「もう、少し…」
「冗談…もうこれは空だって!」
 伸ばされた手が酒瓶を掴むその寸前、なんとかそれを奪取する事に成功した京一は、必死でそれを背中へと隠す。
 手にした瓶の中には実は未だ半分ほど中身が残っている。だからこそ、これ以上の深酒は止めようと背中に隠したのだが、酔っぱらっている本人にはそんな気遣いはまるで通じなかった。
「空ぁ?」
 妙に座った目つきで睨まれて、京一は精一杯真面目な表情を作って頷いた。
「そう、空。一滴も残ってねーよ」
「確か、まだ半分は残っていたと思うんだけど…」
 酔っぱらいの癖に、どうしてそんな事はきっちり覚えているのか。否、酔っぱらい故に酒に関する事『だけは』忘れないのか。いずれにしても、深く突っ込まれ、瓶を見せてみろ等と言われれば京一が不利である。ここは言いくるめて誤魔化さなければならない。
「俺が飲んだの。ひーちゃんばっか飲んでるのは不公平ってもんだろが」
 そう言えば、酔っぱらい――龍麻――の表情が幾分考えるものになった。
「京一が、飲んだ……」
「そうそう、俺が、最後まで全部。もう一滴も残ってねーの。だから、この辺でお開き、な?」
 言い聞かせるように言ったその言葉が、龍麻には気に入らなかったらしい
「俺の酒を、京一が飲んだ…」
 どこか虚ろに響く声で呟く龍麻に、京一は慌てて言い直した。
「ばっ、なんでそうなるんだ!俺の酒を、じゃない、一緒に飲んでたんだろうが!」
 龍麻は考え込むように顎を摘み、そしておもむろに頷いた。
「そういや、そうだったかも」
 取りあえずは納得してくれたらしい龍麻に、京一は深く息を吐いた。
 何せ、酔っぱらいに理屈は通用しない。
 そして、素手での戦闘において、京一の知りうる限り最強を誇っている龍麻が、この状況で暴れ出したりしようものなら。
 想像しただけで、背筋に冷たいものが走ってしまう。
 酔っぱらっているからといって油断などしようものならまず、明日の朝日は拝めない。
 なんとか落ち着かせ、出来ればこのまま眠って貰いたい。これ以上不穏当な行動やら発言を繰り返されると、こっちの身が保たない。
 しかし、京一の願いとは裏腹に、龍麻は手にしていたグラスを空けると、それを京一の前に突き出した。
「んじゃ、ビールで我慢する」
「まだ飲むのか!?」
 京一の悲鳴じみた声に、龍麻は不満そうに鼻を鳴らした。
「あぁ?悪いか?大体京一が飲もうって言ったんだろうが」
 確かに、誘ったのは京一だった。しかし、こんな筈ではなかったのだ。今更嘆いても仕方ないのだが、予想外の展開に、京一は溜息を殺す事が出来なかった。




 切欠は、ちょっとした出来心だったのだ。
 酔っぱらって、ちょっと頬なんか染めたりして、艶っぽい表情してる龍麻が見たいという、ただそれだけの。
 勿論、それ以上の下心もあるだろうと聞かれれば否定は出来ないのだが、それだって京一にしてみれば仕方のない話だ。
 色々な紆余曲折はあったものの、互いが同じ気持ちである事は、確かめた。しかし、そっち方面にはまるで奥手な龍麻は、『それ以上』を酷く恥ずかしがって許してくれないのだ。どうにか、キスまでは普通にするようになったのだが、如何せんその先は未だ不透明なまま。
 気持ちは通じ合っているのにキス以上の進展がまるでない関係は、元々我慢の許容量の少ない京一には少々きつかったのだ。
 そこへ届いた日本酒は、丁度いい口実になった。
 龍麻の実家から届けられたそれは、酒豪だという養父のお薦めの品だそうで、未成年になんてもの送ってくるんだと言いつつも、龍麻は結構嬉しそうに笑っていた。
 友人との年始の祝いにとの一言が添えられたそれは一升瓶で三本、意外に酒豪の多い仲間内では足りるかどうかと笑う龍麻に、ちょっとだけ飲んでみようと誘いかけて。
