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「魂」が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった現代日本

四宮正貴

 

国会の証人喚問は共産国家・独裁国家で行われる公開処刑・人民裁判と同質である

国会で守屋前防衛事務次官の証人喚問が行われた。率直に言って、私はこの証人喚問というのが大嫌いである。北朝鮮など共産国家・独裁国家で行われる公開処刑・人民裁判を想起する。 

政府与党は、テロ特措法早期成立のために、守屋氏を生贄・スケープゴートとして野党に差し出したのである。民主党などの野党は、正義の味方面して党利党略のために守屋氏を責め立てたのである。 

要するに一人の人間を極悪人と断罪し、寄ってたかって懲らしめたということだ。しかも、テレビで生中継する。すなわち江戸時代に行われた市中引き回しを全国規模の生中継で行ったのである。 

一人の人間を大勢で追いまわしたり待ち伏せたり自宅前に押し掛けたりして、カメラやマイクを突き付けつるしあげ、国会で公開人民裁判を行うのは、まさにイジメであり魔女狩りである。戦後民主主義が金科玉条とする「個の尊重」を真っ向から否定する行為である。

守屋氏の限らず、こうしたことは、正義のため、不正を暴くため、悪を懲らしめるためとして、これまで幾度も繰り返されてきた。大人たちのこういう残虐な行為を子供たちが「正しい行為だ」として真似をするのは当然である。これがイジメである。こういうことが平気で行われる日本の国は本当に異常である。

三島由紀夫氏は次のように言っている。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である」(『反革命宣言』)と。

革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがメディアである。今の日本で行われている「証人喚問」や「メディアによる特定人物の糾弾」は、共産国家の「人民裁判」「公開処刑」と同質である。

守屋氏をかばうわけでは決してないし、守屋氏のやった事は許されざることである思う。しかし、守屋氏程度のことで証人喚問という公開人民裁判・魔女狩りが行われるのなら、世の中にはもっともっと悪い奴らが沢山いる。国家民族のためにならない亡国政治家どもをみんな公開人民裁判にかけ、市中引き回しの刑に処すべきである。 

 

戦後日本の「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」の欺瞞性

日本がこれほどまでにおかしな国になってしまった原因はどこにあるのか。戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値として押し戴いた。「平和と民主主義」は、國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・平和・歴史・伝統が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。 弱者であるから徒党を組む。即ち集團で運動をせざるを得ない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の生き方しかできないのである。

 弱者は弱者なるがゆえに、常に「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象を常に見つけ出し、あるいは作り出さずにはおれない。これが「イジメ」である。「イジメ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。

 「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるメディアは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追いかけ回してを責め苛む。これまで、こういうやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のイジメは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 

「生命の尊重」が最高の道徳とされている今日において有史以来未曽有の残虐なる事件が続発している

 「武」を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳とされ、「平和と民主主義」を謳歌している今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかったような凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発している。

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴えた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった。
 三島氏さらに次のように論じている。「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」(『檄文』)。

 國家を守ることこそ、國民の道義精神の要である。軍と國家、國防と道義は不離一体の関係にある。國民は運命共同体であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、國民である。

 現代日本の青少年の多くは、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さえよければ他人はどうなってもいいという考え方に陥っている。

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない。

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。武士の倫理観は、忠孝、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)、義勇、侠(一身を顧みずに弱い者を助けること)、自己の責務を果たすこと、といわれている。

 今日の日本に一番欠けているのが、このような武士道精神ではなかろうか。わが国はグローバルスタンダードなどと言っていたずらに外国の真似をして外国と同じになるのではなく、日本人としての倫理観に磨きをかけるべきである。特に政治家と官僚と財界人と教育者とマスコミ人にそれが求められる。

 

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