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現御神日本天皇論

(『政治文化情報』平成十六年十一月二十日号掲載)

十月二十八日に東京・赤坂御苑で催された「園遊會」において、天皇陛下が東京都教育委員會委員・米長邦雄氏に「(國家斉唱國旗掲揚が・註)やはり強制になるといふことでないことが望ましいと思ひます」と仰せになったことについて、いろいろな議論が行はれてゐる。

米長邦雄氏が陛下に國歌・國旗のことを申し上げたことを批判する人がゐるが、陛下のお言葉に対する米長氏の「もうもちろんさうです、本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがたうございました」といふ奉答は、國民として天皇陛下の御心に絶対従ひ奉るといふ姿勢がよく表れてゐてまことに立派であったと小生は思ふ。
天皇陛下の大御心は広大無辺であり、常に「かうあってほしい」「かうあるべきだ」といふ國家と國民の理想の姿を語られる。國民は慎みかしこみ陛下の大御心にそひたてまつる以外に道はない。今回のご発言も然りである。

國民が斉しく國歌を斉唱し、國旗を掲揚することは、ごく当たり前のことであり、「強制」によってなされるべきことではない。しかるに今日の日本は左翼教員組合の偏向教育などによって「当たり前のこと」が行はれなくなってゐる。これを本来の姿に戻すといふことで、國旗・國歌の法制化が行はれたのである。

今上陛下は、國民一人一人そして行政当局が理想の姿を取り戻すべく出来得る限りの努力をすることを否定されたのではない。國旗・國歌について「本来の姿・理想の姿」「あるべき姿」を語られたのである。

 

傳統的な尊皇精神を正しく継承しなければならない

尊皇愛國の精神を尊び、それを基本として日本國の現状を変革し理想の姿を回復せんしてさまざまの運動を行ってゐる人々、そして皇室尊崇の念を道義の基本としてゐる人々は、天皇様や皇太子様が「自己の抱く天皇の理想像」あるいは「天皇様にはかうあっていただきたいといふ思ひ」と異なる御発言や御行動をされた時、天皇様や皇太子様に批判の思ひを抱くことがある。

しかし、それでは真の尊皇にはならないと思ふ。日本國民が天皇を神聖なる君主と仰ぐとはいかなることであるのか、言ひ換へれば尊皇精神とはいかなることであるかを、正しく把握しなければならない。すなはちわが國の傳統的な尊皇精神を正しく継承しなければならない。

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。
村岡典嗣氏は、「歴史日本が創造した道徳的價値の重要なものとしては、尊皇道と武士道との二つを、擧げ得る。尊皇道徳は太古に淵源し、我が國體の完成とともに、而してまたその根柢ともなって成就したものである…そは即ち、天皇に對し奉る絶對的忠誠の道徳であって…太古人がその素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念こそは、實にその淵源であった」と論じて、柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」を挙げてゐる。(『日本思想史研究・第四』)

柿本人麻呂の歌については後述させていただく。

天皇に対する絶対忠誠の心は太古以来今日に至るまで継承されて来てゐる。『古事記』には次のやうなことが記されてゐる。

第二十三代・顕宗天皇はその父君市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺したまふた雄略天皇をお怨みになり、その御霊に報復せんとされて御陵を毀損しやうとされ、弟君・意祁命(おけのみこと)にそれを命じられた。だが、意祁命は御陵の土を少し掘っただけであられた。天皇がその理由を尋ねられると意祁命は「大長谷の天皇(雄略天皇の御事)は、父の怨みにはあれども、還りてはわが従父(をぢ)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今単(ひとへ)に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の陵を悉に破壊りなば、後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」と奉答された。この意祁命のみ心に、天皇に対し奉り絶対的に従ひ奉る尊皇精神がよく表れてゐる。

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びず思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じてゐる。

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違ったご命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反対したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐるのである。

山崎闇斎(江戸初期の朱子學者、神道家。朱子學の純粋化・日本化に努め、門弟は数千人を数へた。また、神道を修め、垂加神道を創始し、後世の尊皇運動に大きな影響を与へた)を祖とする「垂加神道」は、「異國には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり。」(玉木清英『藻?草』)と説いてゐる。

