一つひとつはささやかな手作り文集であっても、回を重ねることで、私たちの活動を振り返り、社会の要望に添った次の活動を考えるよすがになるものと考えています。
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■第8号 (平成8年12月21日発行) この十月下旬、第27回肉親探しの残留孤児が中国より来日した。頭に白いもののまじった彼等に接していると、もはや孤児という語は適切ではない。半月間の滞在中、肉親と対面できたのは僅か3名であった。度々宿舎の青少年センターを訪れた私は、意外と明るいその表情に救われる想いがしたのである。 1981年第一回の訪日の頃に比べると正に雲泥の差で、服装ひとつをとり上げても、現在の中国の生活状態、その発展ぶりがうかがえる。 お土産の買物を終えた彼等に感想を聞いてみた。「とに角物価が高い。衣類はとても買えない。安い物があったので手にとってみたら、中国製と記してあった。中国の物を日本人が買っているのかと思ったら嬉しくなった。・・・」等々。 半月間を共に語り合ってみて改めて思ったことは、この狭い日本へ今すぐ永住帰国するよりも、景気の好転した中国に現状のまま住んでいただき、その代わり定期的に里帰り制度を設け、順ぐりに日本を訪れてはどうだろうかということである。 僅かな滞在期間なら、たとえ肉親がいなくても、ボランティア団体その他で充分歓迎できるし、遠い親戚でも喜んで応じられるであろう。既に日本に永住帰国されている皆様方との出会いも、どんなにか心温まることかしれない。
あれこれ考えを巡らせていると、なにかじっとしていられない思いに胸をゆさぶられるのだった。 ユッカの会はボランティアの会です。たくさん外国から来た人が無料で日本語を習っています。そのほかに大学、専門学校に行きたい人も習っています。 私は、うちの姉から紹介してもらってユッカの会で勉強をしました。初めてのとき、私の先生は男の方です。とても優しそうに見えました。最初、日本語の基本ひらがなとカタカナをおしえてくれて、「あい、うえ、お・・・」 ほんとうに真面目な先生でした。その日から、毎週日曜日私に日本語を教えてくれました。 けれども、ひと事忘れられないことがありました。それは、冬のある日曜日のことです。冬になってから初めて雪が降りました。朝、おきまして、「おや、おお雪が降りましたよ、今日は大雪ですから、先生はきっといかないだろう」と思って、先生と連絡しなかった。そして家であそんでいました。次の日曜日、私はセンターのところへ行って、先生に聞きました。「せん週大雪が降りましたね。せんせいはセンターにきましたか」。「きました。ずっと待っていたんですけど、あなたは来なかったから、自分で勉強していた」。 あの日家に帰って、ねむれなかった。よく考えて、先生なにも文句を言いませんでした。一生懸命私に教えてくれて、私はこんなことをして、ほんとに自分自身がいけないと思いました。私は頑張らなければなりません。 ユッカの会は勉強だけではありません。先生たちもいろいろ開催しています。たとえば夏は海へ行ったり、秋はスポーツをしたり、健康にいいことをしています。特にキャンプは一番いいと思います。山に行って、自分でごはんをつくったり、せんたくをしたり、自分の生活ができて、困難と闘って、それは楽しいことです。 ユッカの会からたくさんの人が就職して、働いていると思いますが、自分が満足しているとき、ユッカの会の先生たちが忘れられなくて、そして頑張ってください。
ユッカの会は、ほんとうにたのしくて、いい会でございます。(横浜教室) 私は今、中学3年生の女の子と共に1週間に1回2時間ほど勉強しています。彼女は日本に来てちょうど1年くらい、私もユッカの会への参加を始めて1年で、まだまだ慣れない者同士、2人で試行錯誤を重ねています。ただ、中学3年生といえば高校受験が控えています。まだ日本や日本語についていくだけで精一杯の状態でも、学校の勉強や受験はほかの生徒と変わりなく迫ってきます。日本での生活の基本となる日本語をもっとゆっくり勉強したくても、限られた時間の中では目の前に迫った試験や受験に追われてしまうのが実状です。
日本語を教える、という初めての経験のなかで、自分がしていることが本当に彼女の力になれているのかはわかりません。でも、慣れない生活の中で少しでも楽しく日本語を学べる時間になれば、と思っています。そして私もユッカの会での時間がより充実したものにできるように、もっともっと学びたいと思います。(横浜教室
教師) 私と先生が初めて会ったのは3年前です。私の先生はとても優しくて親切な人です。先生は60才をすぎました。でもとてもお若く見え大変お元気です。私は先生から日本語を教わるだけじゃなくて、社会や日本の習慣や料理なども教わります。 たとえば、私は家や学校になにかあったとき、いつも先生に相談します。そういう時先生からいろいろ教わります。
この間2月25日に私は先生の家で、おいしいものを食べたり和服をきせてもらったりしました。私は50歳を過ぎて初めて本当に日本人になったような気持ちで大変うれしかった。ですから、私は心からいつでもどこでも先生に感謝しております。(横浜教室) 日本に来る前に、日本語はぜんぜんわかりませんでした。日本語は難しいですね。そのあとで、上大岡で8ヶ月、日本語を勉強しました。少しずつわかるようになりました。例えば、「いくらですか」、野菜のなまえ、銀行と郵便局と病院などのことばをおぼえました。 私は足がわるいのですが、頑張って日本語の勉強をしています。家では、毎日、料理とせんたくと掃除などします。私はテレビを見て日本語を勉強しますが、日本人はことばがはやいので、わたしはぜんぜんわかりません。 私は時間のあるときは、ともだちと一緒に散歩します。あそびとか、かいものとか、公園で花見をしました。私は日本がすきです。日本は花がいっぱい、景色はきれいです。ときどき、私は日本人と話をします。おもしろいです。日本の料理は、おいしいです。 私は日本に住んで、日本語がわからないとき、決心をし、日本語の勉強をしに、かながわ県センターに行きました。先生は66才の男の先生で、熱心で親切で、中国にいる私のちちとおなじ気持ちで、先生は教えてくれます。
日本語の勉強を私はたくさんし、日本の生活習慣をおぼえ、ずっと日本で生活をしたいです。日本語の勉強をすること、日本人のともだちが多くなること、私は希望します。(横浜教室) 日本語教室のボランティアを始めて2年半、最初のうちは「先生」と呼ばれると面映ゆいような、くすぐったいような、なにか落ち着かない気分だったが、「おばさん」 よりも 「先生」 のほうが、こちらも気を引き締めて責任を感じるようなプレッシャーがあり、「まっ、いいか」 と、今では 「先生」 に抵抗を感じなくなった。 K君は、来日して半年、最初危惧した「いじめ」もなく、すっかりクラスに馴染んで、日常会話はどんどん上手になってきている。彼の覚える言葉によって、学校の中での状態が想像できて楽しい。
6月の2泊の課外学習から戻ると、それまで「僕」の一人称が 「おれ」
になっていた。夏休みになると仲の良い友達を姓ではなく、愛称で呼ぶようになり、こちらも 「えーと、××は○君、○○は△君だったね」
と覚えるのに忙しい。やたらに 「超」 を連発したり、「すっげーって何?」 「じゃーなって何?」
などと聞かれて目をぱちくり、10数年前の息子の中学時代を懐かしく思い出しながら、こちらがK君に今時の中学生の言葉や日常の様子を教えて貰っている。(横浜教室
教師) 日本に来た中国人は皆希望を持っていますが、人によって来日の目的が違います。お金のために来た者もいるし、学位取得のために来た者もいます。私の大学での専門は化学工業です。日本では科学技術が進んでいて驚きました。しかし今の中国では英語にくらべて、日本語が出来る人が少ない。私は日本にいる間に日本語と出来るだけ多くのよいことを学びたい。また、できれば日本の大学院に進学し、専攻の高分子材料あるいは工業管理を勉強したいと思います。 実は中国でも自然資源が乏しく、特に森林の面積は僅か国土の13%程です。でも日本は50%以上です。新材料の開発で、第二の産業革命が起きたといわれています。中国でも将来は自然環境保護のために、合成材料を利用するのもひとつの良い方法だと思います。今やこの分野では、一般工業用材料、たとえば自動車や電気、電子機器には、高分子材料が使われているように、日本は世界でもトップクラスだといわれています。
帰国したら私は日本で学んだことを生かして、自己の向上と祖国の発展のために貢献したいと思います。(横浜教室) 走行中の電車の中は人がギュウギュウと詰まっていて、体のバランスが崩れてしまった。額に汗が出て来て、汗粒が流れて行くのを感じられる。手でふくのにも不自由な状態であった。 汗粒がどんどん流れて行くのがとても痒く感じられて、ついに我慢できなくなって無理な体勢のままから汗を拭った。そして手を下ろすときについにドア際の席に座っていた中年のサラリーマン風の男性の頭にぶつけてしまった。「すみません」 と小さな声で言った。男性は何も感じなかったかのようにドアにしがみついて立っていた私に何も返答をしなかった。このようなことは混雑した電車の中で、日常茶飯事のことだから、満員電車になれているサラリーマンはきっと理解してくれたのだろう。 たったの10分の間だったが、このような不自然な体勢で立つのが辛く感じ、この10分間を1時間、2時間の長さにも感じた。満員電車の中の所々での会話も聞こえて来る。背後に2、3人の浪人生風の男が立っていて、その人たちによる会話も頻繁に聞こえて来る。聞いてみるとその会話内容が実に浪人生らしい。模擬試験の偏差値がどうのこうの。覚えたのにすぐ忘れてしまうやら、なんだらこうだらと万遍なく聞こえて来る。 私の横には若い女性がいて、回りの男に囲まれて心細そうに頭の真上にある吊り革をじっと握って立っていた。私はいつもならば、ドアに寄りかかって、電車の外の光景を眺めて退屈をしのいでいたが、さっき駆け込み乗車して来た男のためにそれができなくなってしまった。窮屈に感じて、後姿しか見えない男を恨んでいた。身動きひとつできない電車の中で、乗車しているすべての人を邪魔な存在にしか感じられなかった。 時間を急ぐために、この状況を承知しながら乗って来た私だが、少しその覚悟を後悔していた。乗ったからにはもう後戻りができない。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせながら我慢していた。私は今こうして回りを邪魔だと感じているが、果たして回りは私を邪魔だと感じてはいないのだろうか。私はそう思った。また急にある言葉を思い出した。それは一般に言われる「都会の人間は周りの人に無関心である」と言う言葉だ。無理もないと思った。 こんな状況で笑顔で見知らぬ人に対処できる人がいるのだろうか。もしどこかの田舎へ観光しに行ったとしたら、自分の座席の隣に乗り合わせた人に 「どこからおいでになったのですか」 や 「何日間滞在なされるのですか」 と言ったような会話を気楽にできるかもしれない。しかしこのような状況でどうしてもそんな気持ちにはなれないのは当然である。
