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作 曲 家  演 奏 


加 藤 良 一


 

 多田武彦先生からご自身が指揮された「富士山」の入ったMDをいただいた。
 5〜6年前の演奏らしいが、関西学院大学、同志社大学、早稲田大学、慶應大学の東西四連の合同によるものである。おそるおそる再生してみたが、ちょっとしたショックを受けた。なにしろ遅い。とにかくテンポが思いのほか遅い。

 そこで、お礼かたがたさっそく多田先生に質問の電話をした。先生の指揮された「富士山」は、ご自分が書かれた譜面よりもずっとテンポが遅いので驚いたが、あれはどうしたことか、作曲家自身が自分の譜面通りに演奏しないということはどういうことか、と聞いてみた。
 先生のこたえはこうだった。歳をとったせいかいま演奏してみると、昔やったよりなぜかずっと遅くなる。若いころはフィラデルフィアを振ったユージン・オーマンディのようにスピード感のある指揮者が好みだったから、カール・ベームなどはいまいちと思っていたほどだが、年齢とともに速度に対する好みも変るんでしょうかね、などとおっしゃる。
 私にしてみれば、作曲家自身が自分が書いた譜面どおりに演奏しないなどということが、そもそも考えられないこと。それについて多田先生は、そのむかし、清水脩先生に「君、譜面のとおりに忠実にやっていては音楽にならないよ」と言われたことを話してくれた。
 たとえば、落語家がこれなら客にうけるだろうと気負ってやったものがちっともうけず、反対にちょっとこけて、いつもとちがう「間」でやってしまったところ、これが大いにうけてしまった、などということがあるという。つまり台本(楽譜)どおりではなく、“流体芸術”としての生きた噺(演奏)をするとそこには思わぬ新しい発見があり、作家(作曲家)が予想もしなかった素晴らしい噺(音楽)が生れてくる。“流体芸術”とは、音楽や演劇などのように、厳密にいえば二度と同じことが出現しないものを指し、すでにそこにできあがったものとして存在する絵画や彫刻などのように動かない“静体芸術”の対極に位置するものである。

 ここまで話を聞いてすぐに作曲家の高田三郎氏を思い出した。高田氏は、自分の音楽はどこまでも譜面どおりに演奏されることを望んだ作曲家で、自分の目の黒いうちは、譜面にしたがわない演奏を拒否する姿勢をつらぬいた稀有の人でもあるからだ。高田氏のこのような姿勢を同じ作曲家としてどう感じているのか興味があったので、多田先生にそれとなく水を向けてみた。
 先生のお考えは、演奏家が自分の感性にしたがって好きに演奏することで新たな発見があるとすれば、譜面どおりに演奏されなくともそれはそれで抵抗はない、むしろ、“流体芸術”としての音楽のあるべき姿はそのようなものではなかろうか、というものだった。これを私なりに解釈すれば、“流体芸術”はその一回性という特質から、つねに生きたものとして現出されるものであり、つねに真剣勝負の場なのだということになる。モーツアルトの交響曲には演奏の出来の良し悪しがあるが、ゴッホの絵にはそんなことはない。ゴッホはつねにゴッホである。

 さて、多田先生が「富士山」を作曲した若かったころは、たぶんスピード感のある演奏を求めていたのかもしれないが、いまは、またちがった見かた考えかたができるようになったということなのだろう。だから、「富士山」にはどのテンポがもっともふさわしいかという議論は、どうもあまり意味があるようでないといわざるをえない。音楽は一度生れて(出版されて)しまうと、あとは誰がどのように料理するかわかりはしないからだ。
 ジャック・ルーシェがバッハをジャズにしてしまったではないか。グレン・グールドのあのおそろしく遅いモーツアルトのトルコ行進曲はなんだ。
 さて、振り返ってYARO会に目を向けると、指揮をされる小高先生は、あくまでご自分の解釈で独自の「富士山」を演奏されればよいのではないか。
 作曲家はむしろ自分でも気づかなかったような、まだ見ぬ「富士山」が出現することを望んでいるにちがいない。

 

(2003年10月16日)