阪神大震災で被害の大きかった長田区の池田広町へ、平成13年3月引越。このあたり、今もまだ空地が目立つ。自宅から、東へ1.5km。兵庫区松本通に浄土宗上野山願成寺(じょうやさんがんじょうじ)という寺がある。この境内に謡曲「通盛(みちもり)」に登場する平通盛と小宰相の局(こざいしょうのつぼね)の塔がある。平清盛が治承4年(1180)に、福原遷都。神戸には平家ゆかりの史蹟が点在する。
願成寺縁起
 この寺は、もとは烏原(からすばら)の村住蓮坂の下、烏原川の左岸にあり上野山と号し、天平年間(729〜743)僧行基が諸国行脚の折、この地に聖徳太子作の観音自在菩薩(現存)を安置し、観音寺と号し創立する。
その四百余年後、法然上人(1133〜1212)の弟子住蓮坊(じゅうれんぼう)が、この霊地を訪れ荒廃を歎き無量寿佛を安置し、願成寺と名付く。
 明治33年、水道貯水池の建設にあたり、烏原村全村退去の時、この寺も松本通に移転する。
願成寺地蔵尊縁起絵巻
願成寺は、寛永年間(1624〜1643)火災で焼失。辛じて灰燼の中から、由来書の余片を求め、その文を補修し、延命地蔵を信仰する菅原朝臣大足卿に請願し、天明4年(1784)6月、改めて縁起を作る。
長文の絵巻物には、延命地蔵が小宰相の御守本尊となる由来が記される。
 住蓮塔
住蓮坊は、源頼光の長子頼親の末裔實遍の子。曽父信實より代々興福寺の衆徒。住蓮出て法然上人の弟子となる。建永元年(1206)12月。同門の安楽と共に鹿ヶ谷にて念佛会を行う。この時、後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫も参会し、落髪し尼になり、上皇の怒にふれる。法然・親鸞は流され、承元元年(1207)同門の安楽と共に、近江蒲生郡馬淵にて斬首。年39。弟子、その首を持ち帰り塔を建てる。

延命地蔵
願成寺には、小宰相の局の念持佛の延命地蔵が、安置される。局が、阿波の海底に身を沈めるとき、この地蔵尊に別れを告げ、乳母に尊像を大切に守護し、廻向を頼んだと、伝えられる。
通盛・小宰相局塔
越前三位通盛は、清盛の弟門脇中納言教盛の子。小宰相は、藤原為隆の子刑部卿範方の娘。通盛は、上宮門院の官女小宰相に恋慕。恋文をつき返されて涙する通盛の「我恋は細田川の丸木船ふみかえされて湿るゝ袖かな」の歌に、門院憐み二人を取りなして、遂に妻とする。
寿永3年(1184)2月7日、源氏と平氏の戦闘開始。両者激戦。湊川で通盛が討死。局、その知らせを聞き悲しみのあまり数日後、船に乗り阿波の鳴門で海に飛び入る。

乳母呉服塔
乳母は呉服(くれは)と言い佐渡成経の妻、夫身まかりし後、小宰相の局に仕える。
局の死後、出家し烏原に止り住蓮坊と共に、通盛と小宰相の菩薩を弔らった。呉服は、住蓮坊の妹で二君の石塔を建てたと伝えられるが、他にも諸説あり。

松虫・鈴虫塔
松虫・鈴虫と小宰相の乳母、あわせて三基の塔は、平成7年の阪神大震災で破壊された。断片が残存。近い将来再興の予定。

現代の願成寺
願成寺29代住職濱田諭稔(はまだゆうねん)氏(65)には、お忙しき中を何回もの取材に親切にお答え頂き感謝申し上げる。
昭和20年3月17日、太平洋戦争の神戸大空襲。上空より、B29が寺をねらって落とした焼夷弾、本堂から3Mほど離れた野井戸の中へ水中落下。不発に終る。神戸は一面の焼野原。しかし、願成寺は奇跡的に残った。そして、平成7年1月17日、阪神大震災。この地区も火災が起きる。燃えさかる炎は願成寺の道ひとつで止る・・・助かった。願成寺の不思議な生命力。
平成12年から、神戸市の区画整理で寺の西側道路拡張。山門が12M、本堂が2M、東へ曳き家の如く移動。完了は平成16年。

ロマン法要
 全国各地から、平家ゆかりの人々の訪問があるが、通盛・小宰相の塔には、謡を稽古される方々の参拝も絶えないという。関東方面から謡のグループが来られて、本堂で「通盛」を謡われることも。能では通盛に中将・今若の面。小宰相は各流の女面(小面・若女・孫次郎等)を使う。
通盛に15で見初められ、19で入水した小宰相の悲話。しかし、二人が相思相愛ゆえに、「良縁成就」「縁結び」を願う若い女性、カップルの参拝も多いという。2月7日、戦死した通盛と小宰相を弔う、「ロマン法要」が震災前迄、毎年2月11日の建国記念日に、行われていた。通盛・小宰相の塔に献花し、全国から寄せられた「良縁成就」のお礼の手紙が読み上げられたり、厄除けの、火渡りの行事も行なわれた。全国から四・五00人の人出で賑わい、ある時には、川崎市より小宰相の末裔を名乗る女性も現われた。この行事は寺周辺の整備後再開される。都会の真中にある現代の「平家物語」である。
資料提供/願成寺
能面写真提供/鈴木能仁(能仁会 能面師 撮影/筆者)