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蔵出し「皇都の一隅より」第六回

日本國體及び日本傳統信仰が部落差別の原因といふことはあり得ない  

天皇の下に万民は平等であるといふのがわが國體精神

「天皇制が部落差別の根本原因であり、神道思想がそのイデオロギー的基盤である」といふ考へ方がある。戦後日本において、部落解放運動が左翼にからめとられ、松本治一郎氏の「貴族あれば賤民あり」といふ言葉を金科玉条にして、天皇のご存在と日本傳統信仰(神道精神)が、「部落差別」の原因であるとする議論が横溢してゐる。

しかし、天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體及び日本傳統信仰たる神道精神が部落差別の原因だなどといふことはあり得ない。本稿はそのことを論じたい。

昨年刊行された野中広務・辛淑玉共著『差別と日本人』でも、辛淑玉さんは「私は、部落差別というものがたんに傳統的共同体の因習に起因するものではなく、近代の天皇制統治構造に深く根ざしていることの本質を見る」「天皇制により、部落の人々はより貶められていった。」「近代日本における部落差別は、近代化過程における富の配分を握る藩閥政府の官僚たちと、それに支えられた新興財閥の特権を維持するために、あらたに作り出されまた再生されてきた。そして、彼らの特権的支配をささえるもう一つの原理が天皇制イデオロギーだった。部落差別と天皇制は近代における差別構造の車の両輪、といわれるゆえんがここにある。」と語ってゐる。これに対して、対談の相手である野中広務氏は一言も反論してゐない。

「部落解放同盟綱領」(一九九七年五月二七日 部落解放同盟第五四回全國大會決定)の「基本目標」には「われわれは、部落差別を支える非民主的な諸制度や不合理な迷信・慣習、またイエ意識や貴賤・ケガレ意識など差別文化を克服し、身分意識の強化につながる天皇制、戸籍制度に反対する。」と書かれてゐる。 

「天皇制反対」を目標にする部落解放同盟の副委員長である松本龍氏は民主党の衆院議員であり、民主党両院議員総會長である。中央書記長松岡徹氏は、民主党参院議員である。

部落解放・人権研究所の「ホームページ」には、松本治一郎氏について「華族制度が廃止された後も、松本氏は、『貴族あれば賤族あり』との信念から、戦後一貫して天皇制の不当性を取りあげ、皇室財産の實態の追及、皇室経済法の改悪反対、天皇家と伊勢大神宮との関係などについて、十回にわたって國會で追及した。」(社団法人「部落解放・人権研究所」のホームページ・『松本治一郎の足跡』)と記してゐる。
松本治一郎氏は部落解放運動の戦前戦後にかけての指導者である。松本氏は、「貴族あれば賤民あり」と主張し、戦前は、華族制度の廃止を唱へたり、徳川家に対する攻撃を行った。戦後になると、参議院議員として、國會で執拗な皇室に対する批判・攻撃を行った。戦前はともかく、戦後は明らかに反皇室の姿勢を示してゐた。

しかし、戦後愛國運動の指導者のお一人は、松本治一郎氏を師と仰いでおられた。事務所には松本氏の肖像写真を掲げておられた。また、私がとてもお世話になった九州出身の愛國運動の先輩は、涙を流しながら、松本治一郎氏を慕ふ言葉を述べておられた。松本治一郎といふ人物にはそれだけ魅力があったのであらう。また、部落差別解消に大きな貢献をしたのであらう。

部落解放同盟の前身である水平社は、大正十一年(一九二二)結成当時は、「天皇制打倒」などといふ主張はしてゐなかった。水平社結成の呼び掛け文である『水平社設立趣旨』には「遠く明治四年法律の発布とともに、明治大帝の御仁慈の下に、四民平等の名によってその不合理なる階級的差別は撤廃されたのである。しかれども、古来凝結したこの歴史的傳統は、一片の法令を以てよくその根底を破壊しえるものではない。徳川幕府が強いた厳格な階級的社會政策の効果は、今もなお強くいわゆる特殊部落民賤視の社會的感情として残り、恐ろしい拘束力を発揮し、直接間接、我らが社會的経済的位置の獲得を阻害し妨害しつつある」と書かれてゐる。 
「解放令」(明治四年〈一八七一)に、明治新政府が布告した「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」)によって差別解消の基礎が作られたといふ認識が明確に述べられてゐる。旧ソ連の世界侵略の隠れ蓑であった国際共産主義運動組織コミンテルンが作成した『一九二七年テーゼ』が水平社運動に大きな影響を与へるようになってから、「反天皇主義」「國體破壊思想」が持ち込まれた。

