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この頃出した手紙
四宮正貴 |
拝復
この度はご鄭重なる書状を頂戴致し有難うございます。また、小誌に対し過分なるお褒めのお言葉を頂き恐縮致しております。
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた昭和天皇様の御製
「やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」
について、
「何をかくまで御痛憤あそばされておられるのか、大御心のほどしかと拝察いたしかねております。貴文にもその辺のご説明がございませんが、その大御心につき貴台の御見解を拝承出来れば幸甚と存じます。老生としては『全國戦没者追悼式 昭和六十三年八月十五日』との御題ですから、多分武道館に於ける追悼式には出席したが、すぐ目と鼻の先の靖國神社には御親拝が叶わぬ事についての御痛憤ではあるまいかと拝察致す次第ですが…。」
とのおたずねでございます。
昭和天皇様が平和をお祈りになられた歌は多くございますが、この御歌のやうに「くやしくもあるか」といふまことに切実なる御心をそのまま表白された御歌は他にないと存じます。先生仰せのとほりまさに御痛憤でございます。
この御製は、陛下最晩年の御製でありまして、おほやけに発表された御製でこの後に詠まれた御歌は二首のみでございます。小生も昭和天皇のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』に御臨席あそばされたのであります。畏れ多いことですが、その痛々しいお姿に私どもは恐懼するばかりでございました。昭和天皇様はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思ひをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
「やすらけき世を祈りしも」の御製について、鈴木正男氏(大東塾代表)は、
「全く恐れ多い御詠嘆である。その御嘆きがいかに深いかは、御製が『やすらけき世を祈りしもいまだならず』で切れ、『くやしくもあるか』で再度切れてゐる、途切れ途切れの御詠嘆である。この御製は昭和六十一年八月十五日の『この年のこの日にもまた靖國のみやしろのことにうれひはふかし』を下敷きにされた御作であることは余りにも明らかである。この御製の因をなした中曽根首相の靖國神社参拝中止以来、次から次へと大御心を傷つけまゐらすやうなことが起こった。」(『昭和天皇のおほみうた』)
と論じ、その一ヵ月後の六十一年十月の藤尾正行文部大臣罷免、六十三年四月の奥野誠亮國土庁長官の辞任などをあげておられます。
そして鈴木氏は、「(竹下登総理は・註)昭和六十三年八月十五日、靖國神社参拝を拒否した。この時、昭和天皇は、二年前の『この年のこの日にもまた靖國のみやしろのことにうれひはふかし』の御製を胸に、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであった。…再びヘリコプターで那須に御帰りになられた。この間に、この御製を御詠みになられたものと拝する。この『悔しくもあるか』の恐れ多い御製のあとは那須御用邸の御作があるのみである。この御二首は那須での風物を詠まれたものである。…六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく、萬死に値すると云ってよい。」
と論じてをられます。
さらに、鈴木正男氏は、
昭和天皇が、那須に帰られてからの二首の御製
「秋立ちて木々の梢に涼しくもひぐらしのなく那須の夕暮」
「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」
について次のやうに論じておられます。
「いづれも御淋しい御作であるが、特に最後の『あかげら』の御製は何ともたとへやうもない淋しい御製である。…『あかげら』はもっとも普通な『きつつき』で…コツコツと木を叩いて穴をあけ、その中の虫を食べる。その音は今朝はしない。毎朝毎朝その音を聞いてゐたが、どこかへ行ってしまったのであらう。淋しいかぎりであるとの御意である。…舒明天皇の『夕されば小倉の山に鳴く鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも』と云ふ御製がある。この御製と昭和天皇の『あかげら』の御製を並べて口ずさむと、その違ひが余りに大きいのに驚く。昭和天皇の御心懐は、恐れ多くも、この『あかげら』の御製のごとくましましたのである。それは『くやしくもあるか』の御製を踏まへた御淋しさであられたのである。江藤淳氏が指摘する『國民の間の暗黙の深い慮り』が薄れて行くのを御感得遊ばされての『さびしさ』であられたのではなからうか、と筆者は拝する。平成の御代になって、この『深い慮り』が急速に薄れた。そして平成五年八月も細川首相の大東亜戦争について『私自身は侵略戦争であった。間違った戦争であったと認識してゐる』との公式発言となったのである。そして、それに続く羽田首相、村山首相の公式の謝罪発言となった。昭和天皇はすでにこのことを見通されてゐたのであらうか。本項を結ぶに当って、このやうに結ぶのはあまりにも悲しい。しかし、このやうに結ぶ以外にないのである。それは事実だからである。」
鈴木正男氏は、平成十三年十月九日自決されました。この文章は、鈴木氏が自決されることを予感させるやうなご文章であると小生には思はれます。また江藤淳氏も自殺されました。
昭和天皇様は、結句で「きざしみゆれど」と歌はれております。陛下は絶望されてはをられなかったと小生は拝します。ただ相当の御憂慮の念をお持ちになってをられたことは確かであります。
高森明勅氏は、「やすらけき世を」の御製について、次のやうに論じておられます。
