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蔵出し「皇都の一隅より」第七回

孝明天皇と岩倉具視歴史問題

などで、書くことを憚ること、軽々しく論じることができない問題が幾つかある。小生の勉強不足といふことも勿論あるが、それだけでない。天皇・皇室の尊厳性を侵し奉るのではないかといふ思ひが先に立って、どうしても論じられない歴史問題がある。その一つが「孝明天皇暗殺説」である。この言葉を書くこと自體に抵抗がある。

以前から、これはあり得ないことだと思ってゐた。この説をどうしても肯定することはできない。明治維新は、「尊皇攘夷」を基本理念として断行された有史以来未曽有の大変革である。岩倉具視がいくら政略家であったとしても、その「尊皇」といふ理念・姿勢を根本から覆すやうなことをしたとは到底信じられない。

國體破壊勢力は、真正面から「天皇制打倒」を叫んでも國民の支持が得られないので、手を変へ品を変へ、搦め手の「天皇制打倒」策謀を展開してゐる。國民の「天皇・皇室への尊敬心・仰慕の心」を何とかして失はしめるために様々な論説を唱へてゐる。その代表例が、「孝明天皇は、ご病氣でおかくれになったのではなく、岩倉具視によって暗殺された」といふ説である。

冒頭に述べた通り明治維新の基本理念は「尊皇攘夷」である。しかるに維新の功労者の一人であり、明治の元勲といはれた岩倉具視が、孝明天皇を弑逆し奉ったとなると、明治維新の根本理念たる「尊皇」が嘘だったといふことになりかねない。

「孝明天皇暗殺説」なるものは、明治維新といふ天皇を君主と仰ぐ國體を明徴化することによって統一國家を建設し、欧米列強の侵略から祖國を守り、近代化を遂行したといふ光輝あるわが國史上の大変革を貶め、ひいては天皇國日本そのものを否定することにつながるまことに危険な論議であると考へる。

しかもこの説は、國體破壊を目論む者共によって論じられてゐるだけではなく、明らかに國體護持の立場に立つ人、まともな感覚を持つ真面目な人々の中にも論ずる人がゐるのである。これは實に重大なことである。

 

中村彰彦氏の「孝明天皇毒殺説」の要旨

「孝明天皇毒説」とはかいつまんで言へば、「徳川幕府打倒を目指してゐた薩摩・長州そして岩倉具視などの急進派公卿たちにとって、『公武合體論者』で徳川幕府打倒を望んでをられなかった孝明天皇は邪魔な存在であった。だから毒殺した。下手人は岩倉具視である。」といふものである。

一応まともな歴史家の一人と思はれる中村彰彦氏の「孝明天皇毒殺説」の要旨は次の通りである。

「慶応二年(一八六六)十二月二十五日、孝明天皇が三十六歳の若さで崩御し、その結果にわかに尊王攘夷派(討幕派)有利の時代が開けた。孝明天皇の主治医だった伊良子織部正光順(いらこおりべのかみみつおき)の『天脈拝診日記』によると、孝明天皇の痘瘡はほとんど平癒していた。ところが病状が急変し、悶死したのは、暗殺を図る何者かが、孝明天皇が服用される煎薬に砒素を混入させたとみて間違いない。その實行者は岩倉具視の姪の堀川局(ほのかわのつぼね)、指示したのは岩倉具視ということになる。孝明天皇は痘瘡によって死亡したのではなく、毒殺である」(「孝明天皇毒殺説を追って」中村彰彦氏著『幕末入門』所収)。
上御一人の側近の「メモ」「日記」なるものが時を経て表に現はれて色々な邪推・憶測を呼ぶことは今も昔も同じである。

