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第二次世界大戦等の戦争犠牲者数


 先の大戦で犠牲になった人は、正確にはどれほどおられたのだろうか。その人たちは、なぜ、どのようにして命を落とされたのだろうか。この犠牲者等に、国等はどのような対処をしてきたのか、またしているのか。これらの疑問を出発点にして、情報を集めることにしました。社会科の教科書をはじめ、新聞記事、図書館にある本、インターネットのネットサーフィン等を通して、参考になりそうな資料を探しました。ここに載せたものは、孫引きや、孫引きの孫引きの寄せ集めですが、自分なりに新しい発見がいくつもあり、とてもよい勉強になりました。



 第二次世界大戦での主な国の犠牲者数

    国   名      兵  員  の     一般市民の
             死  亡   行方不明  死   亡
   ア メ リ カ     407,828      ―      ―
   イ ギ リ ス     353,652     90,844    60,595
   フ ラ ン ス     166,195      ―    174,620
   ポーランド              (6,000,000)     
   ソ    連            (20,000,000)     
   中    国            (10,000,000)     
   ド  イ  ツ     2,100,000   2,900,000    500,000
   イ タ リ ア     389,000    214,647    179,803

   日    本   約2,300,000           約800,000 (単位 人)

      日本の兵員のうち、朝鮮・台湾の兵員犠牲者、約5万人を含む。
                               (ワールドアルマナック等)

 
 *引用資料から、戦争犠牲者数についての記述、及びそれに関連した記述のいくつかを掲げました。

 日本軍は、首都の南京占領にあたっては、婦女子を含む多数の中国人を殺害し、諸外国に報じられて非難されまし
た(南京事件)。

 ドイツは、…ユダヤ民族の絶滅をめざして強制収容所に連行し、…600万人といわれるユダヤ人を殺害しました。

 朝鮮から約70万人、中国から約4万人を強制的に日本へ連行して鉱山や工場などで働かせました。

 1945年3月、東京は焼夷弾による無差別爆撃を受け、…一夜で約10万人が犠牲になりました。

 連合軍は、1945年3月に沖縄に上陸…。本土防衛のためとして、沖縄では中学生から女学生までを兵士や従軍看護
婦に動員して…にげまどう住民をまきこんで…スパイの疑いで日本軍に殺されたり、集団自決をせまられた人々もい
ました。犠牲者数は、…軍人・軍属(ひめゆり部隊や健児隊に動員された中学生・女学生も含む)に住民を合わせて、
当時の県の人口約42万人のうち12万人以上と推定されています。

 原子爆弾…多数の一般市民が犠牲になりました。その人数は数週間のうちに広島で14万人、長崎で7万人にのぼり
ました。

 約60万人の日本兵が捕虜としてシベリアに長期間抑留され、強制労働によって多くの犠牲者が出ました。

 当時、海外に配置された日本軍は約355万人で、主要な戦場であった満州には約67万人が、中国本土には112万人が
いました。

 この大戦は全世界で約6000万人、アジアで約2000万人にのぼる犠牲者を出し、特に一般市民の犠牲が多数…。


 【参考】第一次世界大戦での主な国の犠牲者数

   国  名     兵 員 (単位 人)
           死  亡  負  傷
   アメリカ    126,000   234,000
   イギリス    908,000  2,090,000
   フランス   1,363,000  4,266,000
   ロ シ ア   1,700,000  4,950,000
   イタリア    650,000   947,000
   ド イ ツ   1,774,000  4,216,000
    オーストリア    1,200,000  3,620,000
   日  本      300     907
         (アメリカ陸軍省調べなど)


 ≪「中学社会<歴史的分野>」(大阪書籍編集部、大阪書籍、
               中学校社会科用 平成13.3.30検定済)から≫

戦 没 者 の 数  
  先の大戦は西太平洋の島々を含むアジア全域に及ぶ広大な戦域において長年にわたって続け  られた苛烈な戦争であった。この戦いにおける国内外の戦没者は軍人軍属、一般邦人合わせて  約310万人といわれている。   これらの戦没者のうち日本本土以外の海外各戦域(硫黄島、沖縄を含む)における戦没者は  約240万人(軍人軍属約210万人、一般邦人約30万人)と公表されている。  主要地域別戦没者数一覧  A 陸海軍人軍属戦没者数一覧     B 軍人・軍属・一般邦人を含む一覧  日 本 本 土    103,900     日 本 本 土    700,000  小  笠  原     15,200  沖     縄     89,400     沖     縄    186,500  朝     鮮     26,500     朝     鮮     53,500  台     湾     39,100     台     湾     41,900  満     州     46,700     満     州    245,400  中 国 本 土    455,700     中 国 本 土    465,700  樺     太     8,800     樺太・千島・アリューシャン   24,400  ア ッ ツ 島     2,600  ソ  連  邦     55,000     ソ  連  邦     54,400  硫  黄  島     20,000     硫  黄  島     21,900  南  鳥  島      857  中部太平洋諸島    197,600     中部太平洋諸島    247,000  マーシャル諸島     7,790  ギルバート諸島     5,214  フ ィ リ ピ ン    498,600     フ ィ リ ピ ン    518,000  仏     印     12,400     仏     印     12,400  マライ ・ シンガポール     11,400     タイ、マレー、シンガポール    21,000  タ     イ     7,000  ビ  ル  マ    164,500     ビ  ル  マ     137,000                     イ  ン  ド     30,000  アンダマン ・ ニコバル     2,400  ジ  ャ  ワ     6,500     蘭印(インドネシア)     31,400  ス マ ト ラ     3,200  セ レ ベ ス     5,500  ボ ル ネ オ     18,000     北 ボ ル ネ オ     12,000  モ ル ツ カ     4,400  小スンダ・西部ニューギニア   82,600     西部ニューギニア(西イリアン)  53,000  東部ニューギニア   127,600     東部ニューギニア   127,600  ビスマルク諸島     30,500     ビスマーク・ソロモン諸島    118,700  ソロモン 諸 島     88,200   総   数    2,123,300(概数)   総   数    3,100,000(概数)                       (うち海外   2,400,000)  備考 1. 本図は、もとの陸海軍人軍属を対象としている。     2. 本図は支那事変関係戦没者188,000人を含む。     3. 国名、地名は、大戦当時のものである。 《Aは、財団法人千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会リーフレットに記載の図中の数値を引用しました。  上の文及びBは、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑創建50年史」((財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会編  H21.3.28発行)12頁に記載の文及び図中の数値を引用しました。》

 地域別 戦没者概数・遺骨送還概数・残存遺骨概数
                       (平成23年8月12日現在)

           戦没者概数  遺骨送還概数  残存遺骨概数
 沖     縄    186,500    186,520       −
 中 国 本 土    465,700    438,470     27,230 
 中 国 東 北 部    245,400     39,180    206,220 (ノモンハンを含む)
 樺 太、千 島 等     24,400     1,720     22,680  
 ロシア(旧ソ連)     54,400     20,660     33,740 (モンゴル含む)
 硫  黄  島     21,900     9,540     12,360 
 中 部 太 平 洋    247,000     72,670    174,330 
 フ ィ リ ピ ン    518,000    148,520    369,480 
 タ イ、マレーシア等     21,000     20,200      800 
 ミ ャ ン マ ー    137,000     91,390     45,610
 イ  ン  ド     30,000     19,940     10,060 
 北 ボ ル ネ オ     12,000     6,910     5,090 
 インドネシア      31,400     11,030     20,370 
 西 イ リ ア ン     53,000     32,950     20,050
 東部ニューギニア    127,600     50,310     77,290 
 ビスマーク・ソロモン諸島    118,700     56,470     62,230  
 その他の地域*     107,800     58,800     49,000
  (*=韓国、北朝鮮、台湾、ベトナム、
  カンボジア、ラオス他)
           2,400,000   1,265,000   1,135,000

  ※沖縄戦没者概数については、沖縄県資料によると188,100となっており、
   遺骨送還概数には沖縄県民による収骨数が含まれる。


 戦没者の遺骨帰還について
 先の大戦における戦没者数は310万人であり、このうち海外における戦没者は約240万人であり、これらの海
外戦没者の遺骨は、軍人等が持ち帰ったもの以外は、海外の戦域に残されたままとなっていた。
  サンフランシスコ平和条約の発効した昭和27年以来、国は、海外の戦没者の遺骨帰還を実施している。
 海外の戦没者の遺骨帰還の現状については以下のとおり。         (平成23年8月12日現在)
   海外戦没者概数                    約240万人
    遺骨帰還概数                     約127万柱
  未帰還遺骨概数                    約113万柱
   うち 海没遺骨                   約30万柱
      相手国の事情(注)により御帰還が困難な遺骨   約23万柱
      御帰還が可能な遺骨(推計)          約61万柱
       (注)国交がない(北朝鮮)、対日感情に配慮する必要がある(中国)など
  (参考)国の遺骨帰還事業による御帰還遺骨数      約33万柱

  《厚生労働省ホームページ 報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ から》

 大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数(引用者簡略版)
                            (厚生省援護局 昭和39.3.1作成)
             陸    軍        海    軍          計
         昭20.8.15  昭12.7.7〜  昭20.8.15  昭12.7.7〜  昭20.8.15  昭12.7.7〜
         現存兵員数  死没者計  現存兵員数  死没者計  現存兵員数  死没者計
日本本土(含周辺)  2,372,700   58,100   1,962,800   45,800   4,335,500  103,900
小 笠 原 諸 島    15,000   2,700     8,600   12,500    23,600   15,200
沖 繩 諸 島    40,900   67,900    11,200   21,500    52,100   89,400
台     湾    128,100   28,500    62,400   10,600    190,500   39,100
朝     鮮    294,200   19,600    41,700   6,900    335,900   26,500
樺太・千島(含アリューシャン) 88,000   8,200     3,000   3,200    91,000   11,400
満     洲    664,000   45,900     1,500    800    665,500   46,700
中国本土(含香港)  1,055,700  435,600    69,200   20,100   1,124,900  455,700
シ ベ リ ヤ       0   52,300       0    400       0   52,700
中部太平洋諸島    48,600   95,800    58,300  151,400    106,900  247,200
フ ィ リ ピ ン    97,300  377,500    29,900  121,100    127,200  498,600
仏 領 印度支那    90,400   7,900     7,800   4,500    98,200   12,400
タ     イ    106,000   6,900     1,500    100    107,500   7,000
ビルマ(含印度)    70,400  163,000     1,100   1,500    71,500  164,500
マライ・シンガポール     84,800   8,500    49,900   2,900    134,700   11,400
アンダマン・ニコバル     10,700    900      600   1,500    11,300   2,400
ス マ ト ラ    59,500   2,700      100    500    59,600   3,200
ジ  ャ  ワ    40,400   2,700     9,700   3,800    50,100   6,500
小 ス ン ダ    17,500   51,800     3,000   1,200    20,500   53,000
ボ ル ネ オ    18,600   11,300    10,900   6,700    29,500   18,000
セ レ ベ ス    17,700   1,500     8,800   4,000    26,500   5,500
モ ル ツ カ    51,900   2,600    19,400   1,800    71,300   4,400
ニューギニヤ     30,200  112,400     3,600   15,200    33,800  127,600
ビスマルク諸島    57,500   19,700    38,900   10,800    96,400   30,500
ソロモン 諸 島    12,300   63,200    12,800   25,000    25,100   88,200
 合   計    5,472,400 1,647,200   2,416,700  473,800   7,889,100 2,121,000

1.本表はもとの陸海軍に属していた軍人および軍属を対象としている。
2.本数字には各地域ともそれぞれの近海域の数が含まれている。
3.本数字には支那事変関係死没者(陸軍181,000人、海軍7,700人)が含まれている。
4.本数字には朝鮮人および台湾人が含まれている。        
5.昭和20.8.15以降死没者数には、戦時死亡宣告により死亡したとみなされた者およびその見込みのある者が含ま
 れている。
6.死没者欄には在郷死者は含まれていない。

  【「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」詳細版】

《「日本の戦争-図解とデータ-」(桑田悦・前原透編著、原書房、1982.10.24発行)及び
 「日本陸海軍事典」(原剛・安岡昭男編、新人物往来社、1997.8.15発行)
  掲載の図から引用しました。》

 満州事変以降の戦没者及び恩給を受ける戦傷病者の概数一覧
                         (昭22、9、末 復員庁)
  区   分            陸 軍   海 軍    計
  戦没者
   満州事変関係           15000     250    15000
   支那事変関係(昭和16.12迄)    165000    4600   170000
   今次戦争 
    終戦前ニ公報発令済ノモノ   230000   130000   360000
    終戦ヨリ昭和22.9末迄ニ
       公報ヲ発令シタモノ   1049000   206000   1255000
    既ニ死没ト推定セラルルガ
    尚今後ノ調査ヲ必要トスル   256000    39000   295000
    モノ(ソ連関係ヲ除ク) 
   計               1715000   380000   2095000
  傷病者
   増加恩給(年金制)ヲ受ケツツ
   アルモノ             53000    5000    58000
   傷病恩金(一時金制)ヲ給セシ
   タモノ             294000    9000   303000

《国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵の画像より引用しました。(原典旧字体)》

 「大東亜戦争終戦に関する資料」
 (昭和20年9月4日から同月6日の第88臨時議会に於て配布された政府作成資料)から

       大東亜戦争中陸軍関係損耗表         (陸軍省)
一、大東亜戦争開始以来の人員損耗
    戦  死      戦  傷     戦  病      備  考
       三一万   一四万六千    四四七万      死亡合計    三五万
   (内玉砕二〇万)           (内戦病死四万)  戦死傷合計   四五万六千
   戦病死  四万                      戦死傷病合計 四九二万六千
    計  三五万
     備考 昭和十六年十二月八日大東亜戦争開戦時保有せし陸軍兵力は一九〇万にして
        終戦時に於ける兵力は約五五〇万なり


      大東亜戦争中海軍関係損耗表       (海軍省) 第一表 大東亜戦争中海軍軍人軍属戦没者一覧表            八月二十八日   同上所在     計    戦没時の官職  現在戦没者数   不明者数   大     将       二      −       二   中     将       九      −       九   少     将      三六      −      三六   大     佐     二五九      −     二五九   中     佐     二五七      一     二五八   少     佐     五〇七      二     五〇九   大     尉   二、一〇七     一八   二、一二五   中     尉   二、〇四四     二四   二、〇六八   少     尉   二、〇八七      二   二、〇八九   候補生予備学生     一六五      −     一六五   見 習 尉 官      二〇      −      二〇       ┌大尉     三〇二      九     三一一   特務士官│中尉     六四八     一〇     六五八       └少尉     九八五     一四     九九九   准  士  官   四、二三六     五四   四、二八九   准士官以上 計  一三、六六四    一三三  一三、七九七   下  士  官  五〇、九三一    五七一  五一、五〇二      兵     九〇、二〇〇    六七七  九〇、八七七   下士官、兵 計 一四一、一三一  一、二四八 一四二、三七九   軍  人  計 一五四、七九五  一、三八一 一五六、一七六   軍     属   二、五二六     四九   二、五七五   軍人、軍属合計 一五七、三二一  一、四三〇 一五八、七五一   (註) 本表中特攻隊戦死者員数左の通り       准士官以上    下士官、兵      計         六六五    一、四〇〇    二、〇六五   本数字は連合艦隊司令長官の全軍布告ありたる者のみにして右の外  尚若干の特攻隊員あり

《「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録・下巻」(外務省編纂,1990.12.23第1刷,山手書房新社発行)  及び「終戦史録」(外務省編纂,S27.5.1,新聞月鑑社発行)から引用しました。原典旧字体縦書き》

 靖国神社戦争別合祀者数
 
    明 治 維 新     7,751(人)
    西 南 戦 争     6,971
    日 清 戦 争     13,619
    台 湾 征 討     1,130
    北 清 事 変     1,256
    日 露 戦 争     88,429
    第一次世界大戦     4,850
    済 南 事 変      185
    満 州 事 変     17,176
    支 那 事 変    191,250
    大 東 亜 戦 争   2,133,915

     合   計    2,466,532

       (靖国神社資料より 2004年10月17日現在)

  日清、日露戦争や第一次、第二次世界大戦で戦死などした軍人らに加え、沖縄戦に動員
 された「ひめゆり学徒隊」の女子学生や従軍看護婦、学童疎開船「対馬丸」の犠牲者が含
 まれる。また、台湾や朝鮮出身の軍人・軍属らも祭られている。七八年十月、東条英機元
 首相らA級戦犯十四人が合祀された。明治維新の功労者として吉田松陰や坂本竜馬らは合
 祀されているが、賊軍の西郷隆盛らは除外された。東京大空襲や、広島、長崎への原爆投
 下で死んだ民間人らは含まれていない。

          ≪中日新聞 2005.8.10朝刊記事「靖国問題の基礎知識」から≫

 第二次世界大戦における人的損害

  国   別          軍     人       一 般 人
           戦死、傷病死       捕虜および 戦争に起因   死者総計
           および収容所  負 傷  行方不明*  する死亡    (推定) *=2)
           での死亡1)
 連合国
  ベ ル ギ ー     12,000               76,000    88,000
  ブ ラ ジ ル      943    4,222                 1,000
  イギリス連邦     373,372   475,047   251,724*   92,673    466,000 *=3)
   オーストラリア    23,365   39,803   32,393          24,000
   カ  ナ  ダ    37,476   53,174   10,888          38,000
   イ  ン  ド    24,338   64,354   91,243 
   ニュージーランド    10,033   19,314   10,582          10,000
   南 ア フ リ カ    6,840   14,363   16,430           7,000
   イ ギ リ ス   264,443   277,077   213,919    92,673*    357,000 *=4)
   諸 植 民 地    6,877    6,972   22,323           7,000
  中     国   1,310,224  1,752,951   115,248              5)
  チェコスロバキア     10,000               215,000    225,000 6)
  デ ン マ ー ク     1,800                2,000*     4,000 *=7)
  フ ラ ン ス    213,324   400,000         350,000    563,000 8)
  ギ リ シ ア     88,300               325,000    413,000 9)
  オ ラ ン ダ     7,900    2,860         200,000    208,000
  ノ ル ウ ェ ー     3,000                7,000    10,000
  ポ ー ラ ン ド    123,178   236,606   420,760  5,675,000   5,800,000 10)
  フ ィ リ ピ ン     27,000               91,000    118,000
  アメリカ合衆国    292,131   671,801   139,709    6,000    298,000 11)
  ソ     連   11,000,000              7,000,000  18,000,000 12)
  ユーゴスラビア    305,000   425,000        1,200,000   1,505,000
 枢軸国
  ブ ル ガ リ ア     10,000               10,000    20,000 13)
  フィンランド      82,000   50,000          2,000    84,000
  ド  イ  ツ   3,500,000  5,000,000  3,400,000   780,000   4,300,000 14)
  ハ ン ガ リ ー    200,000         170,000   290,000    490,000 13)
  イ タ リ ア    242,232   66,000   350,000   152,941    395,000 15)
  日     本   1,300,000*  4,000,000   810,000   672,000   1,972,000 *=16)
  ル ー マ ニ ア    300,000         100,000   200,000    500,000 13)
 
