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萬葉集に歌はれた日本の心 第四十四回

四宮正貴

舎人皇子の御歌

ますらをや片戀せむと嘆けどものますらをなほ戀ひにけり(一一七)

 舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)〜天平七年(七三五)。第四十七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者。薨去後「太政大臣」を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

「ますらをや片戀せむ」のヤは反語。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。この歌は舎人娘子に贈った戀歌だから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではない。「醜」とは現代語の「醜い」とはやや違った意味で「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが「ますらを」の心意気であるのに、一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。自嘲的に自分の不甲斐なさを嘆くと共に強い戀心を表白してゐる。また、「ますらを」の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべき姿なのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はさうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。
この歌は舎人娘子に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取った舎人娘子にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。それを期待して詠んだ歌とも言へる。

通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。 

  舎人娘子、和へ奉れる歌

歎きつつますらをのこの戀ふれこそわがふ髪のぢてぬれけれ(一一八)         

 舎人娘子が舎人皇子に答へ奉った歌。皇子の名の「舎人」は乳母の氏の名であらうと見られるので、舎人娘子は舎人皇子の乳母兄弟であるとの説がある。

「歎きつつ」は「嘆き続けて」。「ますらをのこ」は「ますらを」に「をのこ」を付けた言葉。「戀ふれこそ」は「戀ふればこそ」。「漬ぢてぬれけれ」の「ヒツ」は「水に漬かったやうにびっしょり濡れる」。「ヌル」は「ひとりでにゆるんで解ける」。上の句は下の句の原因を歌ってゐる。

通釈は、「ますらをのあなたが嘆き続け、戀をするからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね」といふほどの意。

古代には「結んだ紐や結った髪がひとりでに解けるのは、誰かに戀されてゐるしるしだ」といふ信仰があった。

この二首はお互ひの気持ちを十分に了解し合った中における贈答歌。しかし離れて住んでゐたので、舎人皇子は愛の切なさを「片戀」といふ言葉で表現したのであらう。

娘子は、皇子の力強い愛の表白に満足し幸福感にひたってこの歌を返した。二首とも押さへがたい男女の愛を豊かに表現してゐる。しかし、軽薄に流れてはゐない。 

後世になると儒教や仏教の影響からか、武士たるもの戀愛を歌などに表現してはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

しかし、古代の「ますらを」は大いに戀愛し戀歌を歌った。神話時代や古代日本において、須佐之男命や日本武尊は、「戦ひの歌」「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を歌はれた。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌はれた。記紀・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体であった。

 

  、を思はす御歌                 

吉野河行く瀬の早みしましくもよどむことなくありこせぬかも                    (一一九)

弓削皇子が紀皇女を思って詠んだ歌四首。弓削皇子は、天武天皇第六皇子。母君は天智天皇の皇女・大江皇女。紀皇女も、天武天皇の皇女。母上は蘇我赤兄の娘。異母兄妹の戀愛歌。 

「吉野河行く瀬の早み」のハヤミは名詞。速い所の意。第三・四句に掛る序詞。「よどむ」は水が停留すること。「ありこせぬかも」のコセは「〜してくれる」の意の補助動詞コスの未然形。

通釈は、「吉野川の早瀬の淀みがないやうに、(二人の愛は)ちょっとでも途絶えることがないやうにあってほしいものです」。

弓削皇子が、持統天皇のお供をして吉野の離宮に行った時に吉野川を眺めながら歌はれたと思はれる。 

 

に戀ひつつあらずは秋の咲きてちりぬる花ならましを                    (一二〇)

「吾妹子」は私の愛する女の子。「戀ひつつあらずは」のズハは上に甚だ望ましくない事実を示し、下にそれよりはましだと思ふ事柄を述べる構造を持つ言葉。「戀ひ慕ひ続けるくらいならいっそ」といふ意。

通釈は、「いとしいあなたを戀して苦しむくらいなら、秋萩のやうな咲いたらすぐ散ってしまふ花である方がましだなあ」。

「秋萩の咲きてちりぬる花ならましを」は、死を予感してゐると解釈することもできる。                        

夕さらば滿ちなむのの浦に玉藻刈りてな (一二一)

 「夕さらば」のサルは時間の到来を表す。「住吉の淺香の浦」は、大阪市住吉区浅香と大阪府堺市浅香山町にわたる一帯。当時はこの辺りまで海岸であった。「玉藻刈りてな」のテは完了の助動詞ツの未然形。ナは意志を表す。玉藻を刈るとは、紀皇女を自分のものにしたいといふ意志を表してゐる。「潮滿ち來なむ」は戀への妨害が入ること。

通釈は、「夕方になったら潮が満ちて来るであらう。住吉の浅香の浦で藻を刈っておかうよ」。

潮が満ちて来ると海藻が刈りにくくなるから、潮が満ちてくる前に刈りませう、といふ意。邪魔が入らないうちに戀を成就させやうといふ寓意(他の物事にかこつけ、ほのめかして表した意味)を秘めた御歌。

「潮滿ち來なむ」「玉藻刈りてな」といふ表現には、わづかな時間を盗んで人目をしのんで紀皇女を愛さなければならないといふ意味が込められてゐると解釈して、お二人の戀はかなり危険な戀・切羽詰まった戀であったのではないかと推測する説もある。梅原猛氏は弓削皇子は紀皇女を愛したことによって、命を危険にさらしてゐると論じた。しかし、弓削皇子は病弱なので何時死ぬかわからないといふ意味に解釈するべきと思ふ。弓削皇子は二十四歳で薨去された。

玉藻は女性の髪の毛を象徴し、美しい紀皇女をイメージしてゐる。その皇女を慕ふ歌を夭折した弓削皇子が詠んでゐるところにこの御歌の美しさがある。

のはつるのたゆたひにひやせぬ人の子ゆゑに(一二二)

「大船のはつる泊の」は第三句タユタヒを起こす序。ハツルは停泊する。トマリノは停泊地においての。「たゆたひ」はゆらゆらと動揺すること。船が動揺することと心が揺れて思ひ悩むことを掛けてゐる。「人の子ゆゑに」は、他人の掌中にある女性のために。

通釈は、「大船が港に泊まって揺れてゐるやうに、不安でたまらず、思ひ悩んで痩せてしまった。他人の掌中にある女のために」。

自分を客観視し調和のとれたしみじみとした味はひのある戀歌。長い間思ひ続けてゐるのに自分のものにすることができず不安な思ひをしてゐるのは、紀皇女は他人が愛する女性だったからなのである。

この四首の御歌は、単なる戀愛歌ではなく、「自分は何時殺されるかわからないから、二人の戀愛は少しでも途絶える事のないやうにしたい」といふ解釈がある。つまり殺される予感を持って歌ってゐるといふのである。

しかし、一首目の「瀬の早み」は、単に体が弱い事を意味すると思ふ。第四首目を読むと、人妻への恋を歌ったことは明白であり、たとへ死を予感していたとしても、これらの御歌の背景に政治的事件があったとするのは深読みに過ぎると思はれる。 

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