【トップページ】

大久保利通と川路利良が西郷隆盛を死地に追いやった
神川武利氏著『大警視・川路利良ー日本の警察を創った男』を読んで思う

四宮正貴

  最近、大変興味ある書籍を読んだ。神川武利氏著『大警視・川路利良ー日本の警察を創った男』(PHP研究所)である。小生は日本近代史において今日的にも非常に重大なテーマであり未だに解明されていない一つの大きな「謎」があると思っている。それは、明治六年の政変及び西南戦争の原因と真相である。この「謎」には、近代日本警察の創設者として評価され警察内部で尊敬されている川路利良初代警視総監は、「西郷隆盛を死地に追いやった忘恩の徒だったのかどうか」という問題が付随する。

この書物は川路に対する批判や疑念を全面的に否定し、川路利良を高く評価している。

 

西郷隆盛の対韓外交論は侵略主義では断じてない

  神川武利氏は、「明治六年の政変」で西郷隆盛が下野して鹿児島に帰った時、多くの鹿児島出身者が西郷の後を追って帰郷したのに、川路が帰郷しなかったことについて、川路は「私情まことに忍びがたいが、國家行政は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨て、あくまで警察に献身する」と考えたとし「私情を抑え、公務の重責を放棄することをしなかった。このときの川路の厳然とした態度は、…偉大である」と論じている。

  しかし、川路は果たしてこのようなきれい事で帰郷しなかったのであろうか。そもそも帰郷の原因は「明治六年の政変」およびいわゆる「征韓論」問題デある。

  神川武利氏は「征韓論」問題について、「征韓論は簡単にいえば、全國三百万人ともいわれる没落士族を救う道は、『外征以外にない』として士族の不満を、外にそらそうとしたということができる」と論じている。

  つまり、西郷隆盛の主張した対韓政策は全くの侵略論であったというのである。これは断じて誤りである。このような大誤謬を前提として、大久保・川路を正義とし、西郷の下野と帰郷を非難するのは間違っている。

  神川氏はまた、「征韓論を葬った大久保は、才腕の人で、日本史上最高の政治家といえるかもしれない。…征韓論に反対した大久保の勇気は、見上げたものというべきであろう」と大久保利通を称賛している。

  そもそも「征韓論」という歴史用語自体が大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

  西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

  西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。

  西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

  葦津珍彦先生は、「かれ(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

大久保が西郷の対韓外交に反対したのは権力奪取のためだった

  大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去り、彼らを閣外に追い出すことによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

  大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

  心有る史家は、西郷は東洋王道精神を実践し、大久保は西洋覇道路線を歩んだという評価をしている。

  また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

  明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。(この謀略の詳細については平泉澄先生著『首丘の人大西郷』参照)
  さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良である。

  葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

  神川武利氏の大久保・川路擁護論(賛仰論と言ってもいいかもしれない)は、いわゆる「征韓論」および「明治六年の政変」に関する誤った見方から出発しているのである。

  韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人しかも反日・反体制側ではない人(著者・神川武利氏は警察官僚)によって主張されていることは、まことに残念である。

  西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

  神川氏は、川路は西洋視察からの帰國の船中で、「『今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる』と言った」と書いている。

  川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。
  『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

  さらに神川氏はいう。「川路は無学の農民に対しては、民権というよりも撫育するという発想しかもてなかった。『警察は人民の養育者である。文明がまだ遅れている國の人民は、子は子でも最も幼い子供と看做さなければならない」と。

  これは人民蔑視思想である。しかもここでいう「文明」とは西洋覇道文明である。川路は漢学を重野安繹(やすつぐ)に学んだというが、いったい何を学んだのであろうか。
川路を称賛するために西郷・桐野を非難することは許されない

  小生は近代日本警察制度確立への川路利良の貢献を否定するものではない。しかし、川路を称賛することのために、西郷隆盛やそれにつき従った人たちを、誤った歴史認識で非難することは許されない。

  岩倉具視は、西郷下野後の大久保利通の専横ぶりに驚き、西郷隆盛など下野した五人の前参議たちの復職を提案した。大久保はこれを峻拒した。自分の独裁権力を守るためである。この事実を見ても、「大久保は西郷のことは信じていた」という見方は疑わしい。

  警察部内において、川路より上席の警保助であり、川路が海外視察中の警察を掌握していた薩摩出身の坂元純熙は、西郷の対韓政策を支持していた。

  そして坂元は、西郷復職運動を行った。神川氏によると、川路はあろうことか「ポリスは政治運動をすべきではない」と言ってそれに反対し妨害したという。このことは小生はこの書物で初めて知った。

