もうすっかり慣れてしまった階段を一足飛びで駆け上がれば、6階に着くのは早かった。
 角の扉の前で少し息を整えて、チャイムを鳴らす。
 すぐには反応がないことを知っているから、ついでに軽くドアを叩いて声を掛ける。
「ひーちゃん、俺」
 しばしの沈黙の後、鉄のドアはゆっくりと開いた。
「俺って名乗る奴がいるか」
 そう文句を言う龍麻の表情は、いつもと比べて少しだけ硬い。

 原因は、昨日やってしまった口喧嘩。

 出掛けた先で、些細なことから口論になって、気まずいまま別れてしまって。
 龍麻は存外にポーカーフェイスが上手いのだが、たまにこんな風に自分を晒す時がある。
 ガードの緩さというのか、そういうものは京一には嬉しいものだった。
 だが、喧嘩した後でという状況では、そんなものを楽しむ余裕はない。
 多分、自分も頬の辺りが引きつってるんだろうなという思いはあったが、京一はそんな状況を引っ張れる性分ではなかった。
「これ、昨日の詫びな」
 そう言って手にしたコンビニの袋を突き出すと、龍麻はふっと口の端を緩めた。
「気にしてたのか?」
「まぁな。なんか、妙に絡んじまって悪かった」
 出来るだけ神妙にそう言うと、龍麻は慌てたように軽く手を振った。
「あー、俺もちょっと熱くなっちゃってた。ゴメン」
 そう言いながら、明らかにほっとした風の龍麻に、京一の肩からも力が抜けた。
「んじゃ、ひーちゃんはなんか食うもの担当な」
 そう言って、京一はビニールから缶を引っ張り出した。
「なに?ビール?」
「と、チューハイ」
 日は落ちているのだが、外はまだかなり暑い。しかし、すぐ近くのコンビニで買ったビールは充分に冷たかった。
 適当に放り込んできた缶を並べると、龍麻が感心したように目を見張る。
「お、結構充実してる。京一にしては奮発してるなぁ」
 その言い方に妙な実感が籠もっていた為、京一は唇を尖らせた。
「してはって、何だよ。してはって」
「京一、いっつも金欠でひーひー言ってるだろ」
 さらりと言われてしまうと、それが事実だけに反論はしにくい。
「まー、そんなんはどうでもいい!飲もうぜ」
 話を逸らすには飲むにかぎる。
 龍麻は笑いながら押しつけた缶を受け取って、それじゃ、ごちそうさまと缶を開けた。
 龍麻が引っ張り出してきたスナックを肴に、暫く二人して黙々と缶を開ける。
 一本空になったところで、ようやく京一は口を開いた。
「昨日の話、だけどさ…」
 龍麻はちょっと眉を寄せてビールを煽った。
「それ、止めないか?ビールが不味くなっちゃうだろ」
「そう言うなよ。なぁ、やっぱ行かないか?」
 龍麻が妙な誤解をしているのは、昨日の反応でわかっている。だが、京一に退く気はまるでない。その意志を見て取ったのか、龍麻は小さく息を吐いた。
「なんでそう熱心なんだか…」