ほんの10分間だったが、そのわずかな時間の中で、日本の狭さ、人々の時間的余裕のなさ、学歴社会で受験戦争の厳しさ、大都会において失われて行く他人への関心など、様ざまを実感できた。たったの電車の中の一部分に現在の日本の社会の状況がそのまま浸透し、凝縮されているような気がした。(横浜教室) でも、盲人である私にとっては自分で道を歩むことに立ち向かい、ほかの人の手を借りずに歩くことを 「モットー」 に努力し、自分の試練を受け止め、誰もいない時の自分を想定して訓練しているのです。困ったときは私から近くにおられる方に助けを求めますので、この時には是非お手を貸して戴きたいと思います。盲人の私達も健常者と肩を並べて競いたいのですが、これが障害を持つ私達の大きな悩みでもあるのです。 そこで健常者の方にお願いがあるのですが、私達に声を掛けて戴くときは「何かお手伝いすることはありませんか」 とお話し下されば、私達障害者はその時の状況でお願いするかもしれません。この一言で障害者自身が判断し、自分の生き方を明日への自信につないで行くのです」 と言っておられました。障害者自身も自立の道に努力され、「廻りの方々に迷惑を掛けまい」 としていることを感じました。 先日、この盲人が会社通勤でこんな目に遭いました。毎日通勤する乗車駅で、駅の階段を上った所から何歩あるいたら何両目のドアーといつも頭に記憶しています。そのため毎日同じスタンスで会社通勤をしています。ある日、通勤途上でいつもの電車のドアーの所に立っていますと、そばの人が席が空いたらしく盲人の彼女に席まで案内してくれました。それがいつもの通勤のドアーより遠い所でした。盲人の彼女は降りる駅が気がかりで、大変不安な時を過ごしたという実話です。 幸いなことに無事いつものドアーより下車し、会社に着くことが出来ました。これは健常者として障害者の方へのいたわりと感動させられますが、もう一歩踏み込んで相手の身になって考えることを忘れては、折角の思いやりも相手にとって迷惑を掛ける結果となってしまった訳です。 「あなただったらどのような対処をしますか」 いつこのような状況に遭遇するかわかりませんよ。 まず、ひとつ考えられることは 「席が空いていますがご案内いたしましょうか」 と声を掛けて、「はい」と言ったら席にご案内する。「どこの駅で降りるのですか」 と降りる駅名をはっきり聞く。そしてその駅に着いたら元のドアーまで案内する。自分が障害者の方より手前の駅で降りる場合はこの旨、障害者の方にお話しするか、隣の席の方にお願いするか、自分の判断でいずれかの心くばりをして差し上げたいですね。
これからは障害を持つ方々が大いに社会に出て活躍され、健常者と共に楽しさを分かち合える社会への実現に向かって努力したいと思うこのごろです。(横浜教室
教師) 同じ会社に勤めている高柳さんに、パソコン教室の話を聞き、ちょうど、独学で中国語の勉強をしていたので、これはいい機会だと思い参加させていただくことになりました。最初は1台のパソコンでスタートしたパソコン教室も、今は3台に増えました。 今まで、テレビ神奈川(TVK)の取材、インタビューで緊張したこと、雨の箱根バスツアー(平成8年3月17日)に参加したことが印象に残っています。特に楽しみにしていた箱根バスツアーは、あいにくの雨でしたが、その雨に負けず、芦ノ湖の遊覧船では、デッキに出てびしょ濡れになりながらも、写真を撮っていたのがまぶたに浮かんで来ます。 また大湧谷では、雨と強風でとても外には出ていられないほどでした。その雨も、帰るころになって止んで晴れてきて、雲の切れ間から見えた富士山の姿が、心に残っています。(どうして、帰る頃になって晴れるんだ・・・と思いながら)
今後は、キャンプなど行事にも参加させていただき、もっと多くの方と交流して行きたいと思っています。(横浜教室
教師) それから暫くして、神奈川ボランティアセンターから、「ユッカの会というボランティアグループがパソコンの先生をさがしています」 という電話があり、山縣さんに初めてお会いしたのが7月下旬でした。パソコン教室は八月中旬からスタートしました。パソコンは IBMのAptiva、デスクトップ型で、最初の生徒はアリレザ君でした。 パソコンを教え始めて気がついたのは、パソコン用語にやたらとカタカナが多いことでした。プログラム、ウインドウ、フォント、マウス、ファイル、セットアップ、プロンプト、レイアウト・・・用語の正しい意味を知る必要から、「日経パソコン用語辞典」 を買いました。 生徒さん達が日本の学校を卒業したら本国に帰るのか、日本で仕事をするのか、どちらかで教え方を変えなければならないと思いました。日本で仕事をするのであれば、ワープロの入力はローマ字入力によるかな漢字変換を修得する必要があります。ローマ字で苦手なのは、きゃ・きゅ・きょ・ぴゃ・ぴゅ・ぴょ・あっと・ぱっちり・さっぱり・やっと等の撥音と「ん」(nn)です。 使用するパソコンが IBM→SHARP→NEC と変わり、基本ソフトウェアもWindows3.1→ Windows95 になりましたので、教える方もよく勉強しておかなくてはなりません。その上、学校の中間テストや期末テストの頃になりますと、「先生、今日はパソコンはいいから世界地理を教えて」 と、世界各国の首都の名前をこちらがテストされる始末。以前はセイロン―コロンボだったのが、今はスリランカ―スリジャヤワルダナプラコッテと正解を教えられるでしょうか。
ということで、パソコンを教えることだけでなく、昔学校で習ったことの復習や今の学校の教科など、こちらが教えられることが沢山あり、本当に有り難いことです。出来るだけ長く続けたいと思っています。(横浜教室
教師) 実は、経済的にも、生活水準的にも、まだまだ遅れている中国から、世界中の先進国日本に来て、生活は慣れ易いというのは間違いないですけど、困っているのは言葉が通じらないこと。日本語うまくできないと、日常生活では日本人とのコミュニケーションできなかったり、他人に迷惑をかけたり、職場ではいろいろな困難にあたったり、僕だけじゃなくて、すべての人は感じているでしょう。 幸いなことに、友人の紹介によって、日本に来てから、すぐユッカの会に入って日本語の勉強を始めました。まったくボランティアなので、授業料金なんかぜんぜんいらないで、毎週2時間ぐらいです。「こういうチャンスあんまりないだな、まじめにしないといけないよ」 と、始めてからこう思っていました。おかげで、思わず知らず、日常生活の言葉は大体通じるようになりました。 はっきり言えば、最初の目的は日本語の勉強することだけ、しかし、時が経つにつれて、それ以上感じているのは、ユッカの会は決して日本語を教えてくれる会だけではなく、僕たちのもう一つ暖かい家庭です。山縣先生、日本語お教えていただいている竹内先生、半年前からさらにパソコンを教え始めた芳賀さん及びユッカの会で熱心してくれる先生たち、みんな先生でもあれば、僕たちの自信を立ってくれる親切な友達でもあります。 ユッカの会で、出身地がまったく違う国の人々平等的に交流できて、僕たちに対して言葉で言い表せないほど幸せです。いつまでも、心のなかから先生たちに深く感謝しております。(横浜教室)
そのために6月の下旬に1回目の研修会に行きました。さみしくないようにと、ぶーちゃんとえいじさんが一緒に行ってくれました。えいじさんはキャンプ場の管理人です。ぶーちゃんは去年から参加しています。私は先ず2人から、ひもの結び方を教えてもらいました。そのあとは晩ごはんの準備です。斧で木を切って薪を作りました。そして薪に火をつけるやり方やごはんの炊き方を勉強しました。焼きそばやソーセージも作りました。ごはんを食べる前は「いただきます」の歌、ごはんを食べおわったら 「ごちそうさま」 の歌を唄いました。 夜寝る前に幸子さんとテンテンちゃんが来たので、ボートで湖の向こう岸まで迎えに行きました。私もボートを漕いでみたけれどなかなか進みませんでした。 翌日の朝のメニューはパンにサラダ、それと玉ねぎスープでした。お昼はうどんにしようと言うことになったので、私は小麦粉と水と少々の食塩を混ぜてうどんの素を作り、寝かしておいて、みの石滝を見に行きました。私たちはごみ袋を持ち、そこらに投げ捨てられているごみを拾いながら山を登って、みの石滝に行って来ました。ごみは袋に一杯ありました。帰ってきてからうどんの素をこねてのばし、切ったうどんと野菜をお湯でゆでて食べました。おなかが空いていたのでとてもおいしくいただきました。後片付けをし、管理室に戻ってミーティングをしてから解散しました。
研修の2日間は私にとってとても貴重な体験でした。このようなボランティア活動ができることをとてもうれしく思います。あのキャンプ場は一生忘れません。(横浜教室) |
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■第9号 (平成9年12月13日発行) さて世界の人々と手を繋ぐのに必要なこと、それは先ず言葉ではないだろうか。日本語、中国語、英語等、語学を学ぶことはお互い話し合い、理解できる唯一の武器ともなる。かつて旧満州より引き揚げてきた私は全てを失った。財産はもとより、夫、子供、更には健康まで奪われたけれど、身についた語学、技術は何人もこれを奪い取ることは出来なかった。そして今、この高齢の身で、尚、歌壇の一端をになって国際交流に尽力できるのも、若い時に学んだ学問の賜と感謝している。 有形のものはやがて失われる時が来る。無形の知識、人格は永遠に生きて自分をそして他人をも助ける力となってゆくであろう。国と国との和合は人と人とのふれ合いから始まってゆく。
教える者、教わる者、今春より新しいスタッフで踏み出したユッカの会のささやかな力を、心から大切に思っている私である。
「わっ、もう5時。帰ろう」とあわてて私が言うと、「ああ、時計さえなければ時間を気にしないで、たくさん遊べるのにね」
と、友達が言った。 でも今、時計がなかったらどうなるだろう。友達と待ち合わせが出来ない。もし、できたとしても、すれちがいになってしまうかもしれない。バスや電車の来る時刻も分からない。会社にも行けない。学校に行くのもてんでバラバラになって、授業がなかなか始められない。やっぱり時計がないと世界中こんらんしてしまうだろう。 今はとてもたくさんの人が住んでいる。だから、みんながくらしやすくするために、いろんな約束がある。時計はその約束の中の1つだ。時計は、今の時代になくてはならない物だ。
朝の8時だ。元気に学校に行こう。今日も、友達が待ち合わせの場所に来る。待たせないようにしなきゃ!と私は元気に家を出た。(戸塚教室・学習者) 自分の定年は以前よりわかっているので、本来はもっと早く自分なりの計画をたて、行動するのが当たり前であるが、そうはできないのが現実である。余程趣味や目標を判然と持っている人はともかく、何のとりえもない私にとっては事前準備などは全く無理であった。 それでも先輩、知人の体験を聞いたり、本を読んでいるうちに、何かはっきりした目標を持ち行動しないと「ボケ」る事が分かったので、定年少し前より真剣に考えはじめた。かつて友達と、定年から連想する言葉にどんなものがあるかと話し合った時に、働く場所の喪失、低収入、引退から始まって、産業廃棄物、病気、不平不満、ガン、離婚など、すべて人生のたそがれを象徴するような言葉ばかりが出てきた。真に淋しい限りであった。 しかし会社という組織から解放された時、待ちうけているのは膨大な自由時間であり、これがすべて余暇時間である事も確かである。それを思う存分に楽しんでこそ「ゴールデンエイジ」といえるのではないだろうか。定年は人生のゴールではなく、むしろ第二の人生のスタートであると思うようになった。
定年後のライフスタイルは、大きく分けて4つあるとよくいわれている。まず第一は趣味に生きる人、第二は仕事を追い求める人、第三はボランティア活動に打ち込む人、最後は何もしないで楽しんでいる人、どれをとっても多大な余暇を充分生かせるはずであり、現に夢を実現し、人生を楽しんでいる人も多い。
人生へ向け一歩を踏み出せば、現役サラリーマン時代には味わえなかった充実感を抱くに違いない、と新しい人脈やネットワーク作りに心掛け、健康、生きがいを大切にしてゴールデンエイジを満喫したいと思っている。(横浜教室・ボランティア) 仕事を終わって職場をもう一度見まわる時、真っ白になった壁、塵一つない銀ねずみ色のじゅうたん、透き通るような蛍光灯、銀色に光った蛇口、芳香を放った化粧室、私は何時までもそこを離れたくない気持ちです。 時にはお客さんが私の傍を通る時「ご苦労さん」と声をかけてくれます。時にはお客さんからキャンデーやペンやノート等頂くこともあります。そんな時、私は嬉しくて心がわくわくします。それはただ食べ物とか品物というだけではなくて、無形の力となって私の心を支えてくれます。そして、それは私にガンバレ、ガンバレと励ましてくれます。
私は職場の皆さんが少しでも働きやすい環境を作るため、更に一層奉仕させて頂きます。そして、私は大海の一滴の水、山里の名もない草として、皆様のお役に立てれば更に大きな喜びです。(横浜教室・学習者) 従弟は遠くに住んでいるので、私の家には2回しか来たことがありません。従弟はあまり健康ではないのでとても心配です。 それで先月主人と車で焼津へ従弟に会いに行きました。夜10時半に出発して、箱根峠を越えて、やっと夜中の2時半に着きました。従弟は私を見るととてもびっくりしました。今迄、従弟と連絡がとれなかったからです。でも、従弟はとても喜んでいました。 従弟は単身寮に入っているので日用品と食品を持っていきました。私は従弟に最近の仕事と生活の状況をよく聞いてみました。従弟は私に詳しく教えてくれました。 翌日の午前中、近くの漁港に行きました。景色はとてもきれいでした。従弟に写真をたくさん撮ってあげました。それから一緒に昼飯を食べに行きました。そして、主人と高速道路で家に帰って来ました。高速道路なので2時間半しかかかりませんでした。
