晋の泰始二年(西暦266年)倭の女王、台与が中国王朝の西晋に朝貢した。
少し奇妙に感じられる事であるが、台与の後に立った男王が台与と並んで中国の爵命を受けている。すなわち西晋(265年
- 316年)の外臣として爵位を受けたのである。
朝貢の主は、他でもない女王とされる台与である。同時に男王が存在する。問題はこの男王が誰かである。
結論から言うと、この人は九代開化である。
あまりに唐突過ぎて、にわかには信じられないかもしれないが以下にその論拠を示す。
『魏志倭人伝』の記述ほどには重要視されないが、中国文献の次の一節は極めて興味深い。
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』と801年成立の『通典(つうてん)』の記述である。
『梁書』は『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命。』
『通典』は『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢。』とする。『梁書』よりやや遅れて成立した『北史』にも『梁書』と同様の記述を見る。
晋書武帝紀は泰始二年(西暦266年)に『倭人來獻方物』として、倭の朝貢が在った事を記す。また『日本書紀』は神功紀六十六年の条で、晋起居註の引用として、『武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢献』とする。これらの事から倭の女王台与が、266年に西晋に朝貢したとされる。
問題は『魏志倭人伝』には見られない、『梁書』と『北史』および『通典』の次の記述である
『其後復立男王、並受中國爵命。』
台与が女王に擁立された後『復(また)』男王が立ち『並(ならびて)』中国の爵命を受けたとするのである。
私は女王台与の朝貢の際、台与の後に立った男王が台与と並んで爵命を受けたと解釈する。
それではこの爵命を受けた男王とは誰なのかである。
先に『勘注系図』の八世孫建諸隅(たけもろずみ)の子、天豊姫命を中国史書の伝える台与とした。
天豊姫命を台与とする理由は次の三つである。
この人の祖父にあたる七世孫建田勢命の姉妹が卑弥呼である。したがって、天豊姫命と呼ばれるこの人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。
また天豊姫命の『天(あま)』は後の海部(あまべ)と呼ばれる一族名であるから、名前の部分は豊『とよ』で『魏志倭人伝』以外の中国史書が伝える臺輿(とよ)と音が似る。
さらにこの人の別名、大倭姫命という名は大和王権の女王の名である。私が卑弥呼とする宇那比姫命
にもこの大倭姫命の名を冠す。中国史書はこの二人を共に倭の女王とする。
一方古事記は、旦波(たんば)の大縣主、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣が開化の妃になったとする。
『勘注系図』によれば由碁理とは八世孫建諸隅の別名でもある。
その娘が天豊姫命またの名、大倭姫命である。大倭姫命という名は大和に移り住んだことを意味する。竹野比賣と考えて間違いない。
すなわち『古事記』の由碁理の女、竹野比賣は『勘注系図』の天豊姫命、別名大倭姫命の事である。
この推測が正しければ
中国史書の伝える台与は、『勘注系図』の天豊姫命であり、『古事記』や『日本書紀』の伝える九代開化の妃竹野比賣(竹野媛)という事に成る。
それはまた、十三才で王位に就いた台与が、その後立った男王すなわち、開化の妃に成ったことを意味する。
そして台与という倭王権の主は、西暦266年その前年に成立した西晋に朝貢し、九代開化と並んで、中国王朝の爵位を受けたのである。
ここに欠史八代と称され、その実在さえ疑われる九代開化の実年代が明らかに成るのである。
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