5年ぶりに帰ってきた新宿の街並みは、様々な部分で記憶とは違ってしまっている。
しかし、記憶にあるマンションの周辺の佇まいは、大きな変化はないようだった。
辿り着いた建物の前で、京一は一つ大きな深呼吸をして上を見上げた。
喜びと、不安と、畏れと。
それらが入り交じった複雑な感情が、京一の中で渦を巻いている。
「ひーちゃん…」
思わず零れた名前は、もう長いこと口にはしていない名だった。だが、その響きは今も変わらず京一の胸を焦がす。
この建物の十二階に、今も龍麻は住んでいるのだろうか。今の京一は、そんなことすら知らない。先に確認する気になれなかったのだ。
誰にも告げずに帰国したのも、そのまままっすぐここへ来たのも、その根っこには畏れがあったのだろうと京一は思う。
先に、結果を知ってしまう事への恐怖。
置き去りにしたのは自分の方なのに、5年という月日で龍麻が変わってしまっていることが怖い。
しかし、流石にここまできては避ける事は出来ない。
京一は意を決して足を踏み出した。
見覚えのあるエントランス、エレベーター。
それらを抜けて立ったドアの横に、覚えのある『緋勇』の文字を見つけた時、京一は大きく息を吐いた。
「まだ、ここに住んでたか…」
ほんの少し、京一の中で喜びが大きくなる。
一次試験はクリアした、というところか。
インターフォンを押そうと伸ばした指が微かに震えていることに気が付いて、京一は苦笑いを零した。
「ったく、だらしねぇ…」
会う前からこれでは、いざ龍麻を目の前にした時にどうするのか。
躊躇いを打ち消すように、京一は指先に力を籠めた。
扉の向こうで、くぐもった電子音が響いている。
暫く待ってみたが、反応は返ってこなかった。
「………?」
念のためもう一度押してみるが、やはり反応はない。
「留守か…」
がくりと力が抜けると同時に、無意識に安堵の息が漏れる。
そう言えば今は平日の午後だったのだ。連絡を入れてなければ家に居る方が珍しい時間帯である。
「出直すか…」
そう思ったものの、京一は思い直して扉に背を預けた。
たとえ龍麻がどんな反応を示すにせよ、京一にはそれを甘受しなければならない理由がある。
5年前、共に行こうと誘った龍麻を置いて行ったのは、それがどうしても必要だと思ったからだった。
龍麻の傍らに在る為には、どうしても必要な『経験』と『強さ』。
それを手っ取り早く手に入れる為には、龍麻とは離れた方が良い。あの頃はそんな風にしか考えられなかったのだ。
5年経っても、あの時の判断が正しかったのか、間違っていたのか京一にもわからない。ただ、5年という歳月の作用か、少しは自分に折り合いがつけられるようにもなった。なにより、これ以上離れているのは我慢出来そうになかったのだ。
しかし、龍麻が帰ってきた京一をどう受け止めるのかは京一にもわからなかった。
なにせ、5年間一度も連絡を取っていないのだ。
取りたくても取れなかった時もあったが、京一は故意に連絡を取ることを避けていた。
この5年、龍麻は京一をどう思って過ごしていたのか。
それが京一にとって、この5年間の意味を決める『審判』になる―――
冷たい金属製の扉は、その住人を思うだけで極上の褥になる。
「早く、帰ってこい…」
期待と不安を織り交ぜた呟きを零して、京一は目を閉じた。
「幻って……末期かな、俺も」
微かに届いた声は、酷く懐かしい響きで京一を眠りから引き離した。
顔を上げると、そこには記憶よりも遙かに大人びた印象の顔がある。
驚きの色を強く映した表情に、京一は少しおかしくなると同時に安堵した。
大丈夫、少なくとも嫌悪や拒否の表情ではない。
「よ、おかえりひーちゃん」
そう言えば、龍麻は二三度瞬きをして、それから呆れたような声を上げた。
「お前、こんなとこで何してんだ?」
そう言いながら、扉の前に座り込んでいた京一に立つように促す。
そんな仕草は昔と変わらなくて、ついつい京一の口も軽くなった。
「ひーちゃんがなかなか帰ってこねーから眠くなったんだよ。結構待ったんだぜ?」
