映画版「バトル・ロワイアル」
監督:深作欣二/出演:藤原竜也・他

 

1.冒頭
 原作と違い、子供を恐れた大人が作った法律「BR法」としてプログラムが行われる。ということは、大人と子供の関係が主題になるのか?
 自殺した秋也の父。首に巻かれたトイレットペーパーに「秋也ガンバレ!」の文字。こいつがどう絡んでくるのか? 原作にない要素で、まったく予想がつかず。
 授業をボイコットされた教師キタノ。次のシーンでまず驚いた。いきなり、キタノの尻をナイフで斬る生徒が。現代日本で問題となっている少年犯罪を、映画の中に持ち込むといった役割だろうか。この時点では、まさかこいつが慶時だとは思いもしなかった。原作と全然キャラ性が違うが、それはそれで良し。

2.プログラム開始前
 生徒たちが拉致され、教室で目覚める。この辺り、観ていて心臓がバクバク鳴っていた。「映画ではどんな見せ方をするんだ?」という期待、同時に暴力シーンの表現に興味があった。
 キタノのとぼけたキャラクターに思わず笑ったり。教室での緊張感はかなり良く、「面白ぇ!」と嬉しくなってくる。
 喉笛を吹き飛ばされて死亡する慶時はかなり哀れ。が、首輪の効果を見せるために有効な殺し方。すでにバスガイドが鈍器で秋也を殴るなどしているので、ここで銃で撃たれたのではあまりに普通だし。
 典子が銃弾を受けるのは原作通りだが、その箇所が腕になっているのは正解だと思った。ふくらはぎを深く抉られたら普通は歩けない。原作を読んでいて違和感があった部分なので、内心で頷いてみたり。
 桐山と川田が転校生という設定なのは驚いた。バスのシーンで川田が窓を割ろうとする描写がなく、「なんでだ?」と不満を持っていたので、とりあえず答えをもらった気持ちになる。同時に、なぜわざわざ転校生にしたのかが疑問に。
 そういや、川田が受け取ったリュックを取り替えてもらっていたけど、いいのかアレ? 平等にするという観点から見て、外れる気がするんだけど。

3.プログラム開始
 どうも典子のセリフが不自然に思えた。秋也の呼び方がどうのという会話や、食べて貰えなかったクッキーのことなど。唐突で繋がりがなく、強引に喋っているような。特に後者は、シーンに連続性を持たせるために喋らされているセリフと思えてしまう。ちょっと残念。
 原作では絆を保ったまま心中する小川さくら&山本和彦。ところが映画では、和彦が飛び降りる寸前に思い切り躊躇。それをさくらが引きずるようにして飛び降りる。情けないぞ和彦……と思ったが、ちょっと考えてみる。すると、さくらのほうも原作とは印象が少し異なり、半分は絶望からパニック状態にあるような気がする。
 このシーンで描こうとしているのは「死への恐怖」「死を目前にしたときの人間の反応」だろう。さくらと和彦に限らず、死んでいくキャラたちの反応は原作と比べて現実的。役者の演技によるところも大きいかもしれないが、どうもキャラの格好良さよりもリアリティを優先しているような印象を受けた。
 ところが、この辺りからどうも「おや?」という胸騒ぎが起き始める。
 なんだか各所の描写が甘い。登場人物の挙動がいやに軽く感じられてしまう。加えて、原作ではキャラの過去を描き、感情移入を促すという手法をとっていたが、こちらにはそれがあまりない。ただ死んでいくだけ。「これじゃ原作の良さが消えるだろう」と不満が増していく。

4.桐山君
 海岸のシーンでは、金井泉が不良グループの一員になっていて、ちょっと面白い。原作では出番もろくにないキャラだったが、今回はセリフもある。が、不良もろとも桐山に瞬殺される。桐山と不良たちとのエピソードはバッサリとカットされていて、桐山が周囲から独立した、特異な存在だというのが強調される。
さて、桐山の見せ場のひとつである展望台のシーン。ここで彼が暴走する。傷を負って倒れた女生徒の口に拡声器を当てたまま、マシンガンで腹を撃ち抜くというやり口。響き渡る絶叫。
 普段、殺人シーンで心が動くことはあまりないのだが、ここでは「うわっ」と思った。確かにこれは、年齢制限が付いても仕方ないシーンではないかと。
 で、桐山のキャラが明確になる。原作では感情を失った殺人マシン。映画では完全な快楽殺人者。違いは、「どうやら感情を持っているらしい」ということ。川田が彼のことを「自分から面白がって参加した志願者」と言っている。どこまで本当かは分からないが、政府に強制的に参加させられたというよりも、自分の意志で参加している可能性が高いように見える。恐らく桐山のインパクトを強めるための設定だろうが、もしかすると、現代日本で時々ニュースになる「殺人を楽しむ少年(人を殺してみたかった、とか)」を桐山に投影させているのかもしれない。
 ところで桐山役の安藤政信、格好良すぎ。惚れます(ぉ