天皇のご存在が部落差別の原因であるのなら、天皇中心の國體が歴史上最も隠蔽されてゐた徳川時代そして戦後日本において、部落差別が解消されるか減少されなければならなかったはずである。ところが、徳川時代に部落差別が制度的に強固に確立された。

また戦後日本ほど「民主化」され、あらゆる面で「欧米崇拝」が流行し、「基本的人権の尊重」が謳歌され、天皇・皇室の真姿は隠蔽され、日本の傳統がないがしろにされてゐる時代は無い。しかし、部落差別は解消してゐない。

同じ日本人であり、天皇の民でありながら、差別を受けてきた「部落」の起源は、一六世紀から一七世紀初めにかけて、すなはち戦國時代末期から織豊時代を経て江戸時代に初期にかけてである。つまり、天皇中心の國體が隠蔽され、戦國の世となり、やがて徳川幕藩体制といふ武家による覇道政治が確立し、封建支配体制の成立と共に、不当な差別制度が確立したのである。だからこそ、封建体制・徳川覇道政治を打倒し、天皇中心の一君万民の國體を回復する有史以来未曽有の大変革であった明治維新において部落差別制度の解消が目指されたのである。

原田伴彦氏は、「(中世以前の差別された人々は・註)けっして朝廷や室町幕府や守護大名らの権力者によって、法律や制度として公的につくられたものではなく、…つまり制度化されたものではなく、流動的なものでした。…近世の賤民身分は、幕府及び藩という権力によって政治的に公的な制度として作られ、且つ固定化されました。他の身分への移動や、職業を自由に転換したりすること、拘束された地域からぬけだしたりすること、他の身分と通婚すること、あるいは社交したりすることが全面的に禁止されるにいたったという点を注目しなければなりません。制度としてまた公的な身分としての賤民というものは、古代の賤民制が消滅していらい七百年にわたって日本にはなかったものです。それが、十七世紀になって、復活ではなく、新しく設定されたわけです。封建的身分制度をその本質とする今日の部落の社會的系譜の起点、その政治的、制度的な形成の起源を十七世紀の徳川幕藩体制の形成過程にすえるのは、以上のような理由による」(『被差別部落の歴史』)と論じてゐる。

古代・中古・中世に差別がまったくなかったとは言へないであらうが、あったとしてもそれはきはめて流動的であった。『萬葉集』には、古代日本の上天皇から下万民の歌が収められてゐるが、身分差別を主題にした歌は一首もない。むしろ、天皇の下に万民が和楽の生活をしてゐたことを歌った歌が多い。

わが國の國體精神・傳統信仰には身分差別の思想はなかった。民は、天皇の大御宝であり、八百万の神々の子孫であると信じられてきた。天皇の下に万民は平等であるといふのがわが國體精神である。

 


天皇を神聖君主と仰ぐのは身分制度ではなく神代以来の信仰である

野間宏・沖浦和光共著『日本の聖と賤・中世篇』において、野間宏氏は、「天皇の存在と被差別部落の存在を、日本史を貫徹している身分制の対極として把握する」「「日本の法制史には、当初から天皇制と賎民制の両極対立がずっと通底している。その最後の段階として近世身分制があった」「『貴族あれば賎民あり』という松本治一郎・水平社の委員長の指摘は、全ての文化表象の根底にある二項対立的存在をズバリ言いあてた鋭い言葉なのだが、天皇制が通底しているかぎり賎民制もその対極のあるものとして、ずっと権力によって意識され位置づけられてきた」と論じてゐる。