 言い争いになったのは、本当に下らないことが切欠だった。
 雨紋のライブを皆で観に行って、その興奮も冷めやらぬ帰り道で、翌日の予定を話していたのだが、そこで意見が分かれたのだ。
「えー、映画行こうぜ?もうすぐ新しいのが始まるし…」
「それよりも海!海行こう!」
 妙に熱心にそう誘う京一に、龍麻は首を傾げた。
「なんで海なんだよ?今更泳ぎに行く訳じゃないだろ?」
 確かに、まだ気温は高いし泳いでもおかしくない時期ではある。
 だが、なんとなく夏休みが終われば海水浴も終わりだというイメージがある龍麻には、京一の熱心さが今ひとつ理解出来なかった。
「穴場があるんだよ。多分、そんなに人もいないし、結構綺麗なとこ。海なんて、夏のうちに行っとかなきゃつまんねーし!」
 そこまで言うのなら…と思いかけていた龍麻だったが、その思いは次の一言で綺麗に打ち消された。
「前に、ダチが彼女と会ったとこなんだよ。近い割に浜も綺麗だし」
 その途端、天啓の如く京一の考えが読めて龍麻は額に手を当てて溜息を吐いた。
「目的はそっちか…」
「ああ?何が?」
「お前、あわよくば二匹目のドジョウを…って狙ってんだろ?パスパス。お前のナンパには付き合えません」
 片手をひらひらと振る龍麻に、京一は慌てたように首を振った。
「違う。そんなんじゃなくてだな…」
 何を言われても、京一のナンパ好きを身に染みて知っている龍麻には言い訳にしか聞こえない。
「あーはいはい。わかったから行くなら一人で行ってくれ」
 おざなりにそう言うと、京一の眉間に皺が刻まれた。
「あのな。違うつってんだろ!」
「今更気取ってどうするよ。別に悪いとは言ってないだろ?ただ、俺はパスってだけだ」
「だから…!」
 後は売り言葉に買い言葉、散々言い合ってそのまま別れてしまったのだ。

 一晩開けて落ち着いたはずの話をまた持ち出す京一は、よほど海への執着があるらしい。
 だが、付き合う気のない龍麻には、その熱心さは実に有り難くない。
 折角仲直りしたのにまた口喧嘩かと思うと流石に気が重くなる。
 龍麻は慎重に言葉を選んだ。
「あのな、夏の海辺で新しい出会いを…っていうお前の気持ちは、わかる。一夏の思い出って響きいいもんな。夏が終わる前に…って焦るのも、まぁ、無理はない。けど、生憎と俺は今、そういうのに興味は持てないの。興味のない俺とつるんで行っても、ナンパが成功する訳ないだろ?」
 溜息混じりにそう解説して、龍麻はちょっと切なくなった。
 『興味が持てない』その理由は、他ならぬ目の前のこの男なのだが、それを本人が知る由もない。



 いつのまに、『親友』で『相棒』だった相手にそんな思いを抱いたのか、龍麻自身も覚えていない。水が地下から染み出して来るように、気づいたらその感情は龍麻の中を満たしていたのだ。
 言わずにおこうと決めたのは、今のところそれで不自由も感じていなかったからで、何より告げることで今の関係が崩れてしまうことが嫌だからである。
 うっかりと足を踏み出して、この居心地の良い距離を壊したくない。
 だから、この想いは胸の中に仕舞っておくと、そう決めていた。
 けれど、流石に恋情を抱く相手と一緒に、他の子に声を掛けるというのは気持ちのいいものではない。
 だから、以前は時々付き合ったりもしていたのだが、自覚してからは一切、そっちの方には付き合っていなかった。
 その辺は京一も気を使ったのか、強引に誘うようなことはなかったのに、今回はどうもしつこい。
 行かないよときっぱり言ってやればすっきりするのに、気まずくなるのが嫌で言葉を選んでしまう。つくづく馬鹿だよなと思いながら、
「とにかく、そういうことだから。行くなら一人で行ってこいよ」
 と締めくくって、龍麻はビールに口を付けた。
 一口煽って京一を窺うと、なにやら難しい顔をしている。
 京一は、真面目な顔で龍麻を見た。
「一人で行っても仕方ないだろ。俺はひーちゃんを誘ってんの」
 思いがけず真面目な顔の京一に、龍麻は咄嗟に言葉を返せない。
「夏が終わる前に、さ。行こうぜ?」
 そう言って笑った京一の表情は妙に艶っぽくて、龍麻の胸はどくんと音を立てた。
「だから、行かないって…」
 そう言いながら、赤くなってしまった顔を隠すように視線を逸らしたが、京一はそれを許さなかった。
「別に、ナンパとかそういうんじゃねーの。単にひーちゃんと行きたいだけ」
 じ、と見つめられて、余計に顔が赤くなったような気がする。
 龍麻はそれを振り払うようにビールを一息に空けて、次の缶に手を伸ばした。
「なんでそんなに、拘るんだよ…」
「俺は行きたいから誘ってるだけ。そっちこそ、なんでそんなに嫌がるんだよ?」
「なんでって…」
 ナンパに同行するのが嫌だっただけなのだから、それがないのなら付き合うことに異論はない。
 ないのだが…
 龍麻は京一をちらりと窺った。
 相変わらず京一は、冗談には見えない真剣な眼差しで、龍麻のことを見つめている。
 何とも言い難い空気に、龍麻は途方に暮れた。
「な、行こうぜ?」
 言葉に詰まった龍麻に好機と見たのか、京一が畳み掛けるように身を乗り出す。
「だから、パスって…」
「んじゃ、その理由を言えよ」
 更にずいと迫られて、龍麻は思わず喚いた。
「…お、お前がそんなに熱心な訳を教えてくれたらな!」
 京一が何か言いかけるのを押し返すように、ぐっと睨み付ける。
「ただ行きたいからってのは、ナシだからな!お前がそんなに熱心なのには絶対、その、なんてゆーか…下心があるはずだ!」
 咄嗟に出た言葉だったが、京一はそれを聞くとぴたりと黙った。おまけに、その顔は妙に赤い。
「そりゃ、ちょっとは…」
 その答えに、龍麻は溜息を吐いた。
「やっぱり………」
 だからそういうのには付き合えないと言いかけた龍麻を遮って、京一はきっぱりと言った。
「だから、ひーちゃんが一緒じゃないと駄目なんだよ」
「はぁ?」
「二人で、行きたいんだって」
「あのなぁ、だから俺は…」
「二人でっての、ホントにわかんねぇ?」
 どういう意味だよと突っ込みかけて、不意に龍麻は気づいた。
 赤い顔をして微妙に視線を逸らしている京一と、強調された『二人で』という部分。
 まさかと思う気持ちと、もしかしたらという思いが重なって混乱し、龍麻は軽く頭を振った。
「わかんねぇって…」
「ホントに?」
 重ねて尋ねられて、今度こそ龍麻は返事を返せずに絶句した。











