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七月に入ると金剛さんの虫干しの葉書が、ふわりと舞い込んでくる。
いつもの御案内を手にするとそこに真夏の太陽が射す京都の風景が重なってくる。この虫干しの日を前にして、七月十日午後六時から七時半迄、金剛能楽堂財団が主催する「金剛能楽堂研修会」が開催された。「研修会」と聞くだけで誰もが何やら堅苦しい雰囲気を想像してしまうが、全くその心配も無用であった。
講師はこの二月に逝去された中村保雄氏に代わり、財団常務理事・能楽師の金剛永謹氏である。毎年、虫干しの方ではその流暢な説明を楽しく伺っているが、このように別の機会にお話を聞くのは初めてで、当日迄がとても待ち遠しく思われた。
会場は能舞台の見所の所に演壇を作りその前にあの可愛い座布団が、市松模様に並べられていた。参加者の大半が能面を打たれる方々の様で、あちらこちらでそれらしき会話が聞こえてきた。
いよいよ夕刻六時となり金剛永謹氏が、涼しげなる山吹茶の一重にはかま姿で登場された。今日の演題は「金剛の鬼神面」ということである。
そして間もなく演壇の横にしつらえた赤い毛氈を敷いた机の上に、二十面もの能面の入った袋がずらりと並べられた。すでに袋がすり切れて中綿の見えている物もあり、また横糸がほどけているなど、面袋がいかによく使われているかを物語る。
面を見せて頂けると伺っていたが、まさかこんなにたくさんとは思いもよらぬことで、話が始まる前から全員の視線はそこに集中した。
能面は翁・尉・女・男・鬼神・怨霊と分けられて、その中でも翁と鬼神の面は室町時代以前のかなり古い時代からあると説明がある。そして次の能面が紹介された。
まず神様の面より――天神(龍右衛門)大飛出(是閑)小飛出(井関)猿飛出(作者不詳)雷(洞白)不動明王(宝来)黒髭(河内
動物の面――獅子(出目満照)泥虎(赤鶴)?見悪尉(河内)悪尉(春若)長霊?見(洞白)釣眼(洞水)
女の鬼の面――山姥(赤鶴)般若(龍右衛門)般若(赤鶴)
そして最後に男の鬼の面――顰(有閑)以上。
金剛永謹氏はこれらのひとつひとつを、袋から取り出しその説明が終るとまた、袋の中へ戻しつつ、これらの面の作者と能面がどの曲に使われているかとてもわかりやすく説明された。あっという間の一時間で能面の話は終った。残りの三十分は能面を二つの机に分けて並べ拝見となった。能面を置いた机が人垣で見えなくなるのに時間はかからなかった。すぐに黒い頭が能面の上に重なった。
肩身の狭い思いで隙間に入り拝見。美術館の冷たいガラスに隔てられた能面に比べ、こうして間近に拝見できる能面は、毛書きの一本一本に肌の暖かみ迄を感じさせる。
この二十面の中でも最も人気のあるのが般若の面であった。贅肉のないよく引き締まった顔、そしてぎりぎりの所迄彫刻されている――とうてい真似できない。
この二本の角が生えているという事が、他の面では見られない魅力になっている様である。能面を打ち始めた者なら誰もが一度は、いつか打ってみたいと強いあこがれを抱くのがこの般若である。
裏も拝見できた。相当に計算して彫刻しているのだろうが実に自然で作為が感じられない。
どうしたらこんなに良い面ができるのだろうか。出るは溜息なかり、とても自分には打てそうにない。古面の顔がいよいよ厳しくこちらに迫ってくる。どの能面も何百年もの時間をへてはいるものの当時の面打ちの腕と技が、時代を越えて生き生きと伝わってくる。先人達の作品を前にして頭から水をかけられた様に何の言葉も出ない。感じることは自分の腕のもどかしさ未熟さである。今も昔も能面制作の果てなき難しさ、そして作る喜びは変わらない。
金剛永謹氏はさらに奥の蔵から出目打ちと河内打ちの二面の長霊?見を出された。先の洞白のとで、それぞれ作者の違った三面が横一列に並べられた。そして続けてこの様な興味深い話も伺うことができた。
これらの長霊?見のうち河内打ちは能楽師の上級の技量の者のみが舞台で掛けるとのこと。
この三面、実によく似た顔つきでまたよく似た彫りであるのだが、三面ならべてみると流石に河内のだけは演者を選ぶだけあって威風堂々として眼光するどく彫りも独得のもので、他を大きく引き離している。
河内は面の持つ雰囲気を充分にのみ込んだうえで、自分流の彫刻で伸び伸びと自由自在に表現しており、ついつい寸法ばかりに気をとられかんじんの生気を失うことの多い能面制作に、河内は三百年のむこうから一番大切な事を我々に語りかける。
もっとゆっくりと見ていたいと思えども、またたくまに三十分は過ぎて閉会の時がきた。研修会は終った。すっかりと夜のとばりは降り参加者は思い思いのまばゆい印象を胸にいだき玄関を出た。
虫干しにはいつもたくさんの方が来られて賑っておられるが、この研修会はまださほど人にしられていない様である。しかしこれ程のすばらしい能面は、そして、これ程の数が一度に拝見できるという金剛能楽堂財団ならではの研修会は虫干しと同じ位に、見逃すことが出来ない。近い将来は参加される方も増えてだんだん盛会になるに違いない。次の機会を楽しみに神戸への帰路についた。
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坂口裕子(眞弓能)
金剛147号より |
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