「昭和天皇は眼前の日本を『やすらけき世』とは決して思っておられなかった。それを祈ってきたがいまだ成就しない、『くやしくもあるか』とまで詠み込まれているのは、よほどのことだ。明らかにご寿命を自覚されての詠みぶりで、しかも『祈り』の深さ、切実さをうつすものだと言える。まさにご生涯かけての祈りだったのを知るべきであろう。…私どもは昭和天皇が保持された高貴なる威力に恩恵を蒙ってきたことを思い、『やすらけき世』を念願してこられたその祈りを一人一人わがものとして引き受け、背負ってゆく気持ちが大切ではないか。それが先帝の御心を継承された今上陛下に忠実である所以でもあろう。」(『天皇から読みとく日本』)
わたくしたち國民は、昭和天皇の大御心を体して、決して絶望することなく、やすらけき世の実現のために努力いたしてゆかねばならないと思います。
昭和五十七年の
「わが庭のそぞろありきも楽しからずわざはひ多き今の世を思へば」
といふ御製をはじめ、昭和天皇晩年の御製を拝しますと、晩年の昭和天皇様の世の有様に対するご憂慮の念はまことに深かったと拝されるのであります。この年は、教科書問題や靖國神社問題が起った年であります、
また、昭和六十一年に、「八月十五日」と題されて読ませられた御製
「この年のこの日にもまた靖國のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和天皇さまにおかせられては、晩年になればなるほど、そのみ心はやすからず、まことにもって恐懼に堪へない次第でございます。
「この年も」の御製は、当時の中曽根康弘総理大臣が、共産支那の干渉に屈して、靖國神社参拝を中止したことを憂へられた御製であると拝されます。
侍従長だった徳川義寛氏は、「靖國神社は元来、國を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、國を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さん(筑波藤麿元靖國神社宮司・山階宮菊麿王の第三子)のように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。それで中曽根首相が参拝してワッといわれたんです。」(『侍従長の遺言』)と書いてゐます。
徳川氏は、「昭和殉難者」を「國を危うきにいたらしめた人」と断定し、靖國神社合祀に反対の立場を明確にしたのです。
そのうえで、この「この年のこの日にも…」の御製について、
「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようにものにしていただいた。陛下の歌集『おほうなばら』に採録された時に、私は解題で『靖國とは國をやすらかにすることであるが、と御心配になっていた』と書きました。発表しなかった御製や、それまでうかがっていた陛下のお気持ちを踏まえて書いた。それなのに合祀賛成派の人たちは自分たちの都合のよいように解釈した。」と書き、さらに、「『やすらけき…』は、全國戦没者追悼式の歌で、世界平和を願うお気持ちを詠まれたのですが、この歌までも靖國のことと手前味噌の解釈をされたのは不本意な事でした。」(『侍従長の遺言』)と書いてゐます。
徳川氏の本は、平成九年の発行です。鈴木正男氏の本は、平成七年の発行です。徳川氏は「合祀賛成派の人たち」と書いてゐますが、鈴木氏の論述を意識してこのやうなことを書いたと推測できます。徳川元侍従長は、昭和天皇は、昭和殉難者を靖國神社に合祀されることを反対されてゐたか、あるいは快く思ってをられなかったかのやうに論じてゐます。果たしてさうだったのでせうか。小生にはとても信じられません。
徳川氏は、「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようにものにしていただいた。」と書いてゐますが、昭和天皇様の御歌を徳川氏が添削してゐたことを明らかにしてゐるのです。これは不敬ではないかと思ひます。たとへ添削申し上げたとしても絶対に口外しないのが臣下としてあるべき姿勢だと思ひます。
ただし、徳川義寛氏は、終戦時、昭和天皇の『終戦の大詔』の「録音盤」を必死の思ひでお守りし、奪取しやうとした兵士に殴打された方です。不忠の臣とは申せません。しかし、軍に対しては相当な反感をお持ちになってゐたのでせう。
わたくしのやうな者が、「くやしくもあるか」と詠ませたまひし昭和天皇様の最晩年の痛憤の御心についてあれこれ推測申し上げることはあまりにも恐れ多いことでございます。
しかし、昭和天皇様が靖國神社のことなど当時の内外情勢を憂慮あそばされてゐたことは確かであります。特に、先生ご指摘の昭和五十年の御参拝以後、靖國神社御参拝あらせられなくなった事に対する御痛憤はまことに深いものがあったのではないかと拝察申し上げる次第です。
出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
中村武彦氏は、「先帝陛下が崩御の実に四ヶ月前、『やすらけき…』との御製を遺し給ひし大御心を拝察して、我ら何とお答え申すべきか。私ごとき卑しき敗軍の一兵卒が今更維新を語る資格のないことは言うまでもないが、それにしても戦後既に六十年、いまだに、大東亜戦争も昭和維新運動も侵略の妄想に踊った犯罪だという考えが國政を動かしてゐる現状はもう許せない。祖國防衛と東亜解放のために生命を献げた國民同胞の忠霊に対する限りなき敬仰の心と、敢て賊名に甘んじ維新の捨石となった志士たちに誓う遺烈継承の悲願は、年を経ても常に新たである。」(『私の昭和史』まへがき)
と書いておられます。
昭和天皇様をお慕ひする日本國民として、いかなる事態になっても絶望することなく、昭和天皇さまはもとより御歴代の天皇が、世の平らぎと國民と幸福を祈り続けてこられた崇高なるご精神を体し奉り、真の平和実現のために精励させて頂く以外にないと信じます。
以上色々な方々の御文章を紹介させて頂き、小生に存念を申し上げました。
末尾とはなりましたが、貴先生の一層の御健勝と御長寿を祈念申し上げ、擱筆致させて頂きます。
敬具
四宮正貴