|
萬葉集名歌鑑賞 第十二回
四宮正貴 |
天武天皇が苦難に向はれた時の深い思ひを歌はれた御歌
天皇の御製の歌
みよしのの 耳我(みみが)の峯に 時なくぞ 雪はふりける 間(ま)なくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ來る その山道を (二五)
第四十代・天武天皇の御製。天武天皇は、天智天皇の弟君であられ、天智天皇が断行された大化改新に協力された。大化改新当時は十五歳くらいの青年皇族であられ、大海人皇子と申し上げた。
吉野に赴かれた時に詠ませられたと思はれるが、何時の頃か明らかではなく、諸説ある。天智天皇十年十月二十日に天智御病の時、皇太子を辞せられて吉野に篭られた時とする説と、壬申の乱の後、天武天皇即位後天武天皇八年五月に吉野に赴かれた時とする説とがある。
久松潜一先生は、この歌の次の歌の左注に「紀に曰く八年巳卯五月」とあり「天皇御製歌」とあるから「即位後の御歌と見たい」といはれてゐる。しかし、「萬葉集」編纂時に題辞をつけたとすればこの説は成り立たない。
久松氏は、八年五月以外に吉野に赴かれなかったとはいへないともいはれ、天武天皇八年に詠まれた「よき人の…」の御歌がこの長歌と同時に詠まれたとも断定できないとされる。
私は、この長歌の調べ、内容から考へて、皇太子を辞されて吉野に篭られる時の御製とすべきと考へる。
大海人皇子が吉野に篭られたのは天智天皇崩御の一ヵ月半ほど前である。鵜野皇女(持統天皇)とわづかの舎人がお供をしただけといふ。陰暦の十月下旬、吉野の山越えの日は、雨もよいで雪さへ混じってゐた。青木生子氏は、「後日吉野入りしたことを回想して詠んだ」とされ、「前途に横たわる苦難に真向って、一途に思いつめているものがあった。」と論じてゐる。
「みよしの」のミは美称の接頭語。吉野は奈良県吉野郡。ただし萬葉集では吉野川流域の吉野町宮滝を中心とした一帯といふ。斉明天皇・天武天皇・持統天皇の離宮があったのもこのあたりといはれる。
「耳我の峯」は所在不詳。吉野山の金峰山あたり、或いは飛鳥から吉野に至る途中にある峰かとする説あり。折口信夫氏は、「みかの嶺」と読んでいる
「我」を濁らないとも良いとされてゐる。そして「金のみたけ」であり漢字をあてると「金の御嶽」=「金峰山」(きんぷせん)となるとしてゐる。
「時なくぞ」は絶え間なく、ときを定めず、始終。「間なくぞ」は間もなく、絶えず、休みなくの意。「間無曾」は「ひまなくぞ」と訓ずる説がある。
折口信夫氏は「ふりける」のケルは経験または現実を表さうとするものではなく、ある事象を知識化して示してゐると論じてゐる。つまり、するとこの御製は天武天皇の現実の経験ではないといふことになるのである。
「隈」はもののすみ、入り込んだ場所、奥まってものかげになった」所。この場合は道の曲がり角のこと。「おちず」は欠けることなく・もらすことなく。
「み吉野の耳我の峯に絶え間なく雪は降ってゐる。休みなく雨は降ってゐる。その雪がやむ時もないやうに、その雨が絶え間がないやうに、道の曲がり角ごとに思ひに沈みながら来たことだなあ、その山道を」といふほどの意。
「思ひつつぞ來る その山道を」がこの御歌の急所である。「思乍叙来」を「もひつつぞこし」と訓ずるか「もひつつぞくる」と訓ずるかに世ってこの歌の解釈が変る。前者は過去のこととなり、この長歌は即位後の御歌といふことになる。後者は現在のこととなり、皇太子を辞した時の御歌となる。