 注 1)普通の死,あるいは自殺者数はできるかぎり除いた
   2)抑留中の死亡者数はできるかぎり除いた
   3)1946年現在行方不明者(一部は死亡と推定される)を含む
   4)この内訳は空襲による死亡60,595,商船乗組員関係30,248,婦人補助部隊624,市民防護団1,206である
   5)中国関係の数字は1946年発表による1937〜45年の国民党政府軍死傷者数を示し,地方軍および共産軍のそれ
    を含まない.一部の統計は戦死220万,一般人死者2,300万と推定しているが信憑性に乏しい
   6)軍人欄は連合国側に立って戦ったもののみを示し,ズデーテンのドイツ人その他ドイツ軍の兵役についたも
    のは含まれない
   7)連合国側に立って勤務した商船乗組員を含む
   8)1939〜40年の戦いにおける戦死者,「自由フランス」のドゴール派の戦死者,1941〜42年にシリア,北アフ
    リカで枢軸軍と戦ったフランス人部隊の戦死者 1,200,1942〜45年にドイツ軍に降伏,再武装して連合軍と
    戦ったフランス軍の戦死者を含む
   9)1946年に発表されたこの数字は過大とみられる.軍人戦死者数に商船乗組員のそれが含まれる
  10)死亡軍人に関する数字は1946年発表のポーランド政府声明から引用したもので,1939年の戦闘,地下抵抗活
    動,イギリス軍およびソ連軍に参加したポーランド人部隊およぴワルシャワ叛乱の際の損害を含む.ユダヤ
    人320万を含む一般人死者数も前述声明を基礎とし,これに人口問題専門家による若干の修正を加えた
  11)軍人死傷数には陸軍地上部隊,同航空隊,海軍,海兵隊および沿岸警備隊のそれを含む.その他,戦闘によ
    らないアメリカ軍人の死者は総数 115,187である.1946年現在死亡または行方不明の一般人の数には商船乗
    組員5,638が含まれる
  12)ソ連軍の損害について入手しうる統計数字はそれぞれの間に大きな開きがある.ベルリンの最高司令部に勤
    務し,1949年に退役したソ連軍の一将校によれば,ソ連軍の損害総数は1,360万,うち850万が戦死ないし行
    方不明,260万が捕虜収容所で死亡,および傷病死者250万であったとし, 一般人死者は推定700万という.
    ドイツではこの数字が広く信ぜられているが,ソ連政府発表を基礎にしたアメリカ側の推定は,ソ連軍戦死
    者を600万から750万としているのが多い.1959年に実施されたソ連の国勢調査に基づく年齢別・性別人口分
    布を基礎にして算定すると,戦死者数はこのソ連軍将校の数字のほうが信憑性があると思われる.同調査は
    第二次世界大戦中に兵役適格年齢の男子が1,500〜2,000万死亡したことを示唆しているからである.表中の
    数字は中間をとった妥協の数字であって,実際の損害は西側にはわからない
  13)断片的な資料に基づく推定
  14)軍人部内に関する推定数は,ドイツ国外から入ってきてドイツ軍に勤務したものを含み,1955年現在ソ連領
    内で行方不明とされている125万のうち約100万はすでに死亡したとの仮定に立つものである.その他ドイツ
    軍人で普通の死をとげたもの,自殺したもの,ないし処刑されたものは25万に達すると思われる.民間人に
    関する数字はドイツとオーストリアのみに限定し,反撃に転じたソ連軍の進攻,および戦後ポーランドに復
    帰した東部諸州への強制移住に伴う1944〜46年のドイツ人死者推定2,384,000は含まれない
  15)死者数にはイタリア政府が1952年に発表した行方不明者数(軍人131,419,一般人3,651)を含むが,普通の
    死ないし自殺による死亡軍人49,144を含まない. 戦闘行為による戦死者は110,823と判明しており,行方不
    明者を除外した死亡軍人数は,総計159,957である. そのうち92,767は1943年の休戦協定締結前の数字で,
    67,190はそれ以前のものである
  16)1949年現在ソ連領内で行方不明になっているものの約半数は死亡したと推定され,これを加えると全死者数
    は160万となる.この推定死亡者のうち,約30万は直接戦闘と関係のない死因と思われるので除いてある


 第一次世界大戦における動員兵力と人的損害
                                         動員兵力に対
   国    別   動員兵力  死  者  負 傷 者 捕虜および 人的損害の する人的損害
                             行方不明者 合計    の比率(%)
 連合国側
  ロ  シ  ア  12,000,000  1,700,000  4,950,000  2,500,000  9,150,000   76.3
  フ ラ ン ス   8,410,000  1,357,800  4,266,000   537,000  6,160,800   73.3
  イ ギ リ ス   8,904,467   908,371  2,090,212   191,652  3,190,235   35.8
  イ タ リ ア  5,615,000   650,000   947,000   600,000  2,197,000   39.1
  アメリカ合衆国   4,355,000   116,516   204,002    4,500   325,018    8.1
  日     本    800,000     300     907      3    1,210    0.2
  ル ー マ ニ ア    750,000   335,706   120,000   80,000   535,706   71.4
  セ ル ビ ア    707,343   45,000   133,148   152,958   331,106   46.8
  ベ ル ギ ー    267,000   13,716   44,686   34,659   93,061   34.9
  ギ リ シ ア    230,000    5,000   21,000    1,000   27,000   11.7
  ポ ル ト ガ ル    100,000    7,222   13,751   12,319   33,291   33.3
  モンテネグロ     50,000    3,000   10,000    7,000   20,000   40.0
   小    計   42,188.810  5,142,631 12,800,706  4,121,090 22,064,427   52.3
 同盟国側
  ド  イ  ツ  11,000,000  1,773,700  4,216,058   1,152,800  7,142,558   64.9
  オーストリア=ハンガリー   7,800,000  1,200,000  3,620,000  2,200,000  7,020,000   90.0
  ト  ル  コ   2,850,000   325,000   400,000   250,000   975,000   34.2
  ブ ル ガ リ ア   1,200,000   87,500   152,390   27,029   266,919   22.2
   小    計   22,850,000  3,386,200  8,388,448  3,629,829 15,404,477   67.4

 合      計  65,038,810  8,528,831 21,189,154  7,750,919 37,468,904   57.5
 〈アメリカ合衆国陸軍省の報告(1924年2月)による。ただし、アメリカ合衆国分については1957年11月に国防省の修正を受けている。〉

                          《『ブリタニカ国際大百科事典』から》

 連合国、枢軸国および中立国(アルファベット順)
 連合国 アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ、チリ、中国、コロンビア、
     コスタリカ、キューバ、チェコスロバキア、デンマーク、ドミニカ、エクアドル、エジプト、
     エチオピア、フランス、ギリシア、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、イラン、イラク、
     レバノン、リベリア、ルクセンブルク、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、
     ノルウェー、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポーランド、エルサルバドル、
     サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦、アメリカ、ソ連、イギリス、ウルグアイ、
     ベネズエラ、ユーゴスラビア
 枢軸国 ブルガリア、フィンランド、ドイツ、ハンガリー、イタリア、日本、ルーマニア、タイ
 中立国 アフガニスタン、アイルランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス


 第2次世界大戦における人的被害
 国名       兵員                 一般市民  合計
          死亡    負傷    行方不明
 ア メ リ カ   314,094   668,653   151,597         1,134,344
 イ ギ リ ス    353,652   475,070   90,844    60,595   980,161 (1)
 フ ラ ン ス   166,195   408,895          174,620   749,710
 ソ     連  13,600,000               7,000,000  20,600,000 (2)
 ポ ー ラ ン ド   597,320               5,000,000  5,597,320
 ユーゴスラビア  1,685,000                     1,685,000
 オーストリア                              700,000
 チェコスロバキア                            500,000
 中     国  1,310,224  1,752,591   115,248         3,178,063
 ド  イ  ツ  2,100,000  4,000,000  2,900,000    500,000  9,500,000 (3)
 イ タ リ ア   389,000         214,647    179,803   783,450
 日     本  1,174,474  4,616,000    1,483    672,000  6,463,857
          (1,555,308)        (309,402)   (668,315)       (4)
                                   56,460,000 (5)

 注:The World Almanac(1949年)による。(1)イギリス連邦諸国を含む。(2)ソビエト連邦の概数は W.Schumann/
   G.Hass(hrsg.)Deutschland im Zweiten Weltkrieg Bd.6による。(3)ドイツ軍の戦死、行方不明の75%は東
   部戦線。(4)日本の(  )内数は経済安定本部「太平洋戦争によるわが国の被害総合報告書」(1949年)による。
   (5)1945年11月21日バチカン教皇庁が発表した累計による


 両次世界大戦の比較(表1)
       第1次(1914〜18年)  第2次(1939〜45年)
  交戦国    36         61
  動員兵力   70(百万)     110(百万)
  戦死者    10(百万)      50(百万)
  戦傷者    20(百万)      35(百万)
  直接戦費  208(十億ドル)    1,117(十億ドル)

 第2次世界大戦におけるソ連の被害概数(表2)
  都市            1,710
  村            70,000
  住宅               66(百万u)
  工場           31,800
  鉱山            1,138
  コルホーズ、ソフホーズ  99,876
  機械・トラクターセンター  2,890
  橋            13,000
  鉄道           65,000(km)

 注:(表1)(表2)ともに W.Schumann/G.Hass(hrsg.)Deutschland im Zweiten Weltkrieg Bd.6 Akademie Verlag,
   Berlin (Ost.),1985年による

                                  《『日本大百科全書』(小学館)から》

 近代における戦争の死傷者と戦費

  第二次大戦推定死傷者数・直接戦費
                     推定死傷者数(人)
    国   名           死者及び        直接戦費
              最大兵力  行方不明  負  傷  (単位100万ドル)
   連合国
   オーストラリア      680,000      37,637      25,856      12,544
   ベ ル ギ ー      800,000      22,651      14,500       7,905
   ブ ラ ジ ル      200,000         975       4,222          …
   カ  ナ  ダ      780,000      42,666      53,145      25,131
   中     国    5,000,000   1,500,000   2,000,000      51,348
   チェコスロバキア      180,000       6,683       8,017          …
   デ ン マ ー ク       15,000       6,400          …       3,000
   フ ラ ン ス    5,000,000     245,000     390,000     139,091
   ギ リ シ ャ      414,000      17,024      47,290          …
   イ  ン  ド    2,150,000      48,674      65,174       6,003
   オ ラ ン ダ      500,000     230,177          …      12,032
   ニュージーランド      157,000      10,764      19,345       3,200
   ノ ル ウ ェ ー       25,000       1,598         364       1,240
   ポ ー ラ ン ド    1,000,000     550,000     320,000          …
   南 ア フ リ カ      140,000       9,500      15,000       2,692
   ソ     連   12,500.000   6,115,000  14,012,000     116,266
   イ ギ リ ス    4,683,000     403,105     369,267      62,233
   ア メ リ カ   16,112,566     545,108     670,846     312,803
   ユーゴスラビア      500,000     305,000     425,000          …
      計      50,836,566  10,098,052  18,440,026     755,488

   枢軸国
   オーストリア       800,000     220,000     300,000          …
   ブ ル ガ リ ア      450,000      18,500      19,000          …
   フィンランド       250,000      76,893          …          …
   ド  イ  ツ    9,200,000   3,250,000   7,250,000     265,420
   ハ ン ガ リ ー      350,000     147,435      89,313          …
   イ タ リ ア    4,000,000     380,000     225,000      26,440
   日     本    6,095,000   2,565,878     326,000      51,590
   ル ー マ ニ ア      600,000      73,000      49,000          …
      計      21,745,000   6,731,706   8,258,313     343,450

    総   計    72,581,566  16,829,758  26,698,339   1,098,938

              (出所:Collier's Encyclopedia vol.23,1963)



 日清・日露戦争死傷者数、直接戦費等

  日清戦争(明治27年8月〜28年4月)

    日 本 軍 の 損 害       清 国 軍 の 損 害
   (1) 人  員
     戦死・戦傷死    1,567名   損失の細部は不明
     病   死    12,081名   日本軍が捕獲したものは
     変   死       176名   兵員1,790名、火砲592門その他である
       計      13,824名
     戦   傷     3,973名
     戦傷による
      服 役 免 除    3,794名
      合 計     17,282名
   (2) 軍   馬    11,532頭
   (3) 戦  費   233,400,000円

 
  日露戦争(明治37年2月〜38年10月)

    日 本 軍 の 損 害       露 国 軍 の 損 害
   (1) 人  員            人  員     約115,000名
     死亡及び服役免除者       軍事費      約218,000万円以上
             約118,000名  日本側で収容した捕虜その他は次のとおり
     そ の 他   約 2,000名    捕   虜     79,454名
   (2) 軍   馬   約 38,050頭    捕 獲 馬     3,983頭
   (3) 艦   船      91隻    軍   旗       3
     軍   艦      12隻    火   砲      953門
     水雷艇、仮装砲艦、閉塞船     小 銃 等    140,904丁
                25隻    撃沈又は捕獲艦船   98隻
     輸送船等       54隻    抑留又は武装解除艦船  7隻
   (4) 戦  費  1,826,290,000円
 
 (資料源)「明治27.28年戦没統計」「明治27.28年海戦史」「明治37.38年戦没統計」
     「明治37.38年海戦史」「昭和財政史(第4巻)=大蔵省昭和財政史編集室」
     「国防大事典」(昭和7年)



 ベトナム紛争と朝鮮戦争における米軍兵力、死傷者数、戦費の比較

              ベ ト ナ ム 紛 争        朝 鮮 戦 争

  現 地 米 軍            543,400人       327,000人
           (44.4月末現在従来のピーク)       (ピーク時)

  周辺地域の      (44.4月末)  730,000人       472,000人
  関連米軍を   第7艦隊(35,000人)┓           (ピーク時)
   含む場合   在 タ イ(48,000人)┃
  (ピーク時)   在  比(30,000人)┃を含む
          在 沖 縄(50,000人)┃
          在グアム(15,000人)┛

   米軍死傷者   (47.11.30サイゴン米軍司令部発表)
          死  者      56,201人        33,629人
          負  傷     3,035,534人       103,284人
               (36.1.1〜47.11.23)

  米 軍 総 数       (ピーク時) 335万人        360万人
               (44.11.30現在)         (ピーク時)

  年 間 戦 費   1965会計年度  1.03億ドル(見積)
          1966  〃   58.12 〃
          1967  〃   201.33 〃
          1968  〃   265.47 〃
          1969  〃   288.05 〃         平均60億ドル
          1970  〃   230.52 〃
          1971  〃   147.19 〃
          1972  〃   90.76 〃 (見積)
          1973  〃   60.19 〃 (見積)



 イラン・イラク戦争の軍事費、死傷者数

     イ  ラ  ン         イ  ラ  ク
   (1)軍 事 費  493億ドル    (1)軍 事 費  901億ドル
   (2)外国借款   34億ドル    (2)外国借款  850億ドル
   (3)死傷者数(推定)        (3)死傷者数(推定)
      死 者   25万人       死 者   10万人
      負傷者   50万人       負傷者   15万人
  (資料源) 1988.8.10付 読売新聞



       ≪「防衛ハンドブック(平成4年版)」(H4.3.31 朝雲新聞社)から≫


 大戦の死傷者数 1939−45

     ■戦死者  ▲民間人の死者  ●多数の民間人の収容者  *相当の被害を受けた都市,1939−45年

 中国(満州を含む) ■ 1,324,000(1000万人まで)  *南京
 オーストラリア  ■  29,395  ●日系およびイタリア系市民
 ニュージーランド  ■  12,162
 イ  ン  ド  ■  36,092
 カ  ナ  ダ  ■  39,319
 アメリカ合衆国  ■  292,100  ●日系市民
 日     本  ■ 1,506,000  ▲  300,000  *東京、神戸、広島、長崎
 南アフリカ連邦  ■   8,681
 ブ ラ ジ ル  ■    943
 ポ ー ラ ン ド  ■  850,000(連合国軍として 169,822人)  ▲ 5,778,000  *ワルシャワ
 ノ ル ウ ェ ー  ■   4,780(商船の乗組員を含む)
 デ ン マ ー ク  ■   4,339
 イ ギ リ ス  ■  271,311  ▲  60,595  ●ドイツ系新移民  *ロンドン、コヴェントリー
 オ ラ ン ダ  ■  13,700  ▲  236,300  *ロッテルダム
 ベ ル ギ ー  ■   9,561  ▲  75,000
 フ ラ ン ス  ■  210,671  ▲  173,260  *カーン
 ユーゴスラヴィア  ■▲1,700,000
 ギ リ シ ャ  ■  16,357  ▲  155,300
 ソヴィエト連邦  ■約1450万人(約 950万人は東部戦線で、そのうち 300万人は戦争捕虜として、約 200万人は
          極東戦線で)  ▲ 700万人以上 ●「国家の敵」、ソ連西部の新しく獲得された領土の人々
          *レニングラード、キエフ、ハリコフ、スターリングラード、セヴァストポリ、ケーニヒスベルグ
          (約550万人のソ連人捕虜が東部戦線で収容される。約100万人は解放された後、ソ連軍に殺害
          される。約80万人はナチスに協力し死を免れる。)
 ス ペ イ ン  ■   4,500(枢軸国側) 7,500(連合国側)  ■▲10,000(強制収容所で)
 ド  イ  ツ  ■ 2,850,000  ▲ 2,300,000  ●「国家の敵」、ユダヤ人、ジプシー、共産主義者、同性愛者
          *ベルリン、ドレスデン、ハンブルグ、ブレーメン、ハノーファー、ドルトムント、
           デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、ヴュルツブルグ、ミュンヘン
 イ タ リ ア  ■  279,820(連合国軍として17,400人)  ▲93,000  ●共産主義者、反ファシスト
          *ミラノ、ジェノヴァ、ボローニャ
 オーストリア   ■  380,000  ▲  145,000
 ハ ン ガ リ ー  ■▲ 750,000
 ル ー マ ニ ア  ■  519,822  ▲  465,000
 ブ ル ガ リ ア  ■  18,500  ▲   1,500  *プロイエシュティ
 フィンランド   ■  79,047


 民間人が直接攻撃を受けた国 (殺された人口の割合…☆10%以上 ◇5−10% △1−5%)

 中国、満州、朝鮮、日本、フィリピン諸島、イギリス領北ボルネオ、オランダ領東インド諸島、サラワク、
 マレー、ニューギニア、シリア、イラク、アルジェリア、リビア、イギリス領ソマリランド、
 イタリア領ソマリランド、エリトリア、ジブチ、エチオピア、マダガスカル島

 ソヴィエト連邦☆、ポーランド☆、ユーゴスラヴィア☆、ドイツ◇、オーストリア◇、ギリシア◇、
 フィンランド△、ノルウェー△、イギリス△、オランダ△、フランス△、ハンガリー△、ルーマニア△、ほか