疲れたけれど、顔を見て話をしたので、少し安心しました。(横浜教室・学習者) 私とユッカの会の出会いは5年前です。その前1年間通信講座で日本語教師になるための勉強をしましたので、このままではすぐ忘れてしまうと思い、ユッカの会に電話したのです。最初はイランのミヌー・オミディアンさんに教えることになりましたが、お互いの言葉が分からない同士、3ヶ月位は本当に苦しかったです。でも、ミヌーさんもよく頑張ってくれて、お互い理解しようと努力しているうちに、信頼関係もでき、少しずつですが、日本語を覚えていってくれました。 私もイランの国情を書いた本を読み、ミヌーさん一家の立場も良くわかり私にとって遠い見知らぬ国だったイランがとても身近に感じられ、又、こういった過酷な状況にいながら希望を失わず明るくふるまっているミヌーさんご家族には感激しました。その後、ミヌーさんが勤めることになり、やめましたが勤め先に一度訪ねた時は、とても喜んでくださったのが印象にのこっています。
その後、中国から帰られた上杉さん、小林さん、劉さんと一緒に勉強していますが、彼女達のたくましさ、明るさにはこちらが励まされています。日本語を教えているつもりが、かえって力強い生き方を見せてもらい、こちらが元気になる、ユッカの会ってそういう集まりだと思っています。今後も細く長くおつきあいしたいと思っています。(戸塚教室・ボランティア) しかし同じ漢字でも意味はぜんぜんちがうことがあります。例えば「湯」と言う字は中国語で「スープ」という意味です。日光へ旅行に行く途中で「湯」と書いた看板が次々に出て来た。それを見て日本人は「スープ」が好きだなと思った。バスを降りると、ちょうど昼食の時間です。直接「湯」の町へ入り大間違いをした。「日本語をしっかり勉強しなくっちゃ」その時そう思いました。 真剣に勉強すると日本語は難しい。例えば日本語は男性と女性で違ったり立場の違いなどの人間関係によって言葉使いが変わったりするのは、日本語の大きな特徴だと思います。それは私たち外国人にとって日本語の面白いところでもあり、また難しいところでもあります。
おかげさまで、私はだんだん日本語を話せるようになってきました。日本語をもっと上手になるため、こちらの「ユッカの会」を訪ねました。先生はとても親切に教えてくれて、うれしいです。これからもっと勉強しようと思っています。(横浜教室・学習者) 外国人に日本語を教える、これは私の夢であった。20年前、夫の転勤でノルウェーのオスロに子供2人と駐在した。私は家事の合間にノルウェー語の勉強を始めた。そのクラスにはアメリカ、イラン、中国、香港、チェコスロバキア、イギリス、フランスなどの国々の人たちがいた。授業についていくのに四苦八苦しながら、2学期間通った。各国の人たちと接しながら、日本語を外国人に教えてみたいと思い始めていた。帰国後は子供たちの学校のことに追われ、私の夢は凋んでしまっていた。 3年前、母校の同窓会誌の中に日本語教師養成講座の案内を見つけた。週1回1年間母校まで通った。その後はベトナム難民の中学生の英語と国語の勉強を手伝った。彼らが公立中学に入ってからは、日本語を教えることからは離れていた。 また日本語ボランティアをしたいと思っている時、ユッカの会を知らされた。1人の中国人女性を紹介された。その方の友人が加わり、2名のクラスとなった。今は、日本語能力2級試験の準備をしている。 日本語を教えるという視点からみると、こんなにも規則があったのかと戸惑ってしまう。まだ、自分の教え方を手探りしている。ヒントはクラスの中で話し合っている間に閃くこともある。クラスは私を次のステップへと導いてくれる。
私との日本語の勉強を通して、日本での活動の場が広くなればと思っている。私もクラスを出発点にして、私の日本を伝え、他の国を知っていきたいと思いは広がっていく。(横浜教室・ボランティア) ちなみに私は前回ここに来たのが、中学に上がる前、小学校6年の春休みのことだった。当時、私は年少組で、周りには中高生のお兄さん、お姉さんばかりであった。6、7年後の今ではもうすっかり年長組で、周りには弟や妹たちばかり。毎年行われる合宿ではあるが、知らない間にだいぶ顔ぶれが変わったなあと実感したと同時に、自分も成長した、いや歳をとってきたと感じざるをえなくなった。 さてわがユッカの会も十周年を迎えることになった。なんぞ喜ばずにいられようか。10年間を振り返ってみるとユッカの会の成長が見受けられる。最近のユッカの会の活動に参加している顔ぶれの中で、一番古顔と自負している私ですが(もし、「何だと、俺の方が長いぞ」、「何よ、私の方が長いわよ」という先輩がいましたら、どうもすみません)私でさえ会ったことのない人がだいぶ増えてきました。ユッカの会は実に多大な成果をあげたということは紛れもない事実で、そのことに疑問を持つ人はいなかろう。 私は最もこのユッカの会から恩恵を受けた一員である。このユッカの会が10年も続けられたのも、いろんな苦難を乗り越え、運営に励んでこられた諸先生方のおかげである。忙しい中で日夜、私たちのためを思い、頑張ってこられた先生方に頭が下がる思いです。そして感謝しています。 ある土曜日の午後、私は久しぶりに横浜教室の12階に立寄ってみた。いつもならばそこでは、長いテーブルの一列を占領してユッカの会の補習班が勉強している光景が見られるはずであったが、なんと1人もいなかった。学習者が減ったのか、それともたまたまその日いなかったのかが分からないが、私は少し寂しさを感じた。もしかしたら、9階や10階もオープンしたからかもしれない。 とにかく私たちはユッカの会の先生たちの努力や私たちへの期待にこたえなければならないのではないだろうか。自分たちの学習担当の先生との約束時間をきっちり守るとか、イベント等に積極的に協力するなど少しでもその意欲を持つ必要があると思う。
私はユッカの会を心のよりどころにしているし、ユッカの会で多くの良い友人に出会えた。だから、私はユッカの会を誇りに思っている。これからも会の中でそれぞれ自分たちの果たすべき役割を果たして、皆と一団となって頑張っていくつもりだ。もちろん皆にも頑張って欲しいと思います。また次の十周年に皆さんと会えることを祈っています。(横浜教室・学習者) 活動の中心は交流外国語部会、日本語教室部会、情報広報部会、窓口部会の4つの部会で、交流外国語部会は月に1回、「世界のお茶を楽しむ会」とか「七夕の会」、「浴衣を着る会」といろいろな催しを開いて、外国人の方々と楽しい交流をしたり、英語、スペイン語などの教室を開いている。 日本語教室部会は、文字通り外国人の人たちに日本語を教えているところで、希望者が多く、週5回の授業を行っている。生徒は中国、台湾、フィリピン、タイ、ペルー、メキシコ、ブラジル、アメリカ、イギリス、ロシアと世界各国の人たちだ。火曜日には小さいお子さんを持ったお母さんの勉強のために、託児をやるボランティアがきて子供たちのお世話を引き受けてくれるので、お母さんがたも安心して勉強することが出来ると喜んでくれているようだ。 情報広報部では日本での生活に必要な情報を外国語に翻訳したり、通訳を引き受けている。 窓口部会には5人の外国人スタッフがいて、英語、スペイン語、ポルトガル語、タガログ語、中国語、韓国語で相談してもらえる体制ができている。
日本語が難しくて困っている外国人の方々、外国人と交流したいと思っている方、海外情報の欲しい方、一度国際交流ラウンジに遊びにいらっしゃいませんか。きっと楽しいひとときを味わえますよ。(横浜教室・ボランティア)
私は趣味として写真・釣り・卓球・ゴルフなどを中心に力を入れてやっていますが、様々なジャンルでそれぞれの集中力の入れ方もあると考えています。 これからお話ししようとしている釣りは 「へら鮒」釣りと言いまして、その魅力は何といっても四季を通じて楽しめる釣りであり、湖から池まで広い分布で楽しませてくれます。この釣りは釣った魚をその場で放流する「キャッチアンドリリース」が守られている、数少ないゲームフィッシングのひとつであります。釣る魚と竿の感触で楽しむといったほうが分かりやすく理解できるのではないかと思います。 この「へら鮒」は警戒心が強く臆病な魚で、その上、気象条件や季節の変化にも微妙に反応して、生態や行動を変える為、この釣りは数ある釣りの中でも難しいとされています。この「へら鮒」釣りの魅力は一口では語れませんが、やればやるほど面白さが増す反面、ますます難しさを痛感するという、奥深さを感じる釣りでもあるのです。 「へら鮒」釣りの魅力と釣りの醍醐味はこれくらいにして、本題である 「集中力」 について、どういう関係があるかと言うことでありますが、このへら鮒釣りの際使う「うき」とは細く長く目盛りが幾重にも細く塗られ、この目盛りの動きによって魚の状態と魚信が正確に早く伝わることが一番の目的とされています。「うき」 の動きを読む集中力がこの釣りの漁獲の鍵となるわけです。その上、同じ釣り場所に 「うき」 を振り込むこの繰り返しの集中力が漁獲の善し悪しに影響を与えます。 実はこの他に漁獲に大きく響くのは餌にも気を配ることが必要です。春夏秋冬で餌の内容は大きく変化し、餌の硬さ、柔らかさなど大きく影響されます。また、餌の種類も驚くほど多くこの釣りに限っては、永い経験とこれに伴う技術が要求されているようです。 この 「へら鮒釣り」を通して 「集中」 を考える時、他のスポーツや物事に関してこの集中力は何かの形で必要であることは間違いないものであると思います。 あなたのやっている様々な趣味・仕事に、もう一度何かの機会に集中力を試してみると意外な発見にも繋がるかも知れませんよ。 自分の「力」以上の 「集中力」
を信じながら。(横浜教室・ボランティア) 初めて「死を待つ人の家」に行ったとき、私はガラにもなくおろおろしてしまった。周りを見渡してみると、みんな忙しそうに働いている。 どうしようかと思っていると、ひょろっとした感じの欧米人がインド人のシスターに ”What can I do?”(私に何ができますか)と聞いていた。「なるほどこういう風に言えばいいものか」 と納得していると、シスターは 「屋上のブランケット(毛布)をたたんでください」 と言ったのでそのひょろっとした男について私も屋上に出てみると何やら「ボロぎれ」 がたくさん干してある。もしやこれがブランケットかと、ひょろ男を見ると彼もボロぎれをたたんでいる。やはりこれがブランケットなんだなと妙に感心してたたみ続けた。 屋上からもどり、シスターに ”What can I do?” と聞くと、「患者のいるところへ行ってぐるぐる歩いていると、なにか声をかけられ用事を言われるから」 といわれたのでそのように歩いていた。 するとおじいさんが私のことを手招きしているではないか。何だろうと少しウキウキしながら行くと下のベッドを指して ”dead”(死んでるよ)と言った。不思議とそんな大きなショックを受けなかった。初めは何を言っているか分からず呆然としていた。その人に触ってみると冷たくなっていたので、ああ、この人は死んでいるんだなあと思った。 不思議とボランティアの人を含め、施設の人にも悲壮感や暗い雰囲気はなく、むしろ突き抜ける明るさがあった。私はそういう雰囲気が好きになり、2週間もカルカッタに滞在した。 「死を待つ人の家」 の他にもいろんな施設に行ったが一番面白かったのが、老人ホームのような所である。そこではおじいさんのヒゲをそったり、ツメを切ったりした。 人のヒゲを剃るなんて普通に暮らしていればまず起こらないことだが、やってみるととても難しい。しわくちゃなおじいさんなんかはしわで剃りにくい。もっと難しいのは頭を剃ることで、「球」の形をしたものをカミソリで剃るのは意外に難しい。親しくなったおじいさんに冗談で頭のてっぺんだけ剃って ”finish”(終わりだよ) と言ってみたりして大変面白かった。 行き帰りの道に売っているかき氷を固めて棒にさしたものや、素焼きのカップに入っている冷たいヨーグルトは、暑いインドではとてもおいしく感じられた。仕事の終わったあとのチャイ(インド紅茶)も疲れた体に染み渡るようで美味しかった。そんな細かい些細なことさえも楽しく、インドでのボランティアが充実したものになった。 そして、あっという間に帰る日になってしまった。前日の早朝マザーハウスのミサに出席し、マザーテレサと直接会って話すことができた。彼女はどこにでもいる、人のよさそうなおばさんという感じだった。マザーテレサもボランティアの人たちも、施設に入っている人たちも、みんな普通の人なんだなと思った。特別な人など誰もいないのではないかと、日本への飛行機の中で考えた。