 ぽかんと口を開けた龍麻の顔が真っ赤に染まるのを見て、京一はほっと息を吐いた。
 龍麻の表情は困っているようなものではなく、どちらかと言えば戸惑っているようなものにみえる。長い付き合いとは言えないが、龍麻が嫌悪を覚えている訳ではないということはわかる。
 それどころか、赤く染まる顔はもしかしたら…と思ってしまう程好感触だ。

 龍麻のことを意識するようになったのは、多分夏になる前のことだったと思う。
 出会った時から気の合う奴だと思い、それから信じられる仲間であり、背を預けられる相棒だと思った。
 そして夏前に龍麻が行方不明になった時、決定的な自覚がやってきた。
 なんとか無事に見つけだしたものの、自力で立てない程弱り、憔悴していた龍麻の様子は、酷く京一の胸を掻き乱し、その時に気づかされた。
 『親友』とも『相棒』とも違う意味で、自分にとって龍麻は大切な存在なのだと。
 それからずっと、京一は龍麻にそれとなく気持ちを伝えてきた。
 黙っていられるとは最初から思っていなかったから、当たって砕けろ気味な気持ちだったのだが、龍麻は予想外に鈍かった。
 否、鈍いと言うよりは京一がそういうことを言い出すことをまるで想定していないと言うべきか。
 だから京一はいっそ場所を変え、雰囲気を変えることで勝負をかけようと思った。
 海に行きたいと思ったのは、前に友達がそれでばっちり成功したと自慢していたのを思い出したからだ。なんでもちょっと寂しいっぽい雰囲気が、人恋しくさせるらしい。
 そこに誘って…と思っていたのが、妙なことで喧嘩してしまって、そして今日。
 海まで行くまでもなく、今の感じはものすごく良いムードなのではないのだろうか。
 期待を籠めて見つめた途端、龍麻は急に立ち上がった。
「ひーちゃん?」
「わかったよ、行けばいいんだろ」
「え?」
「ほら、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待てって!」
 ずかずかとそのまま外へ出ていく龍麻を、京一は慌てて追いかけた。