  同じ頃、川路は、長州出身の槙村正直という京都府の大参事(府知事)の収賄事件が木戸孝允の介入によって「釈放」になったことを取り上げて、明治六年十一月十五日、「政治によって法をまげることは警察職員の士気にかかわるので納得のゆく説明をしてもらいたい」という建白書を提出した。神川氏は、このことについて「川路の法の権威を守ろうとする態度が明快になり、西郷に組しないことを、こういう形で警保寮内外に宣言したことになる」と書いている。

  これも全くおかしな見方である。西郷の下野・帰郷は違法ではない。むしろ西郷を下野に追い込んだ大久保が違法行為を行ったのである。また、川路こそ、大久保の政治権力を守り西郷の復活を阻止するために、西郷の復職を妨害するという政治運動を行ったのである。

  西郷復職運動に失敗した坂元純熙警保助が部下百人を連れて鹿児島に帰った後の明治七年一月十日、川路は警察内の指揮権を確立した。西郷隆盛の復職を妨害することによって自分の権力を強化した川路はまさに忘恩の徒である。

  さらに川路は、薩摩の黒田清隆による夫人斬殺事件を不問にした。川路に槙村をかばった木戸を批判する資格はない。長州閥も鹿児島閥も身勝手な私闘・権力闘争を行ったのであり、その中で川路は大久保の忠実な部下・子分として動いたということだ。

  ともかく、大久保・川路の行ったことは決して正義の行動ではない。自分たちの権力奪取及び維持のための公権力を利用してかつての同志・同僚・先輩たちを卑劣な手段で葬り去ったのである。大久保利通の人柄は怜悧・冷酷という言葉では追いつかない

  明治七年二月、佐賀の乱が勃発した。江藤新平前司法卿・前参議は、下野の後、故郷に帰っていたのだが、佐賀においても新政府の有司専制政治(大久保らによる独裁政治)に対する不満が渦巻いていた。大久保は、佐賀を挑発して乱を起こさしめ、政敵・江藤新平を粛清せんとして、岩村高俊という高圧的な人物を権県令として肥後鎮台兵を率いさせて佐賀に派遣した。この鎮台兵たちは佐賀城中の金品を盗取するなどの暴虐行為を行った。これに憤激した佐賀の士民は江藤を擁立して決起した。

  大久保は待ってましたとばかりに、司法と行政の分離を全く無視して、司法・行政の独裁的権限を得て佐賀に赴き、決起を鎮圧した。そして、司法卿・参議という國家の要職にあった江藤新平を、東京での正式裁判を受けさせず、佐賀で裁判を行い、江藤の恩顧を受けた河野敏鎌(とがま)をして裁判長に仕立てあげて、斬首の上梟首(きょうしゅ・さらし首)の刑に処せしめた。

  前年に行われた前述した槙村正直京都府大参事の汚職事件裁判すら、被告が政府高官であるというので、東京で裁判を行い裁判官以外に九人の政府高官からなる陪審員を設けて公正を期したのに、江藤は佐賀において無法な裁きを受けたのである。

  河野敏鎌は、江藤新平の書生をしていた人物で、江藤の推薦で司法省の官吏となり、江藤に命じられて西欧視察に序列筆頭の団員として参加した。しかるに、大久保の命により、佐賀の乱における法廷を主宰し、彼を抜擢した上司であり、恩人である元司法卿江藤新平を裁いて梟首の判決を下したのである。川路と全く同じの忘恩の徒である。また、河野を裁判長に任じた大久保の心事にも戦慄を覚える。

  梟首は、斬首に処せられた人の首を、晒場の獄門台に五寸釘で刺し止め三日二夜の間、人目にさらすという残酷な刑罰で武士に対しては行われなかった。また、明治六年に磔刑と共に残酷であるということで廃止になっていた。したがってこの刑罰は違法である。しかも大久保は、梟首された江藤の写真を見せしめのために全國の役所に配布し掲示させたという。のみならず、大久保は、江藤への判決の後、「江藤醜態笑止千万。人物推して知られたり」と日記に記した。こうなると大久保利通の人品骨柄は怜悧とか冷酷という言葉では追いつかない。残虐無比というべきである。

  この残虐なる大久保の行為に対して、同じ薩摩閥の黒田清隆すら三条實美・岩倉具視への書簡で「…旧参議等の刑戮に処せられ候儀、外國に対し、頗る恥ずべき御事と顧慮仕候…」と書いた。 さらに大久保と川路は、明治九年十月の萩の乱でも、卑劣な挑発工作を行って乱を起こさしめ、明治維新の功労者にして松陰門下の古参・前原一誠を死地に追いやった。その挑発工作とは、川路利良が派遣した密偵が、西郷隆盛の使いと称して前原を訪れ、「前原が立ち上がるなら西郷は協力する」と吹き込んだ。前原はそれを信じて決起を打ち明けてしまった。このことが大きく新聞に報道されて前原は決起せざるを得なくなったのである。