今回の旅も面白く、いろんな人や物との出会いがあった。これだから旅行は止められない。(横浜教室・ボランティア)
初めの打ち合わせは昨年のスタッフとぜんぜん違って、ユッカの会いがいの人たちはほとんどいなくて知らない人ばかりです。皆、なんか大学生や社会人の人たちみたい。とてもいやな雰囲気でした。私は何をやるか分からないから、とりあえず加藤さんと同じグループにしました。このグループはバスのガイドとオリエンテーリングを考えることです。グループの初めの打ち合わせ中、皆の話を聞いて自分がついていけないと思いました。(以下次号をお楽しみに)(横浜教室・学習者) 沼波会長の純粋なお話を伺えば伺うほど、この会が人の和を大切にしつつ、末永く続きますようにと、何人かで協力しながらよちよち歩きを始めたところです。 この頃は横浜教室の方々とも言葉を交わし、どなたも心温まる方ばかり、電話で突然教えていただくよう依頼しても快く引き受けてくださる、子供たちも連絡を入れると必ず 「ありがとう」 と気持ちのよい会話、電話を切った後のさわやかな気持ち。 ボランティア150人、学習者160人(日本語100人、学科補習50人、パソコン10人)この大所帯ながら、コーディネーターは出来るだけ和やかな雰囲気で学習できるようにと思い、和やかな光景を見かけると内心うれしく思っています。本当はそのペアーの賜。 そのためにも、皆様にもお願いしたいことがあります。その一つは学習者、ボランティアともその方のプロフィールをなるべく詳しく係に伝えてください。日本語か教科名、学年、年齢、学習希望日、学習者の来日年月日、出身国等。その二はお互いの都合が悪く、長期の休み、退会のときは事務局の中さんまでお知らせいただけると幸いです。
今活動していらっしゃるかどうかこちらから伺うのは、できるようで難しいことなのです。皆様のご協力で、お気付きの点も教えていただきながら、一歩ずつ共に歩みたいと思います。(戸塚教室・ボランティア、事務局) 大勢の方々に原稿を書いていただき、ありがとうございました。また、この「たより」 を作るのに多くの方々のご協力を得ました。広報担当一同感謝の気持ちでいっぱいです。私も書きたかったと思っておられる方もあると思います。次の機会に是非書いてください。お願いします。 今年ももうすぐ終わります。1年間お互いによくがんばりましたね。来年もがんばりましょう。健康に注意して、よいお年をお迎え下さい。(戸塚教室・ボランティア、事務局) |
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■第10号 (平成10年12月19日発行) 争う事の愚かさ
沼波 万里子 会報「たより」も今回で第十号を発行するに至った。歳月の経つのは本当に早いものである。ユッカの会も創立当時を振り返ってみると、よくここ迄続けて来られたものと感無量の思いであり、これも会員の一人一人のご努力の賜物と心より感謝申し上げている。 今年も11月に肉親探しの中国残留孤児27名が来日したが、昭和56年、第一次の訪日調査が開始されてから今日までの29年間に、約2,100名の孤児が訪日している。そして、その殆どの方が帰国を希望されたため訪日調査、その他を合わせると、現在永住帰国者の数は2,227世帯、家族を含めておよそ8,000人を超える方々が中国から帰国されたこととなる。中国と比べてあまりにも狭い日本、その上昨今の不況を思うとき、希望を抱いて祖国の土を踏まれたものの果たしてどのような生活を過ごしておられるのかと不安を覚えずにはいられない。帰国者の中で、身元判明者は半数にも満たないのである。でも、生きて帰って来られた方々は幸せと言えよう。 夫も一人娘もすべて死なせて引揚げてきた私は、現地で亡くなられた多くのご遺体がひとつ穴にまとめて葬られたのを目撃している。 戦争は決してしてはならない。そのためには平素の生活の中でも、争う事の愚かさを身にしみて知ってほしい。
喧嘩をした後の空しさ、その原因が又あまりにも些細な事であるのに改めて気付くにちがいない。腹が立った時、振り上げた拳を止めることが出来るのは、生物多しと言えども人間だけなのである。本能に生きる動物、虫けら等には絶対出来ない人間のみがもつ理性の力と言えよう。国と国との争いを避けるためには、まず身近な人と人との争いをなくす事から心掛けるべきではないだろうか。私も共に努力してゆきたいと心に誓っている。 昔なつかしい唄である。私の子供の頃の凧はもっぱら奴凧で、古新聞を細長く切り、奴凧の足に長く貼り付けて空に高く上がるのを楽しんだものだ。 お正月に付きものはお年玉である。モノの豊富でなかった時代であったから、お小遣いよりも新しいノート、鉛筆(中でも色鉛筆だと最高)などを親から貰うのが大変嬉しかった。 戦後いつの頃からか、「キリスト教徒」と自称する人たちが「クリスマス」を導入してくれたおかげで、12月下旬にはコンピュータゲームソフトなどを買わされ、お正月にはまた別途にお小遣いを子供達に渡す習慣が定着してしまったようだ。 賢い子供達は「親戚のあのおじさんならいくら」という相場を持っていて、私も一度苦い経験をしたことがある。正月に遊びに来た親戚の子供に 「ハイお年玉」 と、喜んでくれるだろうと思って渡したところ、その子はすぐに袋からお札を引っぱり出し、「なんだ、これだけか」 とつぶやいたのには驚いた。後から分かったのだが、その子は既に何人ものおじさん、おばさんから多額のお年玉を貰い、最後の私からは、より多くもらえるものと期待していたのが外れたためだった。
世の中が平和になり、生活が豊かになったのは大変結構なことであるが、私たちは知らず知らずのうちに、お金の有難みやモノの有難みを感じないようになってきているのではないだろうか。それに拍車をかけているのが情報化社会―キャッシュレス社会であろう。 給料も送金も銀行振り込み、ATMという機械にカードを入れればいくらでもお金が出てくる(ただし残額の範囲まで―くれぐれもお間違えのないように)。クレジットカードを持っていれば現金を持っていなくても買い物ができる。お金の価値の有難み、更にモノの有難みを感じなくさせる方向に社会の仕組みが動いているとしか思えない。
しかし現在の社会において、すべて通貨(現金)による受け渡しに戻す事は不可能である。私達はこのような時代の中にあっても日常の生活の中で「有難み」を自分自身で感じ取る気持ちを大切にしたいものだ。(横浜教室・ボランティア) 中国語を全く知らない小生が、日本語を全く知らない中国人に日本語を教える事は、いかに教材があるからといっても出来ないと思って当初はためらった。しかし、当会の先輩である竹内氏の強い要請と、当時会社の定年により時間的余裕が出来たこと、少しは社会に恩返しが出来たらと殊勝な考えを持ち、「高齢期は挑戦期」 でもあり、当たってくだけろと思って挑戦してみた次第である。 しかし暫くして大発見(?)したことがあった。中国語の発音では全く分からない言葉が、漢字で書くことによってお互いかなり意志疎通が出来ることに気がついた。1例を挙げれば、自己紹介の時に、「姓は大石、名は俊雄と言います」。これは「我姓 大石 名字叫 俊雄」。また「健康」「景色」などは同じ漢字である。 ひらがなの「あいうえお」から始まって、片カナを簡単にやり、次に 「文化初級日本語」 を教科書として勉強しているが、分からない事は漢字で書き合っている。書く用紙は新聞の折り込みチラシの裏をはじめ、不要の紙を大いに活用し、現在に至っている。
ある新聞の社会蘭に、高齢期の「生きがい」に関する議論がのっていた。それによれば『高齢期に失うものが4つあると言われており、
しかし喪失はごく一部であり、喪失期と見るのは喪失部分にのみ目を向け、それを強調しすぎた認識に過ぎないのではないだろうか。むしろ高齢期は「挑戦期」であって、会社という組織から解放されて膨大な余暇時間を活用し、たとえ小さな事であっても、何かに挑戦する事によって、満たされた毎日が充実するのではないかと確信し、現在前向きに頑張っている次第である。(横浜教室・ボランティア) しかし空港に降りて先ず驚いたのは、富士山と略同じ高さの地に、緑の木々と農作物、ライ麦、そば、じゃが芋の花が咲き乱れていることでした。水など殆どない乾燥した岩地を想像していたので、本当にびっくりしました。しかし太陽の街といわれる位日照時間が長いので、大陸性気候に拘わらず植物は育つのでしょう。昼間太陽は刺すようです。公害がないので空気は清浄、空は吸い込まれるような「青さ」を湛えています。私はこれを西蔵ブルーと名付けました。 困ったことはなにしろ高所なので高山病(中国では高山反応)に悩まされることです。気圧が30%以上低いので酸欠状態です。階段を2〜3歩上っては深呼吸、脚はだるくてもう動きたくないのです。頭痛はキリキリ食欲減退、これらの程度は人により千差万別、年齢性別関係なし、登山で慣れた人以外は予測がつきません。しかし1〜3日でなれます。 さて、私の目的の一つは、日本の仏教の源泉がどんなものであったか、中国を経由しなかったらどうのような姿で仏教が日本に伝わったか判ればよいと思いました。厳しい自然と闘いながら西蔵の人々はその信仰心を堅持し続けています。今でも見られる不思議な五体投地の祈り。仏教がすべての人々の心を支配しているのでしょう。 近年、中国漢方薬を始めとして東洋医学が見直されてきています。中国には「気」というものの存在を確認し、武術や医療に応用されています。同じように西蔵では「ツァ」が体内にあり、或いは発生し、これを感じ取り医療に役立てています。この能力を取得するには、実は気の遠くなるような修行を積む必要があります。ヨガもある意味では精神が肉体をコントロールする点では同じかもしれません。 病院を訪れ実際の診療をみました。腕や脚など触れるだけです。吾等の病院のように医療器具が処せましと並んでいる訳ではありません。血液検査の代わりに尿検査があります。要するに病気は体のバランスの喪失であり、これを回復する、そしてもっとも重要なことは、自然であること。お産は病気ではないが、この対処の仕方は誠に合理的で現代人には示唆に富んだ内容です。他に機会があれば記します。 その他仏教経典の現状と歴史の把握(日本には真の仏教が理解できるほどの内容と数量の経典が伝えられていない)数学、物理、密教医学の生命観など、西欧圏と異なる考え方が支配的で、賛成するしないに拘わらず、興味あるものです。いつか機会があれば、また。
ともかく、世の中は広く、知らないことが如何に多いかと言うことを改めて自戒させられた旅でした。ではチベットの人々に
ジャシデレ(万事如意) (横浜教室・ボランティア) 当時私は、日本に来たばかりで日本の気候にもまだ不慣れだったので、特に雨でジメジメとした湿った日は、とても気持ちがよくありませんでした。常に、傘を持って出かけることを知らなかったので、突然の雨にはとても困りました。 私は日本に来る以前、中国の河南省、洛陽市に25年間住んでおりました。河南省は中国のほぼ真ん中に位置し、1年中殆ど気候が激しく変わる事は無く、非常に乾燥しており、あまり雨は降りません。風の強い日は、自転車に乗ると、肌がカサカサする感覚を未だにはっきりと覚えています。果物と野菜の種類も少ないし、夕食はいつもご飯ではなく、お粥とスープで水分を補給していました。 私は子供の頃、7人家族でしたが、家には傘は1本しかありませんでした。大抵の家には1本も傘がありませんでした。なぜなら、時折降ってくる雨もまるで南国のスコールの様な通り雨なので、突然雨が降ってきた時にはどこかで雨宿りをしながら、おしゃべりをしていると、すぐに雨は止みました。私たちは土地が乾燥しているので、傘を持つ習慣もなく、皆傘は必要ありませんでした。 私が日本へ来る前の年、日本に住む母からの贈り物が届きました。その中には1本の赤い傘が入っており、それを手にした時、私は 「何て可愛い傘なんだろう!」 と思い、とても嬉しかったです。あんなに可愛い傘を手にしたのは初めてでした。私はいつか雨が降ったらこの傘を使おうと思いながら、いつもは嫌いだった雨が降るのを楽しみにしていました。 中国には雨について、こんな古い諺があります。『春雨貴似油』。この意味を訳すと 「春に降る雨はとても少ないので、その少ない雨は生活に無くてはならない油より貴重ですよ」 という意味です。つまり、このことは「春の季節は雨が全然降らない」という事を言っています。