「待たされたくないのなら、事前に連絡ぐらい入れろよ。まるっきり予告もナシじゃ文句は言えないだろ」
「ま、そりゃそうだ。悪かったな」
以前もこんなやり取りを交わしていたなと思いだして、思わず笑みを零す京一に、龍麻がぽつりと呟いた。。
「相変わらずだな、お前は」
その言葉に、浮かれていた京一の意識が水を浴びたように静まった。
そうだ。
浮かれる前に、まず確かめなければいけないことがある。
ひとまずは入室の許可を貰おうと口を開き掛けた京一に対し、龍麻は扉を開けて中へと促した。
「立ち話もなんだし、入れば?」
「………いいのかよ?」
思わず聞き返すと、龍麻は心外そうに目を見張った。
「いいもなにも、お前そのつもりで待ってたんじゃないのか?」
友を気遣うような、当たり前の口調で言われて京一の胸が微かに痛んだ。
自分の訪れは、もう龍麻には世間話の域を超えないものなのだろうか。
しかし、まさか廊下で話をする訳にもいかない。
促されるまま、京一は部屋へと足を踏み入れた。
「…んじゃまぁ、遠慮なく」
と、扉を潜った。
室内は、記憶に残るものと殆ど変わらなかった。机の上に新聞を広げっぱなしにする癖も、カーテンを開け放しで出掛けるところも以前と変わらない。変わったところと言えば、窓辺に置かれた大きな観葉植物くだいだった。
部屋には他者の気配は感じられない。
龍麻は一人で暮らしているようだった。
なおも辺りを見回していると、不意に名を呼ばれて京一は振り返った。
見れば、龍麻がグラスを手に眉間に皺を寄せている。
「だから、ポカリとお茶、どっちがいいかって」
「んじゃポカリ。…あんま変わってねぇな、ここ」
探りを入れようとそう尋ねてみると、龍麻は眉間の皺を更に深くして答えた。
「それはお前の気のせいだろ。5年もあれば変わってないものの方が珍しいよ」
グラスにポカリを注ぐ手つきも乱暴で、龍麻には触れて欲しくない話題のようだった。
しかし、5年ぶりに会って近況を話さないというのもおかしな話だし、龍麻の現在の状況を確かめるのは京一にとっても大事なことだ。
何と切り出すべきか迷う京一の目の前で、何かを落としたのか、すっと身を屈めた龍麻の動きが止まった。
「―――?」
その不自然さに引っ掛かるものを覚えて、京一は龍麻の様子を窺った。
何か、妙な違和感があった。
龍麻は顔を伏せたまま動かない。
その様子に、違和感は疑念へと変わる。
「おい、ひーちゃん?」
具合が悪い―――否、何処か怪我をしているのではないか。
そんな気がして覗き込むと、丁度勢い良く顔を上げた龍麻と視線がぶつかる。
驚きもそのままに固まり、目を見開いている龍麻は無防備で素のままのように見える。
何て顔してるんだと、そう言いたかったのだが唇は上手く動いてくれなかった。
間近に、龍麻の顔がある。
黒い瞳に大きく自分の顔が映りこんでいるのに気づいて、身体が熱くなる。
慣れた距離だと、そう思うともう止められなかった。
腕を伸ばし、固まる龍麻の身体をそっと抱き寄せる。
強張った身体は、しかし抵抗もなくすとんと腕に収まった。
その瞬間、理屈ではなく感覚で京一は理解してしまった。
いくら龍麻の現在の環境を探ってみても意味はないのだ、と。
龍麻がどう出るにせよ、京一の選択肢は一つしかない。
或いは、再会の前ならば間に合ったかもしれない。だが、顔を見て、声を聞いてしまえばもうお終いだった。
手放せない―――否、傍にいたいという気持ちはこんなにも強い。
龍麻自身の気持ちを思いやるその前に、衝動的に動いてしまう程、自分は龍麻に餓えている。
「…………きょうい、ち?」
掠れた声が、龍麻の動揺を表している。いきなり引き寄せたのだから、無理もないことだった。
しかし、京一の方から腕を解くことは出来そうになかった。
振りほどいて、文句を言うか怒るかしてくれと思いながらも、強く抱いて拒まれるのも怖い。
そのまま動けなくなってしまった京一の腕の中で、龍麻が微かに身じろぎした。
振りほどかれると覚悟を決めた京一だったが、龍麻の動きは京一の予想したものではなかった。