沖浦和光氏は、「近世初期から中期にかけて、新しい形での賤民差別が政治的、法制的に固定化されてきたことはたしかです。しかしそれが、中世からまったく切れた形で突如としてできたものではなかろう、根深い賤視観にしても、一朝一夕にして形成されたものではなかろう…その意味では、律令制の当初から定められた、良民〈=公民〉と区別された賤民という形での身分差別の原構造を、日本史の中でとことん追いつめていかねばならない。どうしても《貴種―良民―賤民》という三層の身分制度をもった古代律令体制にまでさかのぼって、この問題の原点を究める必要がある。」「近世賤民制は、権力の側からの律令制いらいの賤民制の最後の仕上げであるととらえねばならない。」「〈聖なるもの〉としての天皇を頂点にいただいて、日本の國家構造を最初に定めた律令制の社會システムというものは、法制的枠組みとしてはずっと変わっていない。」(同書)と論じゐる。
何としても部落差別の原因をいはゆる「天皇制」に持っていきたいとする議論である。「律令制」は、「一君万民」といふわが國の國體精神と、古代支那の「王土・王民」すなはち「土地と人民」は「王の支配」に服属するといふ理念とを融合させた体制であった。大化改新と律令の制定は、「一君万民」の理想的人倫國家建設するために行はれた。

しかし「律令」は支那からの輸入であり、日本本来の精神傳統精神をそのまま反映してはゐない。また中世・近世にまで國民生活全体を拘束してはゐない。平安末期の十世紀頃に律令制は事實上解体する。日本の律令制の最盛期とされる八世紀初頭から八世紀中期・後期頃までにおいてすら「律令制」がどの程度まで徹底して施行されていたかについては議論が分かれてゐる。

律令制の解体と共に支那の制度を模倣した「貴・平・賤」といふ「古代賤民制」も崩れ、延喜年間(九〇一〜九二三)の「奴婢廃止令」と共に終った。

上杉聡氏は「日本の歴史で『奴隷的賤民』と『被差別部落』の二種類の賤民があり、『奴隷的賤民』(古代では奴婢、中世では下人、近世では娼妓など)は所有に基づき、『被差別部落』(穢多、非人、隠亡など)は排除に基づく賤民だ…この二種類の賤民を明確に区別することは大切」(『天皇制と部落差別』)と論じてゐる。

古代の身分制度と近世の身分制度は全く異質なのである。「律令」で賤民とされた人々と、近世の賤民とはその性格が異なるのである。

和辻哲郎氏は、「(日本古代の律令国家には・註)ギリシア、ローマにおけるごとき奴隷は日本には存在しなかった。…『奴婢』と呼ばれるものも存していたが、しかしこれは後代の証跡によると、家々で親しく使役する者の称呼であって、その数は少なく、また一般の農民の家にも置かれたものであった。すなわちそれは『奴隷』ではなくして、反家族的な使用人『家つ子』であった。」「人身売買の制度は…旧来の慣習であり、それを新しい國家の法令のなかに取り入れはしたが、しかし出来るなら廃止しようとしているものであった。新しく奴婢が作られることは許さない、というのが政府の態度であった。…人身売買の禁止によって、この制度を正しいとしない態度を明示している」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

高森明勅氏は、「わが國の賤民は、諸外國のそれと同一には論じられない。…東大寺以下の諸寺院に所属する奴婢らがその身分のまま位階をさづけられる例が少なくなかった。(直木孝次郎氏)。また『養老令』の規定では、天皇に対する一律・平等な従属と奉仕の関係を象徴した袴≠フ費用は、賤民の官や官奴に及ぶものだった(武田佐知子氏)かうした事實から考へて、わが國にあっては良民と賤民との間に決定的な断絶があったと決めてかかることはできない」(『天皇と民の大嘗祭』)と論じてゐる。

『日本思想体系・律令』の「補注」には、「律令制定以前の日本では、賤民的な身分が存在していたとしてもそれほど明確な制度ではなく、家人と奴婢に相当する二つの賤民的身分が實態として存在していたことはとても考えられない。…おそらく日本律令の制定者は、唐律令の部曲にならって、家人の制度を新しく設定したのであろう」と書かれてゐる。

