「蓬莱寺先輩、いますかー?」 元気良く飛び込んできたのは、先程までとは少し雰囲気の違う明るい系の賑やかな子だった。 「おう、居るぞー」 応える京一の緩んだ横顔を眺めて、龍麻はそれと知られぬように溜息を吐いた。 京一の脇、さりげなく机の横に掛けられた袋には、既に入り切らぬ程のカラフルな包みが詰まっている。 対して、龍麻の方は見事なまでにすっきりとしている。 確かに、龍麻自身、自分がもてもてだとは思っていなかったが、しかしそれにしてもこの差は一体なんなのだろう。龍麻の方には『お客さん』はまるで来ないのに、京一の方は、噂を聞きつけた下級生や、どこから聞いたのか同級生らしき姿も見えて、息を吐く暇もないほどなのだ。 京一の自称する、『真神一のイイ男』というのは、あながち嘘ではなかったと言う事か。 対する龍麻は、転校生であることに加えて、自主登校の人気のない教室には知った顔もおらず、未だに『甘い贈り物』は手にしていない。 笑み崩れるその顔を、憂さ晴らしに張り飛ばしてやりたい衝動が押し寄せるが、それを何とか我慢する。 自ら招いた事とは言え、ここにこうして座っている事が苦痛になってきて、龍麻はもう一度溜息を吐いた。
「学校に?どうして?」 妙に嬉しそうな京一に、龍麻は首を傾げた。確かに、京一は補習だの何だのと、ちょこちょこ学校に呼び出されてはいるが、それは決して望んでのものではない筈だ。補習だのなんだのに辟易していたことを知っているから、妙に嬉しげな京一の様子に余計に違和感を感じる。不思議そうな龍麻に対し、京一はあくまで楽しげだ。 「だってそりゃひーちゃん、男としちゃ外せないだろ?」 「……?」 眉を寄せる龍麻に、京一は目を見張った。 「なんだよ、マジでわかんねーの?2月と言えばお約束じゃねーか」 「…………」 黙り込む龍麻に、京一は呆れたような視線を向ける。 「2月といえばバレンタイン!決まってるだろ?」 それを聞いた龍麻の肩から一気に力が抜けた。 「何かと思えば……」 些か呆れを含んだような龍麻の声に、京一はむっと唇を尖らせた。 「なんだよ、気にならねーのかよ?」 「お前は、そんな事言ってる場合じゃないだろうが」 卒業前の補習に追われる身だろうと暗に匂わせる。しかし京一は気にした風もない。 「それとこれとは話が別。ふつーは気になるだろ?」 「くだらないことに気を回してる時間があったら、とっとと卒業証書を確保しろよ」 素っ気ない龍麻の答えに、京一は片眉を跳ね上げた。 「ひーちゃん…バレンタインを『くだらない』ってのは、健全な男子高校生としてどうよ?」 「俺は、そっちに意識が行っちゃって、もう一年『男子高校生』やる羽目になる方がどうかと思うけど?」 「…………」 今度は逆に京一が黙り込む。何せ、補習の片がつかないまま龍麻の部屋に押し掛けて勉強を見て貰っているのである。そこを突かれれば黙るしかない。その反応に流石に気が咎めたのか、龍麻は幾分口調を和らげて続けた。 「ま、その頃までには補習も終わってるだろ。済んでから、好きなだけ騒げばいいって」 「……終わってたら、な」 幾分低く響く声に、京一が臍を曲げてしまった事に気づいて、龍麻は少し慌てる。 「馬鹿、終わらせるんだよ。そしたら好きなだけ騒げるだろう?」 「自分で終わらせられるんなら、とっくにそうしてらァ」 そう言って、京一は皮肉めいた眼差しを龍麻に向けた。 「ひーちゃんは関係ないんだから、好きなだけ満喫していーんだぜ?」 「…興味ないって」 眉を寄せてきっぱり言い切った龍麻に、京一はわざとらしく大きな息を吐いた。 「あーあ、去年はそれなりに楽しんだのに、よ。今年は味気ないったら…」 そして、ちらりと龍麻に意味ありげな視線を向ける。 「ひーちゃんはいいよな、興味ねーんだからよ。あ、もしかして、貰った事ねーとか?」 