村岡典嗣氏はこの文章を、「(絶對尊皇道徳の・註)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子でなくて天そのものに當る。儒教の天がわが皇室である。儒教でいへば、大君の上に天命がある。勅令の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば假に君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉り、また怨み奉るべきでないことは、恰かも天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を恨むべきではないとされると同様である。」と解釈し、「これまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対對尊皇思想である。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

二・二六事件に指導的立場で参加し処刑された村中孝次氏(元陸軍大尉)は獄中において「吾人は三月事件、十月事件などのごとき『クーデター』は國體破壊なることを強調し、諤々として今日まで諫論し来たれり。いやしくも兵力を用いて大権の発動を強要し奉るごとき結果を招来せば、至尊の尊厳、國體の権威をいかんせん、…吾人同志間には兵力をもって至尊を強要し奉らんとするがごとき不敵なる意図は極微といえどもあらず、純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。」(獄中の遺書『丹心録』)と書き遺してゐる。

この精神こそが真の絶対尊皇精神である。わが國道義精神の基本は「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」である。それは「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来からのわが國の尊皇精神である。

 

天皇への國民の「かしこみの心」が國家の安定が保たれて来た根源

わが國の道義精神の中核は、神を祭られる天皇の神聖なる権威である。日本國民は、天皇の神聖なる権威を通じて道義心を自覚した。ゆへに天皇は道義の鏡といはれてきた。日本國の祭祀主として神聖なる御存在であられる天皇に対し奉り國民が清らけく明らけく仕へまつる心=清明心が道義の基本である。

しかし、「天皇および皇室は日本の道義精神の中核であり鏡である」といふことは、天皇に完全無欠な佛教や儒教やキリスト教でいふところの「聖人」になって頂くことではない。それは、天皇が和歌をはじめとした日本文化継承の中心者であらせられることが、天皇に柿本人麻呂や芭蕉のやうな「歌聖・俳聖」になっていただくことではないのと同じである。
誤解を恐れずにいへば、連綿たる道統と血統に基づく天皇の神聖性・正統性と、歴代天皇お一人お一人のご人格とは別である。もちろん、祭祀主としての天皇は日本國におけるもっとも神聖にして清らかなる御存在であるけれども、道徳的に政治的に絶対無謬の御存在ではない。

和辻哲郎氏は、「上代人は『善悪の彼岸』にいたのである。ここに上代の道徳的評価意識の第一次の特徴がある。…スサノヲの命は親イザナギの命に対して不孝であった。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩は神々や皇族の間に盛んに行われている。…後代の道徳思想においては最も非難すべきものとせられているにかかわらず、神聖な神々の行為として、平然と語られているのである。…神々の行為には確かに悪もある。しかし神々は善事にまれ悪事にまれ『真心』に従って行なうゆえに、すべてそのままでいいのである。神々の行為は善悪の彼岸において神聖なものである。」(『日本古代文化』)と論じてゐる。
道徳的政治的法律的な善悪の区別・硬直した倫理教条もしくは自己の思想信条によって、神々や御歴代の天皇のご行動を評価してはならないのである。わが國史において、後代の道徳思想政治思想から見ればあるいは「失徳の天子」といはれる天皇がをられたかもしれない。しかし、基本的に日本民族が太古以来の絶対尊皇精神を保持してきたから、禅譲放伐・易姓革命が起らず、天皇中心の國體が護持され、國家民族の安定が基本的には保たれてきたのである。

その根源には、祭祀主としての日本天皇の神聖性への國民の「かしこみの心」があるのである。

 

現御神信仰は天皇が全知全能の絶対神であるといふ信仰ではない

日本人が古代から抱いてきた現人神(あらひとがみ)思想=現御神(あきつみかみ)信仰は、天皇がイエス・キリストのやうに海の上を歩いたりする超人であるとか何の間違ひも犯されない全知全能の絶対神であるといふ信仰ではない。

日本物語文學の祖とされる『竹取物語』(成立年代不明・作者不明)では、かぐや姫に求婚した天皇が「天竺の宝物を持って来てくれ」などといふ難題を言ひかけられて大いに悩まれることが記されてゐる。日本人の現御神信仰が天皇は絶対無謬の御存在であり全知全能の神とする信仰であったら、このやうな物語が生まれるはずがない。