古代日本においては、支那や西洋のやうな「賎民」「奴隷」は存在しなかったのである。したがって「古代律令國家の『賤民制』が近世以後の『部落差別』の淵源であり、天皇のご存在が『部落差別』の根源にある」といふ理論は事實に反するし、誤りである。むしろ、「公地公民制」を根幹とする古代律令制が崩壊し、土地の私有化が荘園の形で進み、一君万民・天皇中心帰一の國體が隠蔽された中世以後に至って部落差別制度が発生したのである。
日本民族の天皇仰慕の精神は、律令制といふ法制度・政治制度によるのではない。神代からの信仰に基づくのである。律令とはあくまでも國家体制を規定した成文法である。それは野間宏氏自身が、「天皇制の問題を、たんなる身分制度として、國家体制としてとらえるだけでは不十分です。なにゆえに、〈制度化された文化〉の統御者、日本の民族精神の象徴的権威として機能してきたのかというところまで、突っ込まねばならない」(『日本の聖と賤・中世篇』)と主張してゐる通りである。

天皇を神聖君主と仰ぐ神代以来の信仰は、共同体の核であり原基である。これを否定することはできない。後述するが、むしろ神聖なる君主・祭主たる天皇を仰ぎ奉る心が、差別を根絶するのである。

 

部落差別の根源には仏教の「不殺生」といふ戒律があった

「穢れを祓ふ」といふ日本傳統信仰=神道の信仰精神が「穢多」を差別する思想的基盤だとする主張がある。

野間宏氏は、「古代仏教や神道が振りまいた〈浄・穢〉観の漸次的浸透と共に、次第に陰湿な差別観念が賎民差別へと転態していく。」(『日本の聖と賤・中世篇』)と論じ、沖浦和光氏は「(江戸中期は・註)〈殺生戒〉の厳しい時代ですから…死んだ牛馬でも皮を剥ぐという行為に対しては、(『かわた』と呼ばれる斃牛馬処理権を持つ人々は・註)やはり殺生戒を侵犯しているという意味で、きびしい賤視と蔑視の目がそそがれていた」(同書)と論じてゐる。
原田伴彦氏はその著『被差別部落の歴史』において、「エタ」といふ言葉がはじめて文献上に見えてくるのは鎌倉中期に書かれた生活万般の知識を網羅的に集めた辞書である『塵袋』(チリブクロ)であると論じてゐる。

『塵袋』には「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞(コトバ)ゾ。穢多(エタ) 根本ハ餌取ト云フベキ歟(カ)、餌ト云フハシシムラ、天竺ニ栴陀羅(センダラ)ト云フハ屠者也。イキ物を殺テウル、エタ体ノ悪人也」とある。

原田氏は「南北朝時代から『穢多』という汚らわしい印象を与えるきわめて差別的な感じの濃い感じがあてはめられました。」と論じ、「室町時代中期につくられた『下学集』(註・國語辞典)という本では『ゑた、屠児也、河原者』と書かれています。…河原つまり、農業から離れまた特定の住居らしいものもなく…社會からのけものにされたため生きていくためにはそのような仕事(註・鳥獣などを獲る仕事)をせざるを得なかった人々の群れを指すようになった」(『被差別部落の歴史』)と論じてゐる。

承平五年(九三五)に編纂された『和名類聚抄』は「屠児」の訓を「恵止利(えとり)」とした上で「牛馬を屠り肉を取り鷹?の餌とするの義なり」と解説してゐる。
「殺生を業とする者は殺生戒を侵犯してゐる」とされて厳しい賤視と蔑視の目がそそがれ、「穢多」と呼ばれるようになったのは、天竺(インド)における栴陀羅(センダラ・インドのカースト制度で最下級の階層。屠殺等を業とした)差別・蔑視といふ外来思想によるである。つまり、部落差別は生物を殺すことを罪業とする外来仏教思想のひろがりのなかで起こった現象である。部落差別の根源には、仏教の「不殺生」といふ戒律があったのである。決して、日本傳統信仰の「穢れを祓ふ」信仰から発したのではない。