  神川氏はいう。「川路としては、前原が反乱をおこすものならば、早期にこれをおこさせ、迅速に潰して、鹿児島の不平士族とを連携を断つことが望ましい。二人の密使の派遣は、おとり捜査の初歩的なものに過ぎないであろう」と。         

  以上のような大久保・川路のやり口を見てくると、西郷隆盛及び私学校決起の原因となった川路利良による「西郷暗殺計画」は事実であったとしか思われないのである。

川路と大久保が西郷暗殺命令を下したのは九十九パーセント確実 著者・神川武利氏はいう。「私学校は、川路が警視庁から西郷暗殺団を鹿児島に送り込んだ、ということが明らかなれば、天下に対して政府の非を鳴らし、糾問する名分が得られる。これは川路に直接かかわる問題であり、川路が忘恩の徒として、後世に至るまで強い憎しみを郷党から受ける、深刻な問題である」「私学校幹部は、政府から仕掛けられたため、これに対してやむなく起ち上がったという、大義名分を作るため『東京獅子』(あずまじし)に眼をつけた」「川路についても、暗殺という卑劣なことを命じたとは考えられない。百歩いや万歩ゆずって、中原(注尚雄・警視庁密偵の一員)が暗殺の意思をもっていたとしても、大警視が歴史に残るような暗殺命令を明示するものではない。挙兵の名目に暗殺をもってきたのは、すべて私学校の謀略である」と論じ、中原らの自供は、すべて拷問によって半ば仮死状態になったときに捺印させたもの、すなわち事実上の捏造であると主張する。

  しかし、前述した大久保利通・川路利良の地方反政府勢力への卑劣な挑発行為と残虐な対処を見てくると、西南戦争だけは政府の挑発によって起こったのではないという主張は受け入れられない。

  大久保・川路によって選抜され、特別の任務を帯びた警察官であり、薩摩武士である警視庁密偵が、たとえ凄惨なる拷問を加えられたとしても、三十数人揃いも揃って「西郷を暗殺するために故郷の帰って来た」という嘘の自白をするはずがない。西郷暗殺の命令を受けていたからその通り正直に自白したのである。

  また密偵たちが嘘の自白をしたのなら、西南戦争終結後、政府によって処罰されたはずである。しかし、処罰されるどころか、密偵たちは知事・市長・公使などに出世している。少警部だった安楽兼道は四回も警視総監をやっている。また、小倉市長になった末広直方は、「暗殺命令は確かな事実であった」と証言したという。

  大久保利通は、明治九年三月には賞典禄千八百石(西郷と共に私学校費に当てていた)を鹿児島に送らなくなり、陸軍参謀局は精密なる九州地図の作製を開始した。そして、大久保と川路は、十年初頭に鹿児島に警視庁密偵を送り込んだのである。戦争準備であり挑発である。

  川路利良は、西郷が軍事力をもって攻め上ってきたら、「恩ある氏なるを以て、皆鉾を倒(さかしま)にして氏を迎ふべきに、却て氏を殺して恩を報ぜん事を望むもの、亦氏の恵む所にして、氏も亦歓ぶあらん」と書いている。

  さらに大久保は西郷軍決起の報を聞き、「この節事端をこのことに発(ひら)きしは、まことに朝廷不幸中の幸と、ひそかに心中に笑を生じ候くらいにこれあり候」と伊藤博文への手紙に書いている。刎頸莫逆の友といわれた西郷の切羽詰まった命がけの決起を「心中笑を生ずる」と書いた大久保という男はまさに冷酷無残な人物であり、信義も友情もあったものではない事を証しする。 大久保の後任の内務大臣・伊藤博文は次のように回想している。「西郷が兵を挙げて、王師に抗するなどと云ふことは、大久保公は思ひもよらなんだ。遺憾は、当時警視総監たる川路が、國情視察のために、大山以下の人々を薩摩にやったことだ。是は挑発となった。この挑発行為は実は川路の独断で、当時の政府は群雄割拠で、ことに川路と云ふ男は、すこぶる専横の男で、自分の権内の事は、なかなか人に相談すると云ふこともない」(伊藤公最後の南洲談)と語っている。このように川路という人は当時の同じ系列に属する人々にさえよく思われていなかったのである。

