「ゲド戦記」
監督:宮崎吾朗/スタジオジブリ

 76億5000万円、2006年興行収入で邦画の一位を飾ったゲド戦記。しかし世間の評価はお世辞にも良いとは言えない。それは一体なぜなのか。Yahooムービーなどを見れば感情的な声は山ほどあるため、私は批評というスタンスで分析を行ってみたい。

※事前情報や公式サイト、パンフレットなどには一切触れずに本編だけを鑑賞したので、制作者インタビューなどと合致しない点があるかもしれません。

※これは2006年8月2日にBlogで発表した文章を修正したものです。


 

■総評と問題点、その原因
 この作品は人々に広く受け入れられるような作品ではない。館内に照明が灯ったとき、後ろの若い女性が呟いた「……難しかったね……」という声が非常に印象的だった。子供に至っては「よく分からなかった」を連呼していた。「みんなが楽しめるジブリ映画」を期待してきた人にとっては特に失望する作品だったはずだ。
 原因は明らかで、内容が非常に内省的であるということ。活劇ではなく、ジブリ作品ならではの爽快感も希薄だ。それが120分続くのだから、多くの視聴者はかなり退屈な思いをするだろう。映画的というよりも、むしろ小説的な描き方をしていると思う。

 主人公アレンには主体性がなく、受け身で暗く、常に苦悩している。自らの意思で動くのはクライマックスでそれらを吹っ切ってからだ。そこに至るまで行動を起こさないのは、エンターテイメント作品としては致命的な問題点といっていい。
 一般に主人公というのは何らかの意思を持って行動し続けるものだ。それが物語を牽引し、視聴者の感情を主人公にシンクロさせていく。同じジブリ作品「天空の城ラピュタ」の主人公・パズーを例に挙げるなら、「父親の求めたラピュタを追いかけたい」という冒険心、「悪者に狙われるシータを守りたい」という率直な優しさだ。彼は明るく前向きな感情の持ち主であり、視聴者の多くが彼の行動に同意を示すだろう。それが物語との一体感を生み、感情移入を促す。しっかりと計算された作りである。
 アレンの場合は違う。彼は目に見えぬ漠然とした不安に駆られ、賢王である父を刺してしまう(死を明示したシーンがなかったため、生きている可能性はある)。親殺しというモチーフは創作の世界で「自立の象徴」として用いられることがある。しかし現代人がこれを見て想起するのは、時々社会を騒がせる「事件としての、子供による親殺し」だろう。自信がなく、常に苦悩の中におり、自らの分身に追いかけられるアレンの内面も現代に通じたものだ。しかしこれだけではアレンへの感情移入は促されない。彼に共感してスムーズに物語の世界へ入っていくことは、多くの人にとって極めて困難である。前述の「ラピュタ」と対比すれば違いは明らかだ。

 序盤で描かれた狂いつつある社会・不自然な死を遂げている家畜、街の麻薬売りと中毒者。これらは物語に大きな影響を与えていない。従って物語そのものではなくテーマに関係する設定――現代の投影・デフォルメと見なすのが妥当だろう。「人間が世界のバランスを崩している」「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!」という台詞、そして自分の命を軽視するアレンもそうだ。宣伝に使われた「人の頭がおかしくなっている」というのは最たるものだろう。事件を伝えるニュースキャスター、コメンテーターが似たような言葉を発したのを、誰もが一度は耳にしているはずだ。監督は恐らく、現代社会の問題点をゲド戦記という舞台に重ねて描こうとしていた。
「制作者はそこまで考えていない」というのはよくある声だが、こういった視点はれっきとした鑑賞法の一つである。現代の問題点、社会に欠けているもの、人々が求めるものなどを作品の軸にするというのは、創作の意義・手法として確立されたものであり、多くのクリエイターがそれを実践している。
 これらの構成要素、そして物語は監督からのメッセージだと受け止めることができる。しかし素直にこれに耳を傾ける視聴者は少ないだろう。原因はエンターテイメント性の低さにあり、結果として説教臭い内容だという印象が強くなってしまっているからだ。批判的な声は「ジブリ作品・宮崎駿の息子」という期待感への裏返しであるが、エンターテイメント映画としての問題点がその前提となっている。