5.光子と比呂乃
 2人の口論と殺し合い。比呂乃は普段から持っていた不信感、不快感を爆発させ、光子は過去に何か持っている事を匂わせる。
 が、作品全体のバランスから見て、あまりにもこの場面に時間を割きすぎている。他の重要なキャラクターへの時間配分が少ないというのに、なぜここに……? 腑に落ちない。そこまで重要だとは思えないのだが。

6.貴子……
 千草貴子の出番。実は、映画版で個人的に一番痛かったキャラ。新井田和志は原作ほどキレておらず、貴子に襲いかかるシーンはない(脅しのために口にするが)。にもかかわらず貴子は逃げる新井田を追いかけて惨殺してしまう。彼が誤って放った矢が顔をかすめるシーンはあるものの、貴子が殺人に走る理由としてはどうも薄い。しかも殺し方がエグい。前後のやりとりで、妙な言い回しのセリフを連発しているだけに、「貴子=危険人物」という印象を強く受けた。
 これでは「世界で一番かっこいい女だ」という杉村弘樹が道化に見えてしまう。
 原作では大好きなシーンだっただけに、失望感は大きかった。2人の関係をほとんど描いていない時点で、感動できる要素がなくなってしまったように思う。これだけは、ホント勘弁して欲しかった……。

7.診療所にて
 川田、秋也、典子が語り合うシーン。川田の抱えている思いが、その過去と共に明らかになる。ここで最も強く感じたのが、彼らの絆・信頼関係を感じさせる会話がほとんどない、という点。無言のうちにそれを伝えあうという描き方もあるが、この場合はあてはまらない。
 慶子のエピソードに絡んで典子がそれらしいセリフを言うが、やや弱い。特に秋也と川田の関係が意外に深まらないまま次の場面へ進んでしまう。ラストに関わる重要なシーンとなるだけに、ここをもっと描き込んでくれれば、と残念な思いだ。

8.首が飛ぶ
 防弾チョッキ男・織田が、桐山に斬殺される。ごろりと転がる首に驚いたのは、恐らく俺だけではないだろう。某少年犯罪を彷彿とさせるシーンだけに、わりと無造作に描かれているのが意外だった。
 さらに織田の口に手榴弾を詰め込み、診療所に投げ入れる桐山。これもまたエグイが、インパクトがある。手榴弾を口に詰める意味はあまりない(むしろ殺傷力が落ちる可能性がある)が、そこは快楽殺人者として設定された桐山のキャラで説得力を持たせているのだろう。桐山は、それらひとつひとつの行為を楽しんでいるのだ。

9.意識的に描かれなかったこと?
 滝口優一郎と旗上忠勝が、登場時にはすでに死亡しており、傍らに相馬光子が立っている。
 つまり、原作ではここで描かれた光子の過去が「完全に」カットされている。非常に重要であるにも関わらず、まったく描かれていないのだ。これは普通では考えられないこと。光子の存在理由を著しく薄めてしまっているのは誰の目にも明らかで、制作サイドでも気づかないはずはない。
 これは推測の域を出ないのだが、「ただでさえ暴力シーンが物議を醸しているのに、性的暴行のシーンを入れるのは危険」という考えが働いた……ということだろうか。新井田と貴子の一件や、秋也・慶時が世話になっている施設の先生への暴行(に関する会話)がばっさりカットされている点からも、これらは意識的に削除されたシーンだと予想することができる。
 ただ、理由はどうあれ光子だけはあまりに厳しいカットだと思う。これがなければ彼女のキャラクターは成立しない。

10.灯台の惨劇
 ここでの一連のシーンはとても良く描けていると思った。それだけに「疑心からの悲劇」という構図が作品中に活かされていないのが残念だ。理由として、ここまでの流れで他人を信じられない状況というものがあまり強く印象づけられていない事が挙げられる。現代社会の投影や大人と子供の対立などがクローズアップされるあまり、プログラムを成立させる基本的な要素がおろそかになってしまった印象だ。