 電車を乗り継いで1時間強。
 ようやく海にたどり着いた頃には、日はすっかり傾いてしまっていた。目的の浜に人影はなく、夕陽が周囲をオレンジに染めている。
 浜辺を無言で歩く龍麻は、部屋を出た時から殆ど喋っていない。不機嫌でもないとは思うのだが、妙な威圧感があって話しかけられないのだ。
「結構綺麗だろ、ここ」
「そうだな」
「服は濡らしたら面倒だけど、足だけでもつけてみねぇ?」
「…………遠慮しとく」
 取り付く島もない龍麻の言葉に京一は少し怯んだ。
 龍麻の部屋では結構いい雰囲気だったと思ったのに、この妙な緊張感はなんなのだろう。
 けれど、ここまで来てもう退くことは出来ない。
 京一は息を大きく吸い込んで、前を行く龍麻に声を掛けた。
「ひーちゃん」
 龍麻が打たれたような勢いで振り返る。
「俺は、ひーちゃんのことが好きだ」










 予感はあったのだが、はっきりと京一にそう言われた瞬間、龍麻の頭は真っ白になった。
 次いで、怒りにも似たものが龍麻の裡を占める。
 龍麻も、京一のことは好きだ。
 けれど、それを告げようとは思わなかった。
 今までの関係を壊すのが嫌で、現状維持に満足して。
 だが、京一はそんなところを全部飛び越えて、あっさりと想いを告げてきた。
 それが京一で、そんなところも好きなのだと解っていても、怒りが沸き上がってくるのはどうにも押さえようがない。
 要するに、『なんか負けた気がする』というのが龍麻の気持ちだったのだ。
「きこえない」
「え?」
「聞こえないって言ったんだよ!」
 一瞬黙り込んだ京一が、次の瞬間があっと吠えた。
「聞こえてないわけねーだろーが、そんな真っ赤なツラで!」
「知るかそんなの!夕陽で真っ赤に見えてるだけだ……っ!」
 伸びてきた腕に捕らえられて、それ以上は言葉を紡げなかった。
 触れた唇は、柔らかくて熱い。
 そして、間近で見る京一の顔もまた夕陽ではないもので赤く染まっていた。
 一瞬だけその感覚に酔って、龍麻はすぐにその腕を振り払った。そのまま、目の前の海に向かって駆け出す。
「ひーちゃん!」
 波打ち際までたどり着くと、追ってきた京一目がけて思い切り足を振り上げる。
 生暖かい海水は、狙い違わず京一の顔にまともにかかった。
「ひーちゃん……」
 髪から水をぽたぽたと落とし、わなわなと身を震わせる京一に、龍麻は声を上げて笑った。
「あははははっ、ジャストミート!」
「やりやがったな…!」
 京一の報復もまた、見事に龍麻の服を濡らした。
「逃げてんじゃねーっての!」
「誰も逃げてなんかないだろが!お前こそ、人をこんな所まで引っ張り出してなんのつもりだよ!」
「ムードって奴を大事にしたかったんだよ!それを台無しにしやがって…」
「柄にもないこと言ってんじゃない!大体なんで海なんだよ!」
「夏の定番だろが!」
「どういう定番だよそれ!」



 散々駆け回り、怒鳴り散らし、お互いの全身がすっかりびしょ濡れになる頃には、辺りは薄闇に包まれていた。
「ひーちゃん」
 傍らに座り込んだ京一の静かな呼びかけが何を意味するか、龍麻にもわかっている。
 どうせ逃げ切れはしないのだ。京一からも、自分の気持ちからも。
 けれど、やっぱり負けてしまったような気分が業腹で、龍麻は返事を口にはしなかった。
 代わりに、身を乗り出してそっと京一の唇を塞ぐ。
 返事代わりのキスは、少し塩辛く海の匂いがした。
 肩を掴んできた京一の手は濡れているのに熱い。
 夏の定番に間に合って良かったかも知れないと、ちらりと頭の隅を過ぎったそんな考えは、早くなる鼓動の中にたちまちかき消えて行った。