一体何を思ってをられたのであらうか。読む人にずっしりとした重い感覚を持たせる言葉である。恋人を思って吉野の山を登ってゐると解釈できないことはないが、それにしては歌全体があまりにも暗鬱である。よほど深いもの思ひをしておられるのである。恋愛のこと或いは吉野の景色のことを思っておられるといふ説もあるが、そのやうなことではあるまい。もっと深刻なことなのである。折口氏は、「君とも、妹とも現れないが、これの歌をお與へになった意中の人がゐるのである」「道の隈(註・曲がり角)を曲がるごとに山を高く登り、その人の家のあたりから遠ざかる思ひがするので、思ひ出されてならなかったのである」と論じ、この御製を相聞歌としてゐる。
吉野といふ風光明媚な所に赴かれる時の歌にしてはきはめて暗く重い御歌である。旅行や景色を楽しんで歌はれた歌とは思はれない。天武天皇八年五月に吉野の離宮に御幸された時の御製ではないとすることの根拠に、五月には雪は降らないことがある。壬申の乱の前に近江京から吉野へ籠った時に歌はれた御製であらう。
大海人皇子は天智天皇の御代に皇太子であられた。しかし天智天皇には大友皇子といふ皇子がおられた。大友皇子は太政大臣の地位につかれた。
『日本書紀』によると、天智天皇は天智天皇十年(西暦六七一)十月に崩御される二十日ほど前に、皇太子であられた大海人皇子(天武天皇)を枕許に呼ばれて、「皇位を譲りたい」と仰せられた。そこで大海人皇子は、「天の下を挙げて皇后(倭姫)を附けさせたまへ。なほ、大友皇子を立てて、よろしく儲君(もうけのきみ・皇太子)としたまふべし」」と申し上げ、「私は出家して修道する」(皇后に皇位を継いで頂き大友皇子を摂政にしてほしい)と申し上げる。天智天皇はそれを許されお引き止めにならなかった。そして大海人皇子はすぐに剃髪されて吉野に向はれる。この時には鵜野皇女(後の持統天皇)と僅かな舎人がお供をした。ある人は大海人皇子が近江の都から吉野へ行かれることを「虎に翼を着けて放った」と言ったといふ。
陰暦の十月下旬、吉野の山越へは雨催ひで雪さへ混じってゐたであらう。さうした時に吉野に向はれた不安で暗い御心境・満たされぬ思ひを歌はれたと思はれる。この時、大海人皇子は前途に横たはる苦難に向かって一途に思ひつめておられたであらう。生命の危機を逃れてきた思ひであったかもしれないし、天智天皇崩御後の天下を憂へられた思ひかもしれない。
天武天皇が御位につかれた後の御歌とすれば、壬申の乱直前に吉野山に籠られた時の心境を回想して詠まれたとすべきである。しかし、回想の歌ではなく吉野への山道を行かれた時の実感であらう。
即位後吉野の離宮に御幸された天武天皇八年五月の御製ではないとすることの根拠に「五月には雪は降らない」という事があるが、久松氏は「かつて吉野にこもった日の憂愁の思いを回顧されながら山道をこられた」とされてゐる。雨と雪が絶えず降り続く山道をのぼってきた過去のことを思ひながらのぼってきたといふのである。
折口氏は二七番の歌に「日本紀」を引いて「吉野宮御幸」のときの歌との「左註」があることについて、上代の史実は記録に載らないものも多く、「正史」にある記録だけに限定すべきではないとしてゐる。天武天皇は、隠棲の時から崩御まで度々吉野に赴かれていた。
天智天皇が崩御され、大友皇子(弘文天皇)が皇位を継承された七ヵ月後に、天武天皇は吉野から兵を挙げられて近江朝廷を滅ぼされる。これを壬申の乱といふ。近江朝廷側が兵を準備して吉野におられた大海人皇子を攻めようとしたので大海人皇子が立ち上がられたと『日本書紀』には記されてゐる。
壬申の乱は萬葉時代の最大の事件であり、初期萬葉はこの壬申の乱をテーマにした歌が多い。萬葉集は決して平和な時代の太平楽な歌集ではない。
この頃は必ずしも長子が皇位を継承されるという決まりごとはまだ無かった。何かの事情で弟君や皇后が皇位を継承される場合があった。
