夏らしくくっきりと青い空と、眩しいくらいに真っ白い雲。
 こんな天気はすっきりしていて好きなのだが、微風すらない となるとその爽やかさは半減する。更にそれが、エアコンなどと縁のない学校の一室だと、爽やかさなんかは何処かへ消え去って、ひたすら暑いという単語しか出てこない。
「暑ィ…」
 口にさせば更に暑さは増したようで、京一はぐったりと机に懐いた。
「なんでここにゃクーラーがねェんだ…」
 机のひんやりとした感触も、頬を押し当てても楽しめるのはほんの一瞬で、あっと言う間に熱を持ってしまう。それを厭って、あちこちに顔を押し当てる京一に、隣から溜息のような呆れ声がかけられた。
「京一…落ちてるぞ」
「ああ?なにが?」
「プリントが落っこちてるって言ってんだよ」
 言われてみれば、確かにごそごそとやっている間に落ちたらしいプリントが、椅子の間に見えている。
「んー」
 身を屈めるのが億劫で、生返事を返す京一を見越していたかのように、伸びてきた指が、それをひょいと摘み上げた。
「………白い」
「へへへ」
 誤魔化すように笑うと、龍麻は呆れたように指で挟んだプリントをひらひらと振った。
「ったく、全然やってないって…さっきから何してたんだよ?」
「仕方ねェだろ?わかんねーもん」
 突き付けられたプリントを渋々受け取って、京一は眉を寄せた。
「わかんねーもなんも、最初っからまともに問題読んでないだろ、お前?」
 きっぱりと言われて、京一は更に頬を膨らませた。
「どうせ読んでも、わかんねェもん。仕方ねーだろ?」
「だからって、ほっといてもプリントは埋まらないと思うけど?」
 もっともな事を言う龍麻に、京一は恨みがましい目を向けた。
「なんだよ、そういうひーちゃんはどうなんだよ」
「お前が呆けてる間に済ませた…って、おい!」
 京一は素早く手を伸ばして、隣の机から龍麻のプリントを掠め取った。
「もーらい、っと」
 早速それを広げた京一だったが、自分のプリントと付き合わせて眉を寄せた。
「……なんか、違わないか?」
 龍麻は肩を竦めて頷いた。
「ああ、違うな。お前の行動は読まれてるってことだ」
 違うプリントなら、丸写しは出来ないもんな。答えを教えるなって釘も刺されたし。
 龍麻の言葉に、京一はがっくりと肩を落として、再びプリントの上に突っ伏した。
「ちっっくしょー」
 自分の教科のみならず、他の教師にまでこんな入れ知恵をしそうな相手は一人しか居ない。嫌味なまでに無愛想を崩さない教師の顔が脳裏に浮かび、自然舌打ちが漏れてしまう。
「犬神のヤロー…俺にだけ難しいの回したんじゃねェだろーな」
「そんな訳ないだろ?京一にそんなの回したら、先生だっていつまでも帰れない。ラーメン行くんだろ?早く片づけろよ」
 冷静な指摘に、京一は何とも言えぬ目で、突っ伏したまま龍麻を見上げた。
「ひーちゃん…冷てェ」
「…あのな。別に俺は先に提出して帰ってもいいんだけど?」
 自分のプリントをひょいと取り上げて席を立とうとする龍麻に慌てて、京一はがしっとその手を掴んだ。
「わーっ、冗談、冗談!やる、やるから」
「はいはい、わかったからやれって」
 龍麻は小さな息を吐いて再び腰を下ろしたが、京一はその手を放さずにじっと視線を当てた。龍麻が、溜息と共に手を軽く引いた。
「京一…」
「頼む、マジでさっっぱりわかんねェんだ。こんなんじゃ、いつまで経っても帰れねェ」
 縋るような眼差しに絆されたのか、龍麻は苦笑して椅子を京一の机へと寄せた。
「ヒントだけだぞ?ばれたら俺も怒られる」
「おうっ、なんでもいいから頼むっ!取りあえず埋まれば良いんだしな!ええと、ここの答え、じゃなくてヒントは?」
「…お前、ホントにわかってるか?」
 勢い良く頷いた京一に疑わしそうな視線を向けながらも、龍麻は京一の手元を覗き込んだ。