仏教には、現世の行為によって来世に六種あるいは五種の世界に生まれ変るといふ「六道輪廻」の信仰がある。「六道」とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして「六道輪廻」とは、衆生が六道の間を生まれ変り死に変りして迷妄の生を続けることを言ふ。人間は生前に為した善行・悪行(業・カルマ)によって決まるとする。「あの人は前世で善業を積んだから、良き境涯に生まれ、この人は前世で悪業を積んでから悪しき境涯に生まれた」とする。そして社會的な差別の原因を前世に求め、蔑視を肯定し、改革をあきらめさせた。「部落差別」の思想的根本原因はこの思想にある。

『部落問題・人権事典』には「輪廻」について次のように書かれてゐる。「梵語サンサーラsamsaraの訳。生死輪廻・輪廻転生・流転ともいう。サンサールsamsarさまようという動詞から転化したもので、人間がこの世だけでなく、あの世もまたその次の世も、形態をいろいろ変えながら、車の輪がくるくる回って果てしがないように、生死をさまよっていくという思想をいう。…『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』(Chandogya Upaninsad)には輪廻の世界としては植物に生まれ変わることもあるとされ、またこの世で善い行ないをなしたものは、次の世では、バラモン・王族・商人階級の胎内に入り、悪い行ないをなしたものは犬・豚・賊人などの胎内に入るとされている。さらにウパニシャッドでは人間が植物や動物やいろんな人間に再生するのは業によるものだと規定している。この考え方を受け継いだ仏教では、衆生が煩悩と業とによって三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の迷いの世界をさまよい続けるとしている。この輪廻思想によって、四姓の階級からはみだされた旃陀羅【せんだら】は再生の望みはなく、永遠に迷い続けていく存在であるとしたり、前生の悪業によって次の世は不幸な境遇に生まれるとか、障害者に生まれるとかという決定的な人間差別の思想がつくり出されてくる。わが國においても、業論と結びついた輪廻思想は宿業論等として一部の仏教者らにより流布され、文化・社會意識に大きな影響を与え、部落差別や女性・障害者差別等の人間差別を正当化する誤りをおかした。」

このような罪穢観・輪廻思想は、わが國傳統信仰には微塵もない。罪穢れは、禊祓を行へば、清められるといふのがわが國の傳統信仰である。罪穢れは絶対に消却することができないとか、穢れた者は永遠に迷ひ続けるといふ信仰はない。「六道輪廻」は外来思想であって、「日本國體精神」とは無関係である。

 

徳川幕府は外来の「輪廻転生思想」を身分制度の確立と運用に利用した

原田伴彦氏は、「牛馬や鳥類の屠殺の仕事は、はじめは社會的賤業とはみなされなかったが、平安時代から仏教の影響をうけて、殺生の禁止と肉食を忌み嫌う風習が貴族たちの間に広まるようになって、いやしい仕事であると考えられるようになった。」(『被差別部落の歴史』)と論じてゐる。

それでも、殺すか殺されるかが当たり前のような戦國時代、そしてその影響が残っていた江戸時代初期には、殺生を犯した者が差別されるなどいふ観念は希薄であった。ところが世が太平となり、人と人との殺し合ひが行はれなくなった時代になると、人々の心に「殺生」に対する忌避の念が強まり、人々の価値観が大きく転換された。徳川幕藩体制が仏教を支配思想としたことも大きく作用した。

川元祥一氏はその著『部落差別の謎を解く キヨメとケガレ』で、「徳川五代将軍・綱吉の時代(一六八〇〜一七〇九年)に忌穢・触穢が民衆を対象とする厳しい制度となり、中世以来の貴賤・浄穢観に縛られていた賤業者、とくにケガレをキヨめる職業者があらためて忌穢・触穢の対象となり、すでに成立していた『武士・平人・賤民』の骨格と一体化していきます。」「被差別部落の人々は…なぜ差別されたのでしょうか。理由は被差別者が行った仕事に対する偏見があったからです。その偏見を徳川幕府が政治制度として法制化し、社會的分断に利用したといえる」「服忌令の基本観念である忌穢・触穢が、ケガレのキヨメを仕事にする、つまりケガレを日常性に再生する職業に適用され、なおかつ触穢意識によって『その人もケガレ』とレッテル貼りされて、『忌穢』の対象となり、その職業が世襲を軸とする身分『武士・平人・賤民』と制度的に一体化する…服忌令の初期と完成期に発令される『生類憐みの精神』による諸政令、そこにある忌穢・触穢意識が、キヨメ役としてケガレに触れる職業をする穢多・非人身分、中でも世襲的に固定した身分の穢多に集中していきました。」「世襲を軸とした江戸時代の身分制度の特徴、なかでも穢多非人身分への排除・差別構造はこのようにして形成されました」 (『部落差別の謎を解く』)と論じてゐる。