この御製の前に中大兄皇子(天智天皇)の大和三山の御歌・額田王の三輪山の歌・大海人皇子と額田王の蒲生野遊獵の歌が置かれてゐるといふ歌の配列も意味深長である。
大化改新の後に、天智天皇が、神武天皇が神の御託宣によって都を開かれて以来都が置かれゐた地である大和から近江に都を遷し、支那風の法律・行政制度を取り入れたことに対する反発は非常に大きかった。これが大海人皇子によって近江朝廷が滅ぼされた最も大きな原因であるといふ説がある。大海人皇子は吉野に籠られた時に、まつりごとをされる。そして伊勢の神宮を遥拝して近江朝廷を攻められた。そして天孫降臨以来の皇臣である大伴氏も大海人皇子に従ふ。そして近江朝廷が滅びると都はすぐに明日香清御原宮に遷された。
萬葉時代の人々が如何に大和地方の重要性を認識してゐたかは、萬葉集の巻一の歌の配列を眼光紙背に徹して読むとよく分かる。巻一冒頭の歌は、雄略天皇の御製で、「そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ…」(そらみつ大和の國はことごとく私が統べゐる國だ、すみずみまで私が治めてゐる國だ…」と歌はれており、大和の國は天皇が統治される國であることを高らかに歌ひあげられてゐる。第二首目は、舒明天皇の國見歌で、「うまし國ぞ あきづ島 大和の國は」(本当に結構な國だあきづ島大和の國は)と歌はれて、大和の國を讃へられてゐる。
萬葉集巻一の編者は大和の國は大切な國であり、大和の國を捨てて近江に遷都したことへの批判が強かったことをそれとなく訴へてゐるように思へる。
壬申の乱とは単なる皇位継承争ひ・権力闘争ではなく、もっと深いわが國の伝統信仰に関はる問題があったとされる。神話の世界・古墳時代からの伝統を守ることと律令國家建設・天皇中心の中央集権國家建設の矛盾の中から起こった悲劇が壬申の乱である。「思ひつつぞ來る その山道を」の「思ひ」はそう単純な「思ひ」ではないのである。
天武天皇の御命令によって編纂された『日本書紀』には、大伴皇子即ち弘文天皇の御即位の事は記されてゐない。平安時代の『扶桑略記』『大鏡』などが大友皇子の御即位を認め、江戸時代の『大日本史』において定説となった。そして明治三年(一八七〇)七月二三日に、大友皇子は、第三十九代・弘文天皇と追諡(ついし・おくりなのこと)された。
ともかくこの御製は、天武天皇が苦難に向はれた時の深い思ひを歌はれた御歌である。しかし、恋人のもとに通ふ男の心を歌った伝承歌を下敷きにして天武天皇が詠まれた御歌とする説も有力である。萬葉歌をあまりに政治的に解釈してはならないとすればこの説が正しい。萬葉集はいふまでもなく和歌集であり文芸作品である。あまりに時代背景としての政治動向などにとらはれ過ぎて解釈するのもまた危険である。
保田與重郎氏はこの御製を評して、「天武天皇の御人柄を現はし、しみじみとつぶやくやうに、心の底にひゞく調べがあって、思ひにうはつくものがない。まことに沈思といふか、わがおのれの思ひにしめやかに語りかけ、つぶやくやうに思ひをしづかにたしかめてゐるといった、心情の旋律がよくあらはれた傑作である。」と述べておられる。
ただし、折口信夫と保田與重郎はこの御製を相聞歌とされてゐる。さらに折口氏は、「この御製、元より眞に御製であったか、どうか保證せられない。」としてゐる。
天武天皇の吉野讃歌
天皇、吉野宮に幸(みゆき)しし時の御製の歌
淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言(い)ひし芳野よく見よよき人よく見つ
天武天皇が天武天皇八年(六七九)五月五日に吉野に行幸されて吉野を讃へられた御歌。この時の行幸には、草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川島皇子・忍壁皇子・芝基皇子らが従はれたといふ。
