明るい午後の日差しが差し込む竜泉寺の一室で、文机を前に京梧はすっかり固まっていた。 「なんだ?これ」 目の前に並べられたのは、何冊かの書物と、硯に筆。
見れば用途は明らかなのだが、わざわざ口に出したのは、もちろん嫌味を込めてのことだ。しかし、そんな京梧のささやかな目論見など、勿論百合には通じなかった。 「見てわからないかい?手習いの道具さね。そんなこともわからないとくれば重症だねぇ」 あっさりと言う百合の言葉に、京梧の眉が吊り上がる。 「んなこた、わかってるっっ!俺が聞きたいのはなんでこれが俺の目の前に並んでるのか、ってことだっ!」 「決まってるだろ。あんたがやるんだよ」 軽くさらりと返されて、京梧が二の句が継げなくなっている間に、百合は龍斗に向き直った。 「雄慶に聞いたけど、緋勇くんはなかなか学があるそうじゃないか」 その言葉に、龍斗は軽く眉を寄せる。 「別に、そこまでは…」 しかし、百合は龍斗の困惑顔など歯牙にも掛けなかった。 「丁度良い。蓬莱寺の面倒を見てやっておくれ。あんたなら、雄慶に頼むよりはまともな結果が出そうだからね。頼んだよ」 「待てこら。なんで俺がンなことしなきゃなんねェんだよっ!」 「聞いたよ?小鈴と算術比べで負けたんだって?」 それを聞いた途端、京梧はうっと怯んだ。 「あ、あれは言葉遊びで別に負けたって訳じゃ…」 「あんまりな馬鹿を放り出しておくのも、龍閃組の恥だ。あんたは特に落ち着きがないからねぇ。ついでに少しは我慢も覚えてごらん?…その紙、全部埋めないと徹夜で本堂の掃除やってもらうからね。ま、がんばりな」 言い置いて、百合はすたすたと出ていってしまう。 「あ、こら待ちやがれっっ!誰が落ち着きがないだっ!」 呆然としていた京梧が我に返った時には遅く、既に百合の姿は廊下の角へと消えてしまっていた。 「…何をやったんだ?」 龍斗の向ける疑問の目に、京梧は気まずそうに目を逸らした。 「…ちょっと、小鈴の奴をからかったんだよ」 「からかう?」 「あいつが蕎麦ばっかりは嫌だとか言うから、そんなに量は食べてねェって反論してたら一つの器に入っている蕎麦の量の話になって…」 そこで京梧は言葉に詰まってしまう。一杯の蕎麦に何本の蕎麦が入っているかで論争になって、その計算で負けた等とは流石に正直には言いにくい。しかし、京梧の表情から、龍斗はおおよそを察してしまったらしい。 「…それで、算術の話になって桜井に負けた、と」 「う…」 ますます何も言えなくなった京梧に、一拍置いて龍斗は吹き出した。 「ぷっ、あははははっ」 「おっ、お前、何笑ってやがるっ!」 「だって…おかしいだろ?」 そう言われれば返す言葉もない。自分でも馬鹿をやったのはよくよく承知しているのだ。 「ったく…小鈴の奴なんかからかうんじゃなかった…」 眉を寄せる京梧に、龍斗は笑いながらその場に腰を下ろす。 「からかうつもりで返り討ちにされていれば、世話はないな」 「お前まで言うか…」 どんどん眉の寄っていく京梧に、龍斗は笑って文机の前を示した。 「ひとに教えたことなんてないけど、簡単な算術くらいならなんとかなる…と思う。桜井に言い負かされないくらいにはならないと、百合さんに怒られるぞ?」 「……俺はガキの頃から座ってする習い事は嫌いなんだよ」 「もしかして、『雄慶に頼むより』って…」 「あのクソ坊主からは逃げた」 「逃げた?」 「問答無用で首根っこ押さえようとするんだぜ?鬱陶しいからちょっと蹴ったら、あいつ、蹴り返してきやがってよ。そんでまあ、そのまま…」 「……その様子が目に浮かぶな」 溜息を吐いて額に手を当てた龍斗に、京梧は逆に胸を張る。 「まあ、なんだ。そういう訳で、俺にゃ手習いなんかより、身体動かしてる方がずっと良いンだよ」 立ったまま、身体半分が既に逃げている京梧に、龍斗はちょっと肩を竦めた。 「さっき、百合さんが何て言ってたか、覚えてるか?」 「ん?