 折角だからとみんなで飲もうと渋る龍麻を説き伏せて、一本開けた。
 ものが無色透明な日本酒な事を良い事に、自分用にはしっかり水を用意して、適当な所でそっちに切り替え、後はひたすら龍麻に飲ませる。
 一本も空ければ、思惑は達成出来、ほろ酔いの龍麻が出来上がる―――筈だった。
 龍麻の酒の許容量が、京一の予想を遙かに上回っていなければ。


 結局、三本あった一升瓶は一つとして残らなかった。辛うじて、最後の一本を半分程度残すのみ。京一は殆ど飲んでいないから、実質龍麻が一人で二本半空けたようなものだ。
 そして、『ほろ酔い』どころか、何故かどんどん飲めば飲むほど強気になっていく龍麻の求めに逆らえず、酒を注いでいった結果。
「ビールがないならチューハイ!チューハイならあるだろー!」
 一見普通に喋っているのだが、実はとんでもなく酔っぱらっている龍麻に、散々手こずらされる羽目になったのだった。





「とにかく、もうこれ以上は止めとけ、な?二日酔いで明日一日寝て過ごす羽目になるぞ」
 これ以上飲ませてはまずい。
 どう考えても飲み過ぎだし、第一酔っぱらってごねられては大事である。
 しかし、必死の京一に対して、龍麻は平然としたものだった。
「二日酔い?んなの、した事ねーもん」
 けろりと言い放つ龍麻にこのうわばみと内心毒つきながら、京一は首を振った。
「これ以上飲んだら、間違いなく明日体験出来る。けど、実際これ以上酒はないから、飲めねーよ」
「だから、ビールかチューハイ…」
「ビールもチューハイも、ないの。お前、買い置きなんかしてないじゃんか」
 そう言われてやっと、龍麻はここが自宅であることを思いだしたらしい。
「そういや、買ってない…」
 やっと納得してくれたかと胸を撫で下ろしつつ、京一はさりげなく龍麻の肩を抱いて寝室の方に向けた。
「そうそう、だから、今日はここまでな」
 しかし龍麻はにっこりと笑うと、大きく頷いて言い放った。
「じゃあ、買ってくる」
「って、おい…!」
 勢い良く立ち上がろうとした龍麻と、肩に腕を回していた京一。
 流石に酔ってない分、京一の方に軍配が上がる。だが、京一もその動きを予想していなかった為、龍麻の身体はもろに京一の上に倒れ込んだ。ごちんという音が聞こえそうな勢いで額と額がぶつかり、京一の目に火花が散った。
「ってぇ………」
「…………っっ」
 痛みの余り一瞬閉じた目を開けると、龍麻の顔が驚くほど近くにあった。酔っぱらいにも流石にこれは効いたらしく、目を閉じて深い息を吐いている。小さく開かれた唇に、京一は目を奪われた。
 微かに上気した頬、濡れたように光る唇、痛みの為か、うっすらと雫を溜めた目がゆっくり開いて、京一を映す。
「きょういち…?」
 名を呼ばれただけでぞくりと走るものに、京一は息を飲んだ。
「ひーちゃ…ん?」
 意識せず掠れた声をどう聞いたのか、龍麻はふわりと笑って顔を寄せてきた。
「おぃ…」
 何か言う暇もあらばこそ、気が付けば柔らかい感触が京一の唇を塞いでいた。
 途端に濃厚な酒の匂いと共に、熱くて柔らかい塊が唇を割ってくる。
(ひーちゃん…っ)
 キスさえ恥ずかしいからと逃げがちな普段の龍麻からは考えられない積極性である。貪欲に口腔を貪ってくる龍麻に、負けじと京一も積極的に応じる。鼻につく酒の匂いすらも熱を煽る道具のようで、京一は頬を緩めた。
 思う様互いの唇を貪った後、名残惜しげに離れていく温もりに、京一は閉じていた目を開いた。
 目の前には先程よりも頬の赤味を増した龍麻の顔がある。それは、思っていた以上の艶めかしさで京一の欲を誘った。
「京一…」
 うっとりと囁かれる己が名に、京一の口元にも笑みが浮かぶ。
(よっしゃ、とりあえず予定通りーーッッ!)
