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第一回 明治第二維新運動と紀尾井町事件

大久保利通斬殺事件と川路利良初代警視総監

  明治十年(一八七七)九月二十四日、西郷隆盛が鹿児島で自決して西南戦争は終結した。以後、大久保利通の独裁体制が確立したのだが、翌明治十一年(一八七八)五月十四日、大久保は太政官に参朝の途中、東京紀尾井町において石川県氏族島田一郎氏等によって斬殺される。実に木戸孝允病死後一年、西郷隆盛自刃後八ヵ月のことであった。これで「明治維新三傑」と言われる三人は全てこの世を去ったのである。

  島田一郎は、加賀藩の足軽の家に産まれ、藩の学校で洋式兵術の訓練を受け、戊辰戦争では薩長の強要によって加賀藩が北越に出兵した時に、従軍した。明治六、七年、征韓論争が勃発するや、西郷隆盛の考え方に心酔し、県下の士族を集めて忠告社を組織し、第二維新運動に挺身するようになった。

  國家最高権力者が東京のど真ん中で刺客によって命を奪われるなどということはあってはならないことであった。しかも、まだまだ政情は真に安定しておらず、大久保が狙われているという風評があった。また、真偽は分からないが、島田一郎は「不日(近いうちに)汝に天誅を加う」という通告書を大久保に送っていたといわれる。明治十一年三月二十五日、島田一郎たちが大久保を撃つべく金沢を出発したことを、金沢の警察が察知し、石川県令から「石川県氏族に不穏な動きがある」ということを内務省に電報で知らせてきた。

  内務省官僚がこのことを大警視川路利良に伝え、大久保の身辺警護を強化するよう要請した。しかるに川路は、「石川県人は因循(ぐずぐずしていて決断がつかない)にして実行力に乏しい、彼らはた何をか為さん」「加賀の腰抜けに何ができますか」と言って、警戒を強めなかった。川路のこのような加賀に対しての軽侮の念は、前田氏或いは加賀藩が関ヶ原の時もどっちつかず、明治維新戦争の時もどっちつかずの姿勢であったことによるといわれる。

  川路利良は鹿児島に探索隊を送って西郷隆盛の武装蜂起を挑発して西郷を死に至らしめ、その反動として西郷信奉者の旧加賀藩士によって大久保利通が暗殺されたということで、紀尾井町事件の後、「西郷と大久保を死地に追いやったのは川路である」という川路の責任を追及する声があがった。特に川路に大久保の身辺警護強化を要請した内務省官僚・千阪高雅(米沢藩出身)は「下手人は島田にして島田ではない。警護を怠った川路である」と極言して川路を罵ったという。川路もまた責任を感じ、以後、枕頭に西郷隆盛など西南戦争で亡くなった人たちや大久保利通の霊が立つといわれ、ノイローゼ状態になったという。

  当時は「武士たるものが自分で自分を守ることができず他人に警護してもらうなどということは卑怯である」という観念が残っていた。それが西南戦争直後の物情騒然としていた時期であるにかかわらず、武士階級出身である政府要人を警察に警護させることを潔しとしなかった風潮もあったという説もある。

  ともかく、西郷隆盛・江藤新平などの精神を継承して、明治第二維新を実現せんとしたのが紀尾井町事件を起こした島田一郎・長連豪(ちょうつらひで)・杉本乙菊(おときく)・脇田巧一(平民)・杉村文一・浅井壽篤(としあつ・島根県士族)の六人の人たちなのである。

 

『大久保斬奸状』における立憲君主体制確立の主張

  島田一郎等の行動の精神は、島田一郎ら六人の連名による『斬奸状』に示されている。『斬奸状』は島田一郎等の先輩というべき陸義猶(くがよしなお)が起草し、彼らに与えたものであるという。陸義猶は、藩命により明治二年から三年にかけて九州各藩の事情を視察した際、鹿児島で桐野利秋に会いその影響を受けたという。その後何回か鹿児島に赴き、いわゆる西郷党と交流した。

  また陸(くが)以外の加賀藩の志士たちも西郷党と提携する人が多かった。紀尾井町事件の実行者の一人である長連豪は、鹿児島の私学校に入ったことがあり、西南戦争に呼応して立とうとしたが機会を逸した。そして西郷軍が敗れたことにより、権力者要撃の方針を取るに至たり、大久保襲撃に参加するのである。

  『斬奸状』は、「石川県氏族島田一良等叩頭昧死(こうとうまいし・頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して注)、仰ぎて天皇陛下に奏し、伏して三千余万の人衆に普告す。」という文句で始まり、「一良等方今皇國の時状を熟察するに、凡て政令・法度、上天皇陛下の聖旨に出づるに非ず、下衆庶人民の公義によるに非ず、独り要路官吏数人の憶断専決する所に在り、……」とある。