明らかに絡んでくる物言いに、相手になってはいけないと思いつつも、龍麻もついむきになった。 「なんでそうなるんだよ。それこそ関係ないだろ」 「だって、知らなかっただろ?興味ないってそういうこともあって、じゃねぇの?」 「……貰った事ぐらいある」 「へぇ?」 京一は口の端を上げると、何かを思いついたように目を輝かせた。 「んじゃ、賭けてみねぇ?」 「賭け?」 「そ。何個貰えるか」 楽しそうに言う京一に、龍麻は眉を寄せた。 「競うもんじゃないだろ、あんなもん。それに第一、14日って日曜じゃないのか?」 「別に当日じゃなくてもいいだろ?…それとも、やっぱ自信ねぇか?」 意味ありげに覗き込まれて、龍麻の頭にも血が上る。 「……王華のラーメンでいいのかよ?」 その答えに、京一はにやりと笑った。 「プラス、餃子な。後で取り消しは聞かねーぞ?」
これは、問答無用で京一の勝ちになるんだろうなと思いつつ、龍麻は新たな包みを受け取っている京一と少女をぼんやりと眺めた。元々、売り言葉に買い言葉のようなものだったのだが、ここまで明白に結果を見せつけられては文句の付けようがない。 馬鹿な賭けに乗ってしまった自分を自嘲するしかないのだが、龍麻にはもう一つ気になる事があった。 「じゃあ、ありがとうございました」 京一に恙なくチョコを渡した少女は、そう言って小さく会釈すると、龍麻の方へとちらりと視線を走らせた。 その瞳に浮かぶ、好奇心と、何か窺うような色を混ぜた光に、龍麻は目を細めて視線を返す。途端に、少女は何かに打たれたかのように再び一礼すると、 「緋勇先輩も、上手く行くといいですね!」 と、言い置いて、そそくさと教室を出ていってしまった。 「上手く…ってなぁ」 龍麻は眉を寄せて頬を掻いた。 先刻から、判で押したように繰り返されるこの光景。 京一の元を訪れた女の子達は、何故か最後に、龍麻の方を実に意味ありげな視線で窺っていくのだ。京一に二人きりで渡したかったというのなら、京一を呼びだしていくだろうが、そんな素振りも見せず、ただ、龍麻の方を興味深そうに見ていくだけなのだ。そして、何人かは、『頑張れ』だの、『上手くやれ』だのと言い置いていく。それには、京一に比べて寂しい限りの龍麻に対する励ましとはまた少し違ったような、おかしなニュアンスが含まれている気がしてならない。意味がわからなくて気持ちが悪かった。 「上手くもなんも、くれる相手がいなけりゃはじまらないじゃないか…」 「へへっ、ま、そりゃそうだけどよ、沢山貰えたらいいって事じゃねーの?」 「お前…嫌味かそれは」 そんなことを大量のチョコの山を築いている京一に言われても、それこそ嫌味にしか聞こえない。 龍麻は、腰を浮かせると、形ばかりで中身のない鞄を取り上げた。それを見咎めた京一が龍麻を見上げる。 「ひーちゃん?」 「もういいだろ?とっととラーメン行こうぜ」 そう言えば、京一は不満そうに眉を寄せた。 「ああ?もう?」 「わかってるよ、賭けはお前の勝ち。ラーメンでもなんでも、好きなもん奢ってやるよ」 しかし、龍麻の言葉にも、京一は眉を寄せたままだった。 「あー、そうじゃなくってよ」 「………?」 首を傾げる龍麻に、京一はにやにやと笑いながら続けた。 「だってよ、ほら、まだ俺にチョコ渡してーっつーカワイイ子が居るかもしれねぇだろ?折角来たのにもう帰ったじゃ、やっぱ悪いってか…って、痛ッッ」 今度は衝動を抑えることなくその頭を殴りつけると、龍麻は鞄を抱え直してさっさと教室を後にした。
