萬葉集に歌はれた日本の心 第三十三回
四宮正貴
大寶元年辛(しん)丑(ちう)秋九月、太上(おほき)天皇(すめらみこと)、紀伊國に幸しし時の歌
巨勢(こせ)山のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)ばな巨勢の春野を (五四)
持統天皇が紀伊国に御幸せられた時、供奉した坂門(さかとの)人足(ひとたり)(伝未詳)が詠んだ歌。大寶元年(七〇一)は、第四二代・文武天皇(天武・持統天皇の皇孫)の御代。太上天皇は退位された天皇の御事で、この歌では、持統天皇の御事。
持統天皇は度々地方に行幸された。この紀伊行幸の翌年の大宝二年(七〇二)十二月二十二日、持統天皇は崩御された。行幸は単なる物見遊山をされたのではない。天皇の御幸の目的は「鎮祭諸神」である。天皇の統治行為の一つで、國民及び國土の霊を祝福される行事であった。
巨勢山は今日の奈良県御所市古瀬の一帯で、大和から紀伊への通路にあたる。今の吉野線と和歌山線が一緒になる吉野口あたりで、巨瀬氏が住した所といふ。
「つらつら椿」のツラは、連なってゐる意。韻を踏んだ表現で、椿の並木といふ意と、一つの椿の木のたくさんの花が連なって咲いてゐるといふ意の、二つの解釈が成り立つ。「つらつらに」は、つくづくとといふ意。
椿は萬葉人にとって愛すべき花であったらしく、椿は他の歌にもよく歌はれてゐる。
この時の持統天皇の紀伊行幸は、新暦の十月であるから椿は咲いてゐない晩秋である。だからこの歌は、眼前に花の咲いてゐない晩秋の椿の木を見ながら、花の咲いてゐる春の様を偲んだ空想の歌。
通釈は、「巨勢山に連なって咲いてる椿の花をつくづくとよく見つめて偲ぼう。巨勢の春の野原を」といふほどの意。
巨勢山のつらつら椿をつくづく見ながら、巨瀬の春野にその椿の花の咲いた美しさを思ひ出してゐる歌。
「つらつら椿つらつらに」といふ表現を使って、心地よい調べを醸し出してゐる。そして持統天皇の行幸の晴れやかな情景を歌ってゐる。旅の途中に即興的に歌ひ、持統天皇に捧げられた歌であらう。
二年壬(じん)寅(いん)、太上天皇、参河國に幸しし時の歌
引(ひく)馬野(まの)ににほふ榛(はり)原(はら)入り亂(みだ)れ衣(ころも)にほはせ旅のしるしに
(五七)
長忌(ながのいみ)寸(き)奥(おき)麻呂(まろ)(生没年未詳)の歌。「忌寸」は姓(わが國の上代で、氏族の尊卑を表すための階級的称号)の一つ。
持統天皇が、大宝二年(七〇二)十月から十一月にかけて三河國(愛知県東部)に行幸された折、供奉した奥麻呂が詠んだ歌。この時は尾張・美濃・伊勢・伊賀の國を行幸されたといふ。この三河行幸すぐ後の同年十二月に、持統天皇は崩御される。
「引馬野」は愛知県宝飯郡御津町御馬一帯か、静岡県浜松市北方の曳馬かといふ。馬を引いてとどめる野の意で、御幸に供奉した多くの侍臣たちの馬をとめておく場所のこと。
「にほふ」は芳しく咲いてゐる意。「榛」は、樺の木の落葉高木で湿地に自生し、樹皮・果実が染料になる。「旅のしるしに」は、旅に行った証拠に。「衣にほはせ」は、衣に榛の実で色をつけなさいといふ意。十一月頃は、榛に実が成ってゐる時期である。
通釈は、「引馬野に艶やかに色づいてゐる榛の木が生えてゐる野原に入り交じって衣を染めなさい。旅に行った証拠に」といふほどの意。
染料になる榛の木が一面に生えてゐる引馬野の榛原は都でも有名であったらしい。その林の中に入って見ようではないかと、一緒に行った旅人に呼びかけてゐる。歌の調子が弾んでゐて、旅先の情景におぼれてゐるかの如くである。旅の明るい情緒が歌はれてゐる。
旅のしるしとして、衣に色をつけることによって、この旅の楽しさの思ひ出にもされることになったのであらう。「榛原」を、持統天皇の侍女たちあるいは地方の素朴な女性たちあるいは遊女の群れの比喩だとする説もある。さうすると、旅先で女性と戯れる男性の楽しみを歌ったことになる。「にほふ」といふ言葉が、二度使はれてゐるので女性を連想させる。さういふ情緒がこの歌の調べに反映してゐる。