そうして、私は雨を楽しみに待っていたら、やがて夏が訪れ、私たち家族が日本へ来る日がやってきました。結局、私が日本に来るまで1度も雨が降らず、あの傘も1度も使う事はありませんでした・・・。(1998年11月6日)(横浜教室・学習者) センターに来た時は、日本語はひらがな、カタカナが読める程度で、全くの初心者といってよかった。センターでの勉強を4〜5回終えた頃、同じユッカの会のTさんのお世話で、ご自身が経営されている工場の仕事につくことができた。簡単に就職することが困難な時代になっていたので、来日したばかりの劉さんにとってまたとなくよいお話だった。 それから4年余り、Tさんの工場では欠かせない働き手にまで成長した。今年の2月、劉さんの将来を更に考えられたTさんのお世話で、知人の経営する茨城県の鉄工会社に正社員として採用されることになった。 この5年の間に、劉さんの日本語はすっかり上達し、発音はまだ少し癖があるけれども、普通の会話は勿論、電話も手紙も意思の疎通を欠くことは全くないといっていいほどにうまくなった。ただ、劉さんの日本語学習の努力も並大抵のことではなく、仕事のない日曜日には県民センターや、さらに上大岡の教室で学び、私もしばらくは彼の居室まで通って日本語の会話のお相手をした。また2〜3年後のことであるが、週1回仕事のあとで私の家に来てもらい、食事をともにしながら、家内も加わって3人で、日本の生活などについて話しあったりもした。 鎌倉に孫たちと一緒に行った日は、ちょうど節分の日で、長谷寺で撒かれる豆を手に受けとめて、みんなで大喜びをした思い出がある。当時6歳だった孫がすっかりなつき、8歳になったいまもときどき電話で話したり、お互いよい友人になっている。 先月はじめ、劉さんから久しぶりに手紙をもらった。かつてユッカの会で勉強したことがある劉さんの近況をつたえるのも、何かの縁でもあるし、ご本人の了承も得たので全文をそのまま紹介することにする。 先生 奥さんへ ご無沙汰しております。先生方はお変わりありませんか。このごろ車の勉強がありますし、仕事も忙しいでしたので、しばらく連絡をしませんでした。きっとご心配かけましたと思います。誠に申し訳ありませんでした。いまもう免許をとれました。中古の車も買いました。時間がある時、たまに路上に出て練習をしています。仕事にも段々慣れてきました。毎日忙しいですけれど元気にやっています。どうかご安心下さい。 時間の流れが早いですね。もう夏が終わって秋に入りました。先生が涼しくなって来たら、こちらに来るとおっしゃいましたが、都合がよかったら是非いらして下さい。 僕はいつも京急線で上野まで行って、上野で常磐線に乗り換えて取手まで行って、取手で関東鉄道に乗り換えて石下駅まで乗りました。もし、車の運転がうまくなったら取手までお迎えにいけるかもしれません。お会いするのを楽しみにしています。 涼しくなってきまして、気持ちがよいですけれど風邪をひかないようにお体を気をつけて下さい。英子お姉さんのご一家に宜しくと伝え下さい。劉より、9月30日 私と家内がユッカの会に参加してから7年になりますが、日本語の指導はいまだに自信がもてないし、昨年から、一端をお引き受けしている事務局の仕事も、自分には任が重いと思っております。ただ、この間に、多くのボランティアの友人を得ましたし、また多くの中国のかたがたと知りあい、学習を通じて親密さを深めることができました。中国の生活や文化についても、多くの事を学ぶことができました。 劉さんの手紙の続きということになりますが、11月のはじめの日曜日、私と家内は劉さんと土浦で待ち合わせをし再会をしました。3人で筑波山に行き、秋の1日を楽しみました。劉さんは車で案内したかったようですが、免許をとってまだ日が浅かったので、それは次回の楽しみということになりました。 来日以来、一生懸命に働き、学んでいる劉さんに接していると、励ましていた筈の自分たちが、いつしか励まされていることに気がつきます。そしてこの7年間のユッカの会の活動を振り返ったときも、おなじように、励ましていたものがかえって励まされているのだなという思いがしています。
これからも、どうぞよろくおねがいします。(1998年11月5日)(横浜教室・ボランティア) 言葉が時代を経るに従って変化するのは、仕方がない或いは当然のことだと思います。しかし、ここに挙げたようなものもそれで好いのでしょうか。「自分の国の言葉を自分達が変える」 のは、それに対する賛否はあるにせよ、まだ許されると思います。しかし三流の芸能人がただ笑ってもらいたいがために使う、いわば業界用語に近いものを、外来語しかもまだ生きている言葉にまで広げてしまうことが許されるでしょうか。 私(わたくし)は言葉はその国の文化だと思っていますから、外国人に面白おかしいだけのために母国語を変えてほしくありません。 それから不必要に、或いは自分勝手な解釈で外国語を使って分かったようなつもりになっていることも気になります。日本語はひとつの言葉でも複数の意味或いは「あいまいさ」を持った言語だと思います。(それが悪いと言っているのではありません。そういう言葉だと言っているだけですし、それなりの善さもあると思っています)。 先日、さるアメリカ人に「樋口さん、お客様ってどういう意味ですか」と聞かれました。暫く考えた後、5つばかりの答えを出しましたが、たしかに家庭で迎えるお客様とデパートのお客様、麻雀のカモで使う英語は違います。単語だけではなく、言い回しでも「あいまい」なものは沢山あります。その上に更にあいまいなものをオンして大丈夫なのでしょうか。 私は、思考は言葉によって成り立っていると思います。30年程まえアメリカに住んでいた時に強く感じたことです。いろいろな理由で、議論をする時にそれまでの日本語で考えそれを英語に翻訳する(無論、頭の中だけでやっていたのですが)やり方を止めて、英語で直接考えるようにしました。そして暫くたったのち自分の考えが非常に単純になっているのを感じ愕然としました。 要するに物事を考えるのは自分の知っている言葉で考えるのであって、その数が少ない或いはあいまいであった場合は貧弱な思考しか浮かばないのではないかと思います。またどうせ考えてもそれが表現できないならと、無意識に考えるのを止めてしまうことも起こるのではないでしょうか。
ですから語彙を豊富にして正しい言葉を用いると言うことが大切だと思います。唯、ある日本語の教科書にあった「彼女はぜんぜん太っていないので、うらやましい」は御免被りたいと思います。(横浜教室・ボランティア) ビルマ政府は英語呼称 Burma を Myanmar に変えました。理由は Japan とニホンとニッポンの発音がかけ離れているように、Burma の発音がビルマ語の音とかけ離れている点と、多民族国家としてのふさわしさの点にあるそうです。以下、引用文献はその記載通りに、それ以外についてはミャンマーと記します。 ミャンマーは日本の1.8倍の面積があり、人口4,300万あまりの多民族国家です。インドシナ半島で仏教を国教とする独立王国でしたが、19世紀に3度に亘る英国との戦いの結果、1886年にその植民地になりました。しかし1948年に完全に独立を果たしました。 日本に対しては日露戦争の勝利以来非常に好意的で、現在でも日本、特に戦前の日本に学ぶところが多いとの考えがあるようです。 今時大戦では終戦まで日本軍は同国内で英連邦軍と交戦し、住民に多大の迷惑をかけました。抗日の動きもありましたが、無常感が浸透しているためか、日本が敗れても決して手のひらを返すようなことはなく、熱病で死にかけた敗残日本兵を保護して看病したり、捕虜収容所でこっそり食物を施してくれた人達が多かったようです。助けられた元日本兵と助けたビルマの村長の娘が伊豆で偶然再会し、現在その娘が元日本兵の助力で伊豆で民宿をやっているというケースもあります。 同国で暮らしてきた人の感想では、ミャンマーの人は穏和、従順な心を持っていて、外国人に対して乱暴な言葉や失礼な行動はとらず、相手をたて自らを控えめに振る舞うそうです。日本人の謙虚の心に似ていると言います。日本人から失われつつある相手への奉仕、人情の厚さを感じさせる人達だといいます。 色はやや浅黒いが日本人に似た顔立ちの人が多く、赤ん坊のお尻に「蒙古斑」と呼ばれる青あざのあるのは日本人と朝鮮の人とビルマ人だけであり、この3民族は元々一つの民族として蒙古に住んでいたという説があるそうです。世界一おとなしい民族ともいわれます。 言語は日本語、朝鮮語に近く、@語順が主語→目的語→述語の順 Aテニヲハに似た後置詞がたくさんある B日本語の「こ・そ・あ」に似た三系列がある C肯定形、疑問形、丁寧形、命令形等は語尾にそれぞれ一定の1音節が付き、否定形、禁止形等は動詞の前後を一定の音節群で囲んで表現する D無声の「t」のような破裂音と「s」のような摩擦音が複合語を形成する際や助辞・付属語が付く際などは「d、z」等の有声音に交代する(日本語で「田{ta}」→「稲田{inada}」、「坂{saka}」→「不動坂{fudouzaka}」と同様) E文字表は日本の50音に似た50音からなる(中国語・朝鮮語の音節表とは異なる) Fドイツ語・スペイン語のような冠詞は付かず、性・数の差別はない、等の特徴があります。 ただし基本単語は多く1音節語であり、単語の区別を3種類の声調で行う点は中国語の影響でしょう。(古代の日本語も 「奴{nu}」、「紀{ki}」、「津{tu}」 のように1音節だったようです。
トミー君ですが日本語学習を基礎からみっちりやりたいといいうので、「みんなの日本語一」
から始めました。50音表についてはその重要性をすぐに直感したようですが、拗音、促音、撥音はないようで、拍の体得と並んで指導する側もされる側も共に苦労しています。でも彼はウォークマンに吹き込んだ私の発音を繰り返し聞きながら頑張っています。 かるたと言っても、いろはがるたなどではなく、百人一首です。おはじき、お手玉、トランプなど、いろんな遊びをしましたが、ある一時期、百人一首に熱中しました。 もちろん何人かの仲間がいて、学校の行き帰り、休み時間などにも暗記しあって、小学校の5年生頃には百人一首の歌を全部暗記してしまいました。恋の歌など、内容もさっぱり分からないままに、調子がよくて覚えやすかったのでしょう。 お正月になると、大人達もかるた取りの仲間に入ってくれて、それは賑やかで、楽しいものでした。なにしろ子供たちは毎日練習しているので、ちらしでも源平でも、大人達を負かしてしまって、得意になっていたものです。 今の子供たちには、百人一首は縁遠くなっているかもしれませんが、私の友人が勤務する東京のある私立高校では、年間行事として、新年に百人一首大会をやっています。全校生徒みな参加する1日がかりの競技会です。 トーナメント方式で、勝ち残ったクラスが優勝する訳ですが、最初に負けたクラスには、お汁粉作りの役目があり、最後にみんなでお汁粉を食べる、これがまた楽しいということです。 そういえば、私の子供のころも、ころあいをみて、母が甘酒をあたためたり、餅を焼いたりしてくれたものでした。それらをふうふう言いながら食べて、灯をともしてもらった提灯を提げて、仲間たちは家に帰って行きました。
これは小学校6年生ごろまでの話で、そのあと次第に戦争が激しくなり、かるた遊びどころではなくなったのです。(横浜教室・ボランティア) これからお話ししようとしている釣りは
