[ 英米のロックやポップスがかつて好きだった ]                                                     1 .      

                                                                                     
   1966年―1971年 ロックとジャズ


     音楽は、その伝統に基づく形式、リズム、特徴らによってさまざまなものに分けられているが、私が一番好んで聴きたいのは1966年頃から1971年頃までの英国・米国で作られ

  たロック音楽と、それに隣接し連関するその当時のポップス、ソウル、ブルース、カントリー、フォーク、プログレッシヴロックなどの音楽だ。1966年から1971年、私は15歳か

  ら20歳だった。人は、その思春期青春期に触れ得て打ち込み聴いた音楽をその人にとって最上のものといつまでも実感し捉えていくのだろうか、その通り、私も思春期に触れ得た音楽を

  今も好んで聴いている。だが、一方で、次のようにも思う。たまたま私の青春期にかち合って聴いたわけだが、その1960年代末の英米流行音楽というのは非常に質が高く、ポピュラー

  音楽の歴史が最高の達成を示した瞬間の音楽なのだ、19世紀末から20世紀初に誕生したポピュラー音楽は1960年代末に至って一つの頂点の時代を迎えたのだと。それ故聴くのだと。

  さて、英米の流行音楽はその後、残念ながら下降線を辿っていったと思う。1970年代以降、流行音楽は音の一つ一つは洗練されていっても、つなぐ旋律に妙あるものは少なくなり、精

  神的には変革の原動力を欠き、商業主義に侵されつつ次第に生命力をなくしていった、そして、その経過を繰り返し辿り着いているのが現今のポピュラーミュージックの状況なのだと今私

  は解釈している。

 
 
    ロックは、1950年代に流布したR&B(リズム・アンド・ブルース)とそれに伴って誕生したロックンロールのリズムから生まれたと言われる。しかし、最も直接的な契機として

  は1962・3年頃から準備され64年に花開き流行の主役となったイギリスの若者たちの音楽、いわゆるブリティッシュインヴェイジョンの音楽現象と活動に起点を見ることができると

  言うこともできるだろう。60年代初期、他所でもなく特にイギリスの各都市で、若者たちによるバンドの自主的な結成、パブでの演奏、売り込みなどの活動が目立つようになった。その

  若者たちというのは、ロックンロールを子供の頃から聴いて育った世代で、特に音楽を専門に勉強している訳でもないが業界に興味を示しそこで生計を立てられればと考えたような者たち

  だったろう。或いは同時に、純粋に当時の流行音楽に飽き足らず自分たちの音楽を表現したいと思う者もいただろう。そうしてその時期発表された若者たちの曲には共通の特色が見出され

  る。リズムは当時大人たちから嫌われ抑圧されていたロックンロールやブルース、R&Bを基にし、そこにスピード感を加え、調子を少し変化させようとする。メロディラインは最大限に

  配慮され、それに沿って流される歌詞は自作、それを素人っぽいヴォーカルやコーラスで歌い上げる。それらの曲にはもう一つ共通の特徴があった。電気音を全面的に展開していることだ。

  楽器に電気を通すこと自体は以前からありインストゥルグループなどが採用していたろうが、この時期新たに出現したこのブリティッシュの若者たちはドラムの音にも負けないようにギタ

  ー、ベース、鍵盤楽器の音を電気で増幅しかき鳴らす。ライブ演奏では聴衆の歓声をも上回るように。今日電気のないロックは考えられないが、楽器の電気音をリズムと一体となり全面的

  に使い出したのは、この時期のブリティッシュバンドたちが初めてのことではなかったか。当時はロックという言葉はなかった。勢いのある若者の音楽にしても何にしても一律まだポピュ

  ラー、ロックンロールなどと呼んでいたが。ポップスという言葉も日本では70年代になってから使われ始めたのである。


     ブリティッシュインヴェイジョンの後ではそれまでレコード会社主導で作られていた甘いポップスなどは英米とも古臭く、年上のかた向けと感じられるものになってしまった。一方で、

  流行音楽のもう一つのジャンル、アメリカ黒人音楽のほうは英米の黒人、マイノリティーの間に人気が拡がり、この頃からソウルミュージックとして新たな展開を示し始めていた。アメリ

  カでは一年位ブリティッシュに侵攻された状態が続くが、徐々にアメリカ自前の曲も反攻を見せ始める。そこにはアメリカフォーク音楽界からの応援もあった。電気を弱く通したフォーク

  ギターでフォークソングの繊細さを下地に残しながらもロックンロールのエネルギーを推進していくような曲を作る。すぐ後にはフォークロックと呼ばれ出すものである。これらはイギリ

