「じゃあちょっと、行ってくる!」
 賑やかな声を残してばたんと戸が閉まる。
 風圧でめくれたページを元に戻しながら、ネスティは小さく溜息を吐いた。
 蒼の派閥を出てからも変わらず、マグナは出ていく時にはああやって声をかけていく。習慣が抜けないのか、それとも彼なりに気を使っているのか。多分、前者だろうと思いつつ、最近のマグナには驚かされる事も多いので、案外気を使っているのかもしれない。
 そう思うと、少しばかり複雑なものが胸を過ぎった。
 まだ、マグナが派閥に連れてこられたばかりの頃、何度も喧嘩や脱走を繰り返す彼に焦れて、一度怒鳴りつけた事がある。
 あの頃は、ネスティも割り切れない感情に振り回されていたから、今にして思えば結構なきついことを言ったと思うのだが、何故かマグナは素直にそれを聞き入れた。
 以来、マグナは派閥の外へ出ていく時、決まってネスティの元にそれを言いに来るようになったのだ。流石に、講義をさぼったりした時や、説教確実な時には逃げ出してしまうが、そうでなければ大抵どこそこへ行くと言いに来る。
 そしてそれは、蒼の派閥を出てからもずっと続いているのだ。
 旅立ってからそんなに長い時間が流れた訳ではないが、環境の変化は劇的で、随分色々な体験もした。当初の予定からすれば不本意極まりない状況に、ストレスに潰れそうになっていた自分とは違い、それすらもあの弟弟子は軽々と飛び越えてしまった。彼のそんな強さは、ずっと見守ってきたネスティにある種の誇らしさと、そしてどうしても消せない寂寥感を抱かせる。

 強くなってくれるのは、いい。
 ずっとそれを望んできたし、何時の日か彼が受け止めなければならない『真実』の為にも、身も心も強くなって欲しいと今でも思っている。見る目がつい厳しくなってしまうのはその反動だとも。
 しかしその反面、変わらないで居て欲しいと願っている自分も確かに存在する。
 変わらず、いつもの無防備な瞳で自分を見て、そして笑っていて欲しい。
 彼が『真実』を知ればそんな日常も失われてしまうとわかっていても、そう、望まずには居られないのだ。