「へら鮒」釣りと言いまして、その魅力は何と言っても四季を通じて、湖から池まで広い分布で楽しませてくれます。 この 「へら鮒」 は警戒心が強く臆病な魚で、その上気象条件や季節の変化にも微妙に反応して、生態や行動を変える為、この釣りは、数ある釣りの中でも難しいとされています。 このへら鮒釣りの際使う 「うき」 がこの集中力の源であります。この 「うき」 とは細く長くメモリが幾重にも細く塗られ、この目盛りの動きによって魚の状態と魚信が正確に早く伝わることが一番の目的とされています。「うき」 の動きを読む集中力がこの釣りの漁獲の鍵となるわけです。その上、同じ釣り場に 「うき」 を振り込むこの繰り返しの集中力が漁獲の善し悪しに影響を与えます。 実はこの他に漁獲に大きく響くのは餌に気を配ることも必要です。春夏秋冬で餌の内容は大きく変化し、餌の硬さ、柔らかさなど大きく影響されます。また、餌の種類も驚くほど多く、この釣りに限っては、永い経験とこれに伴う技術が要求されているようです。
あなたのやっている様々な趣味で、何らかの機会に集中力を試してみると意外な発見にも繋がるかも知れませんよ。自分の力以上の 「集中力」
を信じながら。(横浜教室・ボランティア) その場でフリーな形で質問に応じられたりしているうちに生徒が固定してくると、今までかなり緊張してらしたのが次第にほぐれ、打ち解けてこられて、2人、3人と忙しく教えられるようになりました。しばらくして、「すっかり人が変わったように明るくなって、若返ってしまって、この頃は着るものもワンポイントシャツだよ」などと、勝手なお噂をしていたものでした。 当時、奥様をなくされたりの、かなりのご心労が続いていらしたとのことでしたが、最後まで、ご自身からそのような苦労話をされることはありませんでした。「自分がひどく落ち込んで抜け殻のようになっていた時に、思いきってこのボランティアセンターに相談にきたこと、ここで親身になって話を聞いてくれたこと、そして点字の会やユッカの会を紹介され、そういう場を得たことで自分がどんなに元気をもらい、生かされたか」 ということを機会ある毎に熱心に話していらしたことでした。 ユッカの会ばかりでなく、点字機をマスターされての点字の会では、沢山の女性に囲まれて黒一点で活躍され、ひときわ輝いてみえましたし、又盲学校の生徒さんには長い間熱心に点字で数学を教えていらして、その生徒さんが筑波の鍼灸の学校に合格された時には我が事のようにとても喜んでいらっしゃいました。 ユッカの会での担当は数学ばかりでなく、理科、英語と幅広く教えていらっしゃいましたから、思いだされるだけでも生徒の数はゆうに20人を超えておりました。 「今までなかなか分からなかった子がね、辛抱強く教えていって 「わかった!」 って云う、その目の輝きがね、見たいんだよ」と一企業戦士として只がむしゃらに働いてきただけ!とかつておっしゃった方の中に、教えることの魅力というものをみたような気がした事でした。そして勉強ばかりではなく、1人1人の生徒の話をよく聞かれて、よく案じられたり、喜んでいらしたものでした。 今は社会人になったり、進学したりしているかつての教え子たちは、先生の訃報に一様に 「信じられない」 とショックを隠せない様子で、口々に後藤先生と勉強していた頃のことを思い返したり、この会でのその存在の大きさが改めて思われたことでした。 「ここに来て本当によかった。僕は皆から若さをもらったね」 とおっしゃり、センターでお会いすればいつも嬉しそうなお顔で「誰か数学の生徒はいないかね、よろしくお願いしますよ」などと、口癖のように云ってらした、それこそ県民センターの主のようなお方がこれからはどこにもお見かけ出来ない、本当に淋しい思いでいっぱいです。 日曜日の孫とのひととき、嫁さんの料理が楽しみ、とおっしゃる以外は、ご家族のご心配も振り切って、生活もほとんどお一人でされ、亡くなられるほんの2、3日前には生徒に勉強の時間を約束しながら、ふと、「長いこと世話になったな」 と、只一言おっしゃって、最後の最後まで教えようとの姿には、うらやましいような心意気、不謹慎ながら流行り言葉で言わせて頂ければ 「カッコ良すぎる!」 との思いがします。
多くの教え子達の思いも込めて先生のご冥福をお祈りし、心からの御礼を申し上げたいと存じます。本当に有り難うございました。(横浜教室・ボランティア) 急なことで、有り合わせの果物とお茶でささやかな接待をした時、ちょうど運良く娘が居合わせたので通訳宜しく、私もカタコト英語で四苦八苦、楽しくやり取りをした後、彼等が親善のために日本にやって来て、これから日本各地でコーラスの発表をすると聞きつけて、「それじゃーちょっと此処でやってみて!」 と言った処、すぐさまリーダーの合図で 「夕焼け小焼けの赤とんぼー」 の合唱が流れ出した。私たちも思わず引き込まれる様に声を合わせた。 アフリカ人の男性(この人のバリトンはよく響いて素晴らしい)、このグループの女性リーダーのフィリピン人(コラソンという名)、他にタイ人、中国系の人、シンガポール人等々、国籍はまちまちだが、きれいな日本語のコーラス。伴奏もなく、短い歌のタイトルにも拘わらず、混声合唱の奏でる美しくも洗練されたハーモニーに、私たちはすっかり魅了されてしまった。 お互い目と目を交わし合い、熱い思いが流れるのを感じた。我が家の狭い茶の間の空気が、俄に快い雰囲気を醸し出した。正に友、遠方より来る、肌の色のちがいこそあれ、その声量にも圧倒され、一つに溶け合った事に感動した。 後日工藤さんから
「父親が教職にあって昔、よくあの歌を耳にした頃を思いだした」
と言われ、人それぞれに様々な想いが有ったであろうと思った。彼等からも後に丁寧な感謝の手紙を受け取った。彼等もひとときの交流をよい思い出として大変喜んでくれた様だ。私たちも時折その時の事を想い出しては、今でも茶の間の話題になっている。(横浜教室・ボランティア) 手術の前後の一番辛い時、脳裏に浮かんだのは、同じような大病の経験者がどんなふうにそれを克服したか、その後のケアーはどうしているか、それが最も身近な関心事だった。そこで旧友知人の、言わば病歴を持った先輩2人に尋ねてみた。 1人の彼女は67歳位。4年ほど前に心臓のバイパス手術をしている。その時実の父上が高齢で、彼女はそれを一人娘に託して、全く1人で入院、大手術を受ける。入院中に父上が他界、葬儀等は病院で娘に指示。彼女については未だ未だその後日談が有り、病院での武勇伝も有るのだが・・・常に目の前に課せられた難題に勇敢に挑み、乗り越えて行くという人生の達人である。そのバイタリティーには全く頭が下がる思いである。 もう1人の友人は72歳。独身女性、10年程前、かなり進行していた乳癌の広部摘出手術を受け、その後の抗癌治療(コバルト照射)の為肋骨壊死し、2年後に再度肋骨2本切り取る手術を受ける。抗癌治療の後遺症にも悩まされ、そう長くは生きられないと思っていたのが、術後10年を経て彼女はどっこい生きているのである。 彼女は長年文部省に勤めていた関係もあって今も学校関係の仕事でオフィスに週3回出勤しているとか。彼女とは10年振りに再会し、お互い生きている事を感謝し合ってワイングラスで乾杯。「絶対無理はしない事、明るく生きる事、気力よ、気力!」と一言。 この2人の友人に会って私は力強いオーラを感じた。大病やその他の障害を克服して来た者の不思議な程のパワーは一体どこから沸いて来るのだろう。これは私のごく最近の感謝と感動のひとときなのである。
末筆になって仕舞ったが、御心配をかけた皆様からの御好意や励ましに心から感謝申し上げます。(横浜教室・ボランティア) 前号と同様、慣れないパソコンに向かい、時間との闘い?何とか作業が終わりました。この作業を通してユッカの会で、素晴らしい方々とご一緒させて頂ける 「幸せ」 に改めて感謝です。 たよりの原稿を打ち込んでいる時、会員の方から電話がありました。結婚のお相手の「在留資格が取れました」と受話器の向こうから弾んだ声、ああ良かった!まず、一安心です。受話器を置いたとたん又、ベルの音、今度は 「クリスマスのケーキ、わたしが、4つ焼きまーす。生クリームといちごは用意してね」。「ハイ、ハイ」 と返事をして、電話の主の高校生と暫し、おしゃべり。でも、いつもこんな楽しい電話ばかりとは限りません。 ユッカの会も新しい事務局になって3年目を迎えようとしています。会員間の交流がもっと深まるよう何かよい知恵はないものでしょうか・・・。 最後に後藤様のご冥福を心からお祈り致します。皆様よいお年をお迎え下さい。(戸塚教室・ボランティア、事務局) |
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■第11号 (平成11年12月18日発行) 新しい年明けを前に
沼波 万里子 しかし先般中国から帰国された方々のアンケートをとりました処、本当に帰ってきて良かったと答えた方が66%、帰らなければ良かったと回答された方が15%、あとの方々は未だこれからの事でなんとも分からないとのことでした。この結果は、私共のように帰国者との交流をもつ者にとりましては、やや救われる思いが致します。
今回、年金法改正によって、残留邦人に基礎部分(国民年金)の3分の1(国庫負担分)が最低額として保障されることが決まりました。実際問題として、とてもこれでは老後の生活の確保はできませんが、それでも今迄の努力が少しずつ成果を上げつつあるといって良いでしょう。私も高齢で以前ほど活動出来なくなりましたが、帰国された方々が少しでも安心した生活を送れるようこれからも頑張ってまいりたいと願っております。会員の皆様には改めて心より御礼申し上げます。 王君はわたしがユッカの会で日本語を教えた生徒だった。彼は中国の東北地方の出身で吉林省の大学を卒業した秀才だ。たまたま中国残留日本人孤児の娘さんの侯雪梅さんと結婚していたので、義母の日本帰国と一緒に日本にやってきて、新潟鉄工所に勤務していた。 日本語は中国時代に勉強していたので上手く話せるのだが、英語まじりの会社用語が分からないので、英語と日本語を勉強したいということでユッカの会にやってきた。会社が終り、午後7時から授業を始めるのだがほとんど休むこともなく熱心に通ってくれた。 ある日、会社の仕事とは関係のない、水餃子の作り方と餃子店のPRの書き方について相談してきた。何でそんなものを作るのか聞いてみたら奥さんの侯さんが大船の商店街で手作りの餃子と饅頭の店を始めたので、その宣伝をしたいのだがうまく書けないので教えてほしいという。 さっそく、その店に行ってみた。日曜日の大船駅前の商店街には数多くの惣菜店が立ち並び買い物客で混み合っている。その一画に王君の奥さんの店があった。間口1間もあるかどうかといった、狭い店だがなかなかの繁盛だ。 店頭では王君が汗を流しながら中華餅を焼いている。声をかけようかと思ったが、一生懸命に焼いている姿に声を掛けづらく、しばらく眺めていた。手つきもよく、日頃のサラリーマンの面影はない。中華惣菜店の店主になりきっている。黙って見ていたわたしに気づいて顔をあげ、「先生来てくれたんですか」 と明るい笑顔をみせる。 店頭に並べてある手作りの饅頭も餃子も大きさはまちまちであったが、一口食べてみると結構うまい。価格も市価の半値と安い、奥さんに声をかけて饅頭と餃子を買い込んだ。 それが縁でユッカの会のクリスマスパーティーには王君の店の饅頭と中華餅を出してもらうことになった。ユッカの会の皆さんもきっと一度は食べたことがあるでしょう。 それから1年。上大岡の東口に中華料理店を開くまでになった。上大岡駅を出て5分ばかり歩くと、王君の店がある。「王家菜館」という立派な看板が出ていた。店に入ると4人掛けの椅子席6つと、奥には8人座れる大きなテーブル席が2つもある。壁には中国の文字が書かれた大きな扇子が飾られており、老酒の大きな壷が並んでいた。本格的な中華料理店だ。 当日招待されたのは王君、侯さん夫妻が日本に来てから親しくしていた友人で、初めてお会いした人たちばかりだったが、王君夫妻を中心に、来日以来の苦労話に花が咲く。 王君の奥さんは中国残留日本人孤児の母親と日本に来てから、中国で覚えた中華饅頭作りをはじめ、小学校や地域のバザーに出品したのが評判がよく、知人のつてで大船に店を出したのだそうだ。そこでの利益を積み立てて、ようやく上大岡に店を出せるようになったのは日本に来て知り合った私たちのおかげといってくれる。わたしなどは王君に日本語を教えただけで、何もしていないのにこんなにも喜んでもらえるなんて嬉しかった。 料理も普段食べられないような中国北地方の家庭料理が次々と出てくる。奥さんの侯さんが厨房で料理人と一緒になって作ってくれた料理だ。