 当初の予定からはちょっと違ったものになったが、結果良ければ全て良し。
 そう噛みしめるほど、目の前の龍麻の様子は京一を煽って止まない艶を含んでいる。
「ひーちゃん…」
 色づいて、重ねられるのを待っているかのような唇に惹かれ、それを啄もうとした京一はふと違和感を覚えた。
 首筋を引き寄せ、抱きしめようと思ったのに手が動かない。見れば龍麻の肘ががっちりと京一の腕を押さえ込んでいる。
「ひーちゃん?」
 何やら不穏なものを覚え、京一は龍麻を見上げた。
 立ち上がろうとした龍麻を京一が引き留めた形になったため、龍麻の身体は京一の上にある。京一を見下ろす形になった龍麻は、これ以上はない程の艶やかさでふわりと笑んだ。
「京一、でもいい、な」
「………は?」
 何を言われたのか解らず、思わず聞き返した京一に、龍麻は酷く嬉しそうに言葉を継いだ。
「酒が無いなら…京一でもいい」
 ハイ?
 オレガ、ドウシタッテ?
 言葉は間違いなく耳に届いているのに、どうしてもその意味が理解出来ない。
 固まる京一を余所に、龍麻は内緒話でもするかのように顔を寄せてきた。
「なんか、熱いけど…」
 言いながら、優しい仕草で京一の頬を撫で上げる。
「京一の肌は気持ちいい」
 ついでとばかりにぺろりと首筋を舐められて、ようやく京一は我に返った。
「ひ、ひ、ひひひひひーちゃん!」
「なに?」
「で、出来ればこの手、放して欲しいんだけど…」
 必死に動かそうと試みてはいるのだが、流石龍麻と言うべきなのか、体格では勝って居るはずなのに押さえ込まれた身体はぴくりとも動かない。
 まずい。
 このままでは、非常にまずい。
 焦りの余り裏返った京一の声に、しかし龍麻はにっこりと笑って言いきった。
「やだ」
「やだって…ちょい待ち…っ、ひーちゃん!」
 脇腹を柔らかく撫でられて、京一の抗議は途中で悲鳴じみたものになる。
 龍麻は相変わらずくすくすと笑いながら、
「別に、いいだろ?俺達一応付き合ってるってことになる訳だし、お年頃なんだからこういう気分になるのは当たり前、だし」
 と、首筋に顔を埋めてくる。
「ちょっと…待て!お前、酔ってるだろ!だからそんなこと…」
「なんだよ、京一が言ったんじゃないか」
 そう言われてやっと、京一はそれが先日龍麻に迫った時の自分の台詞そのままだと思いだした。その時は照れる龍麻に逃げられたのだが、しっかり覚えられている辺り、口説き方として良かったのか、悪かったのか。こんな場面でわざわざ繰り返されているとこをみると、後者の方が強い気がしたが、今はそんな事を言っている場合ではない。
 なんとかして龍麻の気を逸らさなければ、このままでは酔った勢いのまま押し倒されてしまう。実際は既に押し倒されているのだが、龍麻『に』可愛がられるよりは、龍麻『を』可愛がりたい京一としては、何としてもこの場を乗り切らなければいけなかった。
「そうだ、酒!酒買いに行こう、な?」
 京一の必死の訴えに、龍麻は目を細めて答えた。
「可愛いなぁ、京一は」
「かわ……」
 余りの言葉に絶句する京一に、龍麻はに、と人の悪い笑みを浮かべた。
「ここで止めちゃっていいの?……こんなになってるのに?」
 そう言って龍麻が示したのは、先刻のキスですっかり元気になってしまっている京一の下半身。
「え、あ、これは…っっ」
 咄嗟に隠そうにも、押さえ込まれてしまっている身ではそれも叶わない。
 慌てふためく京一を見て、龍麻は楽しそうに笑った。
「やっぱり、京一って可愛いよ」
「馬鹿言うな、俺は可愛くなんかねぇ!」
 キス一つで散々煽られたのだ。ここで認めたら本気で美味しくいただかれてしまう。