「おい、待てよひーちゃんっ!」 すたすたと歩く龍麻の背後から、少し息の切れた声が追いかけてくるが、龍麻はそれに振り返る事なく片手を上げた。 「心配すんな、ラーメンはちゃんと覚えておくから。好きなだけチョコを貰ってきてくれ」 「だから…ちょっと待てって!」 京一は龍麻の肩を掴んで追い越すように前に回り込んだ。 「お前な、ちょっとは聞けよ…」 恨めしげな京一に、龍麻は肩を竦めた。 「カワイイ女の子が待ってるんだろ?貰うにはお前一人の方が都合いいだろが」 「あーもう、それはいいから、ラーメン行こうぜ。奢りもチャラでいいし。だから…そんなに拗ねるなよ」 その宥めるような表情にむっとして、龍麻は京一を睨んだ。 「誰が拗ねてるって!?」 「拗ねてるじゃねーか」 「拗ねてなんかない!」 思わず声を荒げた龍麻だったが、自分の声の大きさにはっと我に返る。ここはまだ校門で、真神の校内でもある。こんなところで注目を集めればどうなるか。周囲に視線を走らせれば、案の定、下校途中らしき生徒が、こちらを興味深そうに眺めている。更に京一目当てらしい女の子も何人か居て、予想以上に多いギャラリーに、龍麻の頭はあっさり冷えた。 「……止めた。ここで騒いでもしょうがないしな」 拗ねてると思われたとしても、それはどうでもいい事だ。ここで見せ物になるつもりはないし、第一気分が良くないのは事実なのだから。 「拗ねてるって事でいいから、先に帰るわ。じゃーな」 「って、おい、ひーちゃん!」 引き留めようとする京一の手をすり抜けて、龍麻が校門へと足を向けた時だった。 「ずいぶん賑やかだね」 そこに、覚えのある顔を見つけて、龍麻の表情が和らぐ。 「紅葉、どうしたんだ?」 壬生は、穏やかな笑みを浮かべて片手を上げた。 「ちょっと、この先で用があってね。そしたら、声が聞こえたからもしかして…と思ったんだ」 「タイミング良かった、今出てきたとこなんだ」 そう言うと、龍麻は思いついたように手を打った。 「そうだ、紅葉はその用ってのは済んだのか?」 「ああ、一応…帰るところだよ」 「それなら、付き合わないか?前に言ってた美味しいラーメン屋。これから行こうと思ってたんだ。一人で…ってのも味気ないしさ」 「それはいいけど…」 龍麻と京一を困惑の眼差しで見つめる壬生を促して、龍麻は歩き出した。しかし、そうはさせじと京一がその腕を掴む。 「待てよ、ひーちゃん!」 「うわ…っっ!」 それを予測していなかった龍麻の身体が、バランスを崩す。それを、咄嗟に横にいた壬生が引き留めた。 「……っ、わり、紅葉」 「きゃーーーっっっ!」 反動でで壬生の胸に顔を突っ込む羽目になった龍麻は、すぐに謝ったのだが、その声は沸き上がった声にかき消された。 「な、何だ?」 声に驚いて振り向けば、その辺りの生徒達が、何故か揃ってこちらを見ている。圧倒的に多い女生徒は、意味ありげにひそひそと言葉を交わしているものも多い。 その一種異様な光景に、龍麻も、そして壬生も訳が解らずに呆気に取られる。しかし、龍麻は傍らの京一が一瞬だけ浮かべた何とも言えぬ表情を見逃さなかった。 「……京一?」 窺うように声を掛ければ、案の定京一の肩が跳ね上がった。 「な、なんだ、ひーちゃん?」 動揺を隠せていない京一の声色に、龍麻は抱いた思いが間違っていない事を確信する。 「お前、何か知ってるな?」 「何の事だよ?」 「惚けるな。あの子達は何を言ってるんだ?」 「さぁ…そんなの俺が知る訳ないだろ?」 明後日の方を見て惚ける京一に、龍麻が更に詰め寄ろうとした時だった。 「緋勇先輩…っ、いいですかっっ!?」 遠巻きにしていた少女達の一人が、必死の形相でこちらを睨むように立っている。その勢いに飲まれて、龍麻も思わず丁寧な返事を返してしまう。 「はい、何でしょう?」 少女は真っ直ぐに壬生を指して、 「その人が、緋勇先輩の本命なんですか!?」 「は?本命…?」 一瞬、何を言われたのかわからずにぽかんとした龍麻を置いて、それに答えたのは何故か京一だった。 「ち、違う、違う!コイツじゃないんだ!」 質問の意味が頭に染みるに従って、龍麻の頭に、ある仮定が浮かんできた。
妙に余裕のあった京一の態度。