和辻哲郎氏は、「(天皇が神聖な権威を担ふといふ傳統、皇統が天つ日嗣として神聖であるといふことは・註)この傳統を担っている現人をそのまま神化しようとするのではない。従ってそこには天皇の恋愛譚や、皇室内部における復讐譚などを数多く物語っている。これらは天皇の現人性を露骨に示すものと言ってよいであろう。しかしかく現人たることなしに現人神であることはできない。現人でありながらしかも現人たることを超えて民族的全体性の表現者となり、その全体性の根源から神聖な権威を得てくるということ、従ってこの権威はただ一系であり不易であるということ、それを記紀の物語は説き明かそうとしたのである。」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。
現御神あるいは現人神とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが現人神・現御神なのである。 

そしてこの場合の神とは、キリスト教や回教の神のような超自然的・超人間的な神なのではない。だから現御神であらせられる天皇御自身、神仏に祈願を込められ、天皇の御名において神々に御幤を奉られるのである。
葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。
現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。
「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。

天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

天照大神と天皇の関係は、単に、天照大神が天皇の御祖先であり天皇は天照大神の御子孫であるといふ関係だけではなく、天照大神の神霊が天皇のお体に入り、天皇が天照大神の御意志(地上に稲を実らせること)を地上(豊葦原の瑞穂の國=日本)において実現するといふ関係である。日本天皇は日本の神々の中で最高の尊貴性を持たれる天照大神の「生みの御子」として地上に現れられたお方であらせられる。

 

日本民族の現御神信仰を歌ひあげた柿本人麻呂の歌

村岡典嗣氏が、天皇に對する絶對的忠誠の道徳の淵源である太古人の素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念が歌はれてゐる歌とする柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」について少しく論じて見たい。

天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでまし)し時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上(うへ)にいほらせるかも   

 通釈は、「天皇は神様でゐらっしゃいますから、天雲の雷の丘にいほりを造ってをられるなあ」といふ意。

萬葉集の代表的な天皇讃歌である。柿本人麻呂が、持統天皇に捧げた歌といふのが定説。他に、天武天皇説、文武天皇説がある。

今日、雷岳といはれてゐる丘は、奈良県高市郡明日香村にある麓から約十b程のきはめて低く小さな丘である。清御原の宮址と傳へられる場所の西北約二百bにある。

小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雷を捕らへた丘といふ。(『日本靈異記』)『日本書紀』の雄略天皇七年七月の条には、雄略天皇がこの山に来て、「この山には雷がゐると聞いた。その雷の姿を見たい」と仰せになり、小子部栖軽に雷を捕らへさせた。するとその雷は大蛇に変身しすごい光を発して目が赤く光ったといふ。恐怖を感じられた天皇はその神を元の山に帰したといふことが記されてゐる。

十bしかない丘の上に天雲がかかり雷様が住むわけがないから、今日の明日香村にある雷丘がこの歌に歌はれてゐる「雷の岳」とは思へない。

折口信夫氏は、甘橿丘(奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘)を中心とした一帯の丘陵地全體をこの歌に歌はれた雷の岳であるとしてゐる。甘橿丘から見渡す今も景色は絶景である。

雷の岳は、神岳(かむおか)ともいはれる。また、神奈備(かむなび)山・御諸(みもろ)山ともいはれ、神聖なる山として崇められた。かうした山々には神が降って来て住んでゐると信じられた。姿形も他の山々と違ってゐて美しい。三輪山・二上山・天香具山もさういふ山々である。  神奈備山の語源は、神様が並んでをられるところといふ意だといふ。御諸山の語源は、御室(むろ)であり、神様のこもる山といふ意だといふ。ムロはモリ(森)に通じる。森にも神が籠る。だから鎮守の森といふ。

神奈備山の山中には、神の籠られる大きな岩窟がある場合が多い。天照皇大御神が籠られた「天の岩戸」もさうした岩窟であるといふ説がある。三輪山は、ストーンサークル(石が輪の形に並んでゐること)に神が降って来るので山といふ説がある。

神奈備山・御諸山は、神座(神がをられるところ)である山すなはち神の籠る山、神を祭った山を云ひ、かかる信仰は飛鳥だけでなく全國各地にある。

 