背中に、そっと暖かいものが触れる。
それが龍麻の腕だと理解するまでに暫くかかった。
「ひーちゃん…龍麻?」
思わず呼びかけたが、答えはない。
ただ、その代わりに背中に回された腕の力が、少しだけ強くなったような気がした。
その確かな手応えと温もりが京一を暖める。
じわじわとせり上がってくる熱を抑え込んで少し身体を離すと、龍麻も気づいて腕を緩めた。
「…………」
何か言いたげに唇が動くが、言葉にはならない。
その、何処か苦しげな表情は、京一の知らないものだった。
切なそうで、苦しそうで、何かを希求して止まない瞳。
京一の知らないところで、こんな表情をするようになったのかと思うと心が痛んだ。
だが、それとは正反対に震えるような歓喜も京一の中にはある。
こんな顔をさせているのは自分なのだと、そう思うだけでどうしようもなく熱くなった。
唇を寄せると、龍麻は当然のように頬を傾けて受け止めた。
一度軽く触れて確かめて、それから息を全部奪い取るつもりで深く重ねる。
5年ぶりのキスは、お互いの理性を簡単に吹き飛ばす激しさがあった。
「……んっ、ふ……」
一旦解放すると、龍麻は鼻にかかった声を上げて息を吐く。そんな吐息すら情欲を煽ってくれて、京一は小さなキスをいくつも落としながら、龍麻のシャツに手を掛けた。
早くじかに触れて、互いの熱を確かめたい。
龍麻もまた、京一の意図を察したように自らシャツを脱ぎ捨てる。
「ひーちゃん…」
露わになった肌に触れようとして、京一は龍麻の腕を覆う包帯に気が付いた。
「これは…」
驚いて見れば、深い傷なのか腕の包帯はかなり丁寧に巻いてある。それに、脇腹にも内出血のような痕があった。こちらは、手当てした風もない。
京一は舌打ちを零して腹の打撲傷に指を這わせた。触れた瞬間、痛みが走ったのか龍麻はびくりと身体を震わせる。
触れた指先が、ほんのりと熱い。何か良くないものの痕跡が傷口に残っている。さっき感じた違和感はこれだったのだ。
「龍麻、お前…」
こんなものは、日常生活で負う傷ではない。
「何やっててこんな怪我したんだ?手当しないと…」
「手当は…済んでる」
龍麻は、少し掠れた声でそう否定する。
「こっちはまだだろうが…」
傷口に陰気を残すのは論外なのだ。それがたとえ僅かなものであってもそこから全身が腐り落ちる可能性もある。龍麻はそれを知っている筈だし、この程度ならば以前は自分で処理していたのに、何故放置しているのか。
そんな疑問が頭を過ぎったがともかく今は手当が先である。
しかし、陰気を払おうと伸ばした京一の手は龍麻の手に阻まれた。
「いい。大したことないし…」
気怠げにそう言って龍麻はゆらりと身を起こした。
「あのな、んなわけないだろうが。いいから横になって…」
続く言葉は、龍麻の指に封じられた。
「こんなのよりもっとずっと…きつかった」
濡れ羽色の瞳が、苦しげに眇められる。ひたと見据えられて、驚きで何処かへ行っていた熱が瞬時に戻ってきた。
何がきつかったのかと、聞き返すまでもない。
京一もまた、離れていた年月に同じ苦しみを味わっていたのだから。
龍麻が待ちきれないと言わんばかりに腕を伸ばしてくる。それに抗えずに京一もまた龍麻を抱きしめた。
唇を合わせて思う様貪れば、じきにかくんと龍麻の身体から力が抜ける。
「はぁ…っ」
掠れた息に熱が籠もる。
龍麻の腕が伸びて、京一の頬を撫でた。
「きょういち」
浮かぶ笑みは京一の理性を崩壊させるには充分なものだ。
頭の片隅に、辛うじて脇腹は庇おうという意識が引っ掛かるが、それも何処まで覚えていられるかあやしいものだった。
結局、確かな温もりに言葉は消え失せてしまう。言いたかった事も投げて、京一は焦がれていた存在に溺れることにした。
しっかり留めてあった筈の包帯は、汗が引く頃にはすっかりずれてしまっていた。
それを丁寧に外しながら、京一はベットに横たわる龍麻を睨んだ。
「それで?これはどうしたんだ?」