 龍麻の説明は大雑把なだが、わかりやすいものだった。普段、ろくに授業を聞いていない京一でも、真面目に聞いていれば大体の内容は把握できる。
「だから、これをここに当てはめて…」
「ああ、わかった、こうか?」
「そうそう、なんだ、わかってるじゃないか」
「へっ、オレ様が本気を出せば、こんなもんちょろいちょろい。で、」
「その本気を、普段から出してくれ」
 回答欄を埋めつつ、京一はこっそりと龍麻の顔を窺った。
 問題に気を取られている龍麻は、京一の視線に気が付いていない。
 俯いた頬に掛かる、髪。その頬に一月前についた傷跡は、もう目を凝らしても見えなかった。あの時は出血の多さに血の気が引いたが、幸いな事に痕は残らなかったらしい。
「京一?」
 じっと当てていた視線に気づいたのか、龍麻が首を傾げて京一を見た。
「あ、ああ。なんでもない」
 慌てて視線を元に戻しても、意識はちっともプリントには戻ってくれなかった。

 悲鳴と、建物の崩れる轟音。

 得体の知れないものが焦げる嫌な匂いと、立ちこめる鉄臭い異臭。

 揺れる炎の光に映し出された、血に染まり、酷く強張った青白い横顔。

 そんなものを思い出したのは、恐らく先程掴んだ手首に残る痕に気づいてしまった所為だ。
 右の手首に残る、丸い痕。
 補習コース一直線だった京一と違って、龍麻は得手不得手はあっても、京一ほど酷い成績ではない。本来なら補習など受けなくても良いはずなのだ。それがここにいるのは、ある事件に巻き込まれ、何日か授業を休んでしまった為だ。受けられなかった授業は補習で補えという事らしい。。
 あの事件から一月。今では、何事もなかったかのように龍麻は笑っている。けれどそれは、龍麻が忘れてしまったということではないだろう。
 京一は、他人に誘拐された事などないし、軟禁されて人体実験のような仕打ちを受けた事もない。もし、京一がそんな仕打ちを受けたとしても、そんな事を一月やそこらで忘れ去ることはきっと出来ない。増して、はっきりと日常から切り離された『死』を目の前に突き付けられたのだから尚更である。

 その少女の事は、京一も何度か見かけて知っていた。栗色の髪の、どこか儚げな少女。時折見かけたその少女は微笑んでいてもその笑みはどこか寂しげで、そしていつも龍麻を、龍麻だけを見ていた節があった。
 しかし、それは龍麻の『力』に目を付けた彼女の兄の命令で、彼女は龍麻に近づいてその『力』を手に入れようとしていたのだ。
 兄の命令に従って、その異常な研究に手を貸していた彼女の気持ちは、京一にはわからない。

 けれど、あの時。

 京一達に緋勇さんを救けてと懇願した彼女の表情は、何よりも雄弁にその心中を表していた。

 罪を償わなければならないと言って、自ら炎の中に消えていった少女。

 兄の命令と、自らの想いとの間で揺れ動き、結局その兄と共に逝ってしまった少女。

 龍麻を―――好きだった、少女。

 龍麻を命がけで護った彼女の事を考えるたびに、京一は複雑な思いに捕らわれる。結果的には、彼女は自ら炎の中に残ったが、その前に龍麻を庇って致命傷とも言える深手を負っていた。酷い怪我で、それでも龍麻の腕の中で微笑んで…そうして逝ってしまった。
 そのことは多分、龍麻の中に疵を残してしまっている。あの直後の、見ていてこちらが痛くなるような表情と、絞り出すように漏らされた呟きと、叫び。受けた痛みはそう容易くは消えないだろう。
 今も、龍麻の手―――彼女が最後に触れたその場所に残る傷痕のように。
 そうしてそれは、今でも龍麻を苦しめているのだろうか。
 あの時聞いた、泣き声のような叫びは、今も―――