11.キタノの抱える孤独
 彼の携帯電話に、娘の栞から連絡が入る。描かれるのは、冷め切った関係。すでに家族としての絆はなく、完全に「他人」「邪魔者」として接せられるキタノ。次いで、夢の中でキタノと典子が語り合う場面も出てくる。ここに来て初めてキタノというキャラクターが語られ始める。
 なお、彼は司令室でなにやら絵を描いている。もしや北野武の筆による絵が用意されているのか? と、映画に直接関係ない部分での期待が膨らむ。
 その後、典子が雨の中、秋也を探しに出る。そこでキタノに遭遇。彼は傘を差し出す。なぜここにキタノが現れるのか、やや理解に苦しんだが、彼にとって典子が心の拠り所となっていることが明らかとなる。

12.相馬光子の最期
 杉村弘樹と琴弾加代子のエピソードの後、光子と桐山の交戦。光子は死に際、「あたしただ、奪う側に回ろうと思っただけよ」。
 この一言は原作になかったものだ。映画版でこの感情を直接セリフ(思考)にして観客に伝えることで、光子のキャラクターをとても分かりやすく観客に伝えようとしている。その工夫は良いのだが、いかんせん光子という人物像が不明なままであるため、説得力がない。原作を読んでいれば納得できるシーンなのだが、初めてバトル・ロワイアルを観る人にとっては「よく分からない」の一言で片づけられる可能性が高い。
(ところで光子のこの台詞、俺がバトルロワイアル小説版の考察で同じ事を書いていました。映画版のずっと前です。奇遇ですね)

13.廃墟炎上
 三村信史が司令室のシステムをクラック。だが、その甲斐なく桐山の手によって一同は殺される。
 三村以外のキャラはともかく、彼の死に方があまりにあっけない。これだけのことをやり、後一歩のところまで迫った三村の死に様は、もう少し(本当に少し――数秒程度でいいから)踏み込んで描いて欲しかった。
 この後、秋也たちが廃墟に到着し、川田と桐山の戦いが行われる。桐山は驚くほどあっけなく死亡するが、他の生徒が全員死亡した以上、桐山の劇中での役目(生徒たちを殺して回ること)は終わっている。原作の激しいアクションシーンもいいが、時間配分を考えたとき、この死に方は十分に納得のいく適切なものと言えるだろう。

14.それはいつ行なわれたか
 川田がキタノの待つ学校へ戻ってくる。交わされる2人の会話で、ひとつ疑問に思うことがあった。
 キタノがこう言う。
「おまえ首輪の外し方知ってたな? コンピュータに侵入したの、三村じゃなくておまえだったんだ」
 川田はいつコンピュータをクラックしたのだろうか? 原作ではプログラム開始以前に侵入したということが描かれているが、映画では川田がコンピュータを操作するシーンはなかったはず。どういうことなのだろうか……?

15.キタノの死に様
 現代社会における父親を象徴するようなキタノ。学校では生徒に、家庭では娘に突き放され、行き場を失っている。そんな彼が最後に選んだ道は自殺だった。
 キタノは「中川ガンバレ」と言いながら迫ってくる。その言葉に、自殺した父の「秋也ガンバレ」というメッセージを思い出し、彼を撃つ秋也。
 キタノは生きることを諦めたといえるだろう。これは秋也の父の死に様に対応していると同時に、プログラムを必死に生き抜こうとした子供たちと対比させていると思われる。
 この辺り、要素としては面白い。過程をもっと描いてくれれば……。
 北野武の絵は独特の味があって面白かった。明るい雰囲気の絵は、陰惨な内容とあえて対比させているのだろう。

16.ラストが締まらない
 島を船で脱出する3人。だが。
 ……ちょっと待ってほしい。簡単に脱出しすぎではないか。原作では軍の船が島の周囲を偵察しているという設定だったが、こちらでは特に描かれていない。これには少なからず拍子抜けした。
 生徒が逃げ出すのを防止するという点では、首輪があるから特に問題ない。だが、軍の船がないということは、原作にあったラストの息詰まる展開がカットされているということだ。これは非常に残念だった。
 その後の川田のセリフも、胸に迫ってくるものがない。理由は前述したとおり、秋也、典子との絆が描かれていないからだ。
 映画を見終わった後、友人と交わした言葉は「イマイチじゃなかった?」
 原作が面白かっただけに、それを再現して欲しかったという思いは確かにある。だがそれ以上に、映画版の描き方そのものに不満が残った。たとえ原作とは違っても、それが面白ければ文句は言わない。