何てって…」 この紙、と龍斗は文机の上の紙束を持ち上げて見せた。 「これを埋めなきゃ、徹夜で本堂掃除って言ってなかったか?」 「………」 「ここでお前を見逃したら、俺もとばっちりを食う気がするんだけどな?」 そう言いながら、龍斗はにこやかに再び京梧を促した。 「俺も、徹夜掃除は勘弁して欲しいから、手習いの前に身体を動かしたいのなら付き合うぞ?」 言外に、逃げれば容赦なく拳が出ると匂わされて、京梧は渋々その場にどかりと腰を下ろした。 「…ちっ。やりゃあいーんだろうがっ!」 例え醍醐の時と同じように仕掛けたとしても、一暴れした後はさっぱり手習いの件を忘れてしまった醍醐と違い、龍斗は恐らく覚えているだろう。 それに、未だ京梧は龍斗の技を見切れてはいない。勿論、負ける気はさらさら無いのだが、本気で相対すれば苦戦することは想像に難くなかった。長引けば、今、竜泉寺(ここ)では京梧に分が悪い。 渋い顔ながらも筆を取った京梧に、龍斗も苦笑して書物を手にとって広げた。
「……お前、なんでこんなこと知ってるんだよ?」 「お前こそ、全然わからないって訳じゃなくて、基礎は押さえてるじゃないか。何故そこからが出来ないんだ?」 半時ほど額を付き合わせて机に向かい、一段落付いたところでお互いに顔を見合わせて出た言葉はそれだった。 「俺は大昔に無理矢理やらされたからな…。もう忘れてると思ってたのに、結構覚えてるもんで……じゃなくて!お前だよお前!」 京梧はびっと龍斗を指した。 「なんでこんなややこしい代物をぱっと見ただけでわかるんだ?」 京梧に説いている間、龍斗は書物を殆ど見ることもなくすらすらと答えていた。こちらの方面には門外漢…というか、逃げ回っていた自覚のある京梧だが、龍斗の知識が深いことはその応答を見ていればわかる。 人を見た目で判断するわけではないのだが、どうにも龍斗はそんな風には見えない。良く洗ってはあるが、痛みの目立つ白い胴着に、顔を半分以上覆っている無造作に伸ばされた髪。雰囲気は不思議と清冽なので人の不審は誘わないが、とてもすらすらと算術や漢文を諳んじるようには見えない。 「俺は独学だから、そんなにたいしたものじゃない。昔はやることがなかったからな…」 「やることがなかった?」 「俺は、人のあまり居ないところで育ったから」 そう言う龍斗の顔を、京梧は不思議そうに見つめた。 「お前、面白いよなァ。本当に」 龍斗がそれを聞いて呆れ顔になる。 「なんだよ、それ」 「見かけに寄らず腕っ節が立つのにも驚いたけどよ…」 見かけに寄らず、という部分で龍斗が軽く京梧を睨む。それを片手で宥める仕草で京梧は続けた。 「喋らないかと思ったら、時々すげぇ鋭いこと言うし、今度は算術やら漢文やらを読んでるだろ?こう、なんて言やァいいのか、不思議な感じがする」 「それはお互い様だと思うけれど?」 返ってきた言葉に驚けば、龍斗は面白そうに京梧を見つめ返した。 「初対面でいきなり団子奢ってくれたかと思えば、次は木の上から登場するし。剣術馬鹿かと思ったら、意外なことを知ってたりするし。俺に言わせれば、お前だって相当不思議だ」 今度は京梧が、龍斗の言葉に反応する。 「剣術馬鹿って、お前なぁ…」 「違うのか?」 「いや、違わねェけどよ」 京梧がどこまでも求めているものは剣の道の果てにあるものだ。それは否定しないが… 「馬鹿、まで言うか?」 唇を曲げた京梧に、楽しげに龍斗が笑った。その拍子に、黒髪が揺れて闇夜の彩を宿した印象的な瞳が覗く。 ふと気になって、京梧はそれに手を伸ばした。 「蓬莱寺?」 訝る龍斗を気にせず、邪魔な髪を指に絡ませてかき上げる。 額と瞳を露わにしただけで、印象が段違いに違う。髪を下ろした状態でも印象的な眼差しが、露わになると本当に強くなる。
綺麗だと。
