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萬葉集名歌鑑賞 第十回
四宮正貴 |
額田王(ぬかだのおおきみ)の歌
秋の野の み草刈り葺(ふ)き 宿れりし 宇治の宮處(みやこ)の 假廬(かりいほ)し思ほゆ (七)
この歌は額田王の大化四年(六四八)の作とされる。しかし、この歌は確実に額田王が詠んだかどうかはっきりしないので、萬葉集の編者は「いまだ詳らかならず」と記した。
額田王は、萬葉集の代表的女性歌人。わが國女性文學史の第一頁に特筆大書しなければならない女性歌人である。しかし傳記資料はほとんどない。
生年は舒明天皇の御代の始め頃か十年頃とされる。鏡王(かがみのおほきみ・宣化天皇三世の孫か)の女子。鏡王は、琵琶湖南岸の鏡山といふ所で琵琶湖の水の靈を祭る役目を持ってゐた家柄といふ。一方、大和葛城の平群郡額田郡(今日の奈良県生駒郡平群町)の人といふ説もある。三河の人との説もある。皇室の血を引き、神事に関はる役目を持ってゐたので「王」といふ名がついたとはれてゐる。百済王族の帰化人は「王」を氏の名前にした例もあるので、帰化人の子孫とも考へられる。
額田王は、采女(主として天皇の食事に奉仕した女官)であり巫女(神に仕へる未婚の)女性。神楽・祈祷を行ひ、神託を伺ひ、また口寄(くちよせ)などをする者)であったとされる。「采女」とはただ単に天皇のお食事に奉仕したのではなく、祭り主であらせられる天皇のまつりごとに奉仕する女性であった。
「采女」には、地方の國造(くにのみやつこ・古代に世襲で地方の國を治めた豪族)の容姿端麗な子女が選ばれた。采女が宮中にあがり天皇にお仕へすることによって、その地方の國魂が天皇に一体化し天皇の國家統治のお力が増大するといふ意義があったといふ。折口信夫・高崎正秀両氏は、額田王は、琵琶湖南岸の鏡山の神に仕へる神聖なる家柄の鏡王の娘であるから、近江の國靈および琵琶湖の水靈を天皇に一体化させるために宮中に采女として召されたとされる。
額田王は、はじめ大海人皇子(天武天皇)に娶られたが、後に中大兄皇子(天智天皇)の寵を受けたのは、天智天皇が近江國へ遷都されるにあたって、近江の國の國靈と琵琶湖の水靈の協力を得なければならなかったからだとする説がある。
額田王は、皇極朝から持統朝までの時代(西暦六四二年から六九〇年)に作歌した歌が萬葉集に収められてゐる。
「み草」の「み」は美称の接頭語。「宿れり」とは旅先で寝ること。「宮處」とは天皇がおられるところ。天皇はまつりごとをされるので天皇のおられるところを「宮」と申し上げる。今日も皇居のことを皇宮と申し上げる。都(みやこ)といふ言葉もここから発した。「宇治の宮處の假廬」は恒久的な都ではなく、屋根を草などで覆った仮の宮のこと。天皇は、旅先であってもまつりごとをされたのである。ここに祭政一致の天皇國家統治の尊さがある。ただし、「假廬」は額田王など供奉の者らの宿舎で、天皇の行在所ではない。天皇の行在所であるなら「宿れりし」といふ言葉遣ひはしない。「宿らしし」といふ語法をする。「宇治」は京都府宇治のことで、近江と大和とを結ぶ道筋にあたる。
通釈は、「秋の野の草を刈って葺いて旅宿りをした宇治の都の仮の廬が思はれるなあ」といふほどの意。
天皇が近江に行かれる途中宿泊された仮の宮で、随行した額田王もそこに宿ったことを思ひ出した歌とされる。
萬葉集の「左註」によると、作者に異傳があったといふ。萬葉集の編者はこの歌を皇極天皇の御代の歌として配置した。したがって、額田王の生年を舒明天皇の御代のはじめとすると、その年齢は多く見積もっても、十四、五歳以前とふことになる。ところがこの歌は過ぎし日を追憶した歌である。ゆゑにこの歌は額田王の歌ではないとする説が生まれるのである。
しかし、額田王が皇極天皇の御代の出来事を思ひ出して後に詠んだ歌を、実際に詠んだ年代に配置してしまったする説が有力である。斉明天皇五年(六五九)に斉明天皇が近江に行幸された時、大化四年(六四八)に皇極天皇が琵琶湖の西の比良山の宮に行幸された時に十四、五歳の若き額田王がお供をした事を思ひ出して読んだものと思はれる。
ともかくこの歌は、少女時代に皇極天皇のお供で宇治の宮に仮の宿りをした時の印象が強かったので、後になってそれを追憶して詠んだ歌である。だから、思ひ出の歌なのに「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮處の假廬」と、克明ともいへるほどに具体的に歌ってゐるのである。また結句の字余りも一首全体を落ち着かせてをり、幼き頃の驚きが余裕のある静かなしらべで表現されてゐる叙情詩である。この歌は斉明天皇(皇極天皇)の御前で朗々と披露された歌であらう。この歌によって額田王の宮廷歌人としての地位が確立したといはれてゐる。