  これは『民撰議院設立建白書』の冒頭と同意義の文章であるが、要するに、上は天皇陛下の大御心、下は國民の意志を無視して、一部権力者の専断によって政治が行われている状況を批判しているのである。これは、大久保等によるいわゆる有司専制政治が明治維新の理念を宣明せられた『五箇条の御誓文』の「広く会議を興し万機公論に決すべし」との大御心に反する政治であるという主張である。いわゆる『朝鮮遣使問題』に関わる明治六年の政変がその具体的事例であった。つまり適法且つ正当な手続きを経て行われた閣議決定が大久保・岩倉等によって一方的に覆され、しかもそれが既成事実となって罷り通ったことへの批判である。

  「独り要路官吏数人の憶断専決」とは、大久保利通を中心とした当時の権力中枢にいる者の政治を指しているのであるが、西郷隆盛・木戸孝允亡き後は、大久保利通がず抜けた力を持った。日本人は、権力が一個人の集中してそれが絶対化することを好まない傾向がある。國史上絶対的な独裁権力を持った人は必ず抹殺された。織田信長しかり、井伊直弼しかり、そして大久保利通もしかりである。現代において大久保利通を尊敬すると言っている人物はあの小沢一郎である。小沢もまた「権力の民主的集中」とか言って、独裁的政治権力を振おうとしている政治家である。

  『斬奸状』にはさらに、次のように記されている。 

  まず大久保利通等政府権力者の罪については、「曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する、其の罪第一なり。曰く、法令漫施(一貫した方針がなく法律を定めること注)、請托公行(公務員が内々で特別の配慮をすることが公然と行われること注)恣に威福を張る(威力で押さえ付け人を思いのままに従わせること注)其の罪第二なり。不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する、其の罪三なり。曰く、慷慨忠節の士を疏斥(疎んじ退けること注)し、憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する、其の罪四なり。曰く、外國交際の道を誤り、國権を失墜する、其の罪五なり。」と五つの罪状を挙げている。

  「公議を杜絶し」とは多くの人々が参加する議論の場を閉ざしているということである。西郷隆盛等が下野した直後の明治六年十月には、「新聞紙条目」(讒謗律)を制定して、政府批判の言論を封殺せんとし、十一月には内務省を設置して「内政安定」を図ると共に警察権力を強化して反政府の動きを圧迫しようとした。また、板垣退助・江藤新平等が連名で提出した『民撰議院設立建白書』を、時期尚早であるとして否定した。大久保・岩倉は西洋を視察して、「言論の自由」の意義や「議会制度」の機能をよく知っていた。知っていたが故に、当時の日本においてこれを取り入れることは時期尚早であると断じ、先手を取って新聞発行などの言論の自由要求の動きを、権力と法律による規制を以て対したのである。

  「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」とは、政府権力者の権力を利用した腐敗堕落・犯罪のもみ消しなどを指している。井上馨や山県有朋の汚職疑惑そして黒田清隆による夫人殺害事件であろう。「不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する」というのはあるいは一方的な議論かもしれないが、近代化を急ぐ政府の様々な建設事業に対する反発が強かったのであろう。「憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する」とは、「佐賀の乱」(明治七年)「萩の乱」(明治九年)「西南戦争」(明治十年)などの第二維新の決起が政府当局の挑発によって起こったことを指していると思われる。「外國交際の道を誤り、國権を失墜する」とは、政府の対支那・対韓國外交姿勢を指していることは言うまでもない。

  さらに、「勅命を矯(た)め(形を変えること・転じて自分たちの都合の良いように勅命を利用する意か注)、國憲を私し、王師(天皇の軍注)を弄し(もてあそび注)、志士・憂國者を目するに反賊を以てし、甚だしきに至りては隠謀・蜜策を以て、忠良節義の士を害せんと欲す。」と書かれてある。これは大久保等の政治に対する痛烈なる批判である。つまり、「勅命を矯め國憲を私し」とは、明治六年の政変における大久保岩倉等の隠謀を指していると思われる。「王師を弄し」とは大久保岩倉等が政権維持のために天皇の軍を利用したことを指す。

