エッセイ こ と ば

K-27

 悪筆 乱筆 達筆

加藤良一

2011年02月12日

K-26

 落語と音楽のコラボ 死神

加藤良一

2011年01月04日

K-25

 詩を耳で読む

加藤良一

2010年09月08日

K-24

 森は美しく、暗く深い

加藤良一

2009年03月14日

K-23

 語彙の日

加藤良一

2007年05月29日

K-22

 歴程

加藤良一

2007年05月05日

K-21

 漢字喜遊病

加藤良一

2006年06月03日

K-20

 何気に使う“ナニゲニ

加藤良一

2006年03月22日

K-19

 詩集「浮く」 酒井 清

加藤良一

2006年03月18日

K-18

 名文の条件

加藤良一

2005年10月25日

K-17

 混乱するドイツ語新正書法

加藤良一

2005年09月21日

K-16

 文字・活字文化の日

加藤良一

2005年08月25日

K-15

 十八歳未満お断り

加藤良一

2005年04月06日

K-14

 言葉の省略は4モーラで

加藤良一

2005年02月23日

K-13

 テケレッツのパ

加藤良一

2004年10月31日

K-12

 日本人はうるさい

加藤良一

2004年10月06日

K-11

 スポーツは詩にならないか

加藤良一

2004年09月02日

K-10

 詩をつくれば詩人か

加藤良一

2004年05月05日

K-9

 方言潮流 

加藤良一

2003年03月01日

K-8

 ハングル語!?

加藤良一

2002年08月18日

K-7

 どれがホントなのやら

川村修一

2002年04月18日

K-6

 ことばを知らない私たち

川村修一

2002年04月01日

K-5

 ヨネンコクチ???

尾形義秀

2002年03月26日

K-4

 ワープロと手書き

加藤良一

2002年03月23日

K-3

 善悪と好悪

加藤良一

2002年03月23日

K-2

 結果を出す

鈴木 正

2002年03月23日

K-1

 エッセイとはワタクシである

加藤良一

2002年03月23日

ふだん何気なく使っていることばにちょっとだけ意識を向けてみる
しょせん言葉なんて時代とともに変るもの、見方によっては進化しているとも考えられる
だからといって、言葉の本来の姿やありかたを忘れてはならない

推 敲 と は

 唐の時代に賈島(かとう)という人が都長安までの旅に出た。旅の途中詩作を試みていたが、最後の一行を「僧は推す月下の一門」とするか、「僧は敲く月下の一門」とするかについて決めかねていた。手で門をおすまねをしたり、たたくまねをしたりして夢中になって考えているうちに、当時の有名な文章家で、高級官僚だった韓喩(かんゆ)の行列にぶつかってしまった。
 賈島の話しをきいた韓喩は、「敲くのほうにしたらよい」といって、これが縁で二人は無二の親友になったという。それから、「推敲」は文章を練り直すことをいうようになった、とさ。


 


2004年

8月26日 「漢字を忘れはじめたあなたに」(加藤良一)
5月19日 「日本語の大家逝く」(加藤良一)
5月2日 「語学あれこれ」(加藤良一) 5月5日加筆修正

 

2002年

8月18日  「日本語を乱しているのは誰か?」(加藤良一)

 



漢字を忘れはじめたあなたに

加 藤 良 一


 あなたは、ふだん手紙や文書をどんな手段で書いていますか。いまでは手紙を書くことは少ないと思いますが、もし書くとしたら、紙とペンですか、それともワープロですか。もし、いつもワープロでお書きになっているとしたら、たまに手で書こうとして漢字が思い出せない経験をしていませんか。
 加齢現象やもともと漢字を知らない人は別にして、とりあえず昔はスラスラ書けたのに今は駄目になったという人はけっこう多いのではないでしょうか。機械を使うことで文字が書けなくなるという状況は、きっと漢字文化圏に特有のものにちがいありません。なぜならアルファベットをもとにした言語、たとえば英語やイタリア語には、ワープロなどという機械そのものが不要なのです。文字の変換などせず、しゃべったとおりにそのままタイプライターで打てばいいだけです。