「服忌令(ぶっきれい)」は、誰かが亡くなった時に、喪に服する日数や自宅謹慎の日数を、死者との関係によって色々と細かく規定したものである。「服忌」とは、近親者の喪に服すこと(服喪)と、穢れ(ケガレ)を忌む忌引(きびき)の二つである。

徳川五代将軍・徳川綱吉が制定した「生類憐みの令」や「服忌令(ぶっきれい)」によって、「殺生」を業とせざるを得ない人々を「穢多」「非人」とする差別が全國的な制度として持ち込まれた。この二つは、仏教の戒律を極端に重んじたことによって発せられた。仏教の「不殺生」の戒律に基づき、犬を殺したり、いじめたりしただけで罰せられる法律が制定されたのだから、動物を殺すことを職業とする人々が蔑視され、身分差別されるようになるのは必然である。

江戸時代以前にも生活習慣や職業の違ひによって差別される人々はゐたが、差別が身分制度として確立したのは、江戸時代になってからである。江戸時代以前には今の部落差別制度は無かったのである。
徳川幕府は外来の「輪廻転生思想」を身分制度の確立と運用に利用し、それぞれの身分に生まれたのは前世の業の結果であるとして、身分差別を固定するのみならず正当化したのである。つまり、徳川幕藩体制下における封建支配のイデオロギーであった仏教とりわけ「輪廻転生思想」を根拠として成立したのが、「穢多非人」と言われる人々を蔑視し差別する制度であった。天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體(左翼革命勢力のいふ「天皇制」)及び神道思想は、部落差別とは全く関係ないのである。

外来仏教の輪廻転生思想も、日本仏教の確立といふか、仏教の日本化によって大分克服された。親鸞・日蓮・空海などの思想は、日本傳統信仰と融合した。女人も罪人も、久遠の仏に対する絶対の信によって「即身成仏」するのである。しかし、「輪廻転生思想」が根強く日本國民の心を支配したことは事實である。

「部落差別」は、その根底にある思想だけでなく制度的にも仏教寺院が利用された。「穢多・非人」の宗門人別帳が作成されたことが部落差別制度の確立である。徳川幕府は、仏教寺院に全ての民衆を所属させる「寺請制度」を創設し、宗旨の確認と戸籍把握を全國化した。この徳川幕府による戸籍整備事業は寛文十年(一六七〇)頃にほぼ完成したといはれ、以後、「穢多・非人」もこれに記載されたことによって、身分制度が確立した。
川元祥一氏は、「徳川政権下では、…賤民層、おもに『穢多・非人』を中心とした身分が世襲的に固定され、『武士・平人・賤民』の三つの身分階層が形成されます」「秀吉の朝鮮侵略によって近世身分制度の原点『武士・百姓』がつくられ、徳川政権のキリシタン弾圧によって江戸時代身分制度の全体が形成された」「厳密な『宗旨改帳』『宗門人別改帳』(註・村民がキリシタンではなく、寺院の檀徒〈だんと〉であることを証明する帳簿です。毎年村ごとに作成され領主に提出されたので、戸籍の役割も果たしていました。当時の家族構成や婚姻による各地との結びつきなどがうかがえる史料です)がつくられた。ここで注意すべきは『穢多』『非人』を軸にした賤民層が、世襲的身分として顕在化したことです」(『部落差別の謎を解く』)と論じてゐる。

徳川幕藩体制確立以前は、差別された人々も職業や住む場所が変れば、差別・蔑視から逃れることができた。つまり固定した制度としての賤民は存在しなかったのである。ところが、こうした中世以前のあり方を不可能にしたのが、江戸時代初頭の『宗旨改帳』『宗門人別改帳』といふ實質的な戸籍の作成である。部落差別は、制度面でも日本國體精神・神道精神は全く関係ないのである。また、古代律令制とも無関係である。