そんな言葉が素直に浮かんでくるほど、龍斗の容貌は京梧の目を奪った。 「お前、なんで髪伸ばしてんだ?」 「なんでって…別に、単に面倒なだけだけど…」 困惑した風の龍斗は、しかし京梧の手を制しようとはしない。それをいいことに、京梧は更に髪の中に指を差し入れて滑らせた。 「これ、もうちっと切った方が良かねェか?」 「どうして?」 「そっちの方が、俺の目に楽しいから」 龍斗の眉が、僅かに寄せられる。 「…一応確認しておくが、俺は男だぞ?」 「んなこたァ、わかってるさ。けど単純に、見て楽しいのは良いことじゃねェか?」 京梧の答えに、一瞬目を見開いた龍斗は次の瞬間ゆっくりと頬を緩めた。 「やっぱり、お前の方が不思議だ」 そう言って笑う龍斗に、京梧も笑顔になる。 「お前だって十分不思議だぜ?龍斗」 「だから、お互い様だって―――京梧」 戯れのように名前を呼び合うだけの事が無性に楽しくて、京梧は髪に絡ませた指を頬にも滑らせてみる。 「髪も、だけどよ。格好ももう少し…面白味のある格好が見てみてェな。その格好、あんまりにも野暮ってモンだぜ?」 「京梧は一目でわかるよな。けどちょっと恥ずかしい気もする…」 「なんだよそりゃ?俺が恥ずかしい格好だって言いてェのかよ?」 不満そうに言いながらも、京梧は怒っている訳ではない。龍斗が何か喋る度に頬が微妙に揺れるのが心地良いのだ。 「いや、お前は似合ってるからいいけど、俺は多分、そんな格好は似合わない」 「着たことあんのかよ?」 「……ないけど」 「じゃあ、わかんねェだろが。今度見に行こうぜ?」 子供のように言う京梧に、龍斗が笑って…そして、撫でられる頬に気持ちよさそうに目を閉じる。それを見た京梧も口元を緩ませて更に頬の感触を楽しんでいた、その時。 「お、お主達、何を…」 開いたままの襖越しの廊下から、醍醐がぽかんと口を開けてこちらを見ている。 醍醐の姿に、現在の自分の状況を思い出した京梧はわざと不機嫌な声で応じる。 「何って、見りゃわかるだろ?あの怖ェ女がちょっとは学もねェとってうるせェこと言うから、こんな面倒やってんじゃねェか」 「見れば…とは…しかし…」 赤面し、狼狽えたように声を上げながらもその場から動かない醍醐に、龍斗も不思議そうに声を掛ける。 「どうしたんだ、醍醐?」 「いや、その…緋勇殿。お主はどうして…」 「どうしてって…」 龍斗は苦笑いを浮かべた。 「百合さんに、面倒見てやってくれって頼まれたんだ。醍醐が百合さんに推薦してくれたお陰でね」 その言い草に、京梧が不満そうに唇を尖らせる。 「龍斗、お前な。その言い草はねェだろうが」 しかし、目が笑っているのは龍斗にもばれているようで、応ずる龍斗の言葉も軽い。 「最初、逃げようとしたのは誰だったっけ?」 「…それは言わねェ約束って奴だろが」 「いつ、そんな約束をしたかなぁ?」 「…お前な」 楽しげに笑う龍斗に、京梧も建前の渋面を投げて笑顔になる。しかしそれを見ていた醍醐だけは相変わらず引きつった表情のままだった。 「お主達、やはり…」 「………?」 硬直したままの醍醐の視線の先を辿って、ようやく京梧は自分の手が龍斗の頬に掛かったままなのを思い出した。 ようやく、醍醐が何に対して固まっているかを理解した京梧の脳裏に、ちょっとした悪戯心が閃く。 「ま、お前に教えて貰うより、龍斗に教えて貰った方が楽しいしな」 そう言って、龍斗の頬に当てた手を首に回してぐいと引き寄せる。 「京梧?」 不思議そうに首を傾げる龍斗に、醍醐からは見えない位置で悪戯っぽく笑って見せて、そのまま襟足の髪に指を絡ませる。 「調子よく進んでたから、ちょっと一息入れてたんだよな?」 京梧の意図を読んでいるのかいないのか、龍斗が呆れたように言う。 「俺の髪を触るのが息抜きか?」 「手触りがいいからな」 「……本当に、変な奴」 呆れたように言いながらも、龍斗はやはり京梧の手を払いのけようとはしない。指の間を滑る髪の感触が本当に心地よくて、京梧が醍醐の存在を忘れかけた時、醍醐が吠えた。 「いかんっっっ!」 ばりっと音のしそうな勢いで座る二人の間に割って入った醍醐は、龍斗に向き直って切々と訴えた。 