何故か意味ありげな視線を寄越した少女達。
この、男はひたすら受け身でしかないイベントに、『上手く行けばいいですね』の励まし。
転びそうになって壬生に支えて貰った途端、何故か沸き上がった悲鳴。
『本命』の意味。
バレンタインのチョコレート。
そして、京一の『コイツじゃない』―――
「京一、お前…」 途端に視線を逸らした京一を見れば、『何を』したのかははっきりわからなくても、『何か』をしでかしたのはわかる。そして、恐らくそれが、今日感じた違和感の原因で――― 龍麻は拳を握りしめて肩を震わせた。 「ま、待て!落ち着けひーちゃん!別に俺はそんなつもりじゃ…」 「ほほう、『そんなつもり』?」 「あ、いや…その…」 京一の汗の滲んだ額に、頭の中の声―――『取りあえず、ぶっ飛ばす』は益々強くなる。 「問答無用…ッッ!」 そして、龍麻が放った秘拳・黄龍は、見事なまでに完全に、京一を吹き飛ばしたのだった。
「ったく、信じられねー。馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、正直あそこまで馬鹿だとは思わなかった」 ぶつぶつと零す龍麻に、壬生は小さく笑って声を掛けた。 「龍麻、少しは落ち着いたかい?」 「いんや、まだむかっ腹立ってる。後先考えてねーもん、アイツ」 ぶすりと言う龍麻に、壬生は益々笑みを深くする。 「まぁ、確かに…腹が立つのはわかるけど」 そう言いながら笑みを崩さない壬生を、龍麻は面白くなさそうに見つめた。 「紅葉も、もうちょっと怒れよ。俺の『本命』にされたんだぞ?」 「僕は、それでもいいんだけど、ね」 笑顔のままそう言い返されて、龍麻は毒気を抜かれてしまう。 「そりゃ紅葉は、真神に来なかったら関係ないんだろうけど……俺、これから卒業式もあるんだぜ?」 情けない表情になった龍麻は、天を仰ぐように顔を上げて溜息を吐いた。 卒業式まで日数は少ない。京一が校内に流した噂―――『緋勇龍麻には、チョコを渡したい『本命』が居る』が消え去っているのを望むのは、まず無理だろう。止めを刺すように、校門の前で一騒ぎやらかしたのも、変な尾ひれをつけてしまったかもしれない。 吹き飛ばした京一を一応回復してやって、それをちゃんと聞き出した時には、余りの事に怒りで目の前が真っ赤に染まってしまった。その後、改めて吹っ飛ばし、更に王華で壬生も含めて目一杯フルコース奢らせてやったが、広まったデマの中で迎える卒業式を考えると、それでも腹の虫は収まらない。 思いだして再び怒りを再燃させた龍麻に、壬生は穏やかに声を掛ける。 「龍麻……もう許してやったらどうだい?」 そう言って示したのは、近づけば殴り飛ばすという宣言に、側にも寄れずにとぼとぼと後ろを歩く京一の姿。 「紅葉……」 「必死に謝ってたし、好きなだけ奢らせただろう?」 「自業自得だ、アイツは」 拗ねたような龍麻の物言いに、壬生はちょっと肩を竦めた。 「自業自得でも、ちょっと気の毒になってね」 「…紅葉は優しいな。俺は賭けたからって、後先考えずにあんな馬鹿をやらかすヤツに同情できないけど」 その言葉に、壬生は何故かくすりと笑った。 「さぁ…それはどうかな?」 「…紅葉?」 首を傾げた龍麻には答えずに、壬生はもう一度笑った。 「僕はそろそろ帰るよ。蓬莱寺にごちそうさまって伝えておいてくれ」 言われて、龍麻も笑顔を向ける。 「ああ…今日は迷惑かけた。悪かったな」 「僕は構わないと言ったろう?…では、また」 「おう、またな」 壬生に手を振って別れた龍麻は、大きく息を吐いて歩き出した。 全く振り返らずすたすたと歩けば、背後にあった気配が段々近づいてくる。 「ひーちゃん」 躊躇いがちに掛けられた声も無視して、ひたすら歩く。 「ひーちゃん、聞こえてんだろ」 「…………」 「待てって、ひーちゃん」 「…………」 「俺が悪かった。