中国残留日本人孤児の家族をはじめ、いろいろな事情で日本にやってきた人たちが王君の家族のように一生懸命に努力をして立派に生きて行く姿を見ることは本当に嬉しいものだ。(横浜教室・ボランティア) まもなく、家族の知人に紹介さされて、県民センターのボランティア教室(ユッカの会)で、日本語の勉強を始めました。教えてくれたのは家崎先生です。 最初の印象は、先生はまじめな人ですが、ちょっと厳しいかん感じでした。発音がきれいにならないと、なかなか次ぎの勉強に進みません。いつも授業の前には、かならず、長母音・拗音・撥音・促音や数字の数え方など発音の練習です。アクセントがよくならないと、なおされました。先生のお話はわたしの心にきざみつけられています。思い出してみると、会話にはすごく役立っています。 それから私のレベルに応じて、毎週ワープロでいろんな文章を作ってテキストとして教えてくれました。豊かな内容ですが、分かりやすく、さっそく簡単な日常会話が出来るようになりました。勉強していて、先生の心遣い、やさしい人であることがわかるようになりました。 勉強ばかりではなくて、生活でもけっこう先生夫婦の世話になりました。私に何かあったとき、何か分からないことがあったときは先生夫婦と相談します。 私はセンターで勉強するこの時間を一番大事にしてきました。仕事に就いた時も、相変わらず休みをとって、なるべくセンターでの勉強を続けました。2年後、出産のためにやむをえず勉強をお休みしました。 しばらく休んでから、自分と子どもの将来を考えて、やっぱりもっと勉強をしたいと思い、先生と相談したうえで、勉強の時間を回復させていただきました。子供がまだ小さいので月2回、午前中家崎先生、午後は木野先生と勉強しました。 木野先生は仕事を持っていましたから、すごく忙しく、ほとんど食事の時間もとらなくて、教えてくれました。先生は私を教えてから、仕事に戻らなければならないのですが、でも、私の気持ちを知って、なるべく休まず教えてくれました。先生達の姿を見て、なんと心の優しい人たちだと思いました。 それから1年目に先生達のおかげで、私は日本語能力試験一級に受かりました。これはなにより先生達への最高のプレゼントだと思っています。先生達の笑顔を見て、自分ながらよくやったと思いました。 これをきっかけに、自分に自信が持てるようになりました。何か技術を身につけて、、自分に向いている仕事をしたいとの気持ちで、今年3月県立秦野職業技術校の試験を受けて合格し、今、CADの勉強をしています。嬉しいと同時に残念なのは、先生達との勉強が出来なくなったことです。でも、ずっと今まで感謝の気持 ちが心から溢れています。どういう風に表現すればいいか分かりません。
学校の勉強は楽しいです。若者と一緒に自分も若くなったようです。力もでたようです。だんだん学校生活に慣れるにつれて、私が分かったのは、『案ずるより産むが易い』ということです。自分がやりたいことをやれば、素晴らしいことが出来るかも知れません。世の中にはどこでも暖かい光が充満している! あの時から、5年が経った。今、私は大学に通っているというのに自分の力で何かできるという気がしない、何かをしたいという気もうすれていた。今になって、5年間私は年ばかりとって、何も成長していないことに気づいた。これから先ずっとこんな人生を送ってよいものかと最近つくづく思うようになり、何かをかえていかなければいけないとおもうようになり、真剣に悩みました。
そして悩んだ末、これからは、何かを思いたったら、結果がどうであれ積極的に行動に移すことが今の私にとって一番大切なことと思いました。これからは、この気持ちを大切に色々なことを始めようと思っているので、色々な検定試験や、自分の好きなこと、興味を持っていること積極的にチャレンジしていきたいと思っています。悔いのない大学生活を送りたいと思っています。(横浜教室・学習者) 「赤穂浪士」 とは、徳川家が絶対権力を持って日本を統一していた江戸時代中期、赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)が勅使の下向にあたり接待役を命じられたが、吉良義央(上野介)にいじめられ、耐え切れず、江戸城内でついに吉良に切り付け傷を負わせた(刃傷という)。 このことに対して幕府は喧嘩両成敗とはせずに、浅野に即日切腹を命じ、所領を没収、浅野家は赤穂城を明渡したのに対して、吉良はその責を免れた。浅野の家臣達は、家老大石良雄(内蔵助)を中心に主君の恨みを晴らすことを誓い、元禄15年(1702年)12月14日夜半、吉良の屋敷に討ち入り、吉良の命をとって仇を討った。という話である。(話の内容はわかりづらいと思うので興味のあるかたは日本語等の指導の方に聞いてください。) この仇討ちに加わった47人(実際には直前に一人脱落)を 「義士」 といい、「四十七士」
「赤穂義士」 と呼んでいる。この 「義」 という言葉を辞書でひいてみると
さらに他の辞書には前記の他に、 「仇討ち」 という野蛮ともいえる行為の話をなぜ日本人はいつまでも好んでいるのか不思議に思う人も多いと思うが、「義士」 の行為を応援する日本人の心の底には、47士がそれぞれ身を捨て、辛苦して、主君に忠節したこと、しかも「仇討ち」 のあと47士全員も切腹を命ぜられるなど、幕府の裁決の不公平が、封建的身分制度の枠の中で苦悩する庶民の日頃の鬱憤が 「仇討ち」 そのもので少しは晴らされたことにあると思う。 300年経った今日、「リストラ」 の名目の下に理不尽なことがたくさん行われていると思うと、「義」 の気持ちが大切であることは少しも変わっていないのである。 私は用事のない週末、夫と車でフラフラでかけることが多いが、その時車のラジオで永六輔さんの 「土曜ワイド」 を聴く。永さんの、ことばを大切になさっておられる姿勢、博識にはいつも感心しているのだが、その永さんが何かの番組で 「赤穂義士」 の 「義」 には 「ボランティア」 の意味が含まれているとおっしゃたことが頭の隅に残っている。この文を書くにあたり 「義」 の意味を調べて 「なるほど」 と思えてきた。
日本語指導者ボランティアの1人として、私は決して身を捨てて取り組んでいるとはいえない。むしろたくさんのすばらしい友人を得て、自分のために行っているようなものである。参加させていただいて年月を経てきた今、ボランティアの1人として襟を正して真剣に取り組まなくてはと、「元禄繚乱」
を見つつ思う。(横浜教室・ボランティア) 重慶は中国の西南にあり山が多いので、昔から 「蜀道難」 という話があります。ですから重慶には様々な交通機関があります。船や車やエレベーターや飛行機が交通手段になります。5年後にはモノレールも加わります。とても便利です。それに「立体交通」というのがあります。山が多いですから、建物は山の上にも山の下にもあります。ほかの都市と、とても違います。 この特徴によって市政府は 「灯光工事」 をしました。夜になれば全部電気を付けるので、夜の風景はとてもきれいになります。これは自然な夜景です。ですから 「不夜城」 といいますが、重慶の夜景は全国でとても有名です。 長江と嘉陵江は重慶の朝天門で合流しますが、この風景は重慶の南山(一●(木偏に果)樹観景台)と我鳥嶺公園から見えます。これも重慶の風景の一つです。長江三峡は重慶から出発して武漢の宜昌の方へ行きます。三峡ダムは三峡風景にとってあまり影響がありません。今でも長江三峡へ旅行する人は相変わらず多いです。 重慶は 「山城」、「不夜城」、「霧都」
など別名が多いです。私たちはこんな美しい都市に住めてとても嬉しいです。重慶人は親切で心あたたかいですから、中国のお客様および外国のお客様を心から歓迎します。ユッカの会の先生方も是非お出でください。(重慶在住・元ユッカの会学習者) はじめて彼に会ったのは、彼が来日して4年目。日本での高校を無我夢中で過ごしたので、もう一度英語をゆっくり学び直したいということで戸塚フォーラムでの勉強がスタートしました。ブラジル出身というバックグラウンドに日本語と英語を活かし、人と人との交流に役立つ仕事をしたいというのが彼のその時の希望でした。12月は忙しくなってしまったけれど、来年は又よろしくという彼に、私が教えてあげられることはもうないでしょうと思いつつ、彼とのレッスンは私にとっても本当に良い勉強だったと嬉しい気持ちでいっぱいでした。 ユッカの会にとってもう一つの嬉しいニュースは先週から松川瞳さんがカナダ人女性、へザーさんの日本語担当になったことです。彼女は高校3年間私の生徒さんでした。今は神田外語大の3年生です。 ヘザーさんは来日してまだ2ヶ月。日本語は全く出来ないので瞳さんにとっては大学での英語力を活用する良い機会になるでしょう。彼女は尊敬語もキチンと使え、美しい日本語を話せますので、ヘザーさんにとっても良い先生になることと思います。彼女もまた中国というバックグラウンドプラス日本語と英語という特色の活きる人生を選びたいと思っているので、ヘザーさんとは語学ばかりでなくお互いの文化も吸収し合えたらいいなと思います。 「教えるのってむずかしかった!」 という初感想に私も本当にそうだと共感します。私はユッカに入ってもう6年になりますが、今でも毎週フォーラムへ行く前は今日はどんな風にしようかしらと心の準備が必要です。 私の今のもう1人の生徒さんは中3の森川クン。彼は教科書を私からただ教わるだけでなく、その内容について毎回、自分自身の考えを話してくれます。試験のためにただ教えているだけでは虚しいけれど、こんな生き生きとしたフィードバックがあると、うれしくなります。 彼はまた、都合で欠席したりする時の電話連絡が非常にキチンとしています。生徒の皆さんには意外かもしれませんが、これは先生役の私達にとってはとってもうれしいことです。まだ中学3年生。これから、よろこび、悩み、いろいろな経験が待っているのでしょうが、一緒にがんばろうね。
18日はクリスマス会。日頃電話だけの元生徒さんとも年1回会ってお話できるリユニオンの時。楽しみにしています。(戸塚教室・ボランティア) 北極村の旅はチチハル発漠河行きの列車で始まる。昼過ぎ音もなく発車、25時間かけて遠く興安嶺を望みながら、森林の中を悠々と、あえぎ、休み、ひたすら走る。丘陵を重ねたような地形に、焼畑のあとの樹木の焼けぼっくりが延々と続く。11年前興安嶺を襲った大火災の跡である。2ヶ月燃え続け、焼失面積は四国と略同じと云う。原因は電動鋸の燃料油の引火である。 食堂車も寝台車もあるが個室はなく、乗客皆々区別はない。トイレはお世辞にもきれいとは云えず、その上停車の度鍵をかけそのままなので不便極まりない。 西吉林で下車、そこから車で2時間半、北極村着、宿所は正にできたばかりのバンガロー、ペンキ塗り立て、水施設なし、従って風呂やシャワーはない。トイレは遥か向こうの林の仮小屋、電灯はあっても充分に暗く、灯火管制を思い出す。不便を満喫するには「もってこい」の場所である。 村は夏至祭りの準備で人々が忙しく動いていた。会場は江岸の大広場、もっとも周囲すべて大広間だが・・・・北極村と書かれた立派な石碑が建っている。村の入り口に大きなアーチと検問所があったが、これから観光に力を入れていく計画なのである。 ようやく陽の沈む頃、祭りは少しずつ活況を帯びてきた。挨拶、出し物次々の披露、やがてプロの歌手が出演、何でも香港から呼んだのだそうだ。観客でひときわ目だったのが兵隊さん。日没近くトラック2台で乗り付け整列、鉄砲ならぬ折り畳み椅子を持参し、広場の一角に2列に並び、命令いっか腰を下ろし祭りの見学。なるほどここは国境線の村、軍隊の駐屯は当たり前なのだ。 いよいよ長夜も暗くなって来た。中央に用意された丸太の山に一せいに火が付けられ、次第に燃えさかる火は天を焦がす。祭りも熱気に包まれて絶頂、いつの間にか一大カラオケ大会、歌声は轟き、皆々踊り出す。カラオケは今や中国全土に広がっている。 気温は下がらず、天候も曇りがちで、遂にオーロラを拝することはできなかった。気温といえば冬は寒波に見舞われ、零下50度をわることも度々ある。その時は国から寒冷手当てが出ることになっている。但しこれまでの政府の公式発表では45〜47度でストップするという。予算がないので50度は越せないのだそうな。 河の向こうはロシアだ。向こうに岸辺のあるのを感ずる灯一つない漆黒の暗闇、こちらは巨大かがり火の光の海、何となく国境のもつ厳しさとロマンが漂よう。河を少し下った岸辺に国境監視塔がある。ロシアとの間に今は緊張問題はないので引き締まった空気はない。しかし日本とはガイドライン問題で冷戦中で日本人はオフリミット。