17.映画を思い返してみて
・時間配分のまずさ

 冒頭にたっぷりと時間をかけ、設定を観客に伝えようとしている。緊張感ある教室のシーンが良い。
 ところがいざプログラムが開始されると、人物の描写が甘くなっていく。また、登場したときにすでに倒れて死亡している生徒が多い。これらは時間(または予算?)を節約するためにやむを得ない事だろうか。俺はそうは思わない。
 あらかじめ登場人物を減らしておくべきだったのではないか。20〜30人ほどにしておけば、もっと1人あたりに割ける時間は増やせたはず。無駄な死亡シーンを作ることもないし、時間をつぶすこともない。近未来の日本という設定を強調している以上、クラスの人数が少ないのはむしろ自然な流れのはずだ。
 過去を丹念に描き、生徒たちの極限状態での生き様を描く。そこで観客の感情移入を促した上で死亡シーンを見せる――映画版でなぜそうしなかったのかが不思議で仕方ない。制作者は、このシチュエーションで何を描きたかったのだろう?

・もしかして、意識してますか?
 各所で挿入される字幕は庵野秀明監督のアニメーション作品「新世紀エヴァンゲリオン」を彷彿とさせる。さらに、司令室のコンピュータがクラックされるシーンのやりとりは「まんま」という感じだ。ところが映像として効果的に字幕を用いたエヴァンゲリオンと比べると、こちらは非常に見劣りしてしまう。使うなら使うで、もう少し効果的なものを考えて欲しかった。
 蛇足としてさらに言うと、劇中の音楽にクラシックの名曲を用いる点と、ビデオの「お姉さん」が宮村優子というのもエヴァンゲリオン繋がりになっている。

・映画版のテーマは?
 原作の主題は「他人を信じるということ」(これについては原作の考察を参照のこと)。では、映画版はどうか。
 こちらでのプログラムは、不信よりも死の恐怖が強調されて描かれている。この辺りは観た人それぞれで感じかたが違うと思うが、俺にはそう感じられた。むしろキタノの存在やオープニングの説明文から別のテーマを感じる。
 それは「大人と子供の関係」だ。映画冒頭で抱いた感想だが、やはりこれが一番しっくりくる。
「自信をなくした大人は子供を恐れ」という一文は「子供を信じられなくなった大人は」と言い換えることができる。大人と子供の信頼関係が希薄になっている現代社会を投影しているのだろう。
 ……ところがこれでは、プログラムという設定の意味合いが薄れてしまう。テーマが宙ぶらりんの状態になっている、と言っていい。大人と子供の対立がプログラム中には存在しないのがその理由。あくまで子供同士の殺し合いがメインであり、大人はその間、完全な傍観者なのである。
 これでは、大人の象徴といえるキタノと、秋也たちの対立や葛藤をもっと描かなければ不自然だ。

・映画版の結論
 テーマを変えたのに、プログラム中のシチュエーションを原作通りにしたのが敗因だと思う。
 違うテーマで描かれれば、当然作品は別物になる。単純に小説「バトル・ロワイアル」の映画化だとは思わない方がいいかもしれない。

・えーと……
 なんかファンに怒られそうな感想文です。
 原作が好きだからこそ、映画に求める水準も高くなったのは事実。けどそれをさっ引いても、もうちょい頑張って欲しかった。前半30分くらいはグイグイと引き込まれたし、観ていてかなりの衝撃を覚えたのだが……。
 テーマと構成を考え直し、プログラム中のキャラ描写がしっかりしていれば、傑作になる可能性を持った映画だったと思う。なぜ必要なシーンをカットしたのか。なぜテーマを中途半端にぼやけさせてしまったか。これらがとても残念な点だ。

(2001/02/16)


・参考資料:月刊誌「シナリオ」2001年1月号
 おまけとして、もう少し。
 この「シナリオ」誌に掲載されたシナリオには、ちゃんと相馬光子の過去のシーンが入っていた。どうやら直前になって削除が決定したらしい。冒頭にはなんと「少年A(実在する少年犯罪事件の犯人です)」と秋也が出会っていたというシーンもあった。これはマズイ。削除して正解だろう、さすがに。
 さらに、ラストにはキタノと典子のシーンがもう1カ所存在し、これは「完全版」に収録される、などと書かれている。一応言っておくと、作品の現状から見てあんまり意味のないシーンです。
 ちなみにエンディングテーマは絶対にブルース・スプリングスティーンの「Born To Run」だと期待していました。それだけに映画公開前、Dragon Ashに決定したと聞いたときは、ちょっと残念に思ったりして(Dragon Ashの歌も良かったんだけど)。

・追記(01/05/10)
 さる4/7に、劇場で「完全版」が公開された。近日ビデオ化もされる模様。レンタルされたら借りて見てみる予定なので、もしかしたら何か書くかもしれず。


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