 


神道思想は穢れは祓ひ清められるといふ信仰であり穢れた存在を固定化して差別するといふ思想ではない

日本傳統信仰=神道が「罪穢れ」を嫌ふのは事實である。山紫水明麗しい日本國の風土に育まれた日本民族は、『宣命』にいふ「明・浄・直」の心を理想として、禊祓ひを傳統信仰の基本的行事にして来たことが証明するように、きはめて清潔さを大切にする。

しかし、「罪穢れ」は、禊祓ひによって清められるのである。罪人・悪人は、未来永劫地獄で苦しむとか、あの世に行かなければ救はれないとか、来世は犬畜生に生まれるといふような信仰はない。
日本の神観には、善悪・浄穢の固定観念はない。善神もある時は禍事をなしたまひ、悪神もある時は善事をなしたまふ。須佐之男命は、穢れ多きことを為されても善神に生まれ変り、豊穣の神となられた。
土橋寛氏は、わが國傳統信仰における「穢れ」について、「ケガレは一般的には『穢れ』であるが、語源的には『氣涸(きか)れ』で、生命力・霊力としての『ケ』が枯渇した状態を意味する語であった」(『日本語に探る古代信仰』)と論じてゐる。

氣が涸れることがケガレであるのだから、氣が再生し生命力・霊力が復活すればケガレではなくなるのである。生命力・霊力を復活させる祭祀によって穢れた状態ではなくなるのである。

和辻哲郎氏は、「天照大御神は己の田の畔を毀ち溝を埋める乱行に対してさえ、地面が惜しいのでそういうことをしたのであろうと詔り直された。…大御神は全てを活かせ、全てを慈しむ太陽の神である。…慈愛の神は私を没して公の立場に立つ神である。悪事を詔り直す寛容や、復讐しようとしない忍従は、私の立場における刑罰や復讐をヨシとしない態度の表現であって、そこにかえって正義が立てられる」(『尊皇思想とその傳統』)と論じてゐる。
影山正治氏は、「日本民族の生命観は神人合一の信仰に発し、ユダヤ教やキリスト教に於ける如き原罪思想は全然存在しない。従って罪に対する考へ方も、人間本有のものとしてではなく、本来神ながらである無垢清浄の身心に附着せる穢であると考へる。罪・咎・穢・過と言ふが、『つみ』は『積み』に通じ、穢の集積を意味し、穢や過も本来のものでなく外来のものである事を意味して居る。外部から附着したものであるから、身心を洗ったり拂ったりすれば本来の神我に還へることが出来るのである。」(『正續古事記要講』)と論じてゐる。

伊耶那岐命の禊祓ひの精神、天照大御神の「見直し」「聞き直し」「詔り直し」の精神、直毘神のお働きの精神は、日本傳統信仰が、罪穢れや悪は、確固不動の實在と見ることはなかったことを証してゐる。神道思想は、穢れは祓ひ清められるといふ信仰である。

日本神話の精神すなはち日本傳統信仰たる神道精神は、善と悪、貴と賤、聖と俗、浄と穢、死と生を絶対的対立としてゐない。死から甦り、悪は善となり、汚れは清められる。その働きをするのが祭祀である。そして日本といふ信仰共同体全体の最高の祭祀主が日本天皇であらせられる。

 

一君万民の思想、祓ひ清め、よみがへりの信仰、見直し・聞き直しの信仰が差別を解消する

上御一人日本天皇は現御神と仰がれる絶対的御存在であるから、対立する存在は無い。天皇は上にゐますたった一人のお方である。一君の下に万民がゐるのである。中間の存在は無い。従って、天皇の御存在が身分差別の根源だなどいふことはあり得ない。

天皇の御存在があるから「穢多・非人・賎民」が生まれるといふ考へ方は、清浄な存在、高貴な存在があるから、穢れた存在、賤しい存在が発生するといふ議論である。決してそのようなことはない。神がゐるから悪魔がゐる、正義の人がゐるから悪人がいるといふ議論と同じである。ならばすべての人類が悪人・罪人・穢れた人になれば万民平等の世、水平な世になるのであらうか。かかる考へ方こそ、人間の尊厳性を冒?した思想であり、まさに、「人間に光あれ」を否定する思想である。