半ば諦めていたところ、地元案内人の知恵で我々はにわか香港人となって入場、5階建て展望塔に上り大双眼鏡でロシアの監視所を監視する。我々は手まねで感想を述べあった。どうしてか?。我等は正に聾唖の香港人なのだ! 北極村には地方政府の観測船があり、1時間ぐらい体験乗船した。ここから黒河まで3日、ハバロフスクまで5日かかるという。但し観光でこの船旅をした暇な人は未だいないと云う。単調で長すぎて一般受けしないだろう。 翌日漠河・西吉林を経て南下、ジャクダチに降りる。「オロチョン自治旗。阿里河鎮」 に入り、文化陳列館等々、典型的なオロチョン家族に会いに行った。食事をし、酒を飲み、歌も歌ったが娘さんの頭の先からつんぬけるような甲高い御詠歌(?)を始め、モンゴル族と殆ど変わらない感じであった。また北魏王朝を樹立した鮮卑族発祥地という山の上の嗄仙洞などを訪れた。或いは渡り鳥の一大生息地であるチチハルの鶴公園など、時間があれば訪れたい所はいくらでもある。 森林については朝鮮戦争後開発に力を入れ森林の利用を促進したが、いまは水害対策のため伐採を控え、自然環境の保全が優先目標になっている。黒龍江省北部の観光は相当力を入れて実施されている傾向にあるが、自然破壊することなく身近に自然を観察できる姿にして欲しいと思う。 (付記) 毎日私は家事をしています。主人は週休2日で、休みの時間がたくさんあります。日本で色々な知識を勉強したいと思います。 私は中国で仕事をしていました。毎日忙しかったです。日本語があまりわからないのでここで仕事ができません。だから、今、毎日家にいます。ちょっとさみしいです。私は両親と姉をとても心配しています。でも、電話料金が高いですから、少ししか話ができません。 日本語が下手ですから、銀行へ家賃の振り込みにいくときと、郵便局へ小包みを送る時は主人と一緒に行かなければなりません。
私は仕事をしたいです。でもまだ日本語が話せませんから、だめです。私は大学院で勉強したいです。でも学費はとても高いです。だから、仕事をしなければなりません。そのために、日本語を勉強しなければなりません。(横浜教室・学習者) 6年生になって、音楽の教科書を開いたとき、3学期の題材に 「アジアの音楽」 というのがあったので、早く3学期になればいいと思っていた。待ち遠しかった。 3学期になっていよいよ 「アジアの音楽」 を聞くときがきた。中村先生が「アリラン」と「まつりか」のCDをかけてくれた。わたしは故郷で聞いた歌が聞けるので、体を前に乗り出して聞いた。「アリラン、アリラン…。」 なつかしい。中国の自然やハルピンの空、友達の顔が浮かんだ。とつぜん、すぐ周りの友達の笑い声が耳に入ってきた。わたしのなつかしいと思う気持ちは、悲しい気持ちに変わった。なぜ笑うのだろう。わたしにとってなつかしい音楽なのに。日本の人には耳慣れないメロディーだったのかもしれない。 今までに、国際理解教室で韓国の 「トラジ」 やフィリピンの 「レロンレロンシンタ」 を習った。覚えるのがちょっと大変だったが、外国の歌は楽しかった。わたしは日本の民謡を聞いたとき、あれっと思った。普通の歌と違って、のばすところ、歌い方に特ちょうがあっておもしろいと思った。違いがあるから楽しいと思った。ちがいを知るのはおもしろい。 2学期に国語で「国境をこえる文化」について学習した。それぞれの国には独特の文化があること、その文化を自分の中に取り入れることで自分が豊かになることを知った。 5年生のとき、わたしは 「ザオ朋友」 をクラスの人たちに教えた。この歌は、中国では昔から学校で歌われている。歌いながら次から次へ新しい友達を見つけて握手し、友達の和を広げていく。わたしがクラスの人たちに 「ザオ朋友」を覚えるように提案したとき、今日と同じように笑った人がいた。けれども、練習を始めると、一人もはずかしがらずに中国語で 「ザオ、ザオ、ザオ、朋友」 と歌った。歌声が大きくなると顔も笑顔になり、握手の手も長くのびて、とてもいいふんいきになった。最初笑ったりはずかしがったりしていた人が、「いい歌だねえ。たのしいねえ。」 といってくれたりもした。 あのときのことを思い出して、中国のテンポのゆっくりした歌を笑うのではなく中国の歌の特ちょうとしてとらえ、その歌の意味することを理解してほしい。わたしは外国のいろいろな歌をもっと知りたい。そして、外国の人と歌を通して広い心で接し、国際理解を深めていきたい。(戸塚教室・学習者) (追記)
吉野麗子さんは現在中学3年生です。この文章は小学校6年生のとき書いたものです。 あと30年もしないうちに先進国では人口の3分の1以上が60才以上になるという、人類は未知の「長寿の時代」に入ってきている。1999年は国際高齢者年、10月1日は国際高齢者デーであった。人生は若くても高齢者でも、年齢に縛られるものではなく心とからだが健康であれば、精神的にも諦めてはいけないと自分に言いきかせている。 健康であれば、記憶力は衰え、足腰は弱くなってきても、知能は記憶力だけで決まるものではなく、推理力、創造力、判断力などの総合力で決まるものであるから、この総合力を鍛えることによってまだまだ伸ばす事ができるものと確信している。
西暦2000年は「平和の文化国際年」、新たな区切りの年を記念して、元気で共に力を併せて頑張りましょう。(横浜教室・ボランティア) 聞くと聴くの差を説明してうまくできたと思ったら中国語では聞くは嗅ぐ事だと教えられ、それならその違いを中心に説明すべきだったと知り、日本語を少し勉強しようと岩波新書の日本語練習帳を読んだらハとガのちがいに振り回されて自信喪失(すぐ忘れるのが私の健康法)したり、自国語でも難しいと思いました。これに比べて外国から来てわずかな期間に驚くほど上手に日本語を話せるようになる人たちを見ると、素晴らしいと思います。
外国から来られ必要に迫られて日本語を勉強している人にはさぞ、大変な事と思いますが、私自身にとっても、異なる文化を持った人達と交流する事は大変興味深く老化防止(いや老化減速かな)にも役立つ事だと判りました。どうぞご一緒に異文化の狭間をさまよいましょう。急がずに
(横浜教室・ボランティア) 僕はイラン生まれで8才までそこで過ごしました。小学校3年の時に日本に来ました。初めは日本語が全く分からなかったので困りました。そこで日本人のボランティア活動で、日本語を教えてくれる所に通って勉強しました。そのおかげで日本語もうまくなり、友達もたくさんできました。日本語を教わりながらたくさんの外国の人とも知り合うようになりました。 その中で僕がずっと気になって何とかしてあげたいと思う友達がいました。彼は僕とおなじように家庭の事情で外国から日本にやってきて、一人ぼっちでした。なかなか友達ができなくて、いやな事を言われたりして学校に行けなくなりました。僕はその子の話を聞いてあげたり、相談にのってあげるようになりました。 実は僕も中学に入ってから、学校に行きたくないことがありました。外国人だということでいやがられたり、話をしてくれなかったり淋しい思いをしました。1ヶ月位学校に行けなくなりましたが、家族や先生にはげまされて頑張ろうと思いました。本来僕は明るい性格なので、小学校の時のように、自分から友達に声をかけて、積極的に学校生活を送ろうと努力しているうちに仲間も増えました。 僕は同じように苦しい思いをしている人がいたら話をしてあげたいと思っています。1人でも友達がいて、自分の気持ちを話すことができれば、その人の生き方を変えることができると思います。僕は日本で外国人へのボランティア活動をやっている人達と交流するうちに、ボランティアを受ける側から、僕がボランティアをする側になりました。そこでは、外国人のためのキャンプやパーティーを計画したりしています。そこで外国から来ている人達の悩みを聞いてあげることができます。 僕がみんなに伝えたいことは、ボランティア活動でなくても、普通の生活の中で1人1人ができることが何かあるはずだ、ということです。外国人ということで、エイリアンでも見るような目で見ないで下さい。外国人ということだけで、さけたりせず、声をかけて下さい。そうすれば日本の人達も世界中のたくさんの人達と交流ができ、楽しいことも分かち合えると思います。 お互いが仲良くなればお互いの人生が豊かになると思います。だからぜひとも、外国人と知り合うことがあったら、声をかけて友達になってほしいです。僕も日本人とか外国人とか区別しないで、たくさんの人と関わって、生きていきたいです。(補習教室・学習者) おっと忘れていました。このあいだ7月27日に、自分達の学校で、子供国際平和プログラム・スピーチコンテストがありました。たった3分間の文章ですけどその内容は「外国人との交流を通して訴えたいこと」、友達の体験を書いた文章です。そして9月3日に関内の教文センターでスピーチしました。優勝はできませんでしたけど努力賞を受け取りました。自分では良い成績を残してよかったです。 そしてこれを聞きつけた旭区役所が私のスピーチを聞きたくて、私はゲストとしてよばれました。ここには区長さんとか市長さんとか警察署長さんとか来ていて子供の事を話し合うことになっていて私がよばれました。
このときのスピーチはまえよりもはくりょくのあるスピーチをしました。そしてたくさんの人からあたたかい拍手を受けました。区長さんとかに声をかけられたり、いろんなことをきかれました。記念品ももらいました。とても良い経験をしました。こんどからこういうスピーチコンテストがあったらまた参加して、自分の実力をためしたいと思います。今日本に来ている人達の気持ちを日本だけでなく世界に言いたいと思います。みんなも良いスピーチしませんか。 「英語が話せなくてもハートで大丈夫」 と聞いたことがありましたが、だめでした。「レストルームはどこ……」 「これいくら」 の返事も聞き取れなくて不安いっぱいでした。英会話を習うことを決心したものの私の年ではやはり無理なことでした。でも怪しい単語を並べてもよく聞いて会話をつなげて下さるお友達と辞書を片手に古都の旅を楽しんだりしました。異文化の説明に雑記帳が役に立ちました。 この頃外国の方をよく見かけます。日本語が話せなくて不安な方も多いのでは・・・と。それには誰かとお友達になって日本語でたくさん話すことが何よりと思います。もし私にそれができたらと、それがユッカの会とのめぐり会いになりました。 今私は意欲的に日本語を勉強なさる中国の方と知り合い、良いお友達になれたら良いなと会話しています。ふだん母国語について特に疑問もなく話していましたけれど 「どうしてですか」 と聞かれた時、正しく説明することは難しいことだと思いました。敬語を間違って使ったり、時々どきっとするような質問に遭って、何とか正しい日本語で答えるためには学ぶべき事がたくさんあるのに気がつきました。 そちこちのテーブルで楽しそうに会話の弾む中にいて私達の会話も通じ合えて欲しいと願いながら、「ああここが・・・」 と気づいた所はたぶんどこの言語を学ぶ時でも難しい部分として共通なのかもしれないと思いました。 もう一度アメリカの友達と話してみたくなりました。もう少し話の内容を深めることができたらうれしいですね。もう少し努力したら分かり合えると云うのなら、私は「ハートだけで・・・」と云われた意味を汲み取れなかったのでしょうか。 言葉は生きているとか、ひと頃 「チョー甘い」 とか聞いてなるほど 「超」
かなどと感心していたらもうあきたのでしょうか。そのときの気持ちをストレート?に表現する新語にも付かず離れずでいいからついていきたいと思っています。(横浜教室・ボランティア) 1月 成人を祝う会 いよいよ明日18日は恒例のクリスマス会、今日の午後には湘南白百合学園から15個のダンボール箱が届けられます。毎年クリスマス会でお配りするプレゼント、あの大きな紙袋の中味です。ありがとうございます。 「たより」 も多くの方が原稿を寄せてくださいました。ありがとうございます。今回は出来るだけ多くの方に読んでいただけたらということで一部ルビを振ってみました。如何でしょうか。 多くの方々の協力で今年度も楽しく活動が出来ました。会員数も増え、関わり方も様々です。学習者のニーズも多様化しています。この会に大切なものは何か、皆で話し合って、よりよい活動の輪を広げていけたらと願います。皆様良いお年を!(ユッカの会・事務局長)
これからの行事 受験生のみなさん 風邪をひかないで 実力を発揮して下さい。 |