  スでもヒットする。この頃からはヒットチャートを飾る曲に聴きどころのあるものが増え、たとえ30位以下でも優れた曲を見出すことができる。音楽を志す若者、グループは増え、そこ

  には既定の流行音楽を引き継ぐ者もまた否定してから出発する者もいたが、皆従来の流行音楽、民族音楽、伝統音楽等に新しい意味、解釈を加えようということでは同じだった。旧来の流

  行音楽、カントリー、フォークなどの伝承音楽、黒人音楽のほうも変わらざるを得ない。ブリティッシュインヴェイジョン出身のグループも実力ある者たちだけがもはや生き残っていく。

  レコード業界のほうでは、たとえどのような変化があってもそれに合わせ売れ筋の音楽を探求し有望な若者たちと契約しようとしていた。1966・67年頃の一般的状況である。

 
    この頃より2,3年前からの音楽シーンの特徴を言う言葉として「ビート」がある。63年頃以降、若者に支持されるポピュラー曲の大半はビートを打つ或いは刻む系のもので、そう

  でないものは僅かなのだった。皆基本的にベース、ギター、ドラム等でビートを作り打つ中でリズムを整えドライブ感をつけ楽曲に歌詞の意味、情感を折り込んでいく。このスタイルが当

  たり前になっていた。それ故これらの音楽を今日総体的に「ビートミュージック」と呼ぶ人もいる。また、このすぐ後頃からの変化で、音楽の発表媒体としてのレコードのLP盤(アルバ

  ム)の重要性が増し始めたことがある。その背景には、それまでシングル曲を集成したものという趣であったアルバムがアーティストの「コンセプト(考え)」を表現するものへと役割を

  変え始めたことがある。音楽市場が拡大し音楽も変貌していく中、シングルヒットよりも自分たちのやりたい音楽、志向する音楽を追求し残したいというミュージシャンが多くなる。それ

  にはアルバムのほうが適している。また聴き手買い手側にとってもアルバムのほうが長いものを本格的に聴くことができるのである。こうしてアルバムチャートも注目され、いろいろな新

  しい変化を具現したグループがそれぞれに楽曲を提供するようになる68年頃、もはやイギリス、アメリカという境界もなく、英米以外の西側諸国(東西冷戦での)でも英米的な曲が人気

  になり、カナダ、中米などからも若者が参画し、アーティストもいよいよ多彩に出現してくる。その時の多様に見えるスタイルをまとめようとして、いや自然にまとめられたと言おうか、

  ビートの音楽の底流から発達したものとしての「ロック」という概念が次第に醸成され音楽愛好者専門家等の間で統合され意識されていく。その「ロック」という言葉を誰が最初言い始め

  たのか私は知らない。最初はロックンロールの省略語として単に誰かが言っただけの言葉だったのだろうか。言葉の発祥、由来のことは英米ではロックの解説本研究書が沢山出版されてい

  るので調べれば分かると思う。この頃は僅かな期間でもどんどん何かが変化していたように思う。流行の最先端や人気トップグループは3か月で入れ替わっていたような状況で、それでも

  ロックという言葉で括られるものが中心になり主流の太い幹を形成していっていた。


    「赤狩り」(50年代から続く)、「東西冷戦、キューバ危機、核の冬」、「人種差別、非暴力公民権運動」、「ジョン・F・ケネディ大統領暗殺」、「ベトナム軍事介入、戦争」、

  「サム・クックの変死とマルコムXの暗殺」、「ベトナム反戦運動拡大」、「搾取型資本主義批判」、「ブラックパワー」、「ヒッピーの登場、サンフランシスコのフラワームーブメント、

  ラブ・アンド・ピース、サイケデリック」、「キング牧師暗殺、ロバート・ケネディ暗殺」、「五月革命、プラハの春」(アメリカ以外)、「ヘアー、イージーライダー、いちご白書」、

  「ウッドストック」、「オルタモントの悲劇」、「ドラッグ、相次ぐ重要ミュージシャンの死」――まだまだあるが、いずれも音楽とも深く関係した60年代の社会政治的事象のワード。

  60年代後半の音楽を跡づけるにはこれらの事象の背後にあった問題とそれらに音楽がどう向き合っていたかを知らねばならない。この時代、西側諸国はどの国もさまざまな問題を抱えて
  
  いたが、アメリカ合衆国はさらに二つの巨大なジレンマ、難題を抱えていた。黒人の公民権運動、いわゆる人種差別の問題と終わりが見通せなくなったベトナム戦争の問題とである。ベト

  ナム戦死者は増え続け黒人差別解消は白人抵抗層の妨げにより幾らも進んでいない状態だった。それらの矛盾、社会問題に対する黒人、若者たちの批判、抗議の社会運動は日増しに高まっ

