見せたカミューは、 「なるほど、休みなのに忙しかったわけだ。ところでそろそろお昼の時間だ。一緒に昼食でもどうだい?」 と誘いかけ、マイクロトフの眼を丸くさせた。 なるほど、四月一日か。 四月一日といえばエープリルフール。 おおっぴらに嘘がつける、とても素敵な一日だ。 やはりせっかくの行事ごとがあるのなら、その趣旨に則って返礼はすべきだろう。 もともと口が立ち、昔から魅惑の詭弁士だの、辻褄合わせの天使だの、強牽破壊魔王だの好き放題周囲から称されてきたカミューである。 マイクロトフを騙くらかすのなどたやすいことだ。 「タキ殿はああみえて実は五十代半ばなんだそうだ」 「ゲオルク殿は好物はチーズケーキで、いつも携帯されているらしいよ」 「ルカ・ブライトはかなりのシスコンで今回の戦は実は妹のジル殿の教唆によるものだと巷で言われているようだね。『グリンヒルが欲しいの』と強請ったと言われているが、実際は賃借を断られた稀少本目当てだったとか」 「キニスン殿は赤ん坊の頃にシロ殿に拾われて、育てられたと聞いたな」 「知ってるかい? シュウ殿の髪はニナ殿ばりの癖毛で、水に濡らすと癖が戻るんだそうだ。だからそれを隠すために他の人の前では洗髪をしないというもっぱらの噂だよ」 レストランへの道すがら、食事の合間に、とさりげなく会話の中に即興で思いついたもっともらしい嘘を織り込んでいく。 嘘ばかりでは真実味に欠けるので、嘘を六割、真実を二割、そして残りをどちらともつかぬ噂で固めるのがコツだ。 勿論すぐに機嫌を直したら怪しいことこの上ないので、最初は怒っているふりをしながら言葉数少なく。そして「手持ちが少ない」と嘘を吐いて、昼飯代を奢らせる約束を取り付けてからは少し機嫌を直したふりで普通の表情で会話を進める。 やっと険の取れた話し方にほっとした表情を浮かべ、相槌を打ったり合いの手を入れたりするマイクロトフは、何も疑う様子もなく言葉そのままに信じきっているようだった。 それに気を良くしたカミューは、昼下がりのお茶の時間にお気に入りのチョコレート焼き菓子を焼いて持ってきてくれた彼に、午後からずっと考えていた嘘を作戦通り自然な流れで披露する。 そして夕刻にはそろそろ出かけるというマイクロトフに、恋人らしくキスで見送れるほどカミューの機嫌は回復したのだが。 だが、しっぺ返しは思わぬところからやってきた。 食後にお茶でも、いやいや、少し奮発して飲みかけのワインの続きでも飲むかと自室の棚を物色していたカミューは、突然響いた強く忙しいノックの音に顔を上げた。 誰何の問いかけに返ってきたのは、乱暴に開け放たれたドア。 つかつかと入ってきたのは厳しく強ばった表情のマイクロトフだった。 「どうしてあんな嘘をついたんだ?」 開口一番にそう問い詰められ、何がしかの嘘がばれたことをカミューは悟った。 どれかはばれるとは思っていたが、しかしここまで彼が怒るのは予想外だ。 さてどうやって誤魔化したものだか。 これはかなり怒っている。 「なんのことだい、マイクロトフ?」 「なんのことだ、だと? お前の嘘のせいでどれだけ相手にショックを与えたと思ってるんだ!」 思いがけない言葉にカミューの思考は一瞬停止し、それから猛スピードでぐるぐると回転し始める。 一体どれだ? どの嘘のことだ? ゲンゲン殿の毛染めの話か、ハンス殿の鞄の中身の話か、それともビクトール殿のハゲのことだろうか。 どれもさして害にならない、笑い話のような嘘だった筈だが…。 「それともまさか、この期に及んで嘘など吐いてないと白を切る気か、カミュー!」 「いや、確かに嘘はついたけど・・・」 どの嘘かが分からないことには、などと言えず言葉を濁す。 だがそんなカミューを睨めつけたマイクロトフは、 「だったらどうして素直に理由を話さないんだ!! 俺は相手から相談された時は一体なんと言葉を掛けていいか、ほとほと困り果てたんだぞ!! よもやお前が悪意を持ってそんな嘘を言ったとも思いたくない。だが・・・」 と怒りに任せて捲くし立てた。 「ちょっ…、待っ、どれのことだ?」 「どれのことだと?! とぼけるのもいい加減にしろ!」 「いや、だからそう迫られても…」 「数日前に幽霊が出ると脅しただろう」 「へ?」 思いがけぬ方向から飛んできた話に、虚を衝かれる。 「屋上の屋根で昼寝してたら、この辺は昔ネクロードにゾンビにされた住人達が夜な夜な幽霊になって出てくるとお前が話していたが、それは本当なのかと真っ青な顔で問い詰められたぞ。