  続いて、「内は以て天下を玩物視し、人民を奴隷視し、外は外國に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て皇統の推移、國家の衰頽、生民の塗炭を致すや、照々乎として掌を指すか如し。」「前途政治を改正し、國家の興起することは、即ち 天皇陛下の明と、闔國(こうこく・國全体の意注)人衆の公議とに在り。願はくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を起し、公議を取り、以て皇統の隆盛、國家の永久、人民の安寧を致すべし。一良等区々(とるにたらないという意。謙遜して言っている。注)の微衷以て貫徹するを得ば、死して而して瞑す。」と書かれている。 これは結論の部分の文章である。八年四月の詔旨とは、明治八年四月十四日渙発の『元老院・大審院を設置し、地方官招集の詔』のことである。この詔には「…朕今誓文の意を拡充し、元老院を設け、立法の源を広め、大審院を置き、以て審判の権を鞏(かた)くし、また地方官を召集し、以て民情に通じ、公益を図り、漸時に國家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に、其慶に頼らんと欲す。」と示されている。島田は、特にこの詔書の「國家立憲の政体を立て」との聖旨を重く受けた止めた。島田らは、明治天皇の『五箇条の御誓文』の聖旨に基づき、『國会』を開設し民意を集めて政治を行うべきである、と論じているのである。つまり立憲君主体制の確立が彼らの最大の主張である。つまり、島田一郎の大久保利通暗殺は、後の自由民権運動の端緒となったのである。

  島田らはこの『斬奸状』を各新聞社に送り、國民一般に彼らの意図を知らせようとした。大久保斬殺は、言論が封殺された状況下における止むに止まれぬ行動であったし、島田らは自分たちの命と引換に権力者を撃ち、世論を喚起し、第二維新実現を目指したのである。川路の「加賀の腰抜けに何ができますか」という観念は誤りであったのである。

 

現実主義者大久保利通の悲劇

  大久保の死によって、政府における薩摩の力は減退し、長州(即ち伊藤博文・山県有朋・井上馨等)が力を持つようになった。それ以上に、この事件がきっかけとなって自由民権運動・第二維新運動が益々活発化した。そして、明治二十二年の大日本帝國憲法発布、二十三年の國会開設へと時代は進むのである。

  紀尾井町事件の精神はまた、その後の維新運動・愛國運動へと継承されたことは、明治十四年に頭山満等によって設立された『玄洋社』の「憲則」第三条に「人民の権利を固守すべし」とあることによって明らかである。 

  ただし、大久保利通が、自己の権力を強大化し國家を私物化したのみの独裁政治家であるとすることはできない。大久保は、朝鮮遣使問題で政府部内が紛糾していた明治六年九月二十六日に、岩倉具視から参議に推薦されたが一旦は断っている。そして再度の要請に対してこれを受諾した時の三条実美・岩倉具視宛大久保の書簡(同年十月十日付け)には「……この上は御趣旨を遵奉し、惟命惟従、 劣(せんれつ・才能が浅くて人に劣るという意注)を顧みず、砕身仕る可く候。……」と書いている。また、明治六年十月十二日の朝鮮遣使問題を論議する廟議に出席する時は『遺書』を書いた。それには「断然当職拝命、此の難に斃れて以て無量の天恩に報答し奉らんと一決致し候。……」と書いている。大久保には命懸けで國家のために尽くすという信念があったのである。

  大久保は維新後十年しか経過していない日本が、その時点において、憲法を制定し、議 会を開設し、國民全般に「参政権」と「言論の自由」を与え、いわゆる民権政治を行うのは時期尚早であるという考え方に立っていたのである。大久保は死の直前、福島県令・山吉盛典に「國家の基礎を固めるには三十年必要である」と語り、勝海舟には「民権への政体移行は明治三十年からである」と語ったといわれている。

  大久保が性急に理想実現を希求する志士たちに斬殺されたことは、要するに現実主義者・大久保利通の悲劇だったということである。大久保利通が現実主義者でったことは、漢詩や和歌をあまり詠まなかったこと、つまり彼が非詩人であったことがその傍証となる。漢詩や和歌を数多く呼んだ詩人・西郷隆盛と比較するとこの見方は当たっている。しかし、大久保は紀尾井町で斬殺された際、その懐中に西郷隆盛からの書簡を二通持っていたといわれている。大久保は西郷を憎悪しこれを全面的に否定したわけではなかったのである。 それでは、大久保利通は如何なる日本を建設しようとしたのか、言い換えれば、大久保路線とは如何なる考え方なのか。それは一口で言えば、近代日本が突っ走った基本路線たる「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」である。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを大久保は目指したのである。

  明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した大久保利通の基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたであろう。

  大久保は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

  東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

  さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

  こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。さらにその西郷路線を継承したのは、明治十四年(一八八一)福岡に創設された玄洋社などの在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動であり、明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

  そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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