ただし、中村彰彦氏は「毒殺説」を自身の説として断定してゐるわけではない。中村氏は次のやうに論じてゐる。「石井孝氏(「近代史を見る眼」の著者)が法医學者西丸與一氏に孝明天皇の『末期の症状』について教えを請うたところ、砒素は…殺鼠剤に用いられていたので入手することは簡単でしたし、無味無臭なので食物や飲物に混ぜても氣づかれない…砒素は體内に入ると粘膜を腐らせ、胃腸その他からの出血を引き起こします。天皇の血便は痔疾からではなく胃腸からの出血であり、その煩悶する姿は急性砒素中毒と法医學者には見えたわけです。」「医者である伊良子光孝氏(伊良子織部正光順の曾孫)は…次のように述べています。『暗殺を図る何者かが痘毒失敗≠知って、飽く迄痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入したという推理がなり立つ』…では砒素はどのようにして盛られたかというと、『天皇は一日三回薬(煎薬)を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう』と伊良子光孝氏は書いています。」「巷説によれば一服盛りたてまつったのは岩倉具視の姪の堀川局(ほりかわのつぼね)、指示したのは尊攘派公卿として謹慎させられていた岩倉具視その人だということになります。堀川局は一時孝明天皇の寝所に侍ったものの、すでにお召しの声は遠のいていた。そこで天皇を怨み、岩倉の命令に従ったのだと考える人もあれば、岩倉の背後に薩摩の大久保一蔵(利通)がいたと見る人もいます。いずれにせよ『天脈拝診日記』が活字になったことにより、孝明天皇毒殺説が有力になったことはたしかでしょう。岩倉具視は公家にしては珍しく謀略家タイプの人物で…云々」と書いてゐる。

まことに微妙な言ひ回しで「毒殺説」を論じてゐる。これが文章といふものの怖さである。全て第三者の意見などの引用であり、それに基づいた推測といふか推断である。しかも、「岩倉具視が指令者であり岩倉の姪にあたる方が實行者である」といふことは、「巷説」(世間の噂)を引用してゐるにすぎない。第一、「すでにお召しの声は遠のいていた」とされる女性がどうやって孝明天皇に近づき、毒を盛ることができたのであらうか。

 

「孝明天皇毒殺説」を否定する論考

篠田達明氏(医師・作家)は次のやうに論じてゐる。「痘瘡による合併症には氣管支炎と細菌による二次感染がしばしばみられる。死亡例では必発といってよい。痘瘡のようなウイルスの疾患では、外見上回復したかのように思われても意外に全身の免疫反応が低下しているケースが多い。子供の免疫力は数週間で回復するが、大人はそうはゆかない。すっかりもどるのに半年ぐらいかかる。この期間に細菌感染をおこすと急激に重篤になる場合がある。孝明天皇も順調になおってきたように思われ、周囲も油断していたようだが、實際は痘瘡が治癒する過程で細菌感染をおこしたのではなかろうか。発疹がなおって来るとかさぶたが痒くなる。孝明天皇も、かさぶたを爪で引っ掻くうちに化膿をおこし、これが急速に二次感染に移行して重態に陥った可能性が高い。しかも天皇の命をうばったのは出血性紫斑性痘瘡といって、痘瘡の中でももっとも重篤なタイプである。このタイプの痘瘡をわずらうと回復期に免疫力が急激に低下して劇症の敗血症をおこすこともまれではない。右のことから天皇の病状急変は医學的に見て不審であるとは必ずしもいいきれない。現代もなおつづく孝明天皇毒殺説はよほど確實な証拠がないかぎり信ずるのはむずかしいとわたしは考えている。」(篠田達明氏著『歴代天皇のカルテ』)と論じてゐる。

永井路子さん(作家)は次のやうに論じてゐる。「具視に命じられて天皇毒殺をやってのけたと疑はれている堀河紀子は岩倉具視の實妹で、孝明天皇に近侍し衛門掌侍と呼ばれた女性だが、残念ながら天皇に近侍する位置にはいなかった。いわゆる四奸二嬪の一人として追放され、当時は落飾して靈鑑寺に蟄居の日々を送っている。…この一角を掘り崩せば、傳説は瓦解する。ここで『毒殺』という言葉の皮を?いておきたい。それはこのころよく使われる中傷の手段なのだ。げんに中川宮も孝明天皇毒殺を企てているという噂に慌てふためいたこともある。平安期で敵を陥れる手段として、厭魅(髑髏とか蠱物<まじもの>)を敵の邸に置くという呪い方や、呪詛を行ったという口實がよく用いられたが、さすがにこの頃は流行らなくなり、毒殺の噂が利用された。」(永井路子さん著『岩倉具視』)

岩倉具視の實妹・堀河紀子は、文久二年(一八六二)八月二十日、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子と共に、和宮様御降嫁を推進するなど徳川幕府に阿り諂った「四奸二嬪」の一人として朝廷から追放され、落飾させられた。さういふ人が御所に入り、孝明天皇に近づき、毒殺できるわけがない。 