「天皇」といふ御称号の意義及び「カミ」の語源

「大君」は、天皇の御事。七世紀頃までは、天皇を「おほきみ」と称し奉った。ただし、『萬葉集』では、天皇だけでなく親王なども「おほきみ」と称し奉ってゐる。日本國民を支配してゐた多くの地方支配者たちをさらに統合された國家的統治者を「おほきみ」と称したといふ。

天皇を「おほきみ」と称し奉ったことは、西暦六〇〇年を第一回として四度にわたって支那の首都長安を訪れた遣隋使による日本國内の報告が記されてゐる支那の『隋書・東夷傳』の記録にも残ってゐる。

「おほきみ」に「天皇」といふ御称号が用いられるやうになったのは、推古天皇の御代である。「天皇」の最古の用例は、推古天皇十五年(六〇七)の銘がある『法隆寺薬師如来光背銘』に「大王天皇」とあるものである。また、同年、遣隋使が持参した國書には「日出処天子」とあったのが、翌十六年の國書では「東天皇」となってゐる。「日出処天子」が「日没処天子」に対する語であるやうに、「東天皇」は「西皇帝」に対せしめてゐるのであって、わが國家意識の旺盛さを物語る。

「おほきみ」「すめらみこと」を表現するために、「天皇」といふ漢字を用いたのは、國内的には各氏の長や地域支配者=國造などとの君臣の分を正し、対外的には皇帝に比べてその地位の優位性を示し、各國と対等以上の外交を行ふためであったとされる。

「かみ(神)」の語源も色々な説がある。「カ」は接頭語であり、「ミ」は語根。「ミ」は漢字で「實」「身」と書かれるやうに、中身・實在そのもの・力のある存在・無形のカオス(天地創造以前の世界の状態。混沌)・靈威ある存在のこと。神は「上」の方にゐる存在だから「カミ」といふとの説は國語學的には誤りであるとされる。

神には、自然神・呪物神・人格神・祖神がある。日本の神々は、自然神と祖靈神とに大きく別けられる。この両方の性格を具備してをられる神が天照皇大御神であらせられる。天照皇大御神は、太陽神といふ自然神であると共に皇室の御祖先神であらせられる。

日本の神々とは何か強い力を持ってゐる存在をいふのであって、必ずしも完全円満な存在ではない。まして唯一絶対無謬神ではない。

「神」の枕詞は「千早振る」である。「チ」とは靈のこと。「ハヤ」は「疾風(はやて)の如く」といふやうに激しい状況。「フル」は震へるといふ意。だから「千早振る」とは、神靈が激しく震へるといふ意である。また「フル」は體に触れる・密着するといふ意味もある。

折口信夫氏は、「いつ(靈の権威・力)といふ語は、音韻変化してウチとも又イチともなります。ちはやぶるといふ枕詞は、いちはやぶる・うちはやぶるなどといふ語の第一音の脱落した形です。古事記の倭建命の東征の條にも、『うちはやぶる人』といふ語が出て來ます。亂暴する人といふことです。はやぶるといふのがその意味で、威力ある靈魂が暴威を發揮することがちはやぶるです。…神の中に暴威を振ふ神が多い。…さういふ觀念から、枕詞として、ちはやぶるが出來ました。」(『神々と民俗』)と論じてゐる。

「神」とは、人知では計り知れない靈妙なる存在のことである。日本人は古代より、祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言ったとしてよい。

「天雲」は「雷」の修飾語。「いほらせるかも」の「イホル」は、直訳すれば小さな小屋を建ててそこにゐるといふ意味。しかしこの歌の場合は、「イホル」は「イハフ(齋ふ)」「イツク(齋く)」と同義語であり、神を祭るために身を清めて一ヵ所に籠るといふ意味である。すなはち、天皇が神聖なる雷の丘の上におのぼりになって、神を祭る祭壇を設けた宮を作られ、そこにこもられるといふ意である。つまり、雷の丘の上で五穀豊饒と民の幸福を祈る祭事を行はれたといふ意味である。

「詞書」に「雷岳に御遊しし時」と記されてゐるから、そんな厳粛な祭事のことではないのではないかといふ疑問も出て来るが、祭祀と直會と饗宴は一體のものであるから、天皇が祭祀を終へられた後は君臣が楽しくその場で宴を楽しまれたのであらう。この歌は、その宴において人麻呂が天皇の御前で朗々と歌ったと思はれる。

 