「淑き人」はすぐれて立派な人の意。特定の人物ではない。『よき』の五字が全部異なる字になってゐる。此処が面白い。久松氏は『眞善美』のすべてを『よき』によって表してゐると論じ、「『よし』という語が日本人にとってはすべてのすぐれたものをよいと言い、また感じたのである。…日本人の理想が『よし』によって表わされているとも言える。」と論じてゐる。
「昔の立派な人がこの地を良いところだとよく見て、良いと言った、この吉野を良く見なさい。昔の立派な人がよく見たところだから」といふほどの意。「今の立派な人」とは付き従はれた皇子たちの御事である。
一方、結句の「見つ」を「見」とすると、「昔の立派な人がこの地を良いところだとよく見て、良いと言った、この吉野を良く見なさい。今の立派な人もよく見なさい」といふ意になる。
結句の「四来三」は「よくみ」と「よくみつ」の二つの訓がある。
「ヨシ」という形容詞を繰り返し七回も使って言葉の調べのおもしろさを出してゐる。各句の頭ごとに同音を置くといふ歌の遊びは萬葉時代からあった事が分かる。ただし萬葉時代においては新しい着想であったと思はれる。
昔の良い人が吉野をよく見て良きとちと言った、その心を思ってよく見なさい、今の良き人よ、といふのは、上代から吉野が良き土地であるとされてゐたことがわかる。
萬葉歌は文字を読んで鑑賞したのではなく、朗々と口誦して鑑賞した。この御歌もおそらく天皇が朗々と歌はれて扈従した皇子たちに言ひ聞かせられたのであらう。
神武天皇が橿原の地に都を開かれる時、紀伊水道を回り熊野を経て吉野を通られた。その時に吉野で祭事がを行はれた。今日、吉野の地には『神武天皇聖蹟』の石碑が建てられてゐる。また、いはば先住民である吉野の國栖(くず・くにす)は神武天皇をお助けしたといふ。このやうに吉野は神話時代において重要な意義を持つ地方なのである。
天智・天武両天皇の御母君であらせられる斉明天皇も離宮を造営された。天武天皇が皇位につかれる前に籠られた土地でもある。吉野山の神である蔵王大権現は天武天皇をお助けしたといふ伝説がある。奈良・平安朝には朝廷の行事に参賀して歌笛を奏したと伝へられる。
吉野山はまた修験道・山岳信仰が伝へられ信仰の地である。天武天皇はさういふ背景を踏まへて、「非常に由緒があり且つ自然の美しい土地である吉野をよく見て大事に思ひなさい」と皇子たちに呼びかけられたのである。景色も歴史的背景も良いところだから「吉野」といふ地名が生まれたのであらう。
さらに吉野は地形的に天険の地であり、攻略しにくい。また背後には海があって他の地との連絡もとりやすく物資も入って来る。この地に籠れば長期戦に耐へることができる。したがって吉野は、大和や京の都において政治・軍事の争ひに敗れた側が籠るのに適した地であった。後の世においても、後醍醐天皇をはじめとして源義経も幕末の天誅組も吉野に入った。
天武天皇は、陰暦五月五日(邪気を祓ふお祭りである端午の節句)に、壬申の乱の直前に籠られた吉野の離宮に次代の後継者たる多くの皇子たちを従へて来られて、皇子たちに互ひに助け合ふことを誓はせ、國家の安泰を祈る祭祀を行はれた。そして明るく直會を開かれ、「吉野の地をよく見て大切にせよ」と皇子たちに教へられた歌がこの御製であらう。異腹の御子が多い天武天皇が将来を御心配になってこのやうな誓いを立てさせたのである。「この御製がその時の御製であるとすれば、天皇は皇子らの盟われたのを喜ばれてその後心情をこのように歌はれたのかとも推される。」と久松氏は推測してゐる。
長歌と同じ時の歌かどうかは断定し難い。