「京一、聞こえてるか?」
 焦れたような龍麻の呼び声に、京一ははっと我に返った。
「あーゴメン」
「ホントにもう…」
 呆れたように机を指で叩く龍麻に曖昧な笑みを向けて、京一は再びプリントに向かう。しかし、どうしても集中出来ずに視線が彷徨ってしまう。
「…京一」
 溜息のような龍麻の呼びかけに、京一は勢い良くシャーペンを投げた。
「あー、悪ィっ!なんか落ち着かねーってか…」
「そんなんじゃいつまで経っても終わらないぞ?」
「それはわかってっけどよ…」
 一瞬沈黙が落ち、蝉の声が響く教室に、微かに異音が混じる。遠くで聞こえるそれは、車の音ではなく、雷の音のようだった。
 外は綺麗に晴れているのに、遠くに見える雲の下から響く低音は、はっきりと出せない京一の抱える懸念のようでなんとなく嫌だった。
 一度気になったものはどうにも気になって仕方がない。踏みこまれたくはないであろうというのを承知の上で、京一はその手首に視線を当てた。それに気づいた龍麻は、苦笑に近い笑みを浮かべた。
「ああ、これ?」
「…随分になるのに、消えねェな」
 随分といっても、まだ一月しか経ってないのだが。龍麻は息を吐いてその痕を撫でた。
「別に、もう痛くないんだけどね」
 そう呟く声は、痛みを堪えている風ではなくて、少しだけ京一は安堵した。けれどやっぱり、声には陰が残っていて。
「ああ…」
「早く、消えるといいな」
 そう言ってにっと笑うと、龍麻は少し驚いたように目を見開いて、それからふっと笑った。
「ああ…そうだな」
 その笑みに力を得て、京一は龍麻の手首を、撫でる指ごと掴んだ。
「京一?」
 目を見開く龍麻に、もう一度笑いかける。
「痛かったら、言えよ?」
 蹲ったままの龍麻に、必死になって告げた、あの誓い。
 あの日の言葉が、ちゃんと届いているか、もう一度確認するように。
 京一の思いを読み取ったかのように、龍麻は柔らかく綻ぶように笑った。
「ああ、ちゃんと言うよ」
「愚痴、聞いてやるくらいは出来るんだからな?」
「わかってる。……ありがと」
 小さな声の礼は、それでも京一には十分だった。
 あの事件を、京一は止める事が出来なかった。手術台の上で拘束されていた龍麻の姿は、今でもはっきりと思い出せる。酷く窶れ、青ざめた顔に、所々に残る傷跡。何をされたのか、衰弱の為にふらつく身体は、炎上する地下研究所を脱出した後は、支えがないと立っていられない程だった。
 龍麻が感じているであろう痛みとは種類が違うが、京一自身に押し寄せる痛みはあったのだ。
 もう、二度とあんな姿は見たくない。
 傷ついて苦しんでいる姿も、言葉もなく立ちつくす姿も、何もかもを拒絶するように蹲る姿も。
 だから、誓ったのだ。あの日、自分自身と―――それから龍麻に。
 もう、あんな思いはしたくないのだ。


 あの事件以来、龍麻は少し変わった。少しだけ、向ける笑みや雰囲気が変わった気がするのだ。その、ほんの少しが気を許している証ならいい。
 あの時の言葉を、龍麻が信じていてくれているのなら―――