  また、木戸孝允は三浦梧楼に、「西南戦争最近の原由は、西郷隆盛等数人を利通及び大警視川路利良などが暗殺せんとしたに過ぎない。この暗殺事件のために戦争が起こり、死傷者およそ二万、人民が失った家屋財産は幾千万という凄惨な結果になった」と語ったという。さらに、勝海舟はアーネスト・サトウに「川路に関する限り彼は確かに暗殺を命令した。大久保も陰謀の共犯者であって明示的ではないにしてもとにかく命じたのである」と語ったという。(司馬遼太郎氏著『翔ぶが如く』による)

  川路と大久保が西郷暗殺命令を下したのは百パーセント確実とはいえないまでも、九十九パーセント確実であると小生は思う。 大久保利通は、自分の独裁権力維持と強化のために江藤・前原・西郷を挑発してこれを抹殺したのであり、川路は大久保の手先となって悪辣なる手段を用いてそれを成功させた男ということである。恩誼ある西郷隆盛を裏切って大久保の手先となり西郷を死地に追いやった川路利良はまさしく忘恩の徒であり、尊敬すべき偉大な人物だとは絶対に言えない。

 

大久保・川路は會津藩士の悲痛の思いを利用して自分たちの故郷を攻めさせた

  川路利良についてはもう一つ批判すべきことがある。それは警視庁抜刀隊のことである。田原坂の戦いで活躍した抜刀隊には旧會津藩士が数多く参加した。戊辰戦争の経緯から會津藩士は薩摩藩への恨みが深かった。反乱鎮圧に反乱者たちへ敵意を抱く者たちを使うのは、悪辣なる独裁者のよくやる手口である。共産支那の天安門事件でも大都會北京に住む人々に反感を抱く辺境の軍隊を使った。

  著者・神川武利氏も「政府は兵力不足のため、戊辰の戦役における會津人の憎悪を利用したことになる」書いている。

  佐川官兵衛以下多くの會津出身の士族は、田原坂で「戊辰の仇」「戊辰の復讐」と絶叫しながら戦ったという。涙なくして語れぬ悲劇であり残酷な歴史である。こういう汚い手口・冷酷なやり方を用いてまで、自分たちの故郷を攻め、大久保にとっては刎頸莫逆の友、川路にとっては大恩ある師・西郷隆盛を死地に追いやったのである。

  また、會津落城後に臥薪嘗胆の年月を送った柴五郎(当時陸軍幼年学校生徒)は西南戦争勃発の報を聞き、「芋征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に記し、五郎の兄重五郎は「今日薩人に一矢を放たざれば、地下に対し面目なしと考え、いよいよ本日征西軍に従うため出発す」との手紙を書いて病身でありながら抜刀隊に参加して戦ったという。

  大久保・川路はこうした會津藩士の悲痛の思いを利用してみずからの故郷を攻めさせたのである。道義的に絶対に許されない行為である。西南戦争という日本國民同士の凄惨にして無残な内戦を作り出したのは大久保・川路である。

  鹿児島の「西郷墓地」に行って戦死者の墓に刻まれている年齢を読むと、多くは二十代・十代の若者である。大久保・川路の挑発謀略によっておこった西南戦争において、大久保・川路の後輩である鹿児島の多くの若者が犠牲になったのである。

内務省官僚・千阪高雅は「大久保暗殺の下手人は島田にして島田ではない。警護を怠った川路である」と極言した

  また、明治十一年(一八七八)五月十四日、太政官に参朝の途中の大久保利通内務卿が紀尾井町において誅殺された。これを紀尾井町事件という。明治第二維新運動上の大事件の一つである。
大久保を襲撃したのは、石川県氏族である島田一郎・長連豪(ちょうつらひで)・杉本乙菊(おときく)・脇田巧一・杉村文一、そして島根県士族浅井壽篤(としあつ)の六氏である。

  大久保が標的になった原因は、直接的には、彼が西郷隆盛や江藤新平を死地に追いやった後、専制的な寡頭政治を行ったこと、そして現実主義者・大久保利通が明治維新の理想を隠蔽した張本人・象徴的存在とされたからであろう。

  紀尾井町事件の影響のもっとも大きなものは自由民権運動の活発化である。つまり、薩長藩閥政治に対する反抗が活発化したことである。維新変革におけるいわゆる「天誅」の有効性は桜田門外の変及びこの紀尾井町事件を見て明らかである。