古代から、権力抗争で相手を倒すために、「呪詛を行った」とか、「暗殺を企てた」といふこと口實にすることが多かった。「呪詛した」といふことを罪名にして処刑されたり、追放された人は数多い。岩倉具視も歴史論議の上ではあるが、さうした策謀にはめられたと言っていい。

佐々木克氏(歴史家)は「孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その實現のためには幕府との協力體制維持(いわゆる公武合體)しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であった…死因が悪性の天然痘であったことは、病理學的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しないうえに、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、全くの妄説である。」と論じ、原口清氏の論文を紹介してゐる。(佐々木克氏著『岩倉具視』)
小生は、原口氏の論考は未見であるが、原口氏は次のやうに論じてゐるといふ。

・慶応二年(一八六六)十二月十九日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確に記述してゐた『御容態書』が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復してゐるかのような記載に変ってゆくこと。

A孝明天皇の御典医(天皇に医薬をつかさどって仕へる者)が書いた十二月十九日までの『御容態書』や、孝明天皇のお側に仕へてをられた中山慶子様(明治天皇ご生母)の十九日付の『御書簡』に記された天皇の御症状が悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること。

B中山慶子様の十二月二十三日付け『御書簡』では、楽観的な内容の『御容態書』を出した典医たちが、その實、天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明してゐること。 」

以上三つのことから、原口氏は、二十日以降に発表された御典医の『御容態書』の信憑性はなく、『毒殺説』の根拠とされてゐた『順調な回復の途上での急変』といふ構図は成立せず、天皇は『紫斑性痘瘡』によって崩御したものだと結論付けた。これは先に紹介した篠田達明氏の説ともほぼ一致する。

 

孝明天皇のご聖徳によって國内の統一を図り外患に当たるべしとの意見を奏上した岩倉具視

それでは、「孝明天皇暗殺説」の大前提たる「公武合體論者であった孝明天皇は、討幕派の岩倉具視にとって邪魔だった」といふ議論は正しいのであらうか。岩倉具視といふ人物は、自己の政治目的を達成するためなら、天皇をも殺してしまふ人だったのだらうか。私はとてもそのやうな説を肯定することはできない。

永井路子さんの著書『岩倉具視』によると、孝明天皇崩御直後の慶応二年十二月二十六日付の、岩倉具視の三河の國學者・坂本静衛に宛てた書状には、「今朝に到り主上御容體以ての外にあらせられ、仰天驚愕實に言ふところを知らず。天、皇國を亡ぼさんとするや、臣進退爰に極り、血泣鳴号無量の極に至れり。臣一身においても吾事終れり。一世の果爰に止り、片言と雖も最早述るに所なし。真に樵夫に決し申候」

まことに畏れ多い言ひ方であるが、毒殺した犯人が相手の死をこれほどまでに悼むであらうか。岩倉具視は、孝明天皇の御稜威・御聖徳のもと、國難打開のための國家変革を断行しようと決心してゐたのである。だからこそ、孝明天皇崩御は、天が日本を滅ぼそうとしてゐるのかと嘆き、自分は木樵となるしかないと書いてゐるのである。

永井路子さんはさらに次のやうに論じてゐる。「孝明天皇がなぜ毒殺されねばならなかったか…天皇がこちこちの攘夷派で、開國路線を進みはじめているこの時、まことに邪魔な存在だったからだ、という説、今でも文筆界で事もなげに語られることが多いのだが、…天皇はすでにこの前年に開國の条約を勅許している。もちろん心からの開國賛成ではなく、攘夷、排夷、いや恐夷の心情は棄てきれないものの、一國の王者として、それ以外の道はないことも認めざるを得なかったのだ。」(同書)

また、佐々木克氏は次のやうに論じてゐる。「孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛(三河出身の國學者で、岩倉に情報を提供した同志)に宛てた手紙で、『仰天驚愕…千世萬代の遺憾』と嘆いていた。これほどまでに落胆したのはこの手紙で『いささか方向を弁じ、少しく胸算を立てて、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり』と述べるように、これまで岩倉が描いて、天皇に進言してきた新國家・新政府構想が『ことごとくみな画餅』となってしまったからである。岩倉の構想の最も特徴となっているのは、孝明天皇が萬機を親裁する國家體制を構想したものであったことである。そしてこれは孝明天皇の力量・政治的能力に期待することによって、将来實現が可能となるものと考えられていた。つまり鮮明な、孝明天皇の親裁する國家イメージがあり、一般論としての天皇親裁なのではない。たとえば明治初年のような、天皇による建前としての『萬機親裁』は、幕末の岩倉の構想にはない。また岩倉が天皇への密奏(「全國合同策密奏書」)で、孝明天皇が、國内の混乱が生じたのをあえて自らの罪として引き受け、神前で謝罪するとともに政治の一新を誓うことによって、天下臣民の感動を呼び起こし、天皇への協力體制を創出するという意見を述べていたように、孝明天皇の一種のカリスマ性に期待するものでもあった。…孝明天皇を欠いては、岩倉の構想はなりたち得なかった。」と論じてゐる。(『岩倉具視』)