  ていく。この時、音楽家たちはその運動に呼応し中でもシンパシーを持つ人たちは積極的に支援していったと言うのだろうか。いや、それでは足りない。当時、音楽と社会政治とは表裏一

  体もっともっと直接に繋がっていたように思う。音楽とは本来愛、平和、自由など希求し謳うものだが、保守体制側がそれに反し差別維持、戦争遂行を押し通しているのだから音楽するこ

  とは自然に反体制側になった。黒人差別の下ではもとより黒人流行音楽は自然に抵抗の音楽になる。自由を求める音楽の性格は本来的に反自由側とは相容れないのである。60年代も押し

  詰まってくると、一向に解決に向かわないそれら社会政治的矛盾に対して黒人たちの怒り、若者たち大学生ら、音楽家の一部らの批判反対運動は言いようもなく高まる。コンサートなどで

  は聴衆がほとんど反体制側で政治集会とコンサートとの区別がつかなくなることがあった。エスカレートした時は取締まり警察との間で暴力、暴動を伴うものも出てくる。ちょうどこの時

  生まれたロックは反体制の「カウンターカルチャー」の象徴の一つのようにも見られた。ポピュラーヒットチャートではメッセージ性の強いもの、愛なら博愛のような広い愛、解放、人権

  を謳うものが入ってくる。さらにそれらのテーマと社会運動と個人との間の関係を深く見つめ掘り下げようとする内省的、思索的なものまで生み出されるようになった。それらの思惟の

  真剣さはこの時期の流行音楽に思想的意味や深まりを与えている。

 
    60年代最終末に向かって、政治の膠着的状況は変わらず社会の亀裂は深まり、しかし進展の展望も描けず手詰まり感は増し、混迷は深く、世の中はいわば政治、社会、文化の総体的

  な混沌に向かって突き進んでいくというような状況になる。その時、流行音楽はもはや流行にもとどまらずいよいよ尖鋭に豊かになっていったというのが私の感想である。アルバムが主体

  の楽曲作りが主流になり一曲は長くなる。その中からポピュラー向けする曲がシングルカットされる。ポピュラー音楽全体に自由な制作、実験、解釈が試みられ、ロックはより多彩にさま

  ざまな方向を目指す。ロックと他分野の音楽とが交錯し融合する形での複合の音楽も出現する。言葉では「〇〇ロック」と呼ばれるものである。例えば「ブルースロック」(ブルース+

  ロック、これは既に60年代半ばから始められていたが)。そのようなロックの変型ないしは他分野との交錯の音楽で「〇〇ロック」と呼称を与えられたものは、例えば「アートロック」、

  「アシッドロック」、「スワンプロック」、「ラテンロック」・・などなど10指で指折っても足りないほど数がある。アーティストたちは熱情溢れるライブ演奏を繰り広げ、スタジオ

  で生み出すアルバムの一つ一つにも成果を上げていった。それにはもちろんアーティスト個々人の才能、努力がおおいに関与している。ロックはそれ自身は単調なリズムなためともすれば

  一本調子になりがちで60年代後期といえど駄作も見られるが、優れた曲についてはその質の高さにおいてこの時代は他より抜き出ていた時代だった。結局、1969年がピークで最高の

  年だったように思う。ポピュラー音楽に変革の潮が押し寄せて引いていった時代の。その後の1970、71年はその引き際の余韻をなぞり残された少しの余白を埋めていく年であった。
 
 
    ただ、いろいろなことを述べても後の知らない世代の人々の間では何が何だかわからない話だろう。私が言う、音楽の質という評価に及ぶ問題は未来のことに属し今はまだ何とも言え

  ない。音楽の評価というものは将来にわたり聴く人が多くなると高くなるだけだと思い直す。さて、ただ、あの時代を振り返ると、私は、リアルタイムでその時代の英米音楽の全てを発表

  されたままに享受し楽しめていた訳ではない。記憶を辿ってみる。その楽曲が作られた直後にリアルに、当時の気運というか流行のままに聴いていたのは(媒体は主にAMラジオで、ヒッ

  トチャートに入った曲ばかりだけれど)中学2、3年生時だけで、その後は諸般事情があり当時のロック、ポップスの勃発、流行、進展からはやむなく離れていて聴くことなく過ごした時

  期が多かった。私事のことで・・恐縮ですが、69年は全共闘運動と連動する学園紛争がありそれにかまけていて音楽を聴くどころではなかった。70年は受験勉強などで楽しむこともで

  きず。71年になって再び音を聴けるようになったが、その時はロックではなくジャズを聴き始めていたのだった。(この項終了。2017.8)



                                 1 .          2 . へ          3 . へ