この通り、謝るから」 「着いてくんな、馬鹿」 「そう言うなよ、ごめん!」 「………」 「ちょっと、こっち向けって」 「……」 「ひーちゃん〜」 情けなさを増す声に負けて、龍麻はとうとう足を止めた。 振り返れば、京一が何とも情けない表情でこちらを見ている。そのしょげかえった顔が、まるで叱られている犬のように見えて、龍麻は緩みそうになる頬を引き締めて憮然とした声を出した。 「そんなに、チョコを独占したかったのか?」 「いや…ちょっと…負けたくないなーなんて思っただけで…」 「それだけで、あんな噂を流したのか?お前、ホント後先考えてないだろ」 「……ごめん」 「お前のお陰で、すっかり俺はホモだ。おまけに紅葉にまで迷惑かけて…わかってんのかよ?」 「…悪かった」 しゅんと項垂れる京一に、龍麻は堪えきれずに笑ってしまった。 「お前って、ホント馬鹿」 「…………」 「もう一回、ラーメンな。それでチャラにしてやるよ」 ぱっと顔を上げた京一は、しかしすぐに何とも言えぬ表情になる。 「ひーちゃん、チャラは嬉しいんだけど…」 「なんだよ?」 優れぬ表情の京一に、龍麻が首を傾げる。 「その、奢りは保留にしといても、いいか?さっきので、俺の財布空っぽなんだよ」 蓄えもないしと引きつった笑いを浮かべる京一に、龍麻は大きな溜息を吐いた。 「お前、ホントに馬鹿」 そう言ってくるりと背を向ければ、京一の声が慌てたように追ってくる。 「待てって、ひーちゃん!」 それを聞きながら、龍麻は溜息と共に一人ごちた。 (まあ、ホントの馬鹿は俺だけど、な) チョコの数を競う為に、すぐにアシがつくような噂を流す奴も馬鹿だが、一番馬鹿なのは、その他愛もない嘘に真実を突かれてしまった龍麻自身だ。 (こんな、勝手に人に対抗意識燃やして墓穴掘る馬鹿に、にやけきってチョコを貰ってる女好きに、本気で惚れてる…なんて) 不本意な嫉妬も絡んで、余計に頭に来ているだなんて。 それこそ、馬鹿馬鹿しくて決して言えない。 そう決意を固めると、龍麻は京一を振り切るべく足を速めた。
気を抜けば遠ざかる龍麻の背中を追って、京一は深々と溜息を吐いた。 (言えねぇ、よなぁ…) ばれた時の惨状を覚悟で、噂を流した本当の理由。 本人に自覚は無くても、結構有名人な龍麻の事、黙っていたら家にまでチョコを持ってくる子が居るんじゃないかと思った事とか。 それが面白くないから、噂を仕掛けてみた、とか。 そしてあわよくば、誰でもない自分が龍麻と噂になりたかった、等と今更言える訳がない。 丁度時節柄、そういう噂の中で、龍麻と自分が一緒にいれば、自然とそちらに話は向かうと思ったのに。 結果は、よりにもよって偶然来合わせた壬生に行ってしまうという、不本意の極みのようなものになってしまった。 京一に取って計算外だったのは、即席で流れた噂以上に、自分の女好きが知れ渡っていたことか。 勿論、それは自業自得なのだが、せめて噂の中ででも龍麻からチョコを貰う…という設定に浸りたいという京一の野望は、儚くも消えてしまった。 それどころか、黄龍は食らうわ、奢らされて財布は空になるわ、壬生に向けられる親しげな笑みを見せられる羽目になるわ、最悪としか言い様がない。 (あー、もう…) 抱きしめてしまいたい。 有無を言わさず唇を奪って、その感触を確かめたい。 細めの身体を抱きしめて、あんなことやこんなこと、ちょっと口では言えないような事も試してみたい。 馬鹿みたいだと言われても、他の奴に笑いかける姿なんて見たくない。 本当はチョコじゃなくて、龍麻の気持ちが欲しい、なんて――― (言えない、よなぁ、やっぱり) 言えない気持ちと、切ないものを抱えたまま、京一は遠ざかる龍麻の背中を追いかけた。
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