聞き出すまでは断固として譲らないという気迫を込めて見つめると、龍麻は眉間に皺を寄せて腰掛けている京一を見つめ返す。
「…別に、なんでもない。ちょっと油断しただけ」
それはつまり、油断すれば怪我をするような状況にあったということである。
本当に言いたくなさそうな龍麻に、京一は息を一つ吐いて手元に専念した。
こういう時妙に強情なところは以前のままらしい。
脇腹はきちんと陰気を祓うところから処理したが、腕の傷はきちんと処理が施されているようだったから、緩くなった包帯を巻き直すだけにしておく。
龍麻が何か言いたげな視線を向けていることに気が付いて、京一は巻き終わりを処理しながら首を傾げた。
「痛むのか?」
そう尋ねれば、龍麻は首を振った。
「別に、痛くない。元々かすり傷だし。包帯も大げさだって」
どうやら龍麻は、扱いが大げさなのが気に入らないらしい。しかし、京一に言わせれば、負傷すること自体が論外なのだ。
「あのな。腕も腹もやっといて、大げさもなんもないだろが。包帯が嫌なら少しは自重しろ」
その言い方が気に入らなかったのか、龍麻は不快を露わにして言い返した。
「そんなの、お前に関係ないだろうが」
その言葉に、京一は一度目を閉じる。
この部屋に入る前に聞かされたのなら、受けた衝撃も大きかっただろう言葉だ。
しかし、今の京一にはそれが龍麻の意地っ張りだとわかる。その事が無性に嬉しかった。
「ひーちゃんは、俺が怪我しても関係ないって済ませるのか?」
「………っっ」
案の定、龍麻は明らかに言葉に詰まり、京一を恨めしそうに睨んだ。
「お前、俺に恋人が居るとか、そんなことは思わなかったのかよ?いきなり抱きつくか普通?」
恨めしげにそんなことを言いだした龍麻に、京一は少し笑ってしまう。他にも色々言いたそうな表情をしている龍麻は、自分が受け容れた事は棚に上げてしまっているらしい。
京一もかなり緊張していたのだが、覚悟を決めて会いに来た分、不意打ちだった龍麻よりは余裕があったのかもしれない。
不満げな頬に指を伸ばすと、先程までの熱を残した頬は指に熱さを伝えてくる。
「ここに居なかったら、そう思ったかもな」
「ここにって…」
「もし田舎に帰ったり、住所変わったりしてたら恋人が出来たんだろうなって思ってた。あと、住所は同じでも部屋の中が変わってたり、雰囲気とかが違ってたら。でも、変わってなかったからな」
そう言いながら、京一はもしそうだった場合のことを考えて苦笑してしまった。
到底、そんな状態は想像出来ない。
誰かに奪われる事など、想像だけでも耐えられないのによくもまあ、5年間も離れていられたものだ。
かっこつけるのを止めて、京一はちょっと笑った。
「なーんて、な。ホントは我慢出来なかっただけ。ああ、ひーちゃんだ…って思ったら手がでちまった」
龍麻は、京一の顔をじっと見つめると、何故か複雑そうな溜息を吐いた。
「そう言えば、言ってなかった」
「ん?」
それまでの複雑な色を綺麗に消して、龍麻の唇が笑みを形作る。
「―――おかえり」
「……っ!」
向けられた表情に、京一は息を詰めた。
「龍麻…」
あの時、単身中国へ渡ったのは間違いではなかったと今も思っている。
5年間で経験したこと、得たものがあるからこそ、今の自分があるのだとそう信じてもいる。
それでもなお、5年という空白の時間を惜しんでしまう程に龍麻の笑みは鮮やかだった。
これではもう、とても龍麻の傍を離れられそうにない。
捕まってしまったなとそう思いながら、京一は龍麻に覆い被さるようにしてその顔を覗き込んで告げた。
「ただいま」
途端、ほんの僅かの距離さえ許さないというように、龍麻の腕が絡みついてくる。
唇を重ねながら、京一は包帯は後にしておけばよかったかと妙に現実的なことを考えてしまったのだった。
その後、再会した仲間から龍麻の怪我の原因を聞いた京一が、龍麻と派手に喧嘩する羽目になるのだが、それはまた別の話である。
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