 だが、いくらもがいても龍麻の拘束は外れない。
「安心していいよ、ちゃんと気持ちよくしてあげるから」
「お前、意味解って言ってんのかよ、おい!」
「勿論」
「嘘だ、絶対わかってないっっ!」
 途端、ひやりと肌を刺す外気と共に、龍麻の手がシャツの裾を割って入り込んできた。
「わーっ、わーっ、待て!待てったら!」
「待たない。酒よりも京一が欲しいから」
 やけに嬉しそうな言葉と、目を奪われるような笑みと共に、龍麻の手がゆっくりと脇腹から下腹部へ下りていく。
 しなやかなそれが、太股に達し、もう駄目だと思わず京一が目を閉じたその瞬間。
 がくんと重たくなった身体に、京一は驚いて龍麻を呼んだ。
「ひーちゃん?」
 首筋に顔を埋める形で倒れ込んでいる龍麻の顔は見えないが、身体には先程までの重圧感はない。試しに腕を動かしてみると、必死にもがいても自由にならなかった腕はあっさりと動いた。
「―――龍麻?」
 慎重に呼びかけて、様子を見る。
 反応がない事を確かめて、京一は際どい部分に触れたままの龍麻の右手を引っ張り出した。
 ようやく自由になった両手で目の前の身体を抱き起こせば、さっきまでの勢いが嘘のような穏やかさで、龍麻はすうすうと寝息を立てていた。
「た、助かった…」
 ほっと息を吐いた京一だったが、そこで気が付いたのは、未だ元気なままの己の下半身。
「……………覚えてろよ」
 勿論、その憤りが向けられる相手は決まっていた。




 翌日、目覚めると目の前にいた京一に、龍麻は小さく目を瞬かせた。
「あれ?泊まっていったんだっけ?」
「覚えてねーの?昨日飲んだだろ?」
 そう言われれば、一緒に飲んだのだった。
 途中から今ひとつ記憶が定かではないのだが、確かに飲み始めたのは一緒だった。
「そういや、そうだったな。忘れてた」
「ひーちゃん、随分飛ばしてたもんなぁ…二日酔いとか平気なのかよ?」
「ああ、昔っから二日酔いにはなったことないんだ。代わりに、記憶が抜けちゃうことはあるんだけど…」
 言いながら昨夜の記憶を辿ってみるが、途中できっぱり抜け落ちてしまっている。どうやら、酒量が過ぎたらしい。苦笑する龍麻に、京一は窺うような視線を向けてきた。
「へぇ…じゃあ、昨日のも覚えてないんだ?」
「何かやったっけ?」
 過去に記憶がなくなるまで飲んだのは一度っきりなのだが、その時は一緒にいた相手に性格が変わってたと言われた事を思いだし、龍麻は眉を寄せた。
 何をやったのかはまるで覚えてないが、幸い、何か迷惑をかけたとしても昨日は京一だけの筈。
 取りあえず聞いて、謝ろうと構えた龍麻に告げられたのは予想もしていなかった言葉だった。
「俺が欲しいって抱きついてきた事とか」
「…は?」
 思わず聞き返した龍麻に、京一は淡々と告げる。
「俺を押し倒して、キスを仕掛けてきたのも覚えてないか?」
「ばっ…冗談だろ?」
「冗談なもんか、酒よりも俺が良いって、放してくれなかった。ひーちゃんって積極的なんだな」
 かっと顔面に血が上るのを感じ、龍麻は必死で記憶を探るが、どうしても思い出せない。
 覚えがないのではなく真っ白な事と、妙に真面目な京一の表情が、それが嘘では無い事を示しているようで、龍麻は呆然となった。
「う、嘘…」
 真っ赤になった龍麻を見て何を思ったのか、京一は一転、にやりと笑って顔を寄せてきた。
「お前酔ってたし、昨日はそのまま寝かしたけど、抜けたんなら問題ないよな」
 そのまま、ぐっと肩を引き寄せられる。
「酒抜きで、その辺の事を話し合おうぜ」
「ちょ、ちょっと待っ…」
「待たない」
 実は焦りを多分に含んでいる京一の態度の理由を、勿論龍麻は全く知らなかったのだった。