平成11年2月11日、日本の能面界では、ただ一人の無形文化財選定保存技術保持者の長澤氏春(ながさわうじはる)師(86)の工房のある静岡県伊東市を訪ねる。
  伊豆高原駅下車、静かな住宅街の一角。ここに住居を構えられて約十年。工房は家とは別の離れ屋にある。室の中は座ぶとんがひとつ、そばには彫刻刀の入った木箱、大小さまざまの筆、天然砥石など能面制作の為の道具が所狭しと置かれる。西側に自然光の入る大きな窓。視線を上げると壁に時代を感じさせる古い仮面。

  長澤師のすばらしい作品が生み出される工房で、面打ち人生のお話を伺った。
長澤氏春師は、大正元年12月21日、京都市等持院北町(とうじいんきたまち)に生まれる。本名・長澤金子郎(きんしろう)。父喜太郎。二女三男の順の次男。母たねは三男出産後没。長澤師の家は代々京都御所に出入りする「檜皮屋(ひわだや)」という屋号の名字帯刀を許された由緒ある植木職。そして、等持院北町から北野神社前までの広い土地を所有していた。
  裕福な家庭に育ち、当時の人々の服装がまだ着物と下駄という時代、金子郎少年は洋服と帽子に革靴で小学校へ行くが、その姿が珍しいので回りの子供たちにいじめられる。子供心にもそれが嫌で、北野神社の森の中で学校が終わる迄、一日中遊んでいたということもあった。
  父親の代になり本業以外にも手を広げ、牧場をしたり、パン屋、カメラ屋、ミシン屋と目先の変わった事業をするも次々と失敗。ついに没落。生活は一転、十一歳になった金子郎少年は、染物屋、袋物屋とあちこち丁稚奉公に出されるが、最後に父が遠い親戚にあたる面打師橘清伍(たちばなせいご)師のところへ連れていく。橘氏は当時京都では、ただ一人の本職の面打師である。生まれつき手先が器用で、小学生に入る頃から細工物が得意だったので、師匠の仕事の手順や呼吸をすぐに飲み込み1年程で独立。その後、京都四条通りの骨董屋・河文(かわぶん)さんの先代が好意で筋の良い古面など貸してくれる。その面を写しては借りるを繰り返すうち腕前も上達した。
  昭和12年日華事変がおこり25歳で応召、戦争は深みにはまり、昭和16年太平洋戦争勃発。戦中、戦後は面が売れない。食べていくために友禅の下絵書き、大工、左官、仏師、もした。麻雀牌も彫った。
  40歳頃より面打に専心。昭和54年、67歳のとき、面打師としては初めての無形文化財選定保存技術保持者に認定される。さらに昭和58年、勲五等瑞宝章を受章。

  満14歳からこの道に入り74年。長い歳月の間には、師の身辺も吉凶さまざまに織りなす。その人生の折々に何百・何千という数え尽くせない古面との出会い。それが師の作品に強い影響を与える。優れた古面を手にとり面を打ち、奥義(おうぎ)を学ぶ。古面が師匠の役目を果たした。
  能面はざっと200種類もある。その中で最高に難しいのが女面。それを立派に打てば、あとは何でも出来るという。一人前には40年かかる面打ちの道。製作に行き詰まり壁にぶつかること一度や二度ではない。何度面打ちをやめようと思ったことか。若い頃は月4〜5面を打つ。現在は年4〜5面。江戸初期の作家河内家重(かわちいえしげ)の作品を最も愛され、その可憐な小面をいつも座右に置く。
  大正、昭和、平成と一人の面打が、ひとすじの道を歩む。今、師は「道を極める」から、「道を楽しむ」境地にある。師は、その心を語った。

・・・ たのしい。
    何もかも忘れる。 ・・・

 
眞弓能 裕子
※参考資料:「面打ち長澤氏春」毎日新聞社
能楽タイムズ 平成11年5月号より
 
     
 
長澤氏春師は平成15年4月20日逝去91才。奇しくも名工河内家重の没年明暦3年4月20日と命日が重なる。
心より長澤先生のご冥福をお祈り致します。