 死傷者数
 第2次世界大戦における死者数は史上最高であった。第2次大戦では、スターリングラード、ノルマンディー、ベ
ルリンの戦闘のような、第1次大戦での最悪の戦闘に匹敵する激戦が数多く行なわれた。また、この戦争では戦場以
外でもきわめて大量の死者が出た。それをもたらしたものは、一般市民への直接爆撃、攻囲戦による欠乏状態(レニ
ングラードでは1941年11月から1944年1月までに50万人以上の市民が死亡した)、農業や食糧供給の破壊、ユーゴス
ラヴィアだけでも 1941年から1945年の間に 100万人以上の住民が失われたような、 ゲリラ戦での大量殺戮と報復攻
撃、1945年だけで 200万人のドイツ人の命を奪った逃亡や強制退去、1942年から1945年までに 600万人の死者を出し
たヨーロッパ系ユダヤ人――とくにポーランドに居住する――の組織的抹殺であった。
 西側連合国に対する枢軸国の戦闘では、捕虜や負傷者、非戦闘員の人道的取り扱いを保障するジュネーヴ協定の遵
守が義務づけられた。連合国側の手に落ちた枢軸国の捕虜は、多くが食料の豊富な北アメリカやアフリカの収容所に
送られたので、とくによい処遇を受けた。枢軸国側の手にあった連合国の捕虜の処遇はそれほどよくなかったが、ほ
とんどは正しい取り扱いを受けた。ただし、戦争終結時に、解放軍の進軍から引き離すために、多くが強制的な行進
を強いられた。日本軍の手にあった西側の捕虜は、半飢餓状態におかれたり、科学実験の被験者にされたり、強制労
働や爆撃目標に近い収容所に監禁されるなど、さまざまな虐待を受けた。ドイツの収容所にいたソ連軍捕虜は何百万
人も死んだ。初めは施設に対して収容人員が圧倒的に多かったためであったが、後には多くが意図的に、死ぬまで働
かされるか、餓死するよう放置された。ソ連は1943年まで、捕虜の扱いに関する規則を取り入れなかった。ソ連は約
200万人のドイツ人を捕えた。 ソ連軍にも欠乏があったので、ソ連の捕虜取り扱いはひいき目に見てもいい加減なも
のであった。1945年8月の日本の降伏以前には、連合国の捕えた日本人捕虜はごくわずかであった。日本人は最後の
一人まで戦う決意で、ほとんどが捕虜としての辱めを受けるよりは自決を選んだ。しかし、ソ連は、1945年8〜9月
に 100万人を超える日本人捕虜を得たが、その多くは再び帰国できなかった。
 捕虜取り扱いの監視は、スイスに本部のある国際赤十字が行なった。赤十字の代表はドイツや連合国の捕虜収容所
視察を許されており、戦争前には制限付きではあったが、強制収容所の視察も許可されていた。しかし、日本とソ連
の両国は、一貫して視察団を拒否し続けた。
 1941年以降、すべての交戦国は、人口の集中する大都市への攻撃についての制限を放棄した。このことは、ヨーロ
ッパの都市を襲った惨状を見るだけでも明らかである。ローマとパリだけはその文化的重要性のため名目上の解放都
市と宣言された。しかし、ワルシャワは退却するドイツ軍によって、(1944年11〜12月)完全に破壊された。大規模
な都市爆撃によって、 ドイツで60万人、日本で50万人、イギリスで60万人の市民が犠牲となった。 また、ポーラン
ド、フランス、イタリア、ベルギー、オランダでも爆撃によりかなりの死者を出した。しかし、交戦国でも統治機構
が無傷であった国では、第1次世界大戦中同盟国を悩ませた窮乏や伝染病による死傷者を出すことはなかった。効率
のよい配給や医療制度によって、ドイツや西ヨーロッパ諸国の市民の健康は良好に保たれた。アメリカでは戦争によ
る市民の死傷者はほとんどなかった。ソ連、東ヨーロッパ、南ヨーロッパや中国では、戦争による市民の死者数はき
わめて多かった。中国で日本軍に殺された人数を1000万人としている統計もいくつかある。
 ゲリラ戦、内乱、人口の強制移動、これらは1939年から1945年に東ヨーロッパや南ヨーロッパの国々を、1937年以
降は中国の広範な地域を悩ませ多くの人命が失われた。枢軸国の占領に対するレジスタンス運動の激しかったギリシ
アでは、14万人の戦死者数のうち12万人あまりが報復、党派間の戦い、虐殺、国外追放による犠牲者であった。ソ連
の1100万人の民間死者数のほとんどは直接の圧制や戦争による窮乏の犠牲者であった。しかし第2次世界大戦中、最
も多くの死者を出した単一の原因は、ドイツ国防軍とソ連軍との間の戦争であった。この戦争で少なくとも1100万人
の兵士が戦死し、2500万人が負傷したが、そのほとんどがソ連兵であった。

 戦死者の総数は厳密な計算と矛盾するが、通常、全世界で4000万人から5000万人の間と推定されている。第2次大
戦は、第1次世界大戦と異なり、空襲や略奪、虐待、意図的な虐殺などによって直接、膨大な数の民間人の死者を出
したが、その数は戦闘での死者数に匹敵した。 軍人と民間人の両方の戦死者は、 アジアよりもヨーロッパの方が多
く、また、西よりも東ヨーロッパの方が多かった。これは東ヨーロッパでの戦闘の残虐性を示している。赤軍は戦闘
で1150万人ちかくの死者を出した。さらに 300万人のソ連兵士はドイツの捕虜として死んだ。ドイツ国防軍は 300万
人ほど、日本は 150万人の、戦闘における死者を出した。西側連合国の戦死者の最高総数は、イギリス軍約25万人、
米軍約30万人、そしてフランス軍約20万人であった。民間人の死者数が最も多いのは、ソ連( 700万人以上、ほとん
どが非ロシア人)、中国(数百万人、しかし未確認)、および60万人が空襲で死に、 200万人近くが1945年の東から
の引き揚げの際に死んだドイツ人であった。個々の国では、ポーランドが、戦前の人口の18パーセントにあたる 600
万人の国民を失い、最悪の被害を受けた。そのうちのほとんど半数がユダヤ人で、ヨーロッパ中で、 600万人のユダ
ヤ人が、戦争中のナチによる意図的な政策によって殺された。戦時中の捕虜で最も多数であったのは、ドイツ軍によ
るソ連兵捕虜であった。捕えられた 500万人のソ連兵捕虜のうち、 400万人が死んだが、そのうち 300万人はドイツ
軍の管理下で死んだ。残りの 100万人は、1945年以降ソ連に帰る途中の強制労働収容所で死んだと考えられている。
約 100万人のフランス人捕虜は、1940年から1945年の間、ドイツに捕えられていた。何十万人ものイギリス、アメリ
カ、イタリア(1943年以降)、ポーランド兵捕虜や他の国籍の兵士もまた、ドイツ本国内のあちこちに配置された収
容所に捕えられていた。 1939年には、約20万人のポーランド兵がソ連の捕虜となった。 1万5000人の将校が姿を消
し、4500人ほどの将校が、カティンで虐殺された。1945年には約1000万人のドイツ兵と 600万人の日本兵が連合国の
捕虜となった。東洋では、6万1OOO人を超えるイギリス、オーストラリア、オランダ兵が、1941〜42年の日本の東南
アジアにおける開戦時の作戦で捕虜となり、そのうち1万2000人が、ビルマ鉄道建設のために、現地の奴隷労働者と
ともに働かされ、死亡した。1942年にマレーで捕えられた4万5000人のインド兵のうち、4万人ちかくが、インド人
民族主義者、サッバス・チャンドラ・ポースによって設立され、日本の援助を受けたインド国民軍に参加することに
同意した。

    《「第二次世界大戦歴史地図」(ジョン・キーガン編 滝田毅ほか訳 1994.10.5発行 原書房 P204-205)より》

 アジア太平洋戦争におけるアジア諸地域の戦争被害
                    (死者、経済的・物的損害額、日本が獲得した資源)

 地   域     死亡者(人)  損害額($) 日本が獲得した鉱産資源/食料など

日     本   3,100,000以上 

朝     鮮   約200,000      不詳  鉄鉱石/米/大麻
中     国   10,000,000以上  5,000億  (中国本土)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、タングステン
                        /小麦/綿花、大麻 
                        (「満州国」)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト
                        /小麦、大豆、とうもろこし、羊毛/大麻
台     湾     30,000余     不詳  米、砂糖
フ ィ リ ピ ン  約1,110,000  58億5,000万  鉄鉱石、クローム、銅、マンガン/砂糖/マニラ麻、コプラ
ベ ト ナ ム  約2,000,000      不詳  石炭、タングステン/米、とうもろこし/ジュート
タ     イ     不詳      不詳  錫/米
ビ  ル  マ   約150,000      不詳  タングステン、ニッケル、石油、鉛、亜鉛
                        /米、落花生、とうもろこし/ジュート
マレーシア・シンガポール    100,000以上    不詳  錫、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン/ゴム
インドネシア   約4,000,000     数十億  石油、ボーキサイト、ニッケル、石炭、錫
                        /砂糖、とうもろこし/ゴム、キニーネ、コプラ
イ  ン  ド  約1,500,000      不詳
オーストラリア     17,744      不詳

連合軍将兵・
民間人・捕虜    約6万数千 (オーストラリアの死者のうち約8,000と重複)

 合   計   日本を除く死者:1,900万人以上

 人的・物的被害は、原則として政府の公式発表の数字(「アジア太平洋戦争の被害」『世界』1994年2月号所収)。
 日本が獲得した資源は、岡部牧夫「『大東亜共栄圏』その資源・日本軍の加害と被害」(『週刊朝日百科・日本の
 歴史』第119号、1988.7.31)による。


 表に掲げた数字は、原則として戦後における各国政府の公式発表、公式文書に記されたものである。各国の死亡者
は、日本軍による抗日ゲリラ「討伐」による犠牲者、連合軍との戦闘に巻き込まれたもの、日本による資源の開発・
収奪にともなう強制労働に起因するもの、日本軍の「現地自活」「現地調達」のための食糧徴発(住民の食糧不足)
がまねいた病死・餓死が含まれている。
 ベトナムの約二百万人といわれる死者の大部分は、日本軍による食料収奪と飢饉による病死者・餓死者であるとさ
れている。インドの死亡者は、直接、日本軍によるものとはいえないが、戦争にともなう食料不足(ベンガル飢餓)
によるものである。インドネシアでも、膨大な数の「ロームシャ」の徴用と日本軍の「現地自活」にともなう食料不
足のための犠牲者は、四百万人におよぶとされている。「兵補」として戦場にかり出された人々からも犠牲者がでて
いる。
 マレーシア・シンガポールでの犠牲者の多くは、 日本軍による抗日勢力「粛清」によるものである。 英領マレー
(現マレーシア)では、中国系の住民に対して日本軍は、中国本土でおこなったのと同じように、ゲリラ討伐を口実
に村落ごと殲滅する作戦を各所でおこなった。シンガポールでの反日・抗日派に対する「大検証」(逮捕・虐殺)も、
日本軍がアジアの人々を敵にした隠すことのできない事件の一つである。
 フィリピンにおける犠牲者も、日本軍と米軍との戦闘に巻き込まれた(とりわけ一九四五年一月〜三月のマニラ攻
防戦で一般市民十万人が死亡したといわれている)だけでなく、 日本軍による「治安粛清」 すなわちゲリラ討伐に
よって殺害された人々が多数ふくまれている。


 *引用資料から、戦争犠牲者数やそれに関連した記述のいくつかを、要約して記しました。

 南京大虐殺〈南京アトロシティーズ(残虐事件)〉
 1937.12.13の日本軍の南京占領時及びその後の約二ヶ月間にわたって、捕虜や住民の虐殺、強姦、放火、略奪など
の残虐行為が続けられた。現在では十数万人から二十万人が虐殺されたという見解が主流。中国側は三十万人が虐殺
されたという見解。

 重慶無差別爆撃
 1939年から41年まで、三次にわたって行われた重慶に対する無差別・戦略爆撃による犠牲者は、中国の発表によれ
ば、死者一万九千人、負傷者一万四千人に達したとされている。

 三光作戦
 日本軍による、住民殺戮、破壊、略奪を目的にした燼滅・粛清作戦〈殺光=殺し尽くす、焼光=焼き尽くす、搶光
=奪い尽くす〉。主に華北の中国共産党・八路軍の抗日根拠地に対して行われた。作戦命令の中で、「敵及土民を仮
想する敵」と「敵性ありと認むる住民中十五歳以上六十歳迄の男子」は「殺戮」すること、敵が隠匿したり集積して
いる武器弾薬や糧秣などは「押収」するか 「焼却」すること、 「敵性部落」は「焼却破壊」することが指示され、
「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存するに能はざるに至らしむ」ことが意図された。大量の毒ガス
兵器も使用された。抗日根拠地の「無人区」化が図られた。1941年から42年にかけて、華北の抗日根拠地とされた地
域の人口は、四千万人から二千五百万人に減少したと見られている。

 シンガポール・マレー半島の華僑虐殺
 1942. 2.15、日本軍はマレー半島全土を占領。その直後、第二五軍司令官山下奉文は、シンガポール、後にマレー
半島全域の華僑粛清命令を出した。「敵性」と断じた者は直ちに処刑せよと。シンガポールでは四〜五万人が虐殺さ
れたとされている。マレー半島では数万から十万人にのぼると見られている。

 フィリピンの住民虐殺
 ゲリラ討伐の名目で粛清作戦が実施された。大規模な虐殺は、戦争末期、米軍が上陸し日本軍が追い詰められる中
で起こっている。村人を子供から老人まで皆殺しにした。フィリピンの日本軍による虐殺の犠牲者数は数十万人にの
ぼると見られるが、一部を除いてほとんど調査もされていない。

 泰緬鉄道
 1942年6月着工、翌年10月完成の415キロに及ぶ鉄道。建設に多くの連合軍捕虜やアジア人ロームシャを動員した。
イギリス、オーストラリア、オランダ人などの捕虜五万五千人(または六万二千人)が投入された。一万二千〜三千人
の捕虜が犠牲になった。ビルマ、タイ、マレー半島、ジャワなどから二十万人以上と言われるロームシャを連れてき
た。アジア人のロームシャの犠牲者は少なく見積もっても四万二千人(日本軍側の見積もり)、イギリスの史料では約
七万四千人と推定されている。


              ≪「キーワード日本の戦争犯罪」(1995.6.20発行 雄山閣)から≫

 虐殺事件の犠牲者数

「事件名」    (事件の年月日)      ◆犠牲者      ★加害者       出典・参考資料等┐
「朝鮮東学党掃討作戦」(1894.8月〜1895.3月)◆党農民、戦闘で6000人、処刑5600人、5万人の説あり★日韓両軍 T
「旅順虐殺事件」(1894年11月21日〜25日) ◆2千〜2万人                   ★日本陸軍 T
「三・一運動武力鎮圧」(1919年3月1日〜) ◆集会参加民衆等52,000人殺傷、46,900人余検挙   ★日本官憲 U
「尼港事件」(1920年5月25日)◆(シベリア出兵)捕虜であった日本軍将兵・居留民383名虐殺★ソビエトパルチザン U
「朝鮮人虐殺事件」(1923年)◆関東大震災後、在日朝鮮人6000余人、中国人200余人、日本人数十人★民衆(自警団) V
「霧社事件」(1930.10.28)◆日本人約140人殺害/先住民約千人の死者 ★先住民族蜂起/台湾総督府軍隊警察鎮圧 U
「平頂山事件」(1932年9月16日) ◆中国人住民400〜3000名を殺害、集落を焼払い     ★日本軍守備隊 TV
「通州事件」(1937年7月27日) ◆日本軍守備隊・居留民117名、朝鮮人居留民106名を殺害  ★冀東政権保安隊 V
「陽高事件」(1937年9月) ◆中国人350〜500名虐殺                      ★関東軍  T
「香港戦における英軍捕虜処分」(1941年12月18日)◆香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件 T
「バリスト・スロン捕虜殺害事件」(1942年1月22日) ◆捕虜150名処刑                   T
「アレクサンドラ病院事件」(1942年2月14日) ◆英軍軍医、看護婦、患者を200名殺害      ★日本軍  T
「シンガポール華人虐殺」(1942年2月18日)◆占領後華人を虐殺、5000人(日本資料)、4〜5万人(現地)★日本軍  V
「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」(1942年2月) ◆豪陸軍看護婦20名殺害             ★日本兵  T
「ラハ事件」(1942年2月) ◆捕虜約200人を殺害                       ★日本軍  T
「バターン死の行進」(1942年4月)◆降伏米比軍7万人を徒歩行軍、米兵2330人を含む7千-1万人行進中死亡★日本軍U
「マキン島米捕虜の処刑」(1942年8月) ◆米海兵隊員9名を処刑                ★日本軍  T
「廠窖虐殺事件」(1943年5月9日〜12日) ◆3日間に中国の軍民3万人余りを殺害        ★日本軍  W
「ポンナチャック事件」(1943年10月〜1944年1月) ◆住民4000〜2万人検挙粛清               T
「捕虜洋上処分」                                           T
    (1943年3月16日) 駆逐艦秋風、移送中の外国人抑留者約60名全員を洋上で処刑
    (1943年12月14日) 呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
    (1944年2月22日) 伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
    (1944年3月26日) 伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
    (1944年3月29日) 伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
    (1944年3月)   重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。
    (1944年7月2日)  伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
「トラック病院の捕虜生体解剖事件」(1944年2〜7月) ◆米兵捕虜8名を生体切開等              T
「メリッソ村民虐殺事件」(1944年7月15日) ◆村民46人虐殺                        T
「ティンブンケ事件」(1944年7月) ◆村民約100名集団殺害                        T
「ババル島事件」(1944年10月〜11月) ◆住民704名虐殺                  ★日本軍守備隊 T
「パラワン島米兵捕虜殺害事件」(1944年12月13日) ◆米軍捕虜150名を処刑                 T
「父島人肉食事件」(1945年2月) ◆撃墜された米兵8名を捕らえ処刑の後食べた               T
「マニラ市街戦での虐殺事件」(1945年2月) ◆多数の民間人が虐殺された
    聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。 T
「サンダカン死の行進」(1945年2月〜6月) ◆英豪捕虜2000人の大部分が飢えと病気のため死亡        T
「石垣島事件」(1945年4月15日) ◆米兵捕虜3名処刑                           T
「ランソン事件」(1945年3月) ◆仏兵捕虜を処刑                             T
「九州大医学部生体解剖事件」(1945年5月17日〜6月2日) ◆米兵捕虜8名を生体実験             T
「ヤルート島民処刑事件」(1945年5月) ◆島民21名を殺害                  ★陸海軍将校 T
「花岡事件」(1945年6月30日) ◆中国人労務者100人が拷問後処刑        ★警察、自警団、鹿島組等 T
「カラゴン事件」(1945年7月) ◆村民600名を集団殺害                    ★日本軍  T
「オーシャン島住民殺害事件」(1945年8月19日) ◆島民140名を銃殺                    T
「通化事件」(1946年2月3日)◆蜂起の鎮圧後に行われた虐殺事件、日本人3000人が虐殺された ★中国共産党軍等 X

