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芳醇なるぶどう酒の地中海、塩野七生「イタリアからの手紙」より抜粋・・ 『ぶどう酒、葡萄酒、ワインじゃなくて葡萄酒という響き』

〜現代の長靴の形をしたイタリア半島すべてではなく、マーニヤ・グレチアと呼ばれたギリシア植民地を指す名称であった。長靴の下三分の一とシチリアが、イタリアにおけるギリシア植民地であったのだから。

 このように呼ばれるくらいだから、良質の葡萄酒の産地であった。それもただ単に美味い酒を産するというだけでなく、このこ市で産する葡萄酒は、ギリシア人の間で、ことのほか愛飲されていたらしい。とくに、長靴の土ふまずにあたるところにある、カラーブリア地方のチロという地で産する葡萄酒は、当時ギリシア人の影響下にあった地域で産するものの最高級品とされていて、オリンピア競技の勝利者に供される葡萄酒の栄光を持ちつづけていたと言う。さしずめ「オリンピック御用達」というわけであったろう。

 ローマ時代に入ると、反対にギリシア産の葡萄酒のほうが珍重されるようになる。かつてのマーニヤ・グレチアはもちろんのこと、首都ローマの周辺も葡萄酒の醸造が盛んであったのに、遠方から運んでくるものを好むのは、今に至る外国製品好みと似た現象であるのかもしれない。ビールもあったけれど、これは奴隷の飲料とされていて、ちゃんとしたローマ市民は葡萄酒しか飲まないということになっていた。炎暑下での行軍の後のいっぱいのビールは、さぞかし美味かったろうと思われるのに、ローマの武将たちは、冷たい水で割った葡萄酒を飲んで、行軍の疲れを癒やしていたのである。

 ちなみに、赤は室温で飲めと言うが、ああいうことは気温の低い北イタリア以北にしかあてはまらない飲み方なのだ気温の高い、そのために葡萄酒のアルコール度も高い地中海世界の葡萄酒は、氷を入れてオンザロックにして飲んでも充分に耐える酒である。ギリシア人もローマ人と同じように水で割って飲んだが、フランスの葡萄酒は、そんな荒技には耐えられない

 ついでだから書いてしまうが、昔のマーニヤ・グレチアは、現代でも「ヨーロッパの酒蔵と呼ばれるほど、葡萄酒の名産地としては、知る人ぞ知る地帯なのである。なぜそうかと言うと、この地方の葡萄酒業者は小規模なものが多く、そのために世界に名の聴こえた銘椚はほんとうに少ないのだが、「ヴィーノ・ディ・ターリオ」つまり弱い酒に混ぜる強い酒の産地としては、ヨーロッパ一なのである。

 名の高いフランス葡萄酒も、ましてやキヤンティあたりのものは当り前の話だが、葡萄酒というものは、年々同じ濃度のものができるわけがないのだ。それで、砂糖を入れたりして一定の濃度を保持する苦心が必要になってくる。もちろん、混入するものが砂糖よりも葡萄酒のほうがよいのは当り前だから、濃度の高い葡萄酒を、しかも小企業が相手なので値を低く押えた葡萄酒を多量に輸入して、それを混ぜるのである。葡萄酒の大半は、こうしてつくられた、いわゆるブレンド製品なのが真相だ

 ちなみに、何度もちなみにをくり返して恐縮だが、酒の話を論理的に書くなどということは、所詮不可能な作業である。連想するものを、次々と述べるしかない。

 それでだが、私の最も愛好するロゼは、長靴のかかと近く、ブーリア地方のレオーネ・デ・カストリス公爵がつくるものである。十年もの歳月に耐えるものは、白でもロゼでも極く少ないが、この「ファイブ・ローゼス」という葡萄酒は、立派にその歳月に耐える。これに比べれば「マテウス」など、女子学生向さだと思っている。まあ、葡萄酒の好みほど個人的なものはなくて、葡萄酒を飲む量では東西の横綱格のフランス人やイタリア人に訊いても、最上と思う銘柄は千差万別なのが普通である。たいがいが、自分の生れた土地のものを第一に推すから、こういう結果になるので、この人たちから最上の葡萄酒を探り出そうとするのなら、彼らに美味い葡萄酒を十あげさせ、その中の下位に最も多く出てくるものの統計をとればよい。最高ではないけれどまあ悪くない、と彼らが思う酒が、ほんとうは最も美味い葡萄酒と考えたら当っている。ちなみに、葡萄酒のきき酒をさせたら、産酒国のフランスやイタリアの人より、そうでないイギリス人が優勝したと言うではないか。だから、フランスの酒ききの名人といわれる人の意見さえ、私は半信半疑で聴くことにしている。

 話を歴史にもどすが、ローマ帝国崩壊後の暗黒の中世も、葡萄酒から見れば、雨のち晴のような時代だったと言ってもよい。崩壊後二、三百年は、侵入してきた蛮族によって、ローマ時代の豊かな葡萄畑は見る影もなく荒らされたままに放置されていたが、それを少しずつ再興したのが各地の修道院である。

 放置されたままの葡萄畑に再び葡萄の実を結ばせるのは、考える以上に大変な事業なのである。中世時代に存在したほとんど唯一の組織と言ってもよい修道院でなければ、やれることではなかったであろう。私の夫がシチリアに持っている耕作地の中に、「イユズス会修道士の葡萄畑」と呼ばれている土地がある。そこで産する葡萄からは、その辺一帯でも最上の葡萄酒が今でもできる。修道士たちは、一生懸命に苗木を植えるだけでなく、土地を選ぶ眼も確かであったにちがいない。

 それにしても、人間やはり、ただ単に献身的な気持だけでは、このような大変なことを連続してやれるわけがない。修道士には、美味い葡萄酒を味わう愉しみもあったにちがいない。

今でも、修道院の質素な食事の中で、葡萄酒だけが場ちがいに美味いのに驚かされることがある。以前、私がダンテの『神曲』を習いに通っていた僧院の院長は、私の朗読が上手くいくたびに、「ヴィン・サント」と呼ぶ古葡萄酒を、御馳走してくれたものであった。「地獄篇」でこれだから、イタリアの坊主は粋である。

 ちなみに、外国生活の前半をローマで送ったことは、私の考え方の方向づけに、非常に役立ったと信じている。あそこには、ヴァティカンがあるのだ。美味い食事と美味い葡萄酒を愉しむことを、私は、彼らