「ひーちゃん」
 いつもとは少し色合いの違う声で名を呼ばれて、振り返ろうとした時には既に、京梧は頬を寄せてきていた。あっという間に抱き込まれて唇を塞がれる。一瞬、反射的に肩を押し返そうとした龍斗だったが、拘束してくる腕の力に、諦めて力を抜いた。こうなってしまうと、京梧が満足するまで放さない事は経験上承知してしまっている。龍斗の身体から力が抜けた事を感じたのか、回されたの腕の力が少し緩む。
 合わせた唇を割るように、ぬるりとした舌が入り込んでくる。絡め取るように口腔を探られて、龍斗はぎゅっと目を閉じた。
 京梧にこんな風に触れられるのは初めてではない。それなのに、どうしても慣れる事は出来ない。それどころか、最近では何か、酷く落ち着かなくなってしまう気がして、余計に緊張してしまう。
「ふ…っ」
 性急に絡む舌先とは裏腹に、背中を柔らかく撫でられて、龍斗は咄嗟に掴んだ京梧の袖を強く引く。しかし京梧は一向に放してはくれなかった。
「ん…んんっ…」
 時折零れてしまう声は掠れている上に妙に甲高く、とても自分のものとは思えない。押し寄せる感覚を何と表現すればいいのかわからないが、平静でいられなくなることだけは確かだった。
 力が抜け、立っていられなくなった頃にようやく、京梧は龍斗を解放した。そのまま京梧の肩に頭を乗せて息を整えていると、髪を京梧の手が柔らかく撫でていく。
「平気か…?」
「ん…」
 その手が心地よくて目を閉じた龍斗だったが、その時間は長くは続かなかった。触れてきた時と同じくらい唐突に、その温もりは離れていく。
 目を開ければ、既に京梧は何事もなかったかのように京梧は前を向いていた。
「この辺で見回りは切り上げてよ、蕎麦でも食いにいこねェか?」
 いつもと変わらない口振りに、先刻の熱っぽさはまるでない。
「……そうだな」
 こちらも、努めて何事もなかったかのように返事を返しながら、龍斗は小さく溜息を吐いた。



 京梧が、こんな風に龍斗に触れてくるのは、最近では珍しい事ではない。
 それは、少し前のある出来事が切欠だった。
 その頃京梧は、龍斗に関わる事で何事か悩みを抱えていたらしい。その為か、吉原に行ったなり戻ってこなくなってしまったりして、龍斗は随分とやきもきした。結局、その『悩み』がなんであるか、龍斗は知らないままなのだが、問いつめた龍斗に対して、京梧はそれはもう忘れてくれと言い…それから、こんな風に触れてくるようになったのだ。
 予告もなにもなく、引き寄せられて唇を塞がれたり、強く抱き締められたりされるのには最初、随分驚かされた。してもいいかと聞かれて、同意したのは確かだから抗う気は無いのだが、それにしても心臓に悪い。最近はそれにも随分慣れたのだが………
「ん、どした、ひーちゃん?」
 そう訊ねられてはじめて、自分が京梧の顔をじっと凝視していた事に気が付いた龍斗は、慌てて視線を逸らした。
「別に、なんでもない」
 そういいながら、本当はそうではない。
 抱き込まれた力の強さはちゃんと残っているし、唇は未だ熱いままだ。そして、全身を包む言い様のない感覚。
 熱っぽくて、息苦しい。
 仕掛けてくる京梧は平然としているのに、どうして自分だけがこんなに落ち着かない気分になるのか、龍斗にはわからなかった。
 おまけに、もう一つ、気になる事もある。
「じゃあ、行くか」
 そう言って京梧を窺えば、京梧はちょっと笑って頷いた。
「ついでに、冷やでも引っかけようぜ」
 しかし、京梧の視線は少し逸れていて、龍斗を映してはいない。いきなり龍斗を捕まえて、好きなように振る舞って平然としている癖に、視線だけは合わせようとしない。それが、どうにも龍斗には気になってしまう。
 あの時、聞かないと決めた『理由』。
 京梧が抱いていた、龍斗に関する『悩み』。
 こんな時、それを問い質してしまいたい気持ちになる。
 まだ、何か悩んでいるのかと。気になる事があるのならはっきり言ってくれと。
 このままもやもやしたものを抱えたままでいるくらいなら、もう一度きっぱり話を付けた方がましだ。
 ………今度こんなことがあったら、ちゃんとした方がいいのかもしれない。
 密かに胸の裡に決意を仕舞うと、龍斗は少しだけ先を行く京梧に追いつこうと足を速めた。


 蕎麦を啜る龍斗をそっと窺って、京梧は小さく息を吐いた。湧き起こった情動は何とか押さえ込めたが、正直辛さは増してきている。なまじ、知ってしまった分、段々我慢がきかなくなってきているのかもしれない。かといって、知らなかった頃にはもう戻れる筈もない。京梧の視線に気づいたのか、笑顔を向けてくる龍斗に笑みを返しながらも、京梧の心中は複雑だった。
 安心して背中を預けられる相棒であると同時に、誰より京梧の熱を煽ってくれる相手。想いを自覚したのは早かった。
 しかしこの相手は実に難物だった。色事にはとことん無縁な龍斗に対して、どういう風に出ればいいのかわからずに、京梧はかなり悩まされた。結局、煮詰まった挙げ句、衝動で抱きしめてしまったのだが、信じられない事に、それでも龍斗には通じなかった。好きだと告げれば、当たり前の事を言うなとばかりに笑われる。少なくとも、嫌悪を抱かれていないのは確かなのだからと、開き直った京梧は実力行使に走ったのだが―――
「結局、余計やばくなってる気が…」
思わずぽろりと零れた本音を聞きとがめて、龍斗が箸を止める。
「何か言ったか?」
「な、何でもねェよ」
「……なら、いいが」
 首を振る京梧を少し疑わしげに眺めた龍斗は、小さく肩を竦めて再び箸を動かす。その指先にすら目を止めてしまいそうな自分に、京梧は頭が痛くなった。
 何も知らないのなら、こっちが教えてやればいいと思った。実際、先刻のように、抱き寄せて口づける所まではもう何回も仕掛けてみた。
 しかしその先―――『それ以上』にはどうにも踏み込めないのだ。
 京梧が仕掛けるこの行為を何と思っているのか、龍斗にはあまり反応がない。嫌がるでも照れるでもなく、妙に大人しい事が逆に京梧の動きを縛っていた。
 もし、最後まで押し切っても今のままの反応しか帰ってこないとしたら。
 身体を繋げてもなお、まるで変わりなく、仕方ないなぁというような素振りで流されてしまったら……
 そんな展開など考えたくもないが、恐ろしい事に可能性はある。今でも、口付けても殆ど抗わないし、抱き寄せても、腕を回すでもなく只大人しくされるがままになっている。そんな龍斗ならば、あり得ないとは言い切れない。
 別に、身体だけが欲しいのなら拘る事無く手を出すのだが、京梧はそれだけが欲しい訳ではない。龍斗にも同じように、自分を見て欲しいのだ。
 それ故に、踏み出す事を躊躇ってしまう―――
 箸を止め、自分の考えに沈んでしまった京梧は、その様子を龍斗がじっと見ている事に気づかなかった。



 蕎麦屋を出てからも、京梧の気鬱は晴れなかった。何故か龍斗も黙り込んでいるので、自然空気は重たいものになる。殆ど惰性で寺の前まで戻った時、龍斗が口を開いた。
「……京梧、少しいいか?」
「あ、ああ…どしたよ、ひーちゃん?何か…」
 気になる事でもあるのかと言いかけて、京梧は龍斗の顔を見て絶句した。
「少し、話があるんだ」
 その顔に浮かんでいるのは、何処か張りつめたような、挑むような表情。先日、『朝帰り』を咎められた時と同じ、思い詰めたようなそれに逆らえる筈もなく、京梧は龍斗に促されるまま、その後に従った。

 竜泉寺の敷地には、鐘突堂やら古い離れ等もある。本堂から死角になるその離れの軒下に京梧を座らせると、龍斗はその前に膝を突いた。そんな構図まで以前と同じで、京梧の背を冷や汗が流れていく。あの時のように迫られたら、また同じように箍が外れてしまいそうだ。
 しかし案の定、龍斗の口から出たのは、京梧が危惧していたまさにそのことだった。
「京梧…お前、また何か隠してないか?」
「隠す、って…別に…」
「誤魔化すな。ここのところずっと、お前の様子はおかしかったじゃないか」
 その指摘に、京梧は思わず舌打ちを漏らす。それを聞き逃さなかった龍斗の表情は更に厳しくなった。
「…やっぱり」
「ちょ…違うってひーちゃん!」
「違わない。今のお前、図星だって顔をしていた」
 言い切られて、京梧は怯んだ。その様子に、龍斗は深い溜息を零す。
「やっぱりお前…何か俺に言いたい事とか、あるんじゃないのか?」
「………」
 藪蛇が怖くて何も言えない京梧に、龍斗は目を伏せた。
「このあいだから、気になってた。もう聞かないつもりだったけど、やっぱり…お前、おかしいままだし。はっきり言えよ。でないと…もうどうしたらいいのかわからない」
 その言葉に妙な違和感を覚えて、京梧は片眉を上げた。
「あれからずっと、俺に何か………不満があるんじゃないのか?それを言えずに…あんなことしてくるんじゃないのか?」
「はぁ?」
 訳が解らずに顰めっ面になる京梧に対して、龍斗は淡々と続ける。
「前にも言ったよな?至らない事があるならはっきり言ってくれって。お前、やっぱり言えなくて、だから代わりにあんなこと……」
「ちょっと待て。代わりってなんだ、代わりって!」
 確かに、『言葉では伝えきれないもの』ではあるのだが、龍斗の物言いは京梧の思惑とは違う色彩を帯びているように聞こえる。果たして、龍斗の顔には、毅然とした中にもどこか切なげな表情が浮かんでいた。その顔には覚えがある。以前、京梧を問いつめた時そのままの顔だ。
「そうじゃなきゃ、何だっていうんだ?いつもいきなり引っ付いてくるかと思えば、急に突き放すみたいに…俺ばっかりおかしくなってるのを、知っててやってるんじゃないのか?自分は平気な顔して、人が我慢してるのを見てるのは狡い…」
「ひーちゃん!」
 段々勢いの出てきた言葉の中に、聞き捨てならないものを耳にして、京梧は龍斗の肩を思い切り掴んだ。
「な…」
 驚く龍斗に構わず、京梧は慎重に言葉を選んだ。
「今…我慢してるって、言ったよな?」
 そう問えば、龍斗は眉を寄せて京梧を睨んだ。
「お前…嫌味かそれは」
「じゃあもしかして、ちょっとはその…俺の事意識したりした?」
「意識?」
「その、俺の事考えたりとか…」
「知っててやってるんだろう。それをわざわざ確認するってのは、本気で喧嘩を売ってるのか?」
 しかし、怒りの垣間見える言葉も、その時の京梧の耳には届かなかった。届いたのは、ただ一点。
『龍斗もまた、こちらのことを意識して、動揺している』
 その事実だけが頭に真っ直ぐに入り込み、京梧は歓喜の余り歓声を上げた。
「おっしゃーっっ!!」



 いきなりの絶叫に驚いて身を離そうとした龍斗だったが、京梧の手は龍斗の肩を強く掴んだまま、離そうとしなかった。
「ちょっ、京―――」
 痛いから離せと、言いかけた言葉はあっさり遮られた。顎を捕まれて有無を言わせず唇を奪われる。噛み付くような勢いで口腔を貪られ、予期していなかった分簡単に息が上がって、龍斗は京梧の腕に縋り付いた。そのまま、強かに床に押しつけられる。
「京梧!」
 胸を叩いてようやく引きはがしたものの、人の話をまるで聞いていない風の京梧に、龍斗が整わない息もそのままに抗議の声を上げる。しかし、京梧は構わずずいと龍斗の眼前に迫った。
「龍斗」
「な…なんだよ」
 その勢いに飲まれる龍斗に、京梧はきっぱりと言い切った。
「やっとわかった。要は足らなかったってこった」
「足らないって…」
 何がと問い返しても、京梧ははっきりと答えない。その代わりのように強く抱き込まれて、只でさえ不意打ちを食らって動揺しきりの龍斗の心臓は、余計に落ち着かなく騒ぎ出してしまう。京梧に気づかれるのが嫌で暴れた龍斗だったが、抱き込む腕はまるで鋼の強さだった。そうして、慌てる龍斗とは対照的に上機嫌な京梧は首筋に顔を埋めてしみじみと呟いた。
「そうだよな、妙に腰が引けてたのが悪かったんだ。そうわかってりゃ話は早ェ」
「だから、何だ。一人で納得するな!」
 喚く龍斗に、京梧はやっと顔を上げる。
「安心しろひーちゃん。おかしくなってんのはお前だけじゃねェよ。それどころか、我慢にかけちゃこっちが確実に上だ。だからもう、ヘンな遠慮は止めにすらぁ。今度は止めねぇ。って言うか…」
 頭が着いていかずに固まる龍斗に、京梧はにやりと笑いかけた。
「泣いても喚いても、止めてやんねェよ」


 前の合わせを割って入り込んできた手は、執拗に胸の尖りを引っ掻いている。その度にそこからざわざわと何かが這い上がってくる気がして、龍斗は必死に身を振った。しかし相変わらず、京梧の腕の力は強く、とても逃げ切れるものではない。もう片方の手は背中を緩やかに、しかし逃げを許さないように撫でていて、そこからもざわりと沸き上がる感覚がある。
「は…っ」
 堪らず漏らした息は、思いがけず大きく響いて、龍斗の身を竦ませる。それに気づいたのか、京梧が耳元に唇を寄せてきた。
「楽にしてろよ?きつかったらそう言えばいいから」
 言葉の中身よりも、耳元にかかる息の熱さに震えて龍斗は必死で首を振った。
「別に……っ」
 そう、好きにしていいと言ったのは自分だ。一度約束したからには違えるつもりは龍斗には無かったし、何より、京梧の真意が知りたかった。回される腕を受け入れる事でそれが解るのなら、こんなことはなんでもない。
 けれど、次第に霞がかかってくる意識にはどうしても戸惑いを覚えてしまう。触れてくる京梧の指や、唇が生み出す微妙な感覚は、まともにものを考える事を酷く難しくするのだ。
 これまでにも、京梧に抱き込まれ、唇を貪られる事はあった。しかし、いつも微妙なところで解放され、こんな風に追いつめられた覚えはない。
「平気、だから…」
 必死に紡いだ言葉に、京梧は何故か小さく笑みを零す。
「平気、ねぇ…」
 窺うように見つめてくる視線を意識してしまい、慌てて視線を逸らし、目を伏せた龍斗だったが、それも長くは続けられなかった。何時の間にやら解けていた帯を潜るようにして、京梧の指が滑り込んできたのだ。
「な…っ!」
 驚いて見上げた先には、京梧のからかうような、けれど恐ろしく真っ直ぐな眼差しがあった。
「嫌、か?」
 そう訊ねられて、龍斗は動けなくなる。
 一度承知した事だから、約束だからと頭の中にはそんな言葉が渦巻いているが、それも、この眼差しの前には言い訳にしかならない気がした。熱い何かを滲ませるその視線は、龍斗の返事を待ってはいるが、多分制止する事は出来ないだろう。そう確信するほどに、龍斗を捕らえる京梧の腕は強く、更に腿の辺りを彷徨う指の微妙な感覚は龍斗の肌を粟立たせた。
 そんな風に触れられれば、耐えられなくなってしまう。
「い…っ」
 反射的に出た拒否の言葉を、何とか押さえ込み、
「や…じゃ…」
 言いかけたものの、それは溜息にしかならなくて、龍斗は緩く首を横に振った。それを見た京梧が緩く笑った。
「そう…任せとけ。快くしてやっから」
 同時に、京梧の指が、熱を蓄えている部分に絡みつく。
「あぁっ」
 今度ばかりは声を殺しかねて、龍斗は声を上げて仰け反った。反射的に逃れようと身を振ったものの、それは京梧には予想済みの事だったらしい。首筋に緩く歯を立てられて、知らず身体が震える。同時に中心をきつめに握り込まれて、目の前が真っ白になった。
「あ…あぁ…」
 一度零れた声はもう抑える事が出来ず、その掠れた声から意識を逸らそうとすれば、捕らわれた自身が、京梧の指をぬるりと湿らせていることに気づいていたたまれなくなる。
「きょう…ご…っ」
 名を呼んでみたものの、何を言えばいいかわからずに龍斗は唇を戦慄かせた。
「どした…?」
 窺うように覗き込んでくるものの、京梧も指の動きを止めない。裏側を柔らかく撫でられて、龍斗は堪らなくなった。
「京梧!」
 強めに叫べば、京梧は目を細めて龍斗の額にかかる髪をかき上げた。
「止めるか?」
 その問いに、龍斗はぎゅっと目を閉じた。

 違う、そうじゃない。
 そうじゃないのに、どうしてこんな―――

 自分でも何を求めているのかわからなくなって、龍斗は目の前の着物を鷲掴みにして、下の肌にきつく爪を立てた。加減もなしに掴んだそれが流石に痛かったのか、京梧の動きが止まる。ほっと息を吐いた龍斗は、触れた肌から伝わる早い鼓動に気づいてそっと目を開けた。
 予想通り、そこにあった京梧の顔には、見た事のない表情が浮かんでいた。僅かに紅潮した頬と、龍斗を見据える眼差しには今まで見た事のない艶がある。
 魅入られたように動けない龍斗の手を取って、京梧は戯れるように舌を這わせる。
 その濡れた感触に、どくんと一つ大きな鼓動が鳴った。
「あ……」
 はっきりと感じたその変化に龍斗が狼狽えるより早く、京梧が覆い被さってくる。
「龍斗…っ」
 足を抱えられたかと思うと、濡れた指が奥の蕾に触れる。
「な…んっ」
 自分自身ですらまともに触れないような部分に、京梧の指は容赦なく入り込んだ。
「ちっと…我慢してろよ」
「そ…んな…っ」
 閉じたそこを押し広げるかのように掻き回されて、息が更に上がる。
「い…ぅん…っ」
「楽に、してろ」
 そう言われても、簡単に出来るはずもない。羞恥と、押し寄せる熱に翻弄されて、もうまともな声も出なかった。
「………っっ」
 唇を噛んでひたすら耐えていると、不意に指が離れていく。
「いいか…?」
 その問いの意味が龍斗の頭に染みるのを待たずに、熱く猛った楔が散々慣らされた場所に押し入ってくる。
「い…っ!あああっっ」

 熱い。
 熱くて、それから苦しい。
 そうして、息が詰まりそうなくらい、何かに身体全体が急いている―――

 声もない龍斗の唇に、そっと触れるものがあった。
「龍斗」
 啄むように何度も触れてくる唇も熱かったが、労るように繰り返されるそれは少しだけ龍斗を落ち着かせた。
「ん…」
「龍斗…」
 幾度も名前を呼ばれるのがくすぐったく、龍斗はほんの少し唇を緩めた。
「ひーちゃん…」
 もう一度呼ばれて、額に唇を落とされる。次の瞬間、予想も出来なかった激しさで揺すぶられて、龍斗は悲鳴を上げた。
「ひぁ…あああっっ!」
 痛みに身を捩れば、宥めるように自身を握り込まれる。響く湿った音が、自身のそれか、それとも、本来なら濡れる筈もない繋がった部分からなのか。
 どちらかもわからないまま、龍斗は掴んだ腕にきつく爪を立てた。



「ひーちゃん?」
 声が落ちてきて、京梧がこちらを窺っている気配がする。
 しかし、どうしても腕を外す気にはなれなくて、龍斗はそのまま答えた。
「なに?」
「なに、って…大丈夫か?」
「別に何も…平気だ」
 本当は平気どころの騒ぎではない。あまり考えたくないような部分がずきずきと痛みを訴えているし、一応拭き取ったものの、下腹から足にかけては、とてもまともに見れたものではない惨状の名残が残っている。
 しかし、それよりもなによりも、今はまともに京梧の顔を見るのが怖かった。努めて平気な風を装っても、ようやくまともに頭が働くようになったのはついさっきのことで、それまで自分がどんな醜態を晒したのかすら、覚えていない。覚えてはいないが、まともに考えたら憤死ものだというのは、わかる。
 手っ取り早くここから逃げだそうにも、まともに立てるかわからないという体たらくである。平気だと言い切ったのに、この有様では京梧にどんな顔をしていいのかわからない―――
 だから、ここは有耶無耶に誤魔化してなんとかやり過ごそうと決めた龍斗だったのだが、京梧はそれを許してはくれなかった。
「ひーちゃん…」
「な…っ」
 覆い被さってくる重みに驚いた龍斗が顔を上げた先には、何故か満面の笑みを浮かべた京梧の顔があった。
「………っっ」
 ここのところ、目にする機会がめっきり減っていた、屈託のない笑顔。
 龍斗の好きな、顔だった。
 かっと頬に血が上るのが自分でもわかる。動揺を見られたくなくて顔を背けようとしたのだが、京梧はそれを許してはくれなかった。
「へへへ…ひーちゃん真っ赤」
「ちょ、ちょっと暑いだけだ!くっつくな!」
「いいだろ?さっきはもっと引っ付いてたんだし」
「…………っっ!」
 何か言い返してやろうと思ったのだが、上手く言えずに龍斗は京梧を睨み付けた。しかし京梧は全く意に介さず、龍斗の頬に唇を寄せて囁いた。
「また、やろうな」
「何を…」
「今度は…さ、もっともっと快くしてやっから」
「もっと…って…」
 『もっともっと』というのが想像もつかずに目を瞬かせる龍斗に、京梧は楽しそうに囁いた。
「な?また…やろうぜ?」
「これ以上、何を…っ」
「していい…つったよな?」
 楽しげに断定されて、龍斗は返す言葉を無くしてしまう。京梧の、何とも言えぬ嬉しそうな表情を見ているうちに、龍斗の身体から力が抜けた。
 正直恥ずかしいわ痛いわで二度としたくはない経験だが、京梧のこんな顔が見られるのなら、それも我慢してもいい……かもしれない。
「けど…」
「うん?」
「こんなに動けなくなるなんて、お前言わなかったじゃないか」
 そう言って多少の恨みを籠めて睨めば、京梧は少し目を見開いて、それからにっと口の端を上げて頷いた。
「―――了解。今度は気をつける」
 気をつけて何とかなるものなら、最初からしろと言えば、京梧はまるで気にしていないように笑って、頬を寄せてくる。
 未だ赤いままの頬を隠すように、龍斗は慌てて顔を背けながら、何故か暖かい胸に少しだけ、笑った。



「こんなに動けなくなるなんて、お前言わなかったじゃないか」
 そう言って睨んでくる龍斗の表情は、不満を示しつつも本気では怒っていない。それどころか、掠れた声と赤く染まった頬は、言葉を情事の後の睦言のように響かせている。
 いや、ようにではなく睦言なのだと思い直して京梧は思いきり頬を緩めた。
「―――了解。今度は気をつける」
 そう言えば、龍斗はぼそぼそとなら最初からそうしろと頬を膨らませている。ちょっと拗ねているようなその様子が可愛くて頬を寄せれば、慌てたように顔を背けるのがどうしようもなく愛おしい。
 この想いは正しく伝わらないんじゃないかと悩んでいたのが嘘のようで、必死に平気な風を装ってはいるが―――そこがまた、可愛いのだが―――赤く染まっている頬と、触れれば少し強張る身体は、こちらを意識しているのがはっきりとわかる。
 やったもの勝ちとはよく言ったもので、こんなことなら我慢なぞするんじゃなかったとしみじみ噛みしめた京梧だったが、ふとあることに気が付いて、改めて龍斗の顔を覗き込んだ。
「ひーちゃん」
「な、なに?」
 肩を掴めば、龍斗は居心地が悪そうに顔を更に赤くする。それに構わず、京梧は真剣な面持ちで続けた。
「俺は、ひーちゃんが好きだ」
 言い切られた言葉に、龍斗はきょとんと京梧を見返す。
「それは、前も聞いたぞ?」
「ひーちゃんも、俺を好きだよな?」
「だから…それも前に言っただろう?好きだよ、京梧」
 触れればもろに緊張する癖に、言われるのは平気らしい。あっさりと言う龍斗に、京梧は指に籠めた力を強めた。
「じゃあ、雄慶の奴は?」
「………?」
「雄慶の奴は、好きか?」
「好きって…そりゃ好きだよ」
「やっぱり…」
 肩を落とした京梧を不思議そうに見上げてくる龍斗は、きっと京梧の危惧など気付いていない。ここはひとつ、念押ししておかねばと京梧は口を開いた。
「これも…言ったけど、一応念のため。俺は龍斗が好きだ。好きだから、触りたい」
「触りたい…って」
 龍斗が顔を赤らめて眉を寄せるのにも構わず、きっぱりと続ける。
「龍斗も、俺が好きだから、いいっつったんだよな?」
「そりゃ、まぁ…」
「だったら!」
 そこで言葉を切って、京梧はじっと龍斗を見据えた。
「一つ、約束してくんねぇ?」
 気圧されたように頷く龍斗に、京梧は真剣な眼差しで続ける。
「いいか、これは俺だけ―――な」
「これって…」
 言いたい事がわからなかったのか、困惑気味な龍斗の頬に、掠めるように唇を落とす。
「こういうの、だ」
 また照れて赤くなるかと思いきや、龍斗は呆れたような笑みを浮かべて、京梧の頬に手を伸ばした。
「何言ってんだか…」
「ひーちゃん?」
 逆に触れられて驚く京梧に、龍斗は笑みを深くして、その頬を軽く叩いた。
「いいか、俺に触りたいなんて言ったのは生まれてこの方お前が初めてだ。物好きがそんなに居る訳ないだろうが」
 それを信じ切っているらしい龍斗の表情に、京梧はがくりと肩を落とした。
「ひーちゃん…」
 優しくて人当たりも良いのに、けれど奇妙に一本気で頑固で。
 不思議に人を和ませる空気と、端正な容貌を持つ癖に、それにそぐわない物騒なくらいの強さを併せ持つ、鮮やかな存在。
 今まで触れる者が居なかったのは、この致命的な鈍さが逆に幸いしたのかもしれない。
 そう思えば、今までの苦労もあながち無意味ではなかったということになる。いや、そう思いたい。
「なんだよ、その顔は」
 本気でわかってなさそうな龍斗に、これから先が思いやられて、少しばかり眩暈を覚える。しかし、これは避けては通れないものだろう。
 京梧は脱力しつつも、確認は忘れなかった。
「でも、一応約束。触るのは俺限定」
「……お前、本当に物好きだなぁ」
 呆れたように言いつつも、頷いた龍斗に一応安堵して、京梧はその額に唇を落として抱きしめた。