 ―――結局、成長を望むと言いながら、自分は恐れているだけなのかもしれない。
 彼が、自分から巣立って行ってしまうことを。

 溜息を一つ落として、ネスティは手にした本を閉じた。これからの旅に必要な情報を少しでも仕入れるつもりが、どうにも気が削がれてしまった。
 諦めて道具の手入れでもするつもりで背嚢の中身を出していると、戸口の方で微かな音がした。
 何気なく振り向くと、閉じていたはずの扉が細く空いており、その隙間から見覚えのある瞳がこちらを窺っている。
「………何をやってるんだ君は」
 留守を窺う空き巣のような行為に、憂いも忘れて尋ねると、扉が開いて少しばつの悪そうなマグナが顔を出した。
「あははは、じゃ、邪魔しちゃ悪いと思ってさ…」
「充分、邪魔してる。用があるならさっさと入ってこい」
「…ごめん」
 項垂れるマグナに、ネスティは少し語気を緩めた。
「買い物に行ったんじゃなかったのか?」
 そう問えば、途端にマグナの表情が明るくなった。
「そう、そうなんだけど…ネスも行かない?」
「別に僕は欲しい物はないが…」
「でもそのロッド、少し先が割れてるだろ?」
 指摘されてネスティは驚いた。
 確かに、杖の先端には微かなひび割れが出来ている。派閥を出てからずっと使っていたものだし、まだ使えると踏んでいたのだが、それをマグナに気づかれていた事が驚きだった。
「どうしてわかった?」
 そう訊ねると、マグナはちょっと考える素振りを見せたが、直に笑って首を振った。
「わかんない。でも、なんとなく」
 勘かなと言われて、ネスティの頬に苦笑いに近いものが浮かぶ。戦闘中の様子や、術の発動過程から気づいたのだろうと思うが、それをあっさり勘と言い切ってしまう辺りが、いかにもマグナらしい。
「大事なものだろ?壊れてからじゃ遅いって」
 確かに、召喚師にとって、サモナイト石と杖は欠かせないものだ。杖に魔力を籠め、石へと注ぐ。
 厳密に言えば、杖が無くても石さえあれば召喚は出来るのだが、あるとないとでは術の効果に明らかな違いが出る。故に、召喚師はほぼ例外なく杖を持ち歩いているし、その状態にも気を使うのだ。
 召喚術に関してはお世辞にも優等生とは言えなかった弟弟子にそれを指摘されて、ネスティは思わずほうと声を上げてしまいそうになった。そう、次の台詞を聞くまでは。
「何か選んで来ようかと思ったんだけどさ、俺ああいうのはさっぱりわかんなくて…剣ならわかるんだけど、ハイブレードはやだ…よな?やっぱ?」
 信じられない言葉に、ネスティは思わず声を荒げた。
「君はバカか!あんなものを触媒にする召喚師が何処にいる!」
「え…?んーっと、使ってるけど、俺?」
 本気で不思議そうなマグナに、ネスティは芽生えかけた賞賛をきっぱり消して言い切った。
「そんな物好きは君だけだ。普通は杖や、精々短剣止まりに決まってる」
 確かに、術に使用する触媒は人それぞれで違うのだが、一般的にはやはり魔力を高めるような材質で作られた杖や短剣が殆どだ。それを、昔から術より戦闘訓練が好きだと言い切っていたこの弟弟子は、面倒だからと実用一点張りの剣や大剣を代用品にしているのだ。そんなものを基準にされたのでは堪らない。
「そうなのか?」
「そうだ。大体、君以外にそんな酔狂な真似をしている召喚師を見た事があるか?」
「……そういや、ないかも。なんで?」
 ネスティは深々と溜息を吐くと、手にしていた杖を翳してマグナに示した。
「どうやら君は綺麗に忘れているらしいから、これの材質の話からもう一度やり直すか…」
「え?それはちょっと…俺はほら、使わないし」
 不穏な空気を感じ取ったのか、マグナが少しずつ後ずさりを始める。それを逃がさないようにがっと掴んで、ネスティは凄みを籠めて笑った。
「そこが君の、一番の問題点だ」
 最前線で大剣を振り回して力業を披露し、反面召喚術の基本とも言える道具については殆ど知識がない。召喚師としてはどう考えても問題がある。兄弟子として、そんな状態は見過ごし難い事だ。これは、常々思っていた事を実践するには丁度良いかもしれない。
「丁度良い機会だ。一度君にその辺を確認しておこうと思ってたんだ。本来、僕ら召喚師は剣を持って戦うものじゃない。君だって、杖を持って術を行使するのが本当なんだぞ」
 ネスティの勢いに、うーとかあーとか言いながら明後日の方を向いていたマグナは、つっかえながらも懸命に弁解を始める。
「そ、そりゃあんま一般的じゃないかもだけどさ、俺にはこっちの方が楽…ってか、やりやすいってか…。いいじゃん、剣の方が武器としても使えて便利だし。別に、召喚が出来ないって訳じゃないんだし」
 便利とか便利じゃないとかそういう問題ではないのだが、よほど説教混じりの講義が嫌なのかマグナも必死の様子である。
「それに…それにネスが居るからいいんだよ!」
「はぁ?」
「杖とか、そういう難しいのはネスが居るから、いいんだ」
 いいわけないだろう。
 そう怒鳴ろうとしたネスティの唇は、寸前でマグナの表情に阻止された。マグナはどこか途方に暮れた子供のような表情で、上目遣いでネスティを窺っている。
「いつも、さ、ちょっとやばいかなって思っても、ネスが後ろにいると安心出来るんだ。危なくなったら必ず召喚術が来るし、警告もしてくれる。だから心おきなく突っ込んでいけるっていうか…。ネスが居てくれたら、それだけで負ける気がしないっていうか…でもさ、杖とか持って召喚術で戦うってなったら、そうはいかなくなるだろ?だからさ…」
 ぼつぼつと話すマグナは恐らく、突っ込んでいく背中に抱く、ネスティの胃の痛くなる思いなど知らないのだろう。文句を言ってやりたいが、どうにもネスティはこの表情に弱かった。そして、告げられた言葉にも。
「…僕は安心どころじゃないんだがな」
 殊更冷たく言い切ると、マグナの表情は更に歪んだ。
「ネスぅ…」
「ただまぁ、君に今更無理を強いても仕方ないのは確かだな」
 何度目かの溜息と共に、ネスティはロッドを背嚢に仕舞い込んだ。
「ほら、買いに行くんだろう?」
 そう言えば、マグナの表情はみるみる明るくなる。
「じゃあ…」
「取りあえず、今は形式を言っている時ではないからな。特に不都合が無ければ当面は仕方ないだろう」
「ありがとう、ネス!」
「ただし、後で杖についての基本はきっちり復習してもらうからな?」
「うぇぇ…」
「そんな顔したって駄目だ。ほら、行くぞ」
 顔を顰めるマグナを促して、そのままネスティは歩き出した。
 いつか壊れてしまうかもしれなくても、今、マグナは自分を必要としている。それが、無性に嬉しかった。勿論、そんなことは絶対本人には気取らせないけれども。
 追いついてくる足音に、ネスティは小さく笑みを漏らしたのだった。