「神」の字源と雷神信仰

雷は、太陽の下にある存在だから、「大君は…雷の上にいほらせるかも」と表現して持統天皇を讃へたのである。

「神」は象形文字である。偏の「示」(しめすへん)は神に捧げる物を置く台を意味する。旁の「申」(しん)は、音を表すと共に、稲妻の形をかたどってゐる。雷様の光とそれに物を捧げる台を合せた意味が「神」といふ漢字の原義である。つまり支那古代においては、「神」とは雷のことだったのである。

今でこそは、雷とは、雲と雲との間、または雲と地表との間に起こる放電現象である事は分かってゐるが、古代人はそのやうな事は分からない。一天にはかにかき曇り、突然大きな音を伴って空から落ちて来る恐ろしい光であり人間がそれに当たれば焼き殺されてしまふし、樹木も裂ける、といふ事で大変恐れられた。「地震・雷・火事・親爺」といふ言葉もある。

と共に、雷は豊作の予兆でもあった。雷の光は龍神でもあり水の神でもあった。刀の神でもあった。刀剣は抜いて振り回すと光を放つ。その姿は雷に似てゐる。

須佐之男命が出雲で八股の大蛇を退治した時、尻尾から出てきたのが草薙の劔である。龍と大蛇は近い関係にある。「くしなだ姫」は稲を象徴し、「八股の大蛇」は出雲を流れる樋井川を象徴してゐるといふ。つまり、樋井川が氾濫して田んぼが流されてしまふ事を象徴する神話であり、須佐之男命は川の氾濫をなくす働きをされた神であり、治水工事を行ひ豊作をもたらした行った豊饒神といふ事である。これが須佐之男命の八股の大蛇退治の神話の解釈である。

尻尾から刀が出てきたのは、洪水の時は雷が発生するといふ事を象徴してゐるといふ。雷神は非常に恐れられたと共に豊饒の神でもあった。日本の神は善と悪が混淆し恐ろしい面とやさしい面の両面がある神が多い。それは雷神だけではない。

須佐之男命は、高天原では反逆した神である。しかし地上に降りて来られたら、豊饒神となられた。

菅原道真は雷神として崇められてゐる。最初は祟りの神であったが、後に學問の神となられた。日本の神はこのやうに非常におもしろい。決して一面的ではない。自由でおほらかな神々である。多面的であり自由であり幅が広く奥行が深い。

この歌もさういふ信仰が背景にある。古代日本の天皇観・天皇信仰を率直にあらはした歌である。文芸以前の歌であり信仰の歌である。

現御神信仰・國體観念が日本國の強靱なる體質を培った

「大君は神にしませば…」と歌ひあげてゐるのは、天津神の「生みの御子」であられ、現御神であられる日本天皇は、山の神、雷の神をも支配されるといふ信仰を歌ひあげてゐる。この歌は、天皇が山の神も天雲も支配される霊的権能(これを御稜威といふ)をお持ちであるから、雷神が住む丘の上にいほりをむすばれることができるのだといふことを歌ってゐる。

このやうな現御神信仰・國體観念が白鳳時代の日本國の強靭なる体質を培ったのである。これは柿本人麻呂個人の信仰ではなく、日本民族全体の信仰であった。

「大君は神にしませば」といふ言葉が類型的といはれるのは、この言葉が人麻呂個人の言葉ではなく、古代日本人共通の天皇信仰の表現であったからである。

しかし、この歌には人麻呂の個性が表現されてゐる。祭り事をされてゐる天皇のお姿を人麻呂らしく壮大なイメージで歌ってをり、詩的レベルは高いと評価されてゐる。

現御神の御資格において山の神・雷神を従へてゐる天皇のお姿を篤い信仰精神で高らかに歌った荘厳な調べの歌である。山の上から天空にまで広がる大いなる歌である。

根底に日本民族の天皇信仰・現御神信仰があるのは勿論であるが、この歌の詩的精神は人麻呂独自のものである。雷の丘などの神聖なる神奈備山は、神の来臨する山であり、天上の世界への通路・天に通じる柱であると信じられてゐる。そこにおいて天皇が神人合一の行事である祭り事をされてをられる神々しさを、人麻呂は感激をもって歌ったのである。

わが國は今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでゐる。わが國が様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國である。その不動の核が神聖君主日本天皇である。

 

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