随分と怖がっていたようだったがな」 「ちょっと待ってくれ。確かに言った。言ったがな、別に脅かす気はなかったんだ。単に屋上で遊んでいた小さな子供達を窘めただけのつもりだったんだが」 「しかしチャコ殿は泣きそうになっていたぞ」 それは多分兄貴分のシドがその話に乗じて、脅かしてからかったせいだろう。 自分の話のせいだけとも言えないだろうが、でも確かに罪のないウィングボードの少年を脅かしたのは悪かった。 「分かった、私が悪かったよ。明日にでも彼に謝ってくるとするよ」 そう両手を挙げて、降参の意を表す。 今日の嘘がばれたわけではなかったのだな、と内心ほっとしたカミューだが、その安堵は少々早すぎた。 「ところでカミュー。さっきの『どれのことだ』というのはどういう意味だ?」 不意に口調を改めたマイクロトフは、据わり切った眼でみつめてくる。 「さて…そんなことを言ったかな…」 ハハハ…と乾いた笑いで眼を泳がせると、がしりと肩を掴んだマイクロトフは、 「どれか判別しなければならないほど、たくさん嘘を吐いているということか?」 笑って誤魔化そうとするカミューに詰問する。 「さぁ、どうだったかな。ちょっと記憶が…」 「覚えてないのか?」 「えー…と…」 この体勢は少々まずいのではないだろうか。 両肩に手を掛けられ、やけに至近距離で覗き込んでくる彼からそろりと身を離そうとするが、どうやら遅かったようだ。 「この歳で健忘症になるのはまだ早い。思い出す手助けなら惜しまないぞ」 ぐぐぐと引き寄せられ、じたばた暴れる身体を抱き込められる。 「ちょっと待て、お前、今日、遠征…!」 パニックで単語を羅列するその耳元に、 「喜ばしいことに、本日の遠征は中止だそうだ。ということで、どれだけ時間がかかっても、思い出すまで付き合ってやれるから安心しろ」 ――― それこそ夜中まででもな。 そう含み笑う声で低く告げられ、眼の前が暗くなったカミューは硬直する。 だが鋭く厳しい視線で見詰めるくせに、やけに甘い口付けにうっかり酔って背中を抱きしめてしまえば、その夜の行方など決まったも同然だった。 さらりと密やかな衣擦れの音とともにマイクロトフは身を起こした。 まだ夜も深い部屋の中は、濃い暗闇に包まれている。 肘をついて半身を屈めれば、恋人のすうすうと緩やかな寝息が聞こえた。 さすがに連夜の手加減の無い秘め事は、見た目に反して強靭で健康な彼の体力をかなり消耗させてしまったのだろう。 闇に染められた長い髪の先を指に絡め遊んでも、夜気に冷えた白い鼻頭に口付けても、身じろぎ一つせず規則正しい寝息にも乱れはない。 これで少しは懲りてくれればいいのだが。 苦笑しながらそこだけは仄かに温かい恋人の唇をそっと撫でるマイクロトフは、この唇が昨日嘘を吐くであろうことは予想済みだった。 少年時代からこの方、毎年四月の始まりの日に、彼のささやかな嘘に悩まされるのは恒例のこと。 数年前にそれに気がついてからは、素知らぬ顔でその嘘を信じているふりをしつづけている。 エープリルフールの嘘と切って捨てれば話は早いが、いつも澄ました顔の彼が子供のように楽しげに他愛の無いささやかな嘘を探す姿は思いの他可愛らしくて、咎めだてるのも気が引ける。 とはいえ気取らせないように信じきった顔を作り、それでいていちいちの言葉の真偽を吟味する腹芸は、およそマイクロトフには不得手な分野だ。 だからせいぜいささやかな意趣返しで、一日限りの努力の報酬を頂いていたのだった。 今年も本当は昨夜の逢瀬で清算済みにするつもりだったが、思わず欲をかいてしまったのは予定外に転がり込んできたささやかな口実のせいだ。 例年にない大量の嘘と秤に掛ければ、トントンという気もしなくはないが、きっとそれを告げたらカミューは確実に冗談じゃないと怒り狂うだろう。 だから下手すると命も危ないそんな事実はさらさら告げるつもりはない。 だいたいそんな事を告げなくても、きっと明日の朝はご機嫌斜めの筈なのは間違いないのだから。 さて、どうやって明日の朝の機嫌をとるべきか。 少々やりすぎた自覚のあるマイクロトフは苦く笑って、滑らかな恋人の肩を抱き寄せ小さく欠伸する。 とりあえず遠征自体が嘘だったと露見しないよう、早めに盟主の少年に口止めしておこう。 そう考えながら、嘘吐きな唇を合わせたのだった。 |