 ワープロについて、つい先日亡くなられた金田一春彦さんが面白い見解を示しています。日ごろ、いい加減に文字を書いている人間にとっては、朗報ともいえるものですのでご紹介しましょう。
 金田一春彦さんは、ワープロが盛んになればなるほど若い人が字を書けなくなるかも知れないけれど、しかし、漢字は手で書くときには、それほど正確に書かなくともよい字ではないかといっています。つまり、少しくらいのまちがいなら、あまり気にせずに書いたらよいのではないかというのです。漢字は、かなにくらべて画が混んでいるから書くのも覚えるのもたいへんということもありますが、大体の形でどの字か 見当がつくところに漢字の特色があるはずです。横棒の一本くらい抜けても、それとわかればよいのです。
 そのいい見本がワープロの文字です。よく見ると、画数の多い文字は、けっこう省略されていることがあります。その理由は、あくまでモニター画面に表示するうえでの制約からですが、読むうえではほとんど気になることはありませんし、人によってはそんなふうに省略さてれいることすら気がついていないかもしれません。もちろん、ワープロの文字も紙に打ち出されれば正確な文字になります。当たり前ですが、打ち出した字まで省略されていたのでは使い物になりませんからね。
 昔の人だって、漢字の書き方についてはけっこう怪しかったようです。かの文豪島崎藤村が、自分の全集の口絵に添えた自筆の序文がかなり誤字だらけだったそうで、「陽」「得」「達」の字が一本づつ画が足りなかったという話です。昔は草書や行書で書きましたから、細かいことなどどうでもよかったのでしょう。
 中国の簡略体にならって、めんどうな文字は略してしまうにかぎります。

(2004年8月26日)

 



日本語の大家逝く

金田一春彦さん逝去

             加 藤 良 一

きょう、国語学者の金田一春彦(きんだいちはるひこ)さんが亡くなられた。91歳だった。
 金田一さんは言語学者・金田一京助さんのご長男で、東京大学国文科卒。東京外国語大、京都産業大、上智大教授などを歴任した。日本語アクセントに関する研究の第一人者といわれている。

金田一さんとは以前一度だけお会いしたことがある。それは199012月に埼玉会館で行われた「第2回下総皖一音楽賞授賞式」の記念式典だった。そのとき、われわれ男声合唱団コール・グランツは、女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカとともにこの式典に招待されて演奏した。下総皖一(しもふさかんいち)は、東京芸術大学で教鞭をとるかたわら、「花火」や「たなばたさま」などひろく親しまれている童謡の作曲も手がけた作曲家である。出身地は、埼玉県大利根町という筆者が住む栗橋町の隣り町である。招待演奏をしたのは、当時男声合唱団コール・グランツの指揮をしていた鎌田弘子先生(現顧問)が下総皖一の弟子だった関係からだ。ちなみに作曲家の團伊玖磨も下総皖一に和声学を学んでいる。

この音楽賞でわれわれは何回か演奏しているが、第2回目のゲストとして金田一さんが出席されたとき、レセプションの席ですこしだけお話したことがある。といっても簡単な挨拶くらいではあったが。金田一さんはその当時足の具合が悪かったようで、杖を頼りに歩いていたと記憶している。ひょうひょうとした好々爺という印象だったが、ことばの研究に関しては、ユニークな着想で体系的に展開しながら、けして堅苦しくならず、説得力のある論を主張していた。
 金田一さんの著書は、気楽に楽しみながら日本語を知ることができるので、ワイフとはじめてヨーロッパ旅行をしたとき、長すぎる飛行機の時間のかなりを上下2巻からなる大部の主著「日本語」を読みながら過ごしたものだった。

(2004年5月19日)

 



語学あれこれ

加 藤 良 一


 語学雑誌「基礎ドイツ語」が3月号で休刊となった。以前は月刊誌だったと記憶しているが、いまは隔月刊である。
 昭和6年(1931)創刊という歴史のある雑誌だ。昭和6年といえば、柳条湖で起きた満鉄爆破事件から満州事変が勃発した年である。軍部が台頭しのちに国際連盟脱退へと続く騒然とした時代であり、ドイツとのつながりが強化されようとしていた世相を反映して発刊されたのであろうか。この年、海外ではスペイン革命が起きている。
 医薬学分野において、そのむかしはドイツ語が主流であったがそれも時代の波だろう。いまどきドイツ語を使うことはない。ところで「休刊」とはどんな状態をいうのであろうか。合唱団で団員が辞めた場合、また戻ってきてほしいという願いを込めて休団扱いとするケースがたまにあるが、出版界での「休刊」もこのように未練が残るものにちがいない。 またいつか出版される日が来ることを祈る。