 本作において主人公サイドのキャラクターは内省的――もしくは積極的な行動を起こさない人物が多い。確たる意思を持ち、最も積極的に行動していたのはクモとその手下である。物語が全体を通して受け身になるのは必然といえる。主人公が能動的に動かないお話は、どうしても動きの少ない膠着したものになりやすい。

■作品の構成について
 時間配分そのものはハリウッド的な三部構成、「導入部〜展開部〜決着部」を地でいっている。王道とされる構成技法だ。問題は描写すべき要素をしっかりと扱っていない点にある。これら三部を繋ぐパートや、キーとなる重要なシーンに割り当てられているのは全てアレンとテルーである。順番に見てみよう。

25分……アレンが追われるテルーを救う。
60分……アレンが歌うテルーを目撃し、涙を流す。
90分……剣を届けに来たテルーがアレンの影と会話をする。
(時間はおおよそ。上映中に手許の時計を用い個人的に計ったものであるため)

 二人が物語の中軸であることが構成からも見て取れるのだが、その割には関係が浅い。テルーがアレンに真の名を明かすところは、彼女の人間嫌い(不信)という心が変化したことを示す重要なシーンになるはずなのだが、そこに至るまでのプロセスが甘いのだ。アレンが行動を始めるのが遅すぎる点と併せて、本作の問題点の一つになっている。
 二人には「違う世界に生きることになった人間と竜」という序盤の説明も重ねられている。アレンとテルーの心が結ばれるラストシーンは、本来ならば交わるはずのない存在が交わったという意義が含まれていると思われる。太古の竜が自由を求めたとう説明は、ゲドの「彼らには翼がある」という台詞に繋がっており、二人の心の決着を象徴している。クモを焼いた炎も、テルーの火傷の跡と併せて竜の世界を投影したものだろう。
 こうしたメッセージ性についても二人の描写不足が響いている。アレンの苦悩を取り払う会話などもそうだが、全体的に視聴者の共感が得られない作りになってしまっているのは惜しい。命の大切さを説きながらクモを焼き殺したテルーに関しても「不可解」という感想が多く聞かれる。あの決着が必然ならば、彼女の心を納得のいく形で描写する必要があっただろう。

■情報の伝達不足
 ゲドがテルーの顔を見て「……まさかな」などと呟くシーンがあるのだが、それが何であるか語るシーンは用意されていない。恐らく竜を内に秘めたことを感じ取ったのだろうと想像できるが、視聴者にとってテルーの変貌は唐突であり、説得力に欠けるシーンとなってしまった。展開の伏線にはなっているものの、説得力を持たせるための伏線にはなっていないのだ。この傾向は全体を通して強い。もう少し分かりやすい説明を挟まなければ物語の訴求力も失われてしまう。

■最後に
 宮崎吾朗監督の初作品は社会的なメッセージ性が非常に強いものだった。ただしそれが成功したとは言い難い。対象となる視聴者は中学生〜高校生が下限になるだろう。投影されていた社会性を考えれば、作り手はその年代の子を持つ親までを強く意識していると思われる。幼児には全く向かない内容である。ただし小学生程度の若年層であっても、実際に多くの悩みを抱える子であれば映画の主題に何らかの感想を抱くかもしれない。
 現代性を強く持たせたテーマ設定には意欲を感じるが、本作は多くの問題点を抱えている。込められたメッセージ性は分かるものの、それが作品としての面白さ、視聴者への訴求力に繋がっていないのだ。普遍的な問題を描こうとしたのに一般性に欠けてしまった作品――と総括したい。

■おまけ・音楽に関する私的な感想
 音楽は良かった。アイリッシュ的なアレンジをされていたり、素朴な歌声を活かしたりと、印象的なメロディもあって十分に楽しめる。
 中盤で流れる「テルーの唄」には心を打たれた。音楽・歌はそれ自体が力を持つということを再認識した。しかし脚本と完全に一体化していなかったのが惜しい。歌うテルーが非常に長い時間をかけて描かれていたが、これは作品のほぼ真ん中に位置する、中盤のクライマックスといえる重要なシーンだ。しかし涙を流したアレンの心が視聴者には分からない。結果として、この印象的であるべきシーンにもアレンという人物の描写不足が響いている。
 非常に残念だ。本来ならばもっと心を打つシーンになっていたはずなのだ。

(2006/08/02)

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