「なぁ、終わったらプール行かねェ?」
「は?」
「だからプール。あっついだろ?泳ぎてェよ」
 思い切り違う方向に飛んだ話題に、龍麻は眉を寄せた。
「いきなり…なんなんだ」
「へへへ、プールに行きゃ、水着のおねーちゃんが選り取り緑だぜ?な?」
 しげしげと京一の顔を眺めた龍麻は、ぷっと吹き出して肩を竦めた。
「おまえ、ホント好きだよな、おねーちゃん」
「男なら当然だろ?」
 言い切って、京一は更に言葉を重ねた。
「あ、海、でもいいよな。ビーチにゃ、美人のおねーちゃんだらけだしなッ。山よりゃぜってー海だろ、やっぱし。それから…」
 とにかく、夏らしい事がしたかった。高校生活最後の夏で、そうして初めて一緒に過ごす、夏。
 何か、思い出に残るような事がしたい。楽しい事や、笑えるような思い出を重ねて、今も残る彼女の影を消してしまえるように。
 京一の思惑を知ってか知らずか、龍麻はしげしげと京一の顔を眺めた後、少し視線を下げて呟くように言った。
「京一ってさ…」
 何やら真剣な様子に、京一は思わず息を飲む。
「お、おう。なんだ?」
「京一って…」
 息を詰める京一に、龍麻は口を開きかけて、しかし途中で止めてしまった。
「やっぱ、なんでもない」
「な、なんだよこら!気になるだろーが」
 意気込んだ分、外されて京一は頬を膨らませる。
「なんでもないって」
「んな訳ねーだろ!気になるからさっさと吐け!」
 言いかけて止められるほど気になる事はない。
 笑って誤魔化そうとする龍麻の首を捕まえて、ヘッドロックをかまそうとした京一は、しかしその寸前に目の前に突き付けられたプリントにぴたりと動きを止めた。
「もうこれ、教えなくてもいいのかな?」
 にっこりと笑う龍麻とは正反対に、京一はがっくりと肩を落とした。
「くっそー、卑怯だぞっっ!」
「ふーん?じゃやっぱ、俺提出して帰ろうかなー。教えてても、京一は考え事あるみたいで、ちっとも進まないし」
 今にも帰り支度を始めそうな龍麻に、京一は必死で縋り付いた。
「ま、待て!待てってひーちゃん!やる、やるから!」
「真面目にやるか?」
「おう、勿論っっ!」
 必死で頷く京一に、龍麻は笑って座り直した。
「じゃ、もう脱線はナシな」
「ちっ、わーったって…」
 そう言いながら放り出したシャーペンを握りしめると、龍麻は笑って、それから小さく呟いた。
「ひーちゃん?」
「なんでもない。やるぞ」
 言われるままにプリントに向かいながら、京一は微かに聞こえた呟きを胸の中で反芻した。

 …でも、ありがとう。

 聞こえるか聞こえないかの呟きは、そのままはっきりとは見えない龍麻の心のようで、京一は出会った頃の事を思い出して自然に笑みが零れる。
 そうだった。
 見た目に反して手強く、酷く難物で苦労するのは覚悟の上だったのだ。
 人懐っこそうに見えて、なかなか本心を晒さない。けれどどうにも人を惹きつける『緋勇龍麻』という人間に、『蓬莱寺京一』を認めさせてみせる。
 あの頃の気持ちを思いだして頬を緩める京一を、龍麻が不思議そうに眺めた。
「この問題、そんなに簡単か?」
「いんや、そりゃもう難しくて、苦労してる。けど、絶対、解いてみせるかんな!」
 妙に嬉しそうにそんな事を言う京一に、龍麻は訳が解らないと言った風に首を傾げた。
「……暑さでボケたとか?」
「ボケた言うなよ。さ、さっさと片づけよーぜ」
「ったく、ころころ変わるんだから…」
 溜息を吐く龍麻に、京一はもう一度にやりと笑いかけて、夏を堪能する為の難関を片づけるのにかかったのだった。