「お主が学があるというのを時諏佐先生に話したのは確かに俺だ。しかし、その為にお主に迷惑が掛かる事など、断じて見過ごしには出来ん!」 いきなり熱く語り始めた醍醐に、龍斗はただ、目を丸くしている。 「醍醐?」 「俺の思慮不足の為に、お主に万が一のことがあれば、何と詫びていいかわからない。本当に、済まないことを…」 蕩々と喋る醍醐に、京梧が不思議そうに突っ込んだ。 「万が一ってのは、どういうこった?」 途端に、醍醐の身体が強張る。 「何が、万が一なのか聞きてェな。鬼と斬り合ってる最中ならわかるが、手習いの最中に何の万が一があるんだ?」 勿論、醍醐の危惧など解ってはいるのだが、あくまでそれは顔に出さずにおく。 それに同調するかのように、龍斗が追い打ちを掛けた。 「醍醐、何か、気になることがあるのか?」 京梧のそれは演技だが、龍斗の表情は本当に不思議そうなもので、余計に醍醐の身体の強張りは酷くなる。 「いや、それは…」 しどろもどろになる醍醐に、京梧は最後の止めを放つ。 「何でもねェんなら、もういいだろ。続き、やろうぜ。龍斗」 そう言って間に入った醍醐の身体越しに龍斗の腕を引けば、龍斗が少し目を見開いた。 「随分、さっきとちがって積極的だな?」 「へへっ、お前が教えてくれるなら、結構いけるかも…って思い始めたとこ」 「そりゃ良かった。徹夜は回避できそうだな」 笑う龍斗の邪気のない言葉に、京梧は渡りに船と乗る。 「まあ、たまには夜通しってのも、悪くないと思うけどな?」 「俺は遠慮したいよ。それじゃ…」 「待て待て待て待てっ!」 机に向かおうとした龍斗を、醍醐が必死の形相で引き留める。二人の会話から何を想像したのかは知らないが、その表情から大体の所は読める。 先日、思い切り蹴り合った相手の必死の形相に、京梧は内心の笑みを押し隠すのに苦労した。 「どうした?醍醐?」 「今日は俺がこいつの面倒を見よう。幸い、先生に頼まれた所用も済んだところだ」 何かを堪えるような表情で言う醍醐に、龍斗は少し眉を寄せながらも首を振った。 「そうか?けど、よろしくって頼まれたからな。この紙、埋めないと俺も困るし」 「な、ならば、一緒に見よう。この男、目を離すと逃げ出すやもしれんしな」
必死の醍醐に、龍斗はひたすら目を丸くし、京梧はその大きな体の影でくつくつと笑った。先日の溜飲を下げた気分で、自然に笑いが漏れてしまう。これで、徹夜で掃除の暁には醍醐も一蓮托生だ。 「仕方ねェなァ。仕方ないからお前も入れてやる」 京梧がわざとらしく勿体をつけて言えば、醍醐の眦が吊り上がった。 「お主、教えを請う立場にありながら、態度が大きいのではないか?」 「へっ、別にお前に教えて欲しい訳じゃねェからな」 「…良い返事だな」 「てめェこそ」 「元はといえば、貴様が…」 「俺がなんだって?言ってみろよ?」 「ぐっ…き、貴様…」 「おゥ、やるか?」 睨み合った二人を、龍斗が呆れたように一喝する。 「二人とも!喧嘩をするなら…」 「す、すまぬ、緋勇殿!」 「あー悪かった!ちゃっとやるって!」 慌てて筆を取りながらも、京梧はその指に残った髪の感触に唇を緩めた。 滑りの良い髪と、その下の鮮やかな瞳。白い額。 醍醐が居なければ、もう少し触れていたかったという本音は口にしない方が良いのだろう。
―――今は、まだ。
「蓬莱寺、間違えておるぞ」 「っせェなァ、一々言うなって」 「だからお前は、もう少し謙虚になれないのかっ!」 「やかましい、クソ坊主!」 「何だと、この鈍ら剣士が―――」 「だから、もう少し静かにやれって言っているだろう!」 竜泉寺の一角に、賑やかな声が響く。 算術に励む3人は、極めた暁には百合から溜まった帳簿の整理が回ってくる事を、知る由もなかった―――
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