 ドイツ語が消えてゆく中で、いまはハングルが元気がよい。ハングルという言い方は適切ではないが、朝鮮語とするか韓国語とするかで迷うから、つい半端だがハングルといってしまう。ハングルについては別のところで書いてあるので、ここではこれ以上触れない。
 韓国に人気が出ているのは、紛れもなく 「冬のソナタ」 というドラマのお陰であるにちがいない。背が高く、甘いマスクの主人公に対する日本人女性の反応はなかなかのものがある。しかし、どうみてもこの現象は、私にはミーハー的に 映ってしかたがない。騒ぐほど面白いドラマとは思えないからだ。そこで、やっかみ半分にこれをミーバー的と称している。ミーちゃんちゃんが、追っかけ回しているからだ。
 ミーバー的と揶揄するほんとうの理由は、ドラマで展開されている韓国の文化や社会背景の基本的なことも知らずに、ただ恋愛物語として観ているだけだからである。たとえば、婚約者とホテルに泊まることをなぜ非難されるのか、現在の日本ではほとんど気にも留めないような事がらがなぜ問題視されるのか、その理由も知らずに 「なんか変ね?!」 といって画面を眺めている。韓国には、姦通罪なるものが存在し妻の不貞は犯罪になるそうだが、真偽のほどは確かではない。
 また、韓国社会の親や年長者に対する絶対服従は驚くほどである。親の言いなりになる男などわれわれの眼にはマザコンのごとく映ってしまう が、これはひとえに礼儀や道徳を重んじる儒教精神の現われなのである。しかし、韓国の国民すべてが儒教徒なのではない。むしろほとんどは仏教徒で、ほんの一割ほどが儒教徒のようだ。あくまで社会規範として儒教精神が徹底していると捉えるべきであろう。そのような目で 「冬のソナタ」 を観ればだいぶ見方が変るはずだし、ストーリーもすんなり飲み込める。

(2004年5月2日、5月5日加筆修正)

 



 

日本語を乱しているのは誰か?

加 藤 良 一  

 近頃 “日本語が乱れている” という話題が盛んになってきた。
 日本語にかぎらず言葉が乱れるとはどういうことだろうか。言葉の乱れは日本語に特有のものなのだろうか。このテーマは、若者の“言葉の乱れ”を年長者が憂うという構図が一般的であるが、果たして言葉を乱すのは若者なのだろうか。

 じつは個人的には、若者よりむしろ年長者の “言葉の乱れ” のほうが気になってしかたがない。ある意味で若者が言葉(語彙を含めて)をよく知らないのは理解できる。しかし、年長者がきちんとした言葉を使えないことは、かなり大きな問題を含んでいる。若者のあいだで流行るいわゆる “乱れた言葉” は、しょせん一過性のものであり、大部分は消えてなくなる。残るのはほんのわずかである。残ったものは、どこかに一定の普遍性が備わっていたということであり、言葉はこのようにして生成変化していくものであろう。

 『月刊 言語』8月号 (大修館書店)は <日本語は乱れているか!?> と題する特集を組んでいる。副題が、“ことばの変化と価値判断” となっている。

 言葉の乱れを問題にするまえに、「日本語は意欲を失っている」 と、日本人の言語に対する姿勢が消極的になっているとの鳥飼玖美子氏(立教大学)の主張は、よく理解できる。つまり、言語の一大目的であるコミュニケーションが、じつは希薄になっているという。たとえば身の回りにいくらでも見出せる“言葉の短縮化”は、文章が短文と感嘆詞の組み合わせですませられてしまう原因となっている。その結果、筋道を追った議論より 「ウッソー、まじ!?」 でコミュニケーションが終わってしまう。言葉を探し、言葉を使って自己表現して他者との関係性を構築するという作業に対して、はなはだしく意欲がなくなっている。

 また、小林千草氏(成城大学短期大学部)は、言葉の乱れを指摘するにとどまって 「“乱れ” を補う美しいことばが提供されないことこそ “乱れ” です」 と主張する。「ことばの進化は止めれない」 イアン・アーシー氏(翻訳家/作家)、「人類最大の差別たる 『英語』 帝国主義と日本語」 本多勝一氏(ジャーナリスト)、「方言とことばの乱れ─イッコウエの普及─」 井上史雄氏(東京外国語大学)、「〈新・接客表現〉はことばの乱れか変化か」 飯田朝子(中央大学)など、それぞれの著者の立場からさまざまな主張がなされている。
 ふだんからことばに気をとめている方には、これらのタイトルを見ただけで内容がある程度推察できるのではなかろうか。

 小谷野敦氏(東京大学)は、「増殖する誤日本語 『至上命題』 」 のなかで、外来語を日本語に訳さ ずに訳のわからないカタカナを使う風潮を批判している。氏自身は“電子メール”を“電便”というそうだ。全体としての主旨はわかるが、“電便”などといわれるとかえって迷惑する。もうすこし融通がきいてもよいのではないか。

(2002年8月18日)