佐々木氏が引用した「全國合同策」(慶応元年九月)とは、岩倉具視が洛北岩倉村の幽居にて草し、関白二条斉敬を通じて孝明天皇の叡覧に供したものである。それには次のやうに書かれてゐる。

「醜夷は之を攘除するの外処置なしと雖、昨年の勅書に、無謀の攘夷は朕が好む所に非ずと仰せ出されたるが如く、軽率に著手すべ可らざるは当然の事に候。第一に國内同心戮力するに非らざれば、到底攘除の功を奏すること能はず候。」「今日は鎖攘和親の論は姑く差し置き、先づ内治を謀るの方策を講究するを以て急務と存じ候。故に朝廷には庶政一新して國内糾合の方針を定め、醜夷を圧倒するの方略に及ぶ可し。又幕府に於ては、朝旨を奉體して其本に反り、醜夷の処分を奉行す可し。」「主上は天日嗣に在らせられ候て、皇天實に非常の英明を祐く…天下の億兆御英断に感泣奉戴せざるは莫く、中興の聖主と称さざるは莫し。」「期日を定め、大樹始め同日に参内仰せ付けられ、御対顔の上懇切に御沙汰あらせられ、

…只管皇國の為勉励忠勤を抽じ候様御直勅在らせられ度く、而して内宮に召されられ候て天盃を賜はり、関白酒を酌み大樹?を執る等、君臣の御間充分打ち解け御優遇在らせられ候得ば、一同恩寵に感泣し、上下真に一新協和仕る可くは毫も疑ひ無く候。」(注・大樹とは徳川将軍のこと)

(外國からの侵略を排除するのは当然であるとしても、無謀の攘夷を行ふべきではない。挙國一致の國内體制を正しく確立しなければ攘夷は断行し難い。攘夷鎖國を行ふにしても、外國と和親するにしても、まず國内體制を整へることが急務である。朝廷は政治體制を改革して國内の意見を糾合する方針を定め、外國勢力を圧倒する方略を立てるべきである。幕府は朝廷の御意志を奉戴して外國勢力に対する処置を實行すべきである。孝明天皇は天津日嗣であらせられ、天津神は天皇の英明をお祐け下さる。全國民は、孝明天皇の御英断に感泣しそれを奉戴しない人は無く、中興の英主と称賛しない人はゐない。期日を定めて、征夷大将軍などを参内させ、御対顔の上懇ろにお話しになり、只管皇國のために忠勤をつくすやう御命令になり、内廷にお召しになって天盃を賜り、関白・将軍が酒を酌み交し食事を共にするなど、君臣の間が十分に打ち解け、優遇されれば、一同その恩に感泣し、上下が一心一體となって協和するのは疑いひがございません」といふほどの意である。

岩倉は國難打開のために、孝明天皇の神聖なるご聖徳によって、國内の統一と団結を図り、外患に当たるべしとの意見を奏上したのである。その岩倉が、孝明天皇を弑逆し奉るはずがないのである。「討幕論者の岩倉具視にとって、公武合體論者の孝明天皇が邪魔な存在だったから、毒殺した」といふ説は成り立ち難い。

 

岩倉が、孝明天皇を弑逆し奉ったなどといふ説は妄説である

長州藩直目付長井雅楽は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じてゐる。
「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の實は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。
大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反しており日本の傳統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を體し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ氣宇壮大な主張である。
鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行によって實現した。
この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。これに対して、孝明天皇は、
「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以て慶親へたまひたる」と題されて、

國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかった。わが國の主體性を確立した上での開國・海外発展・外國との和親交際は太古以来のわが國の傳統であると考へられてゐたのである。皇臣・岩倉具視も同じ考へである。岩倉が、孝明天皇を弑逆し奉ったなどといふ説は妄説である。

 

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