  國家最高権力者が東京のど真ん中で刺客によって命を奪われるなどということはあってはならないことであった。しかも、まだまだ政情は真に安定しておらず、大久保が狙われているという風評があった。また、真偽は分からないが、島田一郎は「不日(近いうちに)汝に天誅を加う」という通告書を大久保に送っていたといわれる。明治十一年三月二十五日、島田一郎たちが大久保を撃つべく金沢を出発したことを、金沢の警察が察知し、石川県令・千坂高雅(米沢藩出身)から「石川県氏族に不穏な動きがある」ということを内務省に電報で知らせてきた。

  内務省官僚がこのことを大警視川路利良に伝え、大久保の身辺警護を強化するよう要請した。しかるに川路は、「石川県人は因循(ぐずぐずしていて決断がつかない)にして実行力に乏しい、彼らはた何をか為さん」「加賀の腰抜けに何ができますか」と言って、警戒を強めなかった。川路のこのような加賀に対しての軽侮の念は、前田藩が関ヶ原の合戦そして明治維新戦争の時にどっちつかずの姿勢であったことによると言う人もいる。しかし、島田一郎たちは腰抜けでも因循でもなかったのである。

  川路利良は鹿児島に警視庁密偵送って西郷隆盛の武装蜂起を挑発して西郷を死に至らしめ、その反動として西郷信奉者の旧加賀藩士によって大久保利通が暗殺されたということで、紀尾井町事件の後、「西郷と大久保を死地に追いやったのは川路である」という川路の責任を追及する声があがった。特に川路に大久保の身辺警護強化を要請した石川県令・千阪高雅は「下手人は島田にして島田ではない。警護を怠った川路である」と極言して川路を罵ったという。

  川路もまた責任を感じ、また、枕頭に西郷など西南戦争で亡くなった人々や大久保の亡霊が立って川路を苦しめ、川路はついに一種のノイローゼ状態になったという。そして、海外渡航中に病を得て急遽帰國してすぐ、明治十二年十月十三日に逝去した。四十六歳であった。毒殺説もある。

 

「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は大東亜戦争敗北と現代日本の矛盾の根本的原因にも関わる

  明治維新断行後、新政府が明治維新の理想とはかけ離れた政治を行っていると批判する人々が、政府を打倒し國家を建て直そうとする運動を起こした。これを第二維新運動という。

  明治維新政府は、欧米列強の日本侵略・植民地化を阻止して國家の独立を維持しさらに発展させていくことを目的として、「富國強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」を合言葉にした軍事力強化・経済発展・科学技術振興を実現するために、西欧文化・文明の取り入れた。そしてこのことが、明治維新後の日本におけるもっとも大事な問題、即ち日本の伝統への回帰という明治維新の理想・命題といわゆる近代化との矛盾をもたらした。

  西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らが下野した<明治六年の政変>の後、明治十一年に大久保利通が暗殺されるまでの数年間は、大久保を中心とした強力な権力政治の時代であった。大久保は、三条・岩倉という公家勢力を擁し、大隈重信・伊藤博文・川路利良を手足とし、西洋の文化・文明を大いに取り入れて、近代日本建設に邁進し、これに対抗する一切の障害を排除した。これを<有司専制政治>という。

  明治維新後の日本には、二つの道があった。一つは欧米の文化文明を輸入し欧米帝國型の國家として日本を建設する路線である。これを<西洋覇道路線>という。一つは、東洋の伝統的な道義観・文明観に立脚した國作りを行う路線である。これを<東洋王道路線>という。前者の路線を象徴する人物が大久保利通であり、後者の路線を象徴する人物が西郷隆盛とされる。

  東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線すなわち<西洋覇道路線>は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。これはいみじくも川路利良が「日本には西洋に誇るべきものはなにもない」と言ったというその精神である。

  さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による左翼革命運動がそれである。

  こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。さらにその西郷路線を継承したのは、明治十四年(一八八一)福岡に創設された玄洋社などの在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動であり、明治二十一年(一八八八)に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、それに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。

  そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的な原因にも関わる問題なのである。
                ○

  著者・神川武利氏は、「城山の悲劇を聞き、川路は大恩人の死を、心から悼んで、深く深く頭を垂れるのであった」と書いているが、どのような文献・資料によってこのようなことを書かれたのであろうか。小生にはとても信じられない。

  川路利良の命日十月十三日が、殉職警察官・消防官を慰霊する「彌生慰霊堂」(東京北の丸公園)の慰霊祭の日となっている。川路は殉職したわけではない。病死である。近代警察創設の功労者として川路利良を顕彰することには異論はないが、西郷隆盛を裏切り死地に追いやった忘恩の徒・川路利良の命日を、治安維持・國民の生命財産安全確保のために身を捧げた方々の慰霊祭の日にするのは果たして適切であろうか。

 

【トップページ】