 出典・参考資料等
 T:「世界戦争犯罪事典」(秦郁彦監修 文藝春秋 2002年)
 U:「ブリタニカ国際大百科事典」
 V:「角川日本史辞典」
 W: 中国通信配信記事
 X: ウィキペディアフリー百科事典等から

 【参考】第二次世界大戦後の戦争・内戦等の犠牲者数

 朝鮮戦争
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の間で1950年6月に始まった紛争で、およそ300万人が命を
落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し、また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は
目まぐるしく変化した末、戦争は1953年7月、決定打のないまま終結した。
 …この戦争で、およそ 130万人の韓国人(その多くは民間人)が死亡し、中国人の死者は 100万人、北朝鮮人は50
万人、アメリカ人は約 5万4000人が死亡したほか、連合軍側ではイギリス人、オーストラリア人、トルコ人の犠牲者
も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり、韓国の工業施設の大半が被害を受け、北朝
鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。          《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 ベトナム戦争(第2次ベトナム戦争…1964年8月のトンキン湾事件を契機としたアメリカ軍機による
         北ベトナム報復爆撃から、1975年4月30日の解放勢力サイゴン無血入場まで)
 …戦争による人的損害は、死者がアメリカ 5万8000人(うち戦闘による死者 4万7000人)、南ベトナム18万5000人、
北ベトナム90万人、負傷者がアメリカ30万3000人、南ベトナム50〜57万人、北の負傷者は不明。このほか南北ベトナ
ムで 100万人以上の民間の死者が出、さらに無数の難民を生み出した。また爆撃や枯葉剤散布などによる国土の荒廃
も著しい。                             《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 ビアフラ戦争
 ナイジェリア連邦共和国の東部州の分離、独立をめぐる戦争。 同州は1967年5月30日ビアフラ共和国として…独立
を宣言。同年7月6日連邦政府軍は…進撃、内戦となった。 …70年1月15日…終息した。この間、ビアフラ側の死者は
餓死、戦死を含めて約200万人で、「人類史上まれにみる悲劇」として世界の関心を集めた。
                                  《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 ポル・ポト政権
 カンボジア人民党の…ポル・ポト書記長が率いた政権。 1976年4月民主カンプチア政権を樹立。…恐怖政治で国民
を弾圧したため約120万人の国民が死亡。…79年1月ヴェトナム軍の侵攻により政権は崩壊。
                                       《「角川世界史事典」より》

ネットサーフィンを通して、戦争犠牲者数に関する記事を掲載しているホームページを探し
ました。参考になったもの、考えさせられたものを、いくつか引用しました。

 

【日本人の戦争犠牲者数】
 延べ1000万人の兵士が戦争に参加し、失われた兵士数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万の人命が失われ
た。焼失住宅戸数は310万戸、戦費2200億円と云われている。
 太平洋戦争における日本側の死者の数字
  ・陸軍戦死者数:約144万人
  ・海軍戦死者数:約 42万人
  ・軍属    :約  9万5千人
  ・一般国民  :約 69万人
  ・合計    :約250万人

【本土爆撃の実態】
 建設省が57年刊行した「戦災復興史」によると、全国の被災地は215都市 計約645平方キロメートル、犠牲者は47年
1月結成の全国戦災都市連盟が113都市を調べた分だけで51万人、被災人口は964万人に達していた。
 当初は、飛行機製作所、軍需工場が専ら狙われたが、45.3.10の東京大空襲以降は、中低空で大量の焼夷弾を投下
し市街地を焼き尽くす無差別爆撃が始まった。東京は45.3.10の東京大空襲で約27万戸を焼き、約8万4千人が死亡し
た。

  <1,000人以上の死者を出した都市一覧表>(全国戦災都市連盟調査)  
    都市  死者数      都市  死者数      都市  死者数      都市  死者数 
   広 島 260,000     東 京  94,225     長 崎  74,604     大 阪  10,388  
   名古屋  7,802     神 戸  6,235     横 浜  4,616     浜 松  3,239  
   鹿児島  2,427     富 山  2,275     呉    2,062     堺    1,876  
   青 森  1,767     岡 山  1,737     静 岡  1,603     福 井  1,600  
   津    1,600     明 石  1,464     高 松  1,316     大牟田  1,291  
   日 立  1,266     千 葉  1,173     長 岡  1,167     八 幡  1,130  
   和歌山  1,101     佐世保  1,030      
                                  ≪れんだいこさんのホームページから≫



【日中戦争における中国人の戦争犠牲者数】
1946年8月、東京裁判で、中華民国の軍政部長 何応欽 が提出した戦死者数は、130万人。(死亡が確認された軍人
だけの数…131万9千人)。
1978年、中華民国(台湾)政府発表、軍人の死亡132万人、行方不明13万人、民間の死者578万人。(軍民の死者 723万
人)。 
1989年、中華人民共和国政府発表、死亡932万。(これに行方不明289万人、負傷者947万人を合わせて、死傷者2168
万人というのが、江沢民発言前の中国政府公式発表)
1995年、江沢民主席がモスクワで、軍民の死傷者の数は、3500万人と述べた。
                                       ≪掲示板への書き込みから≫



【日本軍戦死者について】
 一橋大学名誉教授藤原彰氏の調査によると、アジア太平洋戦争における戦死230万人の内、その約六割、約140万人
が「餓死」だったということです。
 その出典である『餓死した英霊たち』(藤原彰著 青木書店) を紹介したホームページの記述(平井純一氏による)を
引用します。

 ここでいう「餓死」とは、栄養失調による「不完全飢餓」によって病気に対する抵抗力を失った結果としての戦病
死をもふくむ広義の規定である。
 アジア太平洋戦争における「餓死」の実態について、 著者は ガダルカナル島、ニューギニア、インパール作戦、
「孤島」の置き去り部隊、フィリピン戦、中国戦線について、公刊戦史や厚生省援護局などの資料に基づき、日本軍
戦死者のうちの「餓死」の比率を推定している。
 「ガダルカナル島の場合、方面軍司令官は死者2万、戦死5千、餓死1万5千と述べている。ブーゲンビル島では、タ
ロキナ戦以後の死者約2万はほとんど餓死であったと推察される。 …ソロモン諸島の死没者の四分の三にあたる 6万
6千名が餓死したと考えられる」。
 「厚生省の調査では、東ニューギニアの戦没者は12万7千6百となっている。各部隊の報告や回想では、いずれも死
者の九割以上が餓死だったとしている。仮に九割として計算すると、実に11万4840名が餓死したことになる」。
 インパール作戦をふくむビルマ方面軍でも死者の78%、14万5千人かそれ以上が餓死者であったと推定される。 中
部太平洋では、マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアン、ベリリューなどの諸島では日本軍は上
陸した米軍と戦って「玉砕」したが、米軍にとって不必要なために無視され、戦線の背後に取り残されたため、補給
も途絶え、餓死の運命が待ち受けていた島も多い。著者は中部太平洋の諸島全体を見たとき、戦死者と餓死者の割合
は半々と見ている。つまりここでは12万以上が病死・餓死していたと見られる。
 アジア太平洋戦争の戦場別で、日本軍が最も多くの死者を出したのは50万人に上ったフィリピン戦線であった。こ
こでは八割の40万人が餓死と推定される。1937年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く
45万5千7百である。その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三〜四割を占め
る。とりわけ最も多くの犠牲者を出した1944年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。著者はこれらの例から、
中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって22万以上としている。
 こうした地域別調査を集計した結果、著者は「戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で 1,276,240名
に達し、全体の戦没者2,121,000名の60%強という割合になる。これを77年以後の戦没軍人軍属230万という総数に対
して換算すると、そのうちの 140万前後が戦病死者、すなわちそのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけ
ている。
                                   ≪書店書籍紹介のホームページから≫


                       
 
 真珠湾奇襲攻撃の人的損害
  アメリカ陸・海軍合わせて
   戦死・行方不明・戦傷後死亡 2,402名
   戦傷者          2,382名、
   合計           4,784名(103名の民間人を含む)
  日本側損失…飛行機29機、搭乗員54名、及び特殊潜航艇5隻、9名
                       《「図説 太平洋戦争」(1995 池田清編 河出書房新社)から》


 真珠湾奇襲(1941.12.7(米国日付))の犠牲者
  アメリカ海軍及び陸軍の将兵 3,300名
  住民              68名
            《「記録写真 太平洋戦争」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)から》





 ガダルカナル島争奪戦(1942.8.2〜1943.2.7) 
   (太平洋戦争で、日本に対してアメリカが初めて勝利をとげた離島作戦)
         投入     戦死者
  アメリカ軍 約七万名   約二千名
  日本軍   約三万六千名 約二万四千名 (1万2千人の日本軍の生存者が撤退)
           《「記録写真 太平洋戦争」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)等から》





 アッツ島守備隊の玉砕

 アッツ島守備隊(山崎保代大佐以下2638名)
 昭和17年6月   アッツ島に上陸、行軍32Km、10時間ほどでチチャコブ(熱田湾)に到達、全島を制圧した。
          飛行場建設が任務であったが、米軍による爆撃や輸送船攻撃等により、輸送や補給が断た
          れ、守備隊は孤立状態に陥っていった。
 昭和18年 5月12日、米軍、アッツ島に上陸(1万人あまり)。
          守備隊は、電報で、援軍(1500人程)、物資補給等を求めたが、結局、大本営は見捨てた。
      5月23日、守備隊あてに、玉砕命令が発せられた。
          「…最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮することを望む」と。
          それ以後、負傷兵には自決(できなければ射殺)、ほかには突撃が命じられた。
      5月29日深夜、生き残っていた百人あまりが、最後の突撃を敢行した。
      5月30日、大本営は、NHKラジオで、「守備隊自ら玉砕した」と発表した。
          アッツ島守備隊の2638名は、軍神として奉られた。これをきっかけに、全滅を玉砕と美化
          し、玉砕の頻発を招き、一般国民にも死を求めていくようになっていった。
          戦後、捕虜となっていた27名が帰還した。
            《NHKテレビ番組 NHKスペシャル『玉砕 隠された真実』(2010.8.12放送)から》





 サイパン島で亡くなられた人々

 サイパン島には、昭和19年6月当時、日本軍は、陸軍28,518名、海軍15,164名、総計43,682名(いず
れも推定)の将兵がいた。 このほか、本土引き揚げに間に合わなかった二万名前後の一般邦人と約四
千名の現地住民もいた。ここに、6月15日より、米軍が上陸し、その将兵は六万二千名を数えた。
                  《「図説 太平洋戦争」(1995 池田清編 河出書房新社)から》

 昭和19年6月15日,米軍がサイパン島へ上陸してきた時には日本軍は既に制海権,制空権を失
っており,大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行
われたため,7月7日に日本軍が玉砕するまでに,陸海軍の約4万3千人と在留邦人の1万2千人の
命が失われました。軍人を始め,当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲
しみはいかばかりであったかと計り知れないものがあります。この戦闘では米軍にも3,500人近
い戦死者があり,また900人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では
朝鮮半島出身の人々も命を落としています。
             《平成17年12月19日、天皇陛下の記者会見(宮内庁ホームページ)から》





 テニアン島

 テニアン島には、南洋興発株式会社(社長松江春次)の募集に応じた移民として、太平洋戦争開戦当
時約13,000人の日本人居留民がおり、当時の日本のサトウキビ生産の重要な拠点になっていた。併せ
て日本軍の基地が置かれており、開戦後兵員は増強され、米軍上陸時には、陸軍4,000、海軍4,000、
計8,000人となっていた。 そこに居留民から組織された義勇隊3,500人(居留民の各世帯から男性1人
が徴用され、弾運び等に従事させられた)が加わり、米軍上陸を迎えた。昭和19年7月24日、4万
人の米軍が上陸した。この戦闘により、日本軍は玉砕し、居留民は3,500人以上が命を落とした。
        《NHKテレビ番組「シリーズ証言記録、市民たちの戦争」(2009.8.19放送)から》





 硫黄島  昭和20年2月19日〜3月26日
        戦死者数   (死傷者数)  投入兵士数
  日本陸海軍 2万129人  約2万1千人  約2万2千人
  米軍     約7千人  約2万8千人  約9万7千人
            《「記録写真 太平洋戦争」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)から》





 玉砕に至った守備隊

 昭和17年 パサブア(ブナ地区)守備隊(12/8)
 昭和18年 ブナ守備隊(1/2) アッツ島守備隊(5/29) マキン守備隊(11/23) タラワ守備隊(11/25) 
 昭和19年 ルオット守備隊(2/2) ナムル守備隊(2/3) クェゼリン守備隊(2/5) エニウェトク守備隊(2/22)
      エンチャビ守備隊,エニウェトク守備隊(2/23) ロスネグロス守備隊(5/6) ワクデ島守備隊(5/26)
      ビアク島守備隊(7/2) サイパン守備隊(7/7) テニアン守備隊(8/2) グアム守備隊(8/11)
      拉孟守備隊(9/7) 騰越守備隊(9/13) アンガウル守備隊(10/19) ペリリュー守備隊(11/23)
 昭和20年 硫黄島守備隊(3/25) ラブアン守備隊(6/20頃)

             《「国際NPO 日本國戦死者遺体収容団」のホームページを参考に作成しました。》





 マニラ市街戦 (1945年2月3日〜3月3日)

  死者  日本軍     16,555人
      米軍       1,010人
      フィリピン人 100,000人  〈米軍公刊戦史より〉
   《NHKテレビ番組「証言記録 マニラ市街戦 ―死者12万 焦土への一ヶ月―」(2007.8.16放送)から》





 沖縄での犠牲者

   沖縄は1941年から始まった太平洋戦争の激戦地となり、国内で唯一悲惨な地上戦が行わ
  れた場所です。犠牲者数はアメリカ軍約1万2500人、沖縄出身者を含む日本軍約9万4000人、
  沖縄の住民約9万4000人とされていますが、正確な住民の犠牲者数はわかっていません。
                          (沖縄修学旅行情報専門サイトから)


 沖縄戦戦没者数
  日本側            188,136名
  ├ 本土出身軍人        65,908名
  └ 沖縄出身         122,228名
    ├ 軍人軍属        28,228名
    ├ 戦闘参加住民      57,004名
    └ 一般住民        36,956名
  米軍側             12,520名
  総 計            200,656名
   (『沖縄県の福祉』沖縄県生活福祉部援護課発行・平成元年版)


 沖縄戦の戦没者と沖縄県民の犠牲
  日本軍将兵           94,136人
  ├ 他府県出身者        65,908人
  └ 沖縄出身者         28,228人(防衛隊員を含む)
  沖縄県民で戦闘協力者      55,246人
  民間の沖縄県民         94,754人
   総     数       244,136人
                  (琉球政府援護課 1953年)


 「平和の礎」刻銘者数出身地別一覧
  日本 沖縄県         148,384
     県外           75,516
  外国 米国(USA)         14,007
     英国(UK)           82
     台湾             28
     朝鮮民主主義人民共和国    82
     大韓民国          309
   合      計      238,408
           (2002年6月23日現在)
                   《上2点「図説 沖縄の戦い」(2003 森山康平編 河出書房新社)から》


 沖縄島作戦におけるアメリカ人将兵の人的損害
                 投 入   死傷者   戦 死
   アメリカ陸軍及び海兵部隊 183,000名  39,420名  7,520名
   アメリカ艦船上の海軍          9,731名  4,907名
                                        (その大半は神風特攻隊の体当り命中によるもの)
            《「記録写真 太平洋戦争」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)から》





 死者数(推計)
  ガダルカナル島  21,900人   アッツ島      2,600人
  ニューギニア  176,000人   グアム島     20,000人
  サイパン島    55,000人   ビルマ・インド 167,000人
  フィリピン   518,000人   硫黄島      21,900人
  沖縄      186,500人   本土空襲    500,000人
  日中戦争を含む今時大戦死者総数 310万人(推計)
     《TBSテレビドラマ「日米開戦と東條英機−あの戦争は何だったのか−」('08.12.24放送)から》





 第二次世界大戦における日米両国の諸統計

  日米両軍の兵力人員
  国  別   ア メ リ カ 合 衆 国 ※      日      本
  時  期   1941年12月  1945年7月    1941年12月  1945年8月
 陸   軍    1,332,000    5,924,000      2,100,000    5,710,000
 空   軍      354,000    2,262,000     (陸軍、海軍各航空部隊に含まる)
 海   軍      380,000    3,410,000        291,359    1,663,223
 海 兵 隊       75,000      477,000     (海軍陸戦隊に含まる)
 沿岸監視隊       28,000      171,000     (陸海軍に含まる)
 合   計    2,169,000   12,244,000      2,391,359    7,373,223
          ※印は欧亜全戦線の総兵力を示す。

  日米両軍の死傷者
  国  別   ア メ リ カ 合 衆 国 ※      日      本
        戦 死  戦 傷  合 計   戦 死  戦 傷  合 計
 陸   軍  41,686   109,425   151,111    1,289,605   53,028  1,342,633
  └(陸軍航空部隊を含む)
 海   軍  31,485    31,701    63,186      298,209    7,844    306,053
  └(沿岸監視隊を含む)
 海 兵 隊  19,733    67,207    86,940
 総   計  92,904   208,333   301,237    1,587,814   60,872  1,648,686
            《「記録写真 太平洋戦争」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)から》


 特攻隊員の戦死者

 終戦までに特攻で戦死した隊員総数は海軍2506人、陸軍1404人に達したとされ
る。そのほとんどが沖縄戦での戦死者である。
        《「大日本帝国の戦争2・太平洋戦争」(1999 毎日新聞社)から》



 回天搭乗員・戦没者
 搭乗員はすべて志願によった。一般兵科からも募ったが中途で打切られ、殆どが
兵学校・機関学校・予備学生・生徒・甲乙飛行予科練習生であった。年齢も十七歳
から高齢者で二十八歳、大多数は二十歳前後の若者であった。概要は表の通りで、
戦没者数には終戦直後自決した士官二名が含まれている。なお、回天作戦に参加し
未帰還の潜水艦八隻、その乗組員は八一〇名である。

     出   身    搭乗員  戦没者
   海軍兵学校       89   19
   海軍機関学校      32   12
   学徒出身       210   26
   一般兵科         9    9
   甲種飛行予科練習生  935   40
   乙種飛行予科練習生  100    0
       計     1375  106
       (全国回天会のパンフレットより)
《山岡荘八著 秘録小説 人間魚雷『回天』(発行者 大隈要之助 善本社 2004)から》



  2009年08月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

  海軍
    海軍航空特攻隊員       2,531名
    特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員   440名
    回天特攻隊員           104名
    震洋特攻隊員         1,081名
      合   計        4,156名

   陸軍
    陸軍航空特攻隊員       1,417名
    丹羽戦車特攻隊員           9名
    陸軍海上挺身隊員(マルレ)    263名
      合   計        1,689名

     …陸海軍の合計      5,845名
            《中日新聞読者センターへの照会に対する回答から》


         大東亜戦争開始以来一般空襲被害の概況
                                         (内務省)

一、死傷者及建築物の被害
 死傷者及建築物の被害は別表の通にして目下調査中に属する府県あるも現在迄に判明せる資料によれば之
 が被害の総計は
     死     者     二四一、三〇九名
     負  傷  者     三一三、〇四一名
     家屋の全焼全壊   二、三三三、三八八戸
     家屋の半焼半壊     一一〇、九二八戸
     罹  災  者   八、〇四五、〇九四名
 罹災者は無傷者の意にして之に負傷者三一三、〇四一名を合するときは罹災者総計実に八、三五八、一三五
 名に達す
二、空襲被害比較的大ならざる府県
 京都、奈良、滋賀、長野、山形、秋田、石川、鳥取、島根の九府県なり
三、市制施行地にして比較的大なる被害を受けたる都市
 全国(沖縄、樺太を除く)市制施行地二〇六都市中比較的大なる被害を受けたるは左の八十一都市にして其
 の焼失、全壊戸数は全国市制施行都市家屋の約三割強に及ぶ
 東京都三十五区、八王子市、立川市、大阪市、堺市、布施市、岸和田市、吹田市、豊中市、横浜市、川
 崎市、小田原市、平塚市、神戸市、尼ヶ崎市、明石市、西宮市、芦屋市、長崎市、佐世保市、大村市、
 長岡市、熊谷市、前橋市、高崎市、伊勢崎市、千葉市、銚子市、水戸市、日立市、宇都宮市、津市、宇
 治山田市、名古屋市、一宮市、岡崎市、豊橋市、静岡市、浜松市、清水市、沼津市、甲府市、岐阜市、
 大垣市、仙台市、塩釜市、平市、郡山市、釜石市、宮古市、青森市、八戸市、福井市、敦賀市、富山市、
 岡山市、広島市、呉市、福山市、下関市、岩国市、宇部市、徳山市、和歌山市、徳島市、高松市、松山
 市、宇和島市、高岡市、福岡市、門司市、小倉市、大牟田市、八幡市、久留米市、大分市、佐賀市、熊
 本市、川内市、延岡市、鹿児島市
四、被害を受けたる府県庁舎
 東京、兵庫、長崎、青森、福井、岡山、広島、徳島、香川、高知、大分、熊本、鹿児島の各府県
五、新型爆弾に依る被害状況
 1、広島市
  死   者         約 七万名
  負 傷 者         約十三万名
  家屋全焼全壊        約六万二千戸
  家屋半焼半壊        約 一万戸
  羅 災 者         約十万名(死傷者を含まず)
 2、長崎市
  死     者       約二万名
  負  傷  者       約五万名
  家屋の全焼全壊       約二万戸
  家屋の半焼半壊       約二万五千戸
  罹  災  者       約十万名(死傷者を含まず)

  大東亜戦争開始以来八月十五日迄の空襲被害調
道都府県名    死 者   傷 者   全焼壊   半焼壊    罹災者  備考
 北海道      796     553    2,030     750    13,950   ◎
 東 京     88,250    62,106   851,166    8,217   2,578,150
 京 都      227     576     203     260     1,390
 大 阪     13,192   26,814   328,702   12,310   1,023,036
 神奈川     6,242   15,028   144,926    1,762    440,064
 兵 庫     10,404   20,325   160,354   10,575    512,875   ◎
 長 崎     21,501   51,580   33,360   25,200    204,960   ◎
 新 潟      869    2,109   11,336     188    45,696
 埼 玉      528    1,068    5,598     346    23,776
 群 馬      974    1,445   14,626     668    61,176
 千 葉     1,478    1,855   21,103     786    87,556
 茨 城     1,901    2,508   23,364    2,131    101,990   ◎
 栃 木      670    1,361   11,357     248    46,420
 奈 良       73     242     100     40      560
 三 重     2,040    3,783   26,236    2,084    113,280   ◎
 愛 知     11,243   14,451   168,180   15,154    550,000
 静 岡     5,707   11,946   74,618    8,292    290,200
 山 梨      929    1,401   18,518     202    75,000
 滋 賀       59     237     52     33      400
 岐 阜      787     662   23,906    1,581    89,130   ◎
 長 野       37     54     62     28      350
 宮 城     1,175    1,959     672     111    35,300
 福 島      500     561    1,509     418     8,700
 岩 手      620     655    4,337     134    20,120   ◎
 青 森      828    1,050   15,103     350    77,265   ◎
 山 形       18     33      5     ─      30
 秋 田      123     126     94     87      830
 福 井      917    1,879   27,350     480    139,150   ◎
 石 川       3     71     ─     ─      ─
 富 山     2,258    3,864   22,796     379    92,700
 鳥 取       80     92     31     23      250
 島 根       8     21     12     46      300   ◎
 岡 山     1,744     945   25,781     538    131,600   ◎
 広 島     49,921   58,839   95,537    6,952    359,000
 山 口     3,799    3,665   19,449    1,821    74,500
 和歌山     1,992    5,609   29,650    1,224    123,510
 徳 島      939     971   18,242     492    84,300   ◎
 香 川      752    2,610   18,892     322    86,400   ◎
 愛 媛      515     757   14,536     765    68,850   ◎
 高 知      433    1,162   13,270     579    62,300   ◎
 福 岡     2,094    2,852   48,321    2,030    176,230   ◎
 大 分      603     989    3,340    1,279    18,350
 佐 賀       50     85     450     30      200   ◎
 熊 本     1,210    1,882   14,126     330    57,850
 宮 崎      462     611    3,994     234    16,900   ◎
 鹿児島     2,358    2,649   36,094    1,549    150,500   ◎
  計     241,309   313,041  2,333,388   110,928   8,045,094   ◎
    備考 備考瀾◎印府県は関係報告未着の為内容変動あるを示す

 「大東亜戦争終戦に関する資料」
 (昭和20年9月4日から同月6日の第88臨時議会に於て配布された政府作成資料)
 《「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録・下巻」(外務省編纂,1990.12.23第1刷,山手書房新社発行)及び
  「終戦史録」(外務省編纂,昭和27年5月1日,新聞月鑑社発行)から引用、又は参考、原典旧字体縦書き》




 日本本土空襲による犠牲者数等は、ウィキペディアフリー百科事典「日本本土空襲」が詳しいです。


 広島・長崎の原爆被害
 
    項    目       広    島        長    崎
 投 下 日 時      1945年8月6日 午前8時15分  1945年8月9日 午前11時2分
 投下原爆の種類と呼び名  ウラン爆弾 リトルボーイ  プルトニウム爆弾 ファットマン
 重量・大きさ       4トン 長さ3m 直径0.7m  4.5トン 長さ3.5m 径1.5m
 爆 発 威 力      約15キロトン(TNT換算) 約22キロトン(同左)
 放出エネルギー      約14兆カロリー      約20兆カロリー
 爆 発 高 度      580m          503m
 被 爆 時 人 口      約42万人         約27万人
 1945/12末までの死亡者   14±1万人        7±1万人
 1950/10(戦後初の
  国勢調査)までの死亡者  約20万人         約14万人


 爆風による被害

 爆心地から 最大風速 
 の距離(km) (m/秒)   建造物被害       人体被害
   0.5   280   全建築物全壊      内臓破裂死亡
   0.8   200   全建築物殆んど全壊     〃
   1.8    72   全部大損害       挫傷
   2.6    36   木造大破 他は中破   打撲・ガラス傷
   3.2    28   木造中破 ガラス飛散  ガラス傷


 死亡率

 爆心地からの距離   広島   長崎
    0.5km     96.5%  88.5%
  1.0〜1.5km    51.6%  51.5%
  1.5〜2.0km    21.9%  28.4%

      《杉江栄一・樅木貞雄編著「国際関係資料集」(法律文化社 1997.11.20発行)から》




 原爆による被害
 <熱線・爆風による被害>
 数百万度という超高温に火球から放射された熱線は、主として赤外線と可視光線(肉眼で見える光線)からなり、
それによる爆心地の温度は3000−4000度に達しました。 
 数十万気圧という超高圧の火球から発生した爆風は、先端を超音速ですすむ衝撃波と、そのあとを追って吹く突風
からなり、爆心地における衝撃波の圧力は1平方メートル当たり35トン、突風の速度は1秒当たり440メートル
に達しました。 
 <放射線による被害>
 初期放射線は、爆心地から2キロメートル以内に強く降りそそぎました。4GY(グレイ)でも半致死量(半数が
死亡する線量)とされていることに注目すると、爆心地から約1キロメートル以内で屋外にいた被爆者の半数以上
は、初期放射線を主因として亡くなったことになります。 
 残留放射能には、地面と建造物資材に残ったもの(誘導放射能)と、ウラン原子核が2個に分裂した核破片に生じ
たもの(死の灰)があります。地面と建物に残った残留放射線は、約1キロメートル以内では爆発後100時間強く
残り、また死の灰による残留放射線は、地面と建物に残った放射能と比べて弱かったものの長時間残り、しかも「黒
い雨」が降った地域には多量に残りました。
 <原爆による人体への影響>
 原爆の熱線・爆風・放射線が人体に与えた障害を「原爆症」といいます。原爆症は、大量の放射線が関係したこと
に特徴があり、急性障害と後障害に大別されています。 
 急性障害は被爆後4カ月間に現れた病気で、熱傷や外傷による症状のほかに、初期放射線による特徴的症状とし
て、爆心地から1.5キロメートル以内の被爆者に脱毛、出血、白血球減少が顕著(けんちょ)に現れました。 
 後障害の特徴は、被爆の翌年から現れたケロイドに始まり、その後は特に白内障、白血病、諸種のがん=甲状腺
(こうじょうせん)がん、乳がん、肺がんなど、胎内(たいない)被爆者の障害(小頭症や発育不全など)などに、
高い発生率がみられました。 
 さらに、原爆の爆発以後に広島市内に入った人びとにも、残留放射線の影響で発病や死亡したと考えられる事例が
あります。 
  《「ヒロシマの心を伝える会(The Spirit of HIROSHIMA)」ホームページ「広島に投下された原子爆弾」より》

 原爆放射線について
 第2次世界大戦で使用された他の兵器にはない、原子爆弾特有の特徴として放射線があります。原子爆弾の放出し
たエネルギーの50%は爆風に、35%は熱線に、15%は放射線となりました。また、放射線は爆風で飛ばされる
ものではないため、爆風や熱線が届いたからといって、放射線が届いたわけではありません。
 第2次世界大戦は全国民が被害を被った戦争であり、米軍の空襲による被害は全国に及びましたが、広島、長崎の
原爆被災者だけに「被爆者援護法」による、特別に手厚い援護施策が実施されているのは、原爆特有の「放射線」が
あったからです。援護施策のうち、健康手帳の交付や健康管理手当の支給等は、原爆の被害を受けた人をもれなく幅
広く救済するため、放射線被曝の要件が相当程度緩和されていますが(被爆者の約9割が健康管理手当(年間約40万
円)を受給)、原爆症認定については、被爆者援護法上で放射線起因性を厳密に要求されているため、認定の要件と
して、その病気が放射線に起因することが必要となります。つまり、いわゆる原爆症と言われているものは「原爆放
射線症」のことになります。この放射線起因性という要件を外しまうと、原爆被爆者が一般戦災者より特別に援護さ
れている理由がなくなってしまうのです。
 人は日常生活でも放射線を受けています。自然放射線は宇宙や大地から出ており、世界平均で年間2.4ミリシー
ベルトを被曝しています。また、健康診断や医療行為で人工放射線を利用することもあり、レントゲン写真を撮ると
0.6ミリシーベルト、CTスキャンで6.9ミリシーベルトを被曝することになります。一般公衆の線量限度は1
ミリシーベルトとされています。がんの治療では数十グレイ(1ミリシーベルトの数万倍)という放射線を浴びるこ
とになります。自然放射線も原爆放射線も同じ放射線であり、違いはありません。原爆の放射線起因を考える場合、
これらとの整合性を考える必要があります。
 原爆の初期放射線(爆弾が爆発した時に出た放射線)は、爆心地から遠くなるほど減少し、長崎では爆心地から
3.5km付近で1.0ミリシーベルトにまで減少しました。これより遠距離においては、人が日常生活で受ける放射
線よりも少なかったことになります。胸のレントゲン写真を撮ったときに受ける被曝線量は、爆心地から4.0km付
近の被曝線量と同じくらいということになります。
 また、初期放射線の他に、「残留放射線」もありましたが、原爆投下時から放物線状に急速に減少し、短期間でほ
とんどなくなりました。長崎では爆心地から100m地点での初期放射線量は約300グレイでしたが、原爆投下
24時間後には0.01グレイ(3万分の1)まで減少したとされています。この残留放射線があったことを考慮し
て、原爆投下時には市内にいなかった入市者にも、幅広く被爆者健康手帳が交付されています。
 これらの放射線量は、戦後60年間にわたる専門家達の研究によって得られた唯一の成果である「DS86」及び
「DS02」に基づいています。残留放射線についても科学者が被爆地の土や建築資材などを採取して調査してきた
データに基づいているのです。科学的検証に基づいた最も信頼できるデータによっているのであり、原爆の威力を過
小評価しているということではありません。原爆による死者は広島では約14万人、長崎では約7万人とも言われて
おり、原爆の殺傷力、破壊力が甚大であることは間違いない事実です。また、最新の核兵器の威力は、64年前に世
界初で開発された広島・長崎型の何万倍にもなり、広島・長崎に投下された原爆の何百万倍もの放射線を放出する恐
るべき兵器であり、このような核兵器を世界中から廃絶すべきであることには変わりがないのです。
                                     《厚生労働省ホームページより》



 原子爆弾被爆者

 昭和20年8月に広島市と長崎市に投下された原子爆弾によって被害を受けた、被爆者(被爆者健康手
帳所持者)の方々の数は平成23年3月31日現在、全国で21万9410人となっています。

 在外被爆者(手帳所持者)数 約4300人(平成20年3月現在)

 原爆症認定被爆者数(医療特別手当支給者数) 7,197人 (平成23年3月末現在)

 被爆者(被爆者健康手帳所持者)数の推移(単位:人) 各年度(末)の被爆者数
  昭和32 200,984   昭和42 313,161   昭和52 368,932   昭和55 372,264
  昭和62 359,931   平成 9 311,704   平成19 243,692   平成22 219,410

 平成23年3月末現在の被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)(単位:人)
  1号被爆者(直爆)   135,159      2号被爆者(入市)  53,750
  3号被爆者(救護等)  23,134      4号被爆者(胎児)   7,367

                             《厚生労働省ホームページより》



 原爆症認定被爆者数の推移(各年3月31日現在)
 年(平成)  15  16  17  18  19  20  21  22  23
 全国(人)  2,223  2,271  2,251  2,280  2,242  2,188  4,415  6,367  7,210
   《広島市ホームページ「原子爆弾被爆者に対する援護措置の拡充強化等について」文書から》



 被爆二世
 Q:被爆者から生まれた子供(被爆二世)にも放射線の影響があるのでしょうか?
 A:放射線が被爆者の子供にどのような影響をもたらすかは、被爆後早くから懸念された問題の一
つでした。遺伝的影響を検出するための膨大な努力が1940年代後半から開始され、現在も続けられて
いますが、これまでに調べられた限りでは遺伝的な影響は見いだされていません。しかし、これまで
の調査の中には放射線の遺伝的影響を検出するのに適していないものもあったので、このことは必ず
しも影響がないことを意味しているわけではありません。
              《日米共同研究機関財団法人放射線影響研究所ホームページより》

 BC級戦犯

 日本人のBC級戦犯への裁判は、1945年(昭20)10月から '51,4月まで、米、英、
仏、オランダ、オーストラリア、中国、フィリピンの7か国、49の法廷で実施さ
れた。総件数2244件、被告5700人といわれ、裁判の結果、死刑984人、
無期刑475人、有期刑2944人をかぞえた。  《「角川日本史辞典」より》

 BC級戦犯裁判で有罪に問われた韓国・朝鮮人軍属は148人(死刑23人)、
このうち129人は連合国軍捕虜の監視要員だった。彼らは日本軍の最末端に位置
付けられ、上官の命令に従わざるを得ない立場だったが、日本の戦争責任を肩代わ
りさせられる形で個人責任が問われた。    《中日新聞 2009.8.15記事から》


 収容地別の日本兵捕虜の推計(1945年8月頃)
  収容地    人 数  出 所      収容地    人 数  出 所
 米 本 土  約5,000 米陸軍省    ニュージーランド    797 厚生省
 ハ ワ イ   3,800 同上      蘭領インド    263 豪州陸軍史
 サイパン・グアム   1,754 GHQ報告   イ ン ド   2,296 インド国防省
 沖   縄  約10,000 米軍戦史    ビ ル マ    800 美山情報
 フィリピン   12,573 米軍戦史    中国(国府)   1,358 支那総軍
 豪州・ニューギニア  5,593 豪州陸軍史   中国(中央)   6,959 中国政府
                     仮  計   51,193
  (秦郁彦『日本人捕虜』下巻より)《「米軍による日本兵捕虜写真集」(2001 山本武利編 青史出版)から》


 旧日本軍が拘束した連合国捕虜・民間抑留者及び中立国の抑留者

 〔第159回国会において参議院議長に提出された谷博之議員による質問主意書(質問第18号:平成16年4月28日)と
  それに対する小泉純一郎内閣総理大臣の答弁書(平成16年6月4日)より〕

 第二次大戦中に旧日本軍が拘束した連合国捕虜・民間抑留者及び中立国の抑留者について、その国別の総数及び帰
還者数と死亡者数の内訳並びに捕虜・抑留者を労働させた事業所の数を、それらのデータの出典とともに明らかにさ
れたい。

 お尋ねの我が国が先の大戦において拘束した連合国の捕虜、民間抑留者及び中立国の抑留者の人数等について、
「俘虜取扱の記録」(昭和三十年十二月総理府俘虜情報局作成)によれば、次のとおりである。
1 連合国の捕虜については、「太平洋戦争中捕獲された連合国軍ふ虜は約三十五万名で、このうち約三万三千名
は、病死或は船舶輸送途中遭難によつて爆死又は海没し、約十八万名は原住民ふ虜であつた。その後逐次解放して昭
和二十年八月(終戦時)のふ虜総人員は約十二万八千四百六十三名」と記録されているが、その国別の総数及び帰還
者数と死亡者数の内訳については記録されていない。
2 連合国の民間抑留者及び中立国の抑留者については、その国別の総数及び帰還者数については記録されていない
が、「俘虜取扱の記録」の付表「軍抑留所別国籍別死亡者人員表」によれば、旧日本軍による抑留者のうち国籍別の
死亡者については、オランダ七千三百十三名、英国五百五十八名、米国百六十九名、オーストラリア三十五名、カナ
ダ五名、その他二百六名である。
3 連合国の捕虜の労務場所については、「俘虜取扱の記録」の付表「内地に於ける俘虜労務概見表」及び「外地に
於ける俘虜労務概見表」によれば、三百か所以上の労務場所が存在していたことが記録されている。
 なお、抑留者の労務場所については記録されていない。


 日本国政府がサンフランシスコ平和条約第16条に基づき赤十字国際委員会(ICRC)を通して行った
 連合国の元捕虜及び民間抑留者に対する支払いの各国の対象者数
  オーストラリア   22,415    ベルギー    3    カンボジア   42    カ ナ ダ  1,737
  チ   リ    1    フランス 10,442    ノルウェー    4    ニュージーランド   119
  パキスタン 19,872    オランダ 42,233    フィリピン 44,055    英   国 58,175
  シ リ ア    1    ベトナム  4,500 
  注:米国は同条に基づくICRCからの分配を放棄したのでこれには載っていない。

 《参議院ホームページ内の「質問主意書」
  <http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/159/touh/t159018.htm>を参考に構成しました。》




  日本軍に捕らえられた捕虜等

  国籍別の死亡率
           アメリカ人   イギリス人、オーストラリア人、   オランダ人
                    英国系インド人
  捕 虜 合 計    25,600人     130,000人      37,000人  
  捕 虜 死 亡    10,650人      8,100人       8,500人  
  死 亡 率     41.6%       6.2%        23%  

  強制労働者(オランダ領インドシナ、現インドネシア)
  労 務 者     300,000人  
  労務者死亡     230,000人  
  死 亡 率      76.6%  


  第二次大戦中にナチス(ドイツ軍)または日本軍に捕らえられたアメリカ人の行方

  米軍人の捕虜  
                ナチス  %   日本軍  % 
  米軍人捕虜人数      93,941人  ---  36,260人  ---
  死亡した捕虜        1,121人 1.1%  13,851人 38.2%
  2000年1月現在の生存者  44,773人 47.6%   5,745人 15.8%

  抑留されたアメリカ民間人
                ナチス  %   日本軍  %
  抑留された民間人数     4,746人  ---  13,996人   ---
  死亡した人数         168人 3.5%   1,536人 11%
  2000年1月現在の生存者   1,521人 32%    1,497人 10.7%

               出所: AXPOW Association, March 15, 2000 


  太平洋戦線のアメリカ人捕虜

  地域別の捕虜人数
  フ ィ リ ピ ン         22,000  
  ウ ェ ー キ 島         1,555  
  ジャワ(インドネシア)          890  
  グ  ア  ム          400  
  日 本、その他          300  
  セレベス(インドネシア)         255  
  中     国          200  
     計            25,600  

  殺害された又は死亡した捕虜人数  
  フ ィ リ ピ ン         5,135  
  囚 人 船 上         3,840  
  日     本         1,200  
  満  州 (中国)          175  
  ビ  ル  マ          130  
  ウ ェ ー キ 島          100  
  朝     鮮           70  
     計            10,650  

  解放された捕虜人数(解放地域別)
  日     本         11,400  
  フ ィ リ ピ ン         1,500  
  満  州 (中国)         1,200  
  ビルマ・タ イ          480  
  セレベス(インドネシア)         200  
  朝     鮮          150  
  中     国           20  
     計            14,950  
  出所: Surrender and Survival:
        The Experience of American POWs in the Pacific by E. Bartlett Kerr, 1985



  日本の統計から

  日本軍が捕らえた捕虜(1942年6月7日現在)
  アメリカ軍  15,000
  イギリス軍  64,000(カナダ人1,600、オーストラリア人17,000人を含む)
  蘭領東印軍  24,000
  重 慶 軍  44,000
  そ の 他  185,000(ビルマ重慶軍と国籍不明の捕虜を含む;
             ほぼ十万人のインドネシア人兵士のほとんどは解放された)
    計    242,000(5/31まで)
  出所:Documents Relating to Treatment of Prisoners of War, 
     Research Institute of Ministry of Health & Welfare, June 10, 1942
  注:合計は明らかに不正確。中国本土での捕虜の合計は、1940年の50,100人が、
    1941年には104,700人に増えた。


     国       白 人 捕 虜   計    備 考
            将 校  その他
  イ ギ リ ス   4,809  41,518  46,327
  オランダ(欧州人)  2,357  21,211  23,568
  オーストラリア    987  15,814  16,801
  ア メ リ カ    456  5,184  5,640  10,633(1)
  カ  ナ  ダ     73  1,611  1,684
  ニュージーランド     22    52    74
  南 ア フ リ カ     17    15    32
  そ  の  他     5   216   221   1,706(2) +591(3) 3,890(4)
   合   計    8,726  85,621  94,347  11,167(5)

   (1) フィリピンで捕らえたアメリカ人兵士
   (2) ビルマで捕らえた;英軍・中国軍兵士及びビルマ人を含むと思われる
   (3) ニューギニアでの捕虜;英軍兵士と現地人を含むと思われる
   (4) ボルネオでの捕虜;英軍と蘭軍の兵士、現地人を含むと思われる
   (5) この数字は、1942年8月版捕虜月報(1942.9.10発行)で、白人捕虜合計が125,309人に増加している。


    国    非白人捕虜  国 籍   過去の解放  解放日(1942年8月を介して)
  フィリピン    42,539  フィリピン人   4,167(1)   6月9日〜7月20日
           (7月20日現在)
  マ レ ー    71,319  インド人    ---    (2)
           2,700  インドネシア人   1,080    5月11日〜6月22日
             0  マレー人     11
  ジ ャ ワ    15,962  インドネシア人  18,151      ---
           (8月10日現在)
  ビ ル マ    1,730  インド人    ---    ┐
             0  ビルマ人   1,000    ┘ ---
  英領 ボルネオ     561  インド人  ┐
            369  インドネシア人  ┘ ---    解放の予定なし
  香   港    1,856  インド人  ┐
            110  中国人   │ ---      ---
             5  その他   ┘
  上   海      25  中国人     ---    Interned w/o release

   (1) フィリピン軍事作戦に関わった約6,000人の家族、患者、看護人が解放された。
   (2) 36,200人は解放されず。いくつかの採石場?の仕事に使用されたか。他は軍の間で分散。

  出所: August 1942 edition of Horyo Geppo (POW Monthly Bulletin), POW Bureau



   国 ・ 地 域      捕虜合計  捕虜死亡   死亡率(%) 
  イ ギ リ ス     50,016   12,433    24.8%
  オ ラ ン ダ     37,000    8,500    22.9%
  オーストラリア     21,726    7,412    34.1%
  ア メ リ カ     21,580    7,107    32.9%
  カ  ナ  ダ      1,691     273    16.1%
  ニュージーランド       121     31    25.6%
   合   計      132,134   35,756    27.1%
  出所: Horyo Saishu Ronkoku Fuzoku-sho B, Feb.19,1948


  ソ連に抑留された日本人は575,000名で、その内55,000名が死亡した。死亡率は9.6%であった。


  《「Fukuoka POW Camp #1 - Page 4」<http://home.comcast.net/~winjerd/Page04.htm>
                          中の表の記述を参考に構成しました。》



 終戦時における日本軍の配置人員数
             陸 軍    海 軍    総 計
  日 本 本 土   2,388,000  1,972,000  4,360,000 (小笠原諸島を含む)
  千 島 ・ 樺 太     88,000    3,000    91,000  
  台湾・南西諸島    169,000    75,000   244,000  
  朝     鮮    294,000    42,000   336,000   
  満     州    664,000          664,000
  中 国 本 土   1,056,000    71,000  1,127,000 (海軍は香港を含む)
  南 方 方 面    744,000   202,000   946,000 (中部太平洋を含む)
  ラバウル方面      70,000    56,000   126,000 (南東太平洋)
     計      5,473,000  2,421,000  7,894,000
   内、海外配置人員  3,085,000   449,000  3,534,000
   総数に対する比率   56.4%    18.5%    44.8%
  〈『引揚げと援護三十年の歩み』(厚生省)より〉《『戦後引揚げの記録』(1991 若槻泰雄 時事通信社)から》





 海外からの引揚者数
            総  数  軍人・軍属 邦人(民間人)
  本土隣接諸島     62,389    60,007    2,382  
  沖    縄     69,416    57,364    12,052  
  千 島・樺 太    293,496    16,006   277,490  
  韓    国    597,319   181,209   416,110  
  北  朝  鮮    322,585    25,391   297,194   
  台    湾    479,544   157,388   322,156  
  満    州   1,271,479    52,833  1,218,646 (旧満州国及び大連)
  中    国   1,540,183  1,044,460   495,723  
  香    港     19,347    14,285    5,062  
  東 南 アジア    711,507   655,330    56,177
  ベ ト ナ ム      32,303    28,710    3,593 (旧仏領印度支那)
  インドネシア     15,593    14,129    1,464 (旧蘭領東印度)
  フィリピン     133,123   108,912    24,211
  太平洋諸島     130,968   103,462    27,506
  ハ  ワ  イ     3,659    3,349     310
  オーストラリア    138,843   130,398    8,445
  ニュージーランド      797     391     406
  ソ    連    472,945   453,787    19,158

   総   計    6,295,496  3,107,411  3,188,085


  この引揚者は、上陸地において引揚手続を行った者のみ計上し、引揚手続を経ないで帰還したものは含まれて
  いない。
  地域区分は、出陸地の所在する地域で分類しており、日中国交正常化後の中国東北部(旧満州)残留邦人の引揚
  げについては「中国」に分類して掲載している。

   〈「援護五十年史」(厚生省)をもとに作成〉《「遥かなる紅い夕日」(2006 平和祈念事業特別基金)から》



 シベリア抑留と開拓団の悲惨

 八月十五日、終戦の詔勅が放送され、十六日夜半には関東軍総司令官は全軍に停戦命令を発した。
前線の隅々まで命令が届くまでは十日以上もかかったが、いずれの部隊もおおむねこれを受け入れ、
現地ソ連軍の武装解除に応じた。
 ソ連軍は関東軍の武装解除をすすめると同時に、一千名単位の作業大隊を組織して、列車で続々と
ソ連領内に送り込んだ。関東軍の将兵に限らず、北緯三十八度以北の朝鮮にあった日本軍将兵はもと
より、満州の民間人男子、樺太・千島の将兵・民間人男子を含めてその数は五十七万名以上(六十四
万名ともいわれる)にのぼった。彼らはシベリアを中心に、何年にもわたって鉄道・道路建設、森林
伐採、鉱山労働などに従事されられたのである。
 一方、二十七万名ともいわれる満州開拓団は、ソ連侵攻と同時に着の身着のままで南をめざして逃
避行を余儀なくされた。その中には、例えば東安省鶏寧県哈達河開拓団一千三百名が逃げる途中、麻
山というところでソ連軍と中国人ゲリラの挟み打ちにあい、進退きわまって集団自決した(「麻山事
件」)というケースも少なくなかった。こうして十万名が逃避行の途中で犠牲となった。国策に従って
中国人の耕地を奪い、入植した開拓団ではあったが、敗戦によるその末路は悲惨であった。現在、中
国残留孤児と呼ばれる人々は、その逃避行の中で中国人に預けられたり拾われたり、あるいは買われ
たりした人々である。

 平成四年六月、シベリア強制連行はスターリン首相(当時)の直接指令に基づくものだったという文
書が公開された。翌五年十月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は…謝罪し、六万一千八百五名の
死亡者名簿フロッピーが引き渡された。
                 《「図説 太平洋戦争」(1995 池田清編 河出書房新社)から》





 軍人・軍属及び一般邦人の強制抑留者の合計

  軍人・軍属強制抑留者  536,243人
  一般邦人強制抑留者    38,991人
    (行政官・司法官等の官吏、警察官(国境警察、鉄道警察)、教員、協和会幹部・新聞記者、満鉄・電電等の大企業社員など)
    合    計    575,234人
                     〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

  ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された強制抑留者の総数 575,000人
  日本本土への直接帰還者数               473,000人
  逆送者数                        47,000人
  未帰還者(死亡認定者)数                 55,000人
               〈『引揚げと援護三十年の歩み』(1978 厚生省援護局編 ぎょうせい)〉

 ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された一般邦人の地域別内訳
    満州         28,152
    関東州        1,500
    北支          500
    北朝鮮        4,112
    南樺太        1,240
    千島(北方領土を含む)  464
    満州・関東州     1,870
    満州・北朝鮮      669
    満州・関東州・北朝鮮  484
     計         38,991
       (注:二つ以上の地域が記載されている項目は、満州からの移動後拘束されたことを示す)
                      〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

   《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》




 ソ連の資料による抑留者数
 ソ連内務省軍事捕虜・抑留担当総局の(ソ連内務省次官に対する)報告によると、日本人捕虜の総数
六〇万九四四八人(日本軍人、軍属だった中国人、朝鮮人、モンゴル人、満州人、ロシア人などを含
めると六三万九七七六人)、本国へ送還した者五四万六七五二人、死亡した者六万一八五五人となっ
ている。        《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》





 日本人強制抑留者数

 ソ連に抑留された日本人は約60万人、死亡したのは約6万人と云われていますが、
 シベリアに強制抑留された日本人は、
 ソ連内務省文書には、105万2467人、
 アメリカのマッカーサー元帥の記念文書館には、111万1650人となっています。
 また、死亡者は、37万4041人とも伝えられています。(新潮社『プリンス近衛殺人事件』)
 抑留者、死亡者の実数は不明であるというのが実態です。

 一九四六年夏、ソ連にいた日本人捕虜は百十一万千六百五十人であった。
                    (米ヴァージニア州、マッカーサー元帥記念文書館)
 内務省のラーゲリには百五万二千四百六十七人の日本人が収容されている。
                    (ソ連〈現ロシア〉クレムリンの内部文書)
                         V・Aアルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
                         『プリンス近衛殺人事件』新潮社発行より

 ソ連地区の引揚状況を顧みまするに、これは滞留すること一カ年半の後、即ち昭和二十一年の末か
ら漸く引揚が開始され、翌二十二年十二月までに六十二万五千名、昨二十三年五月から十二月までに
二十八万九千名という引揚状況でありまして、誠に遅々たるの感なきを得ないのであります。
 而も尚、取残された四十万の人々は、遂に四度の冬をあの厳寒の地に送り迎えしなければならない
状況に置かれ、―略―
 又中立地区に残された六万の同胞は戦塵なお収まらざる中にあって、昨二十三年八月以降、帰還の
途も全く途絶え、帰国の希望も失われんとするかの中に労苦を重ねておられるのであります。
                   『海外残留同胞引揚促進に関する決議案』提案理由より
   昭和二十四年四月二十六日 第五国会・参議院・本会議

 平成20年末までの遺骨収集の数 18,488柱

                         《シベリア抑留関係展示会の展示資料から》





 モスクワのロシア国立軍事公文書館に、第2次大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本人約
76万人分の資料が収蔵されていることが23日、分かった。同館では日本政府に写しを提供する方
向で話し合いを進めているという。
 …厚生労働省は23日、ロシア国立軍事公文書館で発見された新資料に含まれるシベリア抑留者の
人数について「(公文書館側が推定する76万人分でなく)70万人程度ではないか」との見方を示
し、ロシア側との新資料提供に関する交渉については「まだ新資料の入手に向け調整をしている段階
で、両国間で合意ができているわけではない」と話している。
                                《産経新聞2009/07/24から》





 ドイツ人捕虜も、シベリア送りとなった。第二次世界大戦で、捕虜になったドイツ兵は約一千百万
人で、ソ連兵に捕まえられたのは約三百五十万人、うち百十万人が死亡した。日本兵捕虜六十万人の
うち、一割に当たる六万人の死亡数からみると、ドイツ人の死亡率はかなり高い。
                      《北海道新聞「はるかなシベリア」平成七年から》




 ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
                                  (1941年6月〜45年9月)
 ド  イ  ツ 2,389,560   日     本  639,635   ハ ン ガ リ ー  513,767
 ル ー マ ニ ア  187,370   オーストリア   156,682   チェコスロバキア   69,977
 ポ ー ラ ン ド   60,280   イ タ リ ア   48,957   フ ラ ン ス   23,136
 ユーゴスラビア   21,822   モ ル ダ ビ ア   14,129   中     国   12,928
 ユ  ダ  ヤ   10,173   朝     鮮   7,785   オ ラ ン ダ   4,785
 モ ン ゴ ル   3,608   フィンランド    2,377   ベ ル ギ ー   2,010
 ルクセンブルグ   1,652   オランダ・ダッチ    457   ス ペ イ ン    452
 ジ プ シ ー    393   ノ ル ウ ェ ー    101   スウェーデン      72
                                24ヶ国合計 4,172,042人
 〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉
           《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》
  



 戦後強制抑留者特別措置法
 「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」の通称。第二次世界大戦終了時に旧ソ連の捕虜となり、シベリ
アやモンゴルに抑留され、強制労働を課せられた人たちの労苦を慰藉するために特別給付金を支給することを定めた
法律。平成22年(2010)成立。抑留期間に応じて 25万円〜150万円を一時金として支給する。また、強制抑留の実態解
明、抑留中に死亡した人の埋葬場所の調査、遺骨・遺品の収集などを政府に義務づけている。シベリア特別措置法。
旧ソ連抑留者支援特別措置法。                               《大辞泉より》





 ソ連軍侵攻による人的被害(死亡者)一覧
         ソ連侵攻前軍人  20.8.9から 8.18   関東軍停戦命 抑留中の死者 (モンゴル・
  分  類   ・民間人の合計  までの戦闘中死者  令以後の死者 樺太・千島・北鮮を含む)
満  州
 陸海軍軍人・軍属    692,000      26,500     20,200        62,636
 民  間  人   1,390,000      30,000     164,800 
樺太・千島
 陸海軍軍人・軍属    102,000      11,000       400 
 民  間  人    401,500              13,000 
北 朝 鮮
 陸海軍軍人・軍属    105,600       3,200      7,400 
 民  間  人    280,000              27,728 

 陸海軍軍人・軍属    899,600     @40,700    A28,000 
 民  間  人   2,071,500     B30,000    C205,528 
総       計  2,971,100      @+A+B+C 304,228       D62,636
ソ連軍侵攻による日本人死者数               366,864人 @+A+B+C+D
 参考資料:『援護五十年史』厚生省社会・援護局〈ぎょうせい・平成9年〉
      『シベリア捕虜収容所 上・下』若槻泰雄〈サイマル出版会・昭和54年〉
      『続・回想のシベリア』斎藤六郎〈全抑協・平成2年〉
      ソ連抑留中の死亡者数は、昭和33年発表の厚生省聞き取り調査発表による。
 註:これら数字は資料によりまちまちであり、なかなか正確なものが把握出来ないことを付記する。
  《「世界に開かれた昭和の戦争記念館 第2巻」(名越二荒之助編 H13.10.5 展転社発行)100頁掲載図から》





 旧満州地区省別死亡者概数
 …旧満州における死亡者は、日ソ戦闘間に約6万人、終戦以後において約18万5,000人、合計約24万5,000人に達す
るものと推定され、その旧満州地区省別死亡者の概数は次のとおりであった。
 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数
黒 河 省 2,800 興 安 省 8,600 北 安 省 4,900 龍 江 省 7,100 浜 江 省 33,000 三 江 省 11,100 
東 安 省 9,500 牡丹江省 24,000 吉 林 省 42,200 四 平 省 4,100 間 島 省 21,500 通 化 省 5,700 
奉 天 省 47,400 安 東 省 3,400 綿 州 省 3,200 熱 河 省  900 関 東 州 16,000 (合 計 245,400)
《『援護50年史』(厚生省社会・援護局 援護50年史編集委員会監修 平成9年3月 鰍ャょうせい発行)86頁から》




 満州開拓民等の敗戦に基づく死亡者数
                   全 体    開拓民    非開拓民
 終戦時在満邦人数(関東州を含む) 1,550,000人  270,000人  1,280,000人
 敗戦に基づく一般邦人の死亡者数  176,000人   78,500人    97,500人
 何人に一人が死亡したか        8.81人    3.44人    13.13人
 死亡指数(非開拓民比)         1.49     3.82      1.00

  《鍛治致さんのホームページから、鍛治氏が、満州開拓史刊行会(1966:437)を参考に、
    「開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異」として作成されたものを引用しました》





 未帰還者問題

 終戦時、ソ連軍の占領した地域には、軍民あわせて約二百七十二万六千人の日本人がいた。
  (全海外同胞の41%)(終戦当時、海外の日本人の総数は推定六百六十万人余(1945年の日本の総人口七千二百万人の9.2%))

   満州・関東州       1,945,000人
   北朝鮮           410,000人
   南樺太・千島、北方領土   371,000人
    計           2,726,000人

 衆議院 1950年5月2日 国会決議
 日本国民は終戦以来ポツダム宣言を忠実に履行して今日に至った。しかるに終戦以来五箇年に垂
(なんな)んとする今日なお約三十七万名の日本人がソ連ならびにソ連の勢力下にある地域(シベリ
ア、樺太、北朝鮮、大連ならびに中共地域を含む)に残留せしめられ生死不明の状況にある。政府
は総司令部を通じソ連に対し正式の報告を求めたにもかかわらず、ソ連よりなんら正式の報告がな
いので、いまや留守家族はもちろん全日本国民の心痛はその極に達している。本院は、ここに院議
としてわが国民のその気持を代表し連合国最高司令官に対し国際連合を通じて世界の正義と世論に
訴え本件のすみやかなる解決のためあらゆる援助を与えられんことを要望するとともに、特に左の
点の実現についてご配慮を懇請する。
 一、ソ連ならびにソ連の勢力下にある地域(シベリア、樺太、北朝鮮、大連ならびに中共地域を
含む)の残留者全員をすみやかに帰還せしめられたい。
 二、ソ連ならびにソ連の勢力下の地域に抑留中死亡した者ならびに戦犯関係として抑留されてい
る者、一般受刑者及び病気にて残留している者などの氏名をすみやかに発表せしめられたい。
 三、ソ連ならびにソ連の勢力下にある地域に残留せしめられた日本人の生死及び動静を調査する
ため国際連合または中立の機関もしくは人道機関よりすみやかに調査団を派遣せしめられたい。


 1950年10月実施の国勢調査により把握した未帰還者数(1951.5.1当時)
    地   域      生存者数  死亡者数 生死不明者数  合 計
   ソ連(モンゴルを含む)   17,841   42.390      0   60,231
   満州・関東州       53,948   158,099   26,492   238,539
   北朝鮮          3,303   27,728    1,431   32,462
   南樺太・千島、北方領土  2,545    5,934     874    9,353
    計           77,637   234,151   28,797   340,585

 「吉田外務大臣発国際連合総会議長宛1951.6.19付書翰」「ステートメント」から
    地    域      終戦時数   引揚数       未帰還数
   ソ連(モンゴルを含む)      0   470,000          −
   満州・関東州      1,945,000  1,271,000          −
   北朝鮮          410,000   323,000          −
   南樺太・千島、北方領土  371,000   293,000          −
    計          2,726,000  2,357,000       369,000

 その後の引揚げ(*)をもとに加算修正された帰還者数と未帰還者数
    地  域       終戦時人数   帰還者数   *   未帰還者数
   ソ連領土            0   473,000(+ 2,570)     −
   満州・関東州      1,945,000  1,303,500(+32,506)     −
   北朝鮮          410,000   323,000(+  36)     −
   南樺太・千島       371,000   293,500(+  766)     −
    合  計       2,726,000  2,393,000(+35,878)   333,000
   *「後期集団引揚」:ソ連地域(1953.12-1959.9)、中国地域(1953.3-1958.7)、北朝鮮地域(1956.4)
        〈「後期集団引揚」の数値は『援護五十年史』(1997 厚生省社会・援護局援護五十年史編集委員会監修 ぎょうせい)より〉

 ソ連本土(モンゴルを含む)に移送・抑留された強制抑留者の人数、帰還者数及び未帰還者数
                抑留者数   帰還者数  未帰還者数
                 576,000   498,000    78,000

 南樺太・千島、北方領土の一般邦人抑留者
                抑留者数   帰還者数  未帰還者数
                 293,500   280,500    13,000

 南樺太・千島、北方領土の「強制抑留者」
                抑留者数   帰還者数  未帰還者数
                 10,000    8,000    2,000

   《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》

満州に移り住んだ日本人
 満州国には1945年ごろ、約155万人の日本人が暮らしていましたが、大多数は行政機関の関係者や日本人相 手に商売などをしていた人たちで、鉄道沿線の都市部で近代的な生活を営んでいました。一方、日本人にはなじみの なかった北部の奥地に根を下ろしたのが「開拓民」と呼ばれた人たちで、約27万人いました。(人数は「引揚げと 援護三十年の歩み」による)  開拓民とは  日本と満州国を強化するには、 日本人が数多く移住し、 現地で指導的な役割を果たすことが必要と考えられた一 方、当時の日本国内は人口に対して農地が絶対的に不足しており、貧しい農村をすくには過剰な人口を海外に送り出 すことが必要だと考えられていました。そこで、満州への大量移民が国策とされ、行政やマスコミが熱心な宣伝で勧 誘しました。開拓民が入植した土地は当初は関東軍が、後には満州拓殖公社が、先住民から強制的に奪ったり、極端 に安く買い上げた農耕地でした。  開拓民の3つの類型(人数等は「満州開拓史」による)  試験移民(武装移民)  日本に反抗する勢力が出没する地域の治安維持を兼ねて、在郷軍人から募集した。1932年から35年までに4 つの開拓団で1785人を送り出したが、治安の悪さや貧しい食事、「屯懇病」(ホームシック)などで4分の1が退 団・戦病死した。  一般開拓民  1936年に日本政府が決定した「20年で100万戸500万人」という大量農業移民計画に基づき、家族ぐる みで数十万から数百戸がまとまって入植した。貧しかった村や里から分かれて移住する分村・分郷が主流を占めた。  満蒙(まんもう)開拓少年義勇軍(現地では満州開拓青年義勇隊)  1938年開始。16―19歳の男子が茨城県内の訓練所を経て満州に渡り、現地の訓練所で義勇隊を編成。3年 の訓練を積んだ。その後、開拓民となった者は「鍬(くわ)の戦士」として国防も兼ね、多くがソ連国境近くに入植し た。農家の二男や三男が多く、後には大量の花嫁候補が日本から送り出され「大陸の花嫁」と呼ばれた。  開拓民送り出し状況(人/合計数の多い順)   都道府県 開拓団員 義勇隊員   都道府県 開拓団員 義勇隊員   都道府県 開拓団員 義勇隊員   長 野  31,264  6,595   山 口  3,763  2,745   茨 城  1,551  2,022   山 形  13,252  3,925   岩 手  4,443  1,993   宮 崎  1,769  1,613   熊 本  9,979  2,701   岡 山  2,898  2,888   京 都  1,418  1,952   福 島  9,576  3,097   鹿児島  3,432  2,268   徳 島  1,243  2,082   新 潟  9,361  3,290   奈 良  3,945  1,298   和歌山  1,272  1,877   宮 城  10,180  2,239   富 山  3,775  1,425   北海道  2,002  1,127   岐 阜  9,494  2,596   福 井  3,057  2,079   福 岡  1,669  1,445   広 島  6,345  4,827   山 梨  3,166  1,939   島 根  1,507  1,528   東 京  9,116  1,995   愛 媛  2,200  2,325   沖 縄  2,350   644   高 知  9,151  1,331   兵 庫  2,170  2,230   大 分   735  1,836   秋 田  7,814  1,638   埼 玉  2,900  1,968   愛 知   634  1,724   静 岡  6,147  3,059   佐 賀  2,800  1,500   長 崎   747  1,403   群 馬  6,957  1,818   栃 木  1,429  2,802   千 葉  1,037  1,111   青 森  6,510  1,855   大 阪  2,030  2,125   神奈川  1,013   575   香 川  5,506  2,379   三 重  2,753  1,309   滋 賀    93  1,354   石 川  4,463  2,808   鳥 取  1,339  2,287   合  計 220,255 101,627    ※「満州開拓史」より。1945年5月ごろの状況をまとめたものだが、計画段階の数や     退団者も含んでいるため、実際の人数はこれよりも何割か少ない。   ソ連軍侵攻の悲劇  アジア・太平洋戦争末期に弱体化していた関東軍は、満州国にいる日系成人男性15万人に召集をかけ、根こそぎ 動員。女性や子ども、老人だけになっていたところに突然、ソ連軍が侵攻し、命がけの逃避行が始まりました。ソ連 軍だけではなく、それまで抑圧されていた漢人らの怒りも爆発し、日本人は略奪・暴行の的となり、絶望のあまり集 団自決も頻発。栄養失調や発疹(はっしん)チフス、冬の酷寒などでも次々に命を落とし、この地で亡くなった日本人 は軍人を含め24万5400人とされています。終戦の翌年、日本への引き揚げが始まり、軍民合わせて127万人 余りが帰国しましたが、生きるために現地人に預けられたり妻となっていた子どもや女性は、中国残留孤児・残留夫 人となりました。また、召集された男性の多くはソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留されました。(シベリア抑留 邦人全体は約57万5000人。うち死者約5万5000人)(人数は「引揚げと援護三十年の歩み」「援護五十年史」による) 《引用:中日新聞(2005.8.28) 中日サンデー版 世界と日本大図解シリーズ698「満州」》

 終戦時における在日外国人数

 T 終戦後、在日朝鮮人等の送還業務の基本数をとらえるため、それらの人々の登録が、昭和21年
   2月17日にGHQにより指令され、2月18日に行われた。その結果の人数。
 U そのうちの帰還希望者数。
 V この登録時までにすでに送還されたもので、統計に上がっているものの人数。
 W TとVの計。終戦時における在日の朝鮮人等の人員概数を推算する一応の基礎とすることがで
   きる。

           T      U      V      W
 朝 鮮 人   647,006   (514,060)   914,352   1,561,358
             (内北鮮 9,701) 
 中 国 人    14,941   ( 2,372)    41,110     56,051
 台 湾 省民    15,906   ( 12,784)    18,462     34,368
 南西諸島民   200,943   (141,377)    13,675    214,618
   計     878,796   (670,593)          1,866,395

 送出統計(昭和25年12月31日現在・厚生省)
  国 籍 別       一般送出    強制送還
 朝 鮮 人     1,014,541     37,215
 中 国 人       43,736       66
 台 湾 人       24,406       103
 南西諸島民      180,016       249
 ド イ ツ人       1,987        0
 イタリア人        158        0
 そ の 他        266        0
   計       1,265,091     37,633
 
   《「引揚げと援護三十年の歩み」(厚生省援護局編集 昭和53.4.5 ぎょうせい)
                         P151の文章と表を参考に作成しました。》

 強制連行

 アジア太平洋戦争時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員をさして、一般に使われる。
戦時統制経済下で、政府は1939(昭和14)に労務動員実施計画要領を作成し、不足する労働力を「移住
朝鮮人」で補おうとする方針をたてた。この計画は'42 から国民動員実施計画と名前をかえ、敗戦の
年まで続いた。はじめは、会社の「募集」方式の連行だったが、'42 からは朝鮮総督府が徴発業務を
一元化する「官斡旋」方式となった。'44 国民徴用令が適用され、行政機構や警察権力を動員して強
制的な「徴用」が始まった。連行先は日本国内だけでなく、樺太(サハリン)、東南アジア、太平洋の
諸島と広範囲に及び、炭鉱・土木工事など、危険な重労働につかせられたため死傷・逃亡が多かった。
朝鮮人の動員数は72万人とも 150万人ともいわれ、中国人は約4万人とみられている。このほか、軍
要員として15万人が動員され、女子挺身隊の名のもとに数万人が「従軍慰安婦」として連行された。
                                《「角川日本史辞典」より》



 従軍慰安婦

 日本軍が兵士の性欲処理のために開設した慰安所で働かされた女性、「軍隊慰安婦」のこと。日中
戦争以降本格化し、占領地全域に送られた。多くは朝鮮人で、8万人とも20万人とも言われる。台湾
人や占領地の女性もいた。                    《「角川日本史辞典」より》


 女性のためのアジア平和国民基金

 元従軍慰安婦に対する「見舞金」を募るために 1995年7月創設された民間基金。アジア諸国に対する戦時賠償問題
は国家としてはすでに解決ずみであるというのが政府の立場だが、アジア諸国では、強制連行・労働問題とともに従
軍慰安婦に対する補償を求める声が高まっていた。そこで政府が考え出した苦肉の策が民間基金という形であった。
しかし、これでは国家が行うべき謝罪のあかしとしての個人補償とはならず、国家の責任を民間に押しつけるだけだ
との批判が根強い。                         《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 財団法人女性のためのアジア平和国民基金(じょせいのためのアジアへいわこくみんききん、略称:アジア女性基
金、英:Asian Women's Fund)は、元「慰安婦」に対する補償(償い事業)、および女性の名誉と尊厳に関わる今日
的な問題の解決を目的として設立された財団法人。日本政府からの出資金と国内外からの募金によって運営された。
すべての償い事業が終了したため、2007年3月31日 をもって解散した。  《ウィキペディアフリー百科事典より》




 花岡事件

 (昭和二十年)六月三十日深夜、秋田県の花岡鉱山の河川改修現場で、鹿島組から過酷な労働を強い
られた中国人約八百人が抵抗に立ち上がった。戦後に「花岡事件」で知られる一斉決起である。…山
にこもった中国人は鎮圧され、三日三晩縛られたまま、水も食事も与えられなかった。(拷問で百十
三人が死亡。(「大辞林」から))それ以前に病死や虐待死した中国人も含めると、鹿島組の下で働いた
九百八十六人のうち四百十八人が亡くなった。戦時中、百三十五の事業所に強制連行された中国人は
約四万人。死亡者は七千人近くに上る。      《中日新聞 2010.6.27朝刊「中日春秋」より》

 (花岡)事件をめぐり、元労働者の生存者と遺族の計11人が、当時の使用者鹿島建設を相手に損害賠償を求めて訴訟
を起こし、第一審は原告請求棄却、原告側は東京高等裁判所に控訴、同裁判所が和解案を提示していたが、2000年11
月29日、企業の法的責任は問わず、事件の受難者への慰霊と支援などを目的に企業の拠出金で「花岡平和友好基金」
(中国紅十字会に信託)を設けることで双方合意、和解が成立した。    《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 「満州国」への中国人強制連行

 「内地」への中国人強制連行
 十五年戦争末期の「内地」の労働力不足を補うため、1942年11月27日に「華人労務者内地移入に関
する件」を東条内閣が閣議決定し、敗戦までに3万8935人の中国人を強制連行した。
 そして、鉱山・港湾・建設現場など35の企業の 135ヶ所の事業所で、劣悪な生活条件の下で過酷な
労働を強制し、6830人もの死者を出した。

 「満州国」への中国人強制連行
 「内地」より大規模な中国人強制連行が、傀儡国家「満州国」で行なわれていた。死者数だけを見
ても、阜薪炭鉱が7万人、北票炭鉱が3万人、大石橋マグネシウム鉱山が1万7000人、弓長嶺鉄鉱が
1万2000人であり、本渓炭鉱鉄鉱においては13万5000人にもなる。

 1934年から1945年までに、中国華北地区など各地から、東北地区(満州国)に日本が連行した労工は
 790万人、東北地区内での割り当てや連行による労工が 850万人、合計で1640万人もの中国人労工が
連行された。 〈李秉剛氏(元遼寧政治経済学院教授)『私は地獄へ行ってきた』(遼寧大学出版社)〉
 
 日本により労役を課せられた中国人労工とその家族は、華北地区で 960余万人に達し、そのうち
3万8900名が日本(内地)に連行された。
     〈陶文サ氏(日中歴史共同研究/委員) (日中歴史共同研究の成果として、2010年1月
      31日に発表された報告書。百万人単位の中国人強制連行が共同研究で確認された。)〉
 
 1943年、中国東北部の鉱山・工場等での労工の死亡率は、労工が鉱山などに来て、最初の半月で
 6.7%、6ヶ月後で75.9%である。西安炭鉱では、労工は1年たらずでほぼ「消耗」した。
          〈『満州炭鉱資材読本別冊』(日満商事調査室発行) (「別冊」には、北票
           炭鉱など14の炭鉱・工場等の労工の死亡率が克明に記録されている。)〉

 満州国の「万人坑」と中国人強制連行
 日本が支配した傀儡国家「満州国」の強制連行・強制労働の各々の現場で多数の中国人労工が死亡
し(殺され)、膨大な死者がまとめて埋められ、「万人坑」が作られた。そういう「万人坑」が旧「満
州国」内に何十ヶ所もある。強制連行された中国人は全体で数百万人から1千万人もの規模になり、
死亡率の高さも「内地」とは比較にならない。

                      《青木茂氏(平和を考え行動する会)作成資料から》




 日中歴史共同研究報告書(2010年1月31日発表)に記された「中国人強制連行」

 …また、満洲や日本への労働力の提供のため、華北において強制的な労働力の動員が42年から実施され、その業務
は日本軍と華北政務委員会の統制下にあった華北労工協会が一元的に請け負っていた。 200万人を超える労働者が華
北から満洲、蒙彊に提供された。44年以降は華北政務委員会が表面に乗り出し、重要労力緊急動員の秘密命のもとに
日本軍が出動して「浮浪遊民」を逮捕徴発して日本や満洲に送り込んだ。日本全土への強制連行は43年 9月から試行
的に始まり、45年 5月までに約 3万9000人の中国人が移送され、過酷な労働に従事し、秋田県の花岡鉱山事件のよう
に中国人労働者の大規模な蜂起事件も起こっている。(各事業場の「華人労務者就労顛末報告書」に基づく研究とし
て、西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会 2002年)がある。 臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社 2000年
207-10頁。花岡事件については西成田『中国人強制連行』、363-402頁を参照。)
               〈第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(日本語論文)波多野澄雄氏執筆より〉

 …占領地域では、労働資源も日本による経済略奪の重要な対象であった。日本軍による略奪、労働力の酷使には主
に三種類あった。ひとつは戦争中に直接壮丁を拉致して労役に当たらせる、次に労働者協会あるいはその下部の事務
所、県事務局を通じて農民を騙し、脅迫して中国東北部や日本に送り働かせる、そして農家各戸に毎年各種の労役を
負担させるもので、例えば北平昌平県では平均で各戸が1年に「延べ 175回出夫」しなければならなかった。研究者
の統計によると、わずかに華北地域だけでも、日本のために働いたもの、およびその家族の総数は960余万人に達
し、うち 38900人余りの労働者が日本へ連れて行かれ働かされた。労働者たちの労働や生活条件は極めて劣悪で、多
くの労働者が負傷し、障害が残ったり、あるいは死亡するものまであった。さらに多くの労働者たちが日本軍による
秘密の軍事要塞建設にあたった後、残酷にも集団虐殺された。(『北平敵占区人民的生活負担』(1941−1945年)、
強重華編、『抗日戦争時期重要資料統計集』、北京出版者 1997年、326頁。『歴年華北“強制労働及家属掠往日本
“満洲蒙疆華中人数統計表』、居之芬、張利民主編、『日本在華北経済統制掠奪史』、420頁。 日本の対中国経済
略奪に関する部分は南京師範大学の張連紅教授執筆の原稿による。)
               〈第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(中国語論文)陶文サ氏執筆の翻訳文より〉

                                       《外務省ホームページから》


 七三一部隊

 日本陸軍の細菌戦部隊。関東軍防疫給水部の秘匿名。1932年関東軍防疫班として発足。中国人政治
犯など約3000名を人体実験に使い細菌兵器を開発、40年以後中国戦線でペスト菌などの細菌戦を実施
した。開発した生物兵器と人体実験の情報は、戦後アメリカに受け継がれた。(山田朗)
                                《「角川世界史辞典」より》

 侵華日軍(旧日本軍)第731部隊罪証陳列館館長金成民氏は、長年にわたる研究と訪問調査を通して、人体実験に
使われた犠牲者1467人の身分を確認した。この中には、ソ連人23人と朝鮮人6人が含まれていた。これらの犠牲者は
全員、ソ連のスパイという名目で日本の憲兵隊に逮捕された者たちで、ほとんどは抗日戦争を戦った地下情報員で、
中国軍の捕虜も含まれていた。731部隊第四部(細菌生産部)の川島清部長は、かつて「1939年から1945年までの間
に少なくとも年間 500人がハルビン平房の731部隊本部で人体実験に使われた」と供述している。金氏は、侵華日
軍が中国南部で進めた細菌戦で8000人余りが犠牲になったことも確認している。 《新華網 2010/5/16発信情報等》


 留用された日本人

 …戦後、中華人民共和国建国のために働いた日本人がいた。鉄道や製鉄所の技師として、従軍医師や看護婦とし
て、空軍創設の教官として、好むと好まざるとにかかわらず協力を要請され、革命に参加しなければならなかった。
           《『「留用」された日本人―私たちは中国建国を支えた』(日本放送出版協会、2003年)から》

 …敗戦後、日本軍人・民間人の引揚が相次いで行われていったが、その一方で、一部の軍人が国民政府側に協力す
る形で中国に残留したのである。さらに、最近の研究では戦後、日本の技術者、教育者、医療関係者、行政官僚、貿
易関係者等、数多くの民間人が国民政府(共産党支配地域においても同様)にほぼ半強制的に徴用・留用され、経済、
社会各分野の接収・復興に協力していたことが明らかにされつつある。(鹿錫俊「東北解放軍医療隊で活躍した日本
人―ある軍医院の軌跡から」『北東アジア研究』2004年1月。 松本俊郎『清洲国から新中国へ―鞍山鉄鋼業からみた
中国東北の再編過程1940〜1952年―』名古屋大学出版会、2000年。NHK「留用された日本人」取材班『「留用」された
日本人―私たちは中国建国を支えた』日本放送出版協会、2003年。)
 《「日本軍の山西残留に見る戦後初期中日関係の形成」(張宏波著、一橋論叢,134(2):187-20、2005-08-01)より》

 …国共両軍は日本がポツダム宣言の受諾の意思を表明した直後の 8月10日から、争って日本軍の接収に乗り出す。
延安総司令朱徳は、解放区の全部隊に日本軍と傀儡軍の武装解放を命じ、各地の部隊に降伏受入のための進軍を指令
した。一方、蒋介石は11日、日本軍に対して、しばらく武器と装備を維持し、治安維持と交通確保にあたり、中国陸
軍総司令何応欽の命令を待つよう訴えた。また、蒋介石は、抗日戦勝利のラジオ演説のなかで、「暴を以て暴に報ゆ
る勿れ」と述べ、軍閥の戦争責任は追及されねばならないが、日本人民に報復や侮辱を加えてはならないと訓告し
た。 こうした対日宥和的な態度に期待する日本政府は、 8月16日、「日支間の行懸りを一掃し、極力支那を支援強
化し以て将来に於ける帝国の飛躍と東亜の復興に資す」ため、事業者、技術者及び企業の残留を奨励し、「誠意を以
て支那の復興建設に協力し日支の提携を促進する」ことを決定した。 8月21日、これを重光外相名で現地公館に伝え
ている*。 この指示の効果は不明であるが、中国にとどまって技術支援や復興支援にあたろうとする数千の日本人が
残留(留用)したことは事実である。(*江藤淳編『占領史録(上)』講談社学術文庫、1995年、524−31頁。)
〈日中歴史共同研究報告書(2010年1月31日発表) 第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(日本語論文)波多野澄雄氏執
筆より〉                                   《外務省ホームページから》

 …終戦後相次いで旧満州に進駐した国民政府軍及び中国共産党軍は、ともにその戦力の強化を図るため、多数の日
本人を留用した。…昭和24年10月、中華人民共和国が樹立された。国民政府軍に留用されていた日本人は同軍の敗退
に伴い、その大部分は順次留用を解除され帰国したが、中国共産党軍に留用されていた者は新政権樹立後も引き続い
て留用され、その数は家族を含め3万5,000人は下らないと推定されていた。…
 《『援護50年史』(厚生省社会・援護局 援護50年史編集委員会監修 平成9年3月 鰍ャょうせい発行)45頁から》

 山西省残留日本兵

 終戦に伴い、中国の山西省に駐屯していた支那派遣軍北支那方面軍第一軍(司令官澄田らい四郎中将、兵力約5万
9千)は、山西軍(第二戦区司令長官閻錫山が指揮していた中国国民党軍)に対し降伏の手続きをとるよう支那派遣
軍総司令官からの命令を受けた。それに対して、山西軍は、日本軍の援助がなければ当時急速に勢力を拡大させてい
た中共軍に敗れる恐れがあったので、それに抗するために(全将兵の完全な内地帰還の方針や中国国民政府による日
本人の徴用禁止の命令があるにもかかわらず)、「第一軍の将兵のうち1万人を山西に残留させなければ、山西にあ
る日本軍民の内地帰還は実現しない」と宣伝する等して、日本兵の残留工作を行った。これを発端とする様々な経過
があったが、最終的に2,563名の将兵が残留した(なお、これらの者のうち、約1,600名は、昭和22年、
23年に帰国した)。
 第一軍は、山西省に残留した将兵に対して、陸軍部隊の復員に関する規定に従い、現地除隊(召集解除、解雇)の
処置をとった。
 在留邦人(当時山西省には民間の居留民約3万人がいたという)(家庭が現地にある等の事情で終戦直後現地除隊
した現地応召の元軍人を含む)も、相当数の者が応募して山西軍の鉄路護路隊に入隊した。
 これらの残留者は、当初山西軍の特務団に編入されたが、特務団は21年の9月頃第十総隊に改編され、先に編成
していた鉄路護路隊もこれに吸収された。 
 これらの人々は、山西省に留まり、昭和21年7月から9月に至る大同攻防戦、昭和23年6月から8月に至る晋
中作戦(麦の収穫援護のため太原の南方太谷附近に進出した山西軍と中共軍との戦闘)及び昭和23年10月から昭
和24年4月に至る太原攻防戦に参加し、約400名(邦人を含む)の戦死者を出し、700名以上が中共軍の捕虜
となり、抑留された。
 これら抑留された人々は、昭和28年から昭和31年9月までの15回の帰還により、692名が帰国したが、こ
れらのうちには、国共戦闘または抑留の間に受傷、罹病した相当数の傷病者もあった。
             〔以上は、厚生省引揚援護局未帰還調査部が 1956年(昭和31年)12月3日に調製した
              「山西軍参加者の行動の概況について」の文面、その他を参考にして作成しました。〕

 元残留兵の多くは、帰国後、各都道府県への軍人恩給の請求を行ったがいずれも棄却された。これを受けて、13
名の元残留兵により、軍人恩給請求棄却処分の取消を求める行政訴訟が2001年に東京地裁に提起された(山西省
残留日本兵恩給訴訟)。これについては2004年4月の第一審判決に続いて、二審判決も原告側の敗訴となった。
そして最高裁も2005年9月、上告を棄却した。
 訴訟における争点は、特務団への参加が「軍命令」であったのか、それとも「自己意思」であったのかということ
であった。判決は「本人の任意で残留した」と認定した。
                          《以上、関連ホームページを参考にして記述しました。》

 中国残留婦人、残留孤児

 …終戦直後の旧満州の混乱の中で、肉親等と死別又は生別した日本人婦女子のうち自活の手段を失いやむなく現地
住民に救いを求め、あるいは拉致された後その妻となった者は、約4,000人と推定され、 また、両親を失った孤児及
び親等が養育できないため現地住民に託した子供等は、約2,500人と推定される。 これらの中国人の妻となり、また
孤児として現地住民の家族に入った者は、次第に現地住民の生活に同化して残留することとなった。
 《『援護50年史』(厚生省社会・援護局 援護50年史編集委員会監修 平成9年3月 鰍ャょうせい発行)46頁から》

 昭和47年の日中国交正常化以後、中国残留邦人の身元調査、帰国事業が本格的に進められ、数多くの中国残留邦人
が本邦への永住帰国を果たしている。日中国交正常化後に国費により永住帰国した中国残留邦人の数は、6,343人(同
伴家族を含めた人数は、20,293人)となっている。 《中国残留邦人への支援に関する有識者会議H19.5.17資料から》

 中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年4月6日法律第30号)
 →中国残留邦人等に対する新たな支援策(平成20年4月より)
  →老齢基礎年金の満額支給 老齢基礎年金を補完する支援給付 地域社会における生活支援

 中国残留邦人等に対する支援給付制度… 平成22年11月末現在で被支援世帯数は4,741世帯(福祉行政報告例)となっ
ている。          《厚生労働省社会・援護局(援護) 社会・援護局関係主管課長会議資料 H23.3.3 から》

 日系人強制隔離

 第二次大戦中のアメリカの政策。1942年、日系アメリカ人は市民権の有無にかかわらず、敵性外国
人として強制立ち退きが命じられ、約11万人が内陸部の10か所の転住所に45年まで強制収用された。
88年、日系市民への補償と名誉回復が認められた。(松本悠)     《「角川世界史辞典」より》

 一九八八年八月一〇日、アメリカ上院は市民的自由法を可決し、第二次世界大戦時の日系アメリカ
人の強制収容に対し、アメリカ政府の公式の謝罪と一人当たり一律二万ドルの補償金を手渡すことを
決めた。これを受けて同じく日系人を強制収容したカナダでも謝罪と補償金一人当たり約一万八千ド
ルの支払いを決めている。
      《岡部一明著 『日系アメリカ人強制収容から戦後補償へ』(岩波ブックレット) より》


 ホロコースト

 ナチスによるユダヤ人大量虐殺。…ドイツ・ユダヤ人に対するヒトラーの迫害は、1933年1月、彼
の首相就任1カ月後に始まり、…。42年1月のワンゼー会議で「ユダヤ問題の最終的解決」につき、
ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し、「しかるべき扱い」に処す
るという決定がなされた。…ガス室やその他の方法により、おそらく400万人ものユダヤ人がアウ
シュビッツ収容所など各地の絶滅収容所で命を落した。戦争中、ナチスに処刑されたユダヤ人の総数
はおよそ570万人と推計されている。ユダヤ人に加えて、40万人ものジプシーもホロコーストで
殺された。                      《「ブリタニカ国際大百科事典」より》

 …旧西ドイツでは、1956年に成立した連邦補償法のもとで、2030年までに個々の被害者に対して合
計 200億マルク(7兆7000億円)の国家補償を行うことにして(いる)。
               《「マイペディア百科事典」(日立システムアンドサービス)より》


 平成十九年度予算における恩給の受給者数

 全対象者百五万六千人の内、旧軍人恩給対象者が百三万人
 旧軍人恩給  対象者   受 給 者 数       平均年額
        本 人  二十四万四千人(23.7%)  約七十九万円 
        遺 族  七十八万六千人(76.3%)   八十五万円

  恩 給 の 種 類     対 象 者       受給者数    平均年額
 公務扶助料     戦没者の遺族        約十万人   約百九十七万円

           戦争で傷病を負われた方々で
 増加恩給       比較的重症の方      約一万人   約三百三十四万円
 増加非公死扶助料   上者の死後その遺族が受給 約二万人   約百五十六万円
 傷病年金       比較的軽症の方      約二万人   約五十万円
 傷病者遺族特別年金  その遺族         約二万人   約五十万円

 普通恩給      必要在職年を満たした後退職 約二十二万人  六十五万円
 普通扶助料     その遺族          約六十三万人 約六十一万円 

 受給者の平均年齢、全体で平均八十四・九歳、公務扶助料八十八・三歳

 恩給受給者数が最も多かったのは一九六九年(昭和四十四年)の二百八十二万人

 旧軍人遺族等の恩給が一九五三年に復活して、昭和二十八年度から平成十八年度までの予算を
 積み上げると、約四十七兆円(現在の物価に当てはめると六十兆五千億円)になる

 平成十九年度予算における恩給費の総額は八千七百十五億円(一般会計予算の1.1%を占める)

 《国会会議録検索システム「参議院会議録情報」から、
   第166回国会 総務委員会 第7号 平成19年3月29日(木曜日)の議事録を参考に作成しました。》


 日本国による賠償並びに戦後処理の一環としてなされた経済協力及び支払い等

1.賠償                (計 10億1208万ドル    :3643億4880万円)
   (1)サンフランシスコ平和条約第14条(a)1に基づくもの(フィリピン:5億5000万ドル、ベトナム:3900万ドル)
   (2)個別の平和条約に基づくもの(ビルマ:2億ドル、インドネシア:2億2308万ドル)

2.中間賠償              (計   4524万8997ドル  :  1億6515万8839円)
   (*1939年の評価額。1ドル=3.65円) 

3.在外財産の放棄           (計236億8100万ドル    :3794億9900万円)
   (1945年8月15日時点。GHQ覚書に基づき外務・大蔵両省の共管で設置された在外資産調査会の評価による。)
   (サンフランシスコ平和条約第14条(a)2に基づくもの) 

4.戦後処理の一環として締結された経済技術協力協定等に基づく経済協力等
                    (計 7億 539万3622.41ドル:2539億4170万5380円)
   (1)賠償請求権を放棄した国に対して行われた経済協力(ラオス:278万ドル、カンボジア:417万ドル、
                                    マレーシア:817万ドル、シンガポール:817万ドル)
   (2)分離地域に対する経済協力等(韓国:3億ドル、ミクロネシア:500万ドル)
   (3)その他各国に対する経済協力等(タイ:1500万ドル+2667万ドル、フランス:417万ドル+48万ドル、
                        インドネシア:1億7691万ドル、ビルマ:1億4000万ドル、モンゴル:1389万ドル)

5.捕虜に対する償い          (計   1261万4125ドル  : 45億4108万5000円)
   (サンフランシスコ平和条約第16条に基づくもの) 

6.私的請求権問題等の解決のための支払い(計   2383万7261ドル  : 85億8141万4246円)
   (1)連合国に対する支払い(オランダ:1000万ドル+28万ドル)
   (2)旧枢軸国に対する支払い(イタリア:120万ドル)
   (3)その他各国に対する支払い(スイス:286万ドル+57万ドル、スペイン:550万ドル、
                    スウェーデン:140万ドル、デンマーク:84万ドル+118万ドル、オーストリア:1万6700ドル)

7.戦前債務の支払い          (計   187万4263ドル  :  6億7473万4680円)
   (サンフランシスコ平和条約第18条又は個別の平和条約に基づくもの)
   (イギリス:140万ドル、カナダ:1万7500ドル、インド:2万5000ドル、ギリシャ:16万1763ドル、アルゼンチン:27万ドル)

8.戦後処理の一環として締結された経済開発借款取極等に基づく借款
                    (計 9億4660万ドル    :3407億7600万円)
   (ビルマ:5000万ドル+3000万ドル、フィリピン:2億5000万ドル、
                        インドネシア:4億ドル、ベトナム:750万ドル+910万ドル、韓国:2億ドル)


   (注)換算レートは、1ドル=360円(*を除く。)

 《外務省ホームページ「賠償並びに戦後処理の一環としてなされた経済協力及び支払い等」を基に作成しました》


 村山内閣総理大臣談話

            「戦後50周年の終戦記念日にあたって」

                                         平成7年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内
外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このこ
とは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念
を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらため
て深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好
関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは
過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。
とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なに
よりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、こ
の考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流
の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んで
いる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応
してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望ん
で、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略
によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無か
らしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表
し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を
捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社
会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。
同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化な
ど、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲と
なられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明
し、私の誓いの言葉といたします。 
                                       《外務省ホームページから》

   天皇陛下が78歳の誕生日(平成23年12月23日)に際し、文書で公表された感想から


 今年は先の戦争が始まって70年になります。この戦争における死者はおびただしい数に上り、戦
後、こうした戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう、日本の人々は、真摯に過去を学びつつ、戦
後の厳しい困難に耐え、営々と国づくりに励み、今日の日本を築き上げました。戦争の記憶が薄れよ
うとしている今日、皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び、平和に思いを致すことは極めて重要な
ことと思います。


   Seventy years have passed  since the outbreak  of the prior war.   As the war caused 
immense casualties,  the Japanese people became determined never to repeat the ravages of 
war. Sincerely learning lessons from the past, they endured the harsh difficulties of the 
postwar years and strove diligently to build today's Japan.  Now that the memories of the 
war have started to fade,  I think  it is extremely important for everyone  to study time 
and again the course of history Japan has followed and to reflect on peace.


                               《宮内庁ホームページ等から》



 2005.8.14 初アップ、その後も少しずつ手直しを続けています。


開設者より

 私のホームページに訪れてくださり、ありがとうございました。
 この「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」のファイルを載せてからは、閲覧者の方々から、このファイルについての感想や問い合わせが多く届くようになりました。カウンターを設置したところ、私の他のファイルと比べて群を抜いて多く閲覧されているということを知りました。状況を見ると、一日に百件ほどの閲覧があるようです。この問題について、多くの方々が関心を持っておられることを実感した次第です。
 時々、掲載の資料を掘り下げた内容の質問や、関連の資料の有無についての問い合わせが届きますが、私はこの問題についての研究者ではありません。このホームページは、私の趣味の範囲で、個人的な関心に基づいて、素人が作成しているものですので、よって皆様の専門的な求めに応じられる力量はないわけです。各資料については、図書館にあるものなど、素人の私が容易に接することができたものを、著作権等に注意を払って引用させていただいたものです。
 掲載の内容をきっかけに、皆様が更なる高い関心を持たれ、皆様なりに学習を深めてくださることを願っています。併せて、閲覧されての感想や、記載データの誤りの指摘などについては歓迎いたしますので、お伝えいただけることを願っています。今後ともよろしくお願いします。