二十一世紀、科学が発達し、インターネットで世界中との交信が、瞬時に可能の時代、国内で大ブームを呼んでいるのが、平安時代の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)。
初冬を迎えた十一月、京都・大阪に点在する晴明ゆかりの伝説の地を、カメラと地図を片手に訪ねた。
■晴明神社
第一日目は、午後より京都の北の方角、上京区へと向かう。堀川一条に、晴明を御祭神とする晴明神社がある。ここは、寛弘(かんこう)四年(1007)に、一条天皇が、晴明が稲荷大神の御分霊(ごぶんれい)であるので御霊を祀り創建された。神紋は、晴明が創り出した星形の五芒星(ごぼうせい)と呼ばれる「晴明桔梗印」で、祈祷呪符のひとつ。天地五行(木・火・土・金・水)をかたどり、邪気を祓う霊験がある。西洋諸国でも古くよりペンタグラムと呼ばれ、魔除けの印としている。休日には、晴明ブームに乗って、境内には若い女性や善男善女で賑わう。
■一条戻橋
晴明神社より、堀川通を横断してすぐの所に、一条戻橋(いちじょうもどりばし)がある。陰陽師の安倍晴明は、式神(しきがみ)という一種の精霊を、自在に操作した。晴明邸では、人もいないのに、蔀(しとみ)が上げ下げする事があったと伝えられる。晴明の妻がこれをこわがったので、式神をこの戻橋の下に封じて、用事のあるときだけ呼び出していたという。現在は、橋のたもとに柳の木がうっそうと繁り、いかにも式神のすみかを思わせる。
■晴明邸宅跡
一条戻橋から東南方向へ徒歩五分。新町通中立売(京都御所西)、近代的な建物の京都ブライトンホテルの南側一帯が、晴明の邸宅跡。早速、晴明の気を求めてホテルに入り、緑と光あふれる1階ティー・ラウンジで休憩。
■法成寺跡
日は西に傾き、タクシーに乗り京都御苑東、荒神口通寺町、鴨沂(おおき)高校のそばにある法成寺(ほうじょうじ)へと急ぐ。法成寺は、寛仁(かんにん)三年(1019)、藤原道長が出家して建立。宮廷陰陽師・晴明のライバルで、法師陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん)は、法成寺門前の地中に呪文を埋めて、道長に呪いをかける。晴明は、これを道満のしわざと見破り、懐から取り出した紙を折り、式神の術で白鷺にかえて彼の居所をつきとめる。道満は故国の播磨に追放される。道長が、奈良の東大寺に真似て建立した法成寺だが、現在は高校の運動場で、何の跡かたもなく、法成寺の石碑が建つ。
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■安倍晴明神社
二日目は早朝の出発。天王寺より阪堺上町線東天下茶屋駅下車、徒歩五分。この神社は、寛弘四年(1007)の創建と伝えられ、安倍晴明が祀られる。晴明は、天慶(てんぎょう)七年(944)に、この地で誕生した。「安倍晴明誕生地」の石碑のそばに、晴明の産湯に使われたという井戸がある。
■葛葉稲荷神社
阪和線北信太(きたのしだ)駅下車、徒歩五分。安倍晴明は、今の大阪市阿倍野の里に住んだ豪族安倍氏の出である。父安倍保名(やすな)が、和泉信太森葛葉稲荷に参拝の折、狩人に追われた一匹の白狐を助けた。白狐は、葛の葉という女性に化け、保名と結ばれ、童子丸という子供をもうけた。その子が五歳のとき、正体がわかり「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる信太の森の うらみ葛の葉」の一首を、口に筆をくわえ障子に書き残し、信太の森へ帰っていった。成人した童子丸は、名を安倍晴明と改め、京都に上り陰陽家の賀茂忠行と、子息保憲に陰陽道と天文学を学び、朝廷に仕え天文博士となったと伝えられる。境内には、白狐が女性に化けた時、鏡に代えて姿を写したという、姿見の井戸がある。
■晴明墓所
三日目は、京都嵐山へと向かう。秋の紅葉を迎えた嵐山は、平日というのに観光客で賑わう。きのう、シベリアから帰ってきたという、ゆりかもめが渡月橋の上を元気に飛び交う。右京区嵯峨角倉町の静かな住宅地の一角に、晴明墓所がある。早速、近所の人に花立の水をもらい、献花をする。最近、急におまいりの人や、観光客が増えたと話してくれた。最後の写真を撮り終える頃、ポツポツ雨が降り出した。無事終了である。
短い日帰りの旅であったが、どの神社も参拝客の足が絶えない。国内各地に、晴明を祀る神社や寺院、その他伝説の場所が点在している。また、晴明と陰陽師についての関連本も、たくさん発行されているが、やはり京都を一度は歩いて晴明に近づいてみるのも、楽しい。
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真弓能 裕子
(能仁会能面師撮影/筆者)
能楽タイムズ 3月号より |