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やまとうたのこころ 名歌鑑賞 第十六回

四宮正貴

 

みやびの歌

伏見天皇御製

のどかにもやがてなり行くけしきかな昨日の日影けふの春雨

「のどかにやがてなってゆく景色であるなあ。昨日の日の光も今日の春雨も」といふほどの意。

『玉葉和歌集』に収められてゐる。『玉葉和歌集』は、鎌倉後期の歌集。二〇巻。伏見天皇の命により京極(藤原)為兼が撰。勅撰和歌集の一四番目。鎌倉室町期の勅撰集の中で、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』とともに高く評価される。

第九十二代・伏見天皇は、後深草天皇の第一皇子。建治元年(1275)、十一歳のとき大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり、弘安十年(1287)、二十三歳で践祚。永仁六年(1298)、御子の後伏見天皇に譲位、院政を敷く。少年期より和歌を好み、その後、弘安三年(1280)より出仕した京極為兼を師範とする。勅撰集編纂を企画し、応長元年(1311)、為兼に単独撰進を命ずる。正和元年(1312)、十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧。正和二年(1313)、出家して院政を後伏見院に譲る。文保元年(1317)九月三日、崩御(御年五十三歳)。

國家と國民の平安を祈りつつ天下を治められる伏見天皇は、ある日のどかに移ろひ行く自然の姿を素直に肯定され、殊の外麗しいものと感じられたのであらう。その実感が大らかに歌はれてゐる。日本の自然をいつくしまれる天皇の大御心が優しく傳ってくる。

伏見天皇の天皇としての品格は自然に歌柄に反映し、大らかなお歌となってゐる。歌はれた風景は、天地自然のいのちの中に生かされてゐる人間を生き生きと傳へてゐる。

自由で柔軟な歌。日本の天皇様は、このやうな優しく美しいお心を持たれる御方なのである。決して権力や武力で民を押さへつけて日本國を支配される方ではないのである。

この御製に歌はれてゐるやうな優しく麗しい美感覚を「みやび」といふ。「みやび」は、日本人の傳統的な美感覚・日本的情緒とされてゐる。この美感覚は、萬葉集末期の天平時代に生まれ、中古・中世には美の理想されるやうになった。

近世の國学者本居宣長は、「みやび」こそ日本の傳統的情緒であるとして、「すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず」「すべて神の道は…理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなへり」(『うひ山ぶみ』)と言ってゐる。

「みやび」とは、「宮廷風で上品なこと」と定義される。洗練された風雅であり優美さである。言ひ換へると、素朴さ、未分化の美からさらに発展し、人事の洗練された美を追求し、それを自らの生活に知的技巧的に表現する態度である。それは恋愛や和歌の創作に具体的に表現された。自然や恋愛生活すら鑑賞的な態度で眺め、それを美しく表現した。

ただし、「みやび」は、単に平安時代における貴族的風流といふよりも、宮廷において傳へられた日本の傳統美への憧れである。その根底には、天皇の祭祀があった。

ただし、「みやび」に対して生活から遊離した世界といふ批判もある。

 

光孝天皇御製

「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪はふりつつ」

「あなたに贈ろうと思ひ、春の野に出て若菜を摘む私の手には雪が降りつづいてゐる」といふほどの意。

 

 一國の君主にしてこのやうに優しくも美しい歌を詠まれることに、日本天皇の素晴らしさがある。自然をいつくしみつつ、愛するものへの思ひやりとが渾然として一体になってゐる。この御歌も「みやび」を詠んだ典型といへる。

「みやび」は、萬葉歌人によっても歌はれてゐる。

 

大伴家持

「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば」

 

山部赤人

「春の野に菫摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」

「明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」

これらの歌は、「ひやび」の窮極である評価されてゐる。天平時代の美感覚が、その後の日本人の美の傳統の起源となったことを示す。紀貫之は赤人を高く評価し、平安時代には赤人の歌は「歌の理想」として尊ばれた。中古中世の日本人にとって、和歌とは人々の魂の表白・訴へであると共に、人々の生活の美的規範ともなった。その規範が「ひやび」であった。

日本の傳統美とは、単なる原始・粗野の時代に帰ることではない。優雅にして品格のある美感覚への回帰である。それを今日にまで継承されてゐるご存在が天皇及び皇室である。

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