天皇は、罪・穢れを祓ふ祭祀を執行される清らかなご存在である。身分制度に組み込まれるべきご存在ではない。たったお一人即ち「一君」である。身分でも階級でもない。神の地上におけるご代理である。上御一人の下に万民がゐるのである。聖なる祭祀主・上御一人が存在されることが、身分差別とりわけ部落差別の原因であるなどといふことは絶対にあり得ない。スローガンとして俗耳に入りやすい「貴族あれば賎民あり」は否定されるべきである。

「貴種流離譚」が各地に傳へられてゐるといふ事實は、民衆がいかに高貴なるもの・神聖なるもの・清浄なるものに憧れ、仰慕して来たかを証明する。

動物を殺すことを仕事としてゐる人々を「非人」として差別したことも、隠れキリシタンを「非人身分」に落として差別したことも、身体障害者や不治の病に冒された人々を「非人身分」に落として差別したことも、上御一人・日本天皇がゐましたからだといふ議論は全く空想であり、誤りであり、虚構である。「天皇制打倒」を金科玉条にする共産主義革命思想がもたらした重大なる誤謬である。かかる議論は「郵便ポストが赤いのも云々」といふことわざを想起してしまふ。

西光万吉氏は言ふ。「天皇制はもとより封建遺制でも王朝的残滓でもなく、単なる氏族社會の習俗でもない。その根元はいうまでもなく権力國家発生以前の高天原のマツリゴトにある。」「瑞々しき惟神(かんながら)の無我執観たる赤子(せきし)思想にてりかがやき、清々しき惟神の無所有観たる奉還思想に澄みわたる高天原の高次的展開などというと、今なお祝詞癖のぬけぬ神がかりとわらわれるであろうが、これも醒めることのない私の一つの夢である。」(『偶感雑記』)と。

一君万民の思想、祓ひ清め、よみがへりの信仰、見直し・聞き直しの信仰が差別を解消するのである。天皇帰一の國體が正しく開顕そされてこそ、非人間的な差別意識は解消されるのである。天皇の民・天皇國日本の國民としての自覚すなはち「みたみわれ」の自覚が確立されてこそ、部落差別問題の解決が實現するのである。

菅直人総理は「記者會見」で「(菅内閣を・註)わたしの趣味で言えば、『奇兵隊内閣』とでも名づけたいと思ふ」と述べた。また菅直人氏は杉晋作を尊敬してゐるといふ。しかし奇兵隊とは、長州藩が尊皇攘夷を決行すべく英・米・蘭・仏の列強四國と戦った馬関戦争に敗れた後、杉晋作らによってつくられた軍事組織である。以後、奇兵隊は徳川幕府と果敢に戦ひ、明治維新の原動力となった。言ふまでもないが、杉晋作も、そしてその師匠の吉田松陰も、さらには、明治維新そのものの戦ひも、「尊皇攘夷」を基本理念としてゐた。菅直人氏が自分の新内閣を「奇兵隊内閣」と称するのなら、まず以て「尊皇攘夷」の精神を實行しなければならない。天皇・皇室を敬ひ、支那や北朝鮮と果敢に戦はねばならない。さうでなければ、「奇兵隊内閣」と称する資格はない。尊皇攘夷の精神・松陰精神を受け継がない限り、長州出身の安倍元総理の「史上まれに見る、陰湿な左翼政権が誕生」といふ厳しい批判は正しかったといふことになる。

奇兵隊は「百姓・町人」の勢力も結集した。これは明治維新後に實現した身分・階級を超えた皇軍創設すなはち國民皆兵の淵源である。奇兵隊には差別されてゐた人々も参加した。この被差別部落の人々の諸隊は第二次長州征伐で勇戦奮闘し、とくに芸州口の戦ひで華々しい戦果をあげた。不当に身分差別固定させた徳川幕府打倒の戦ひに、身分解放の願ひを込めて挺身したのである。明治維新の戦ひは、まさに一君万民の國體を明徴化する戦ひだったのである。

ともかく、一君万民の日本國體と部落差別は相容れないし、「部落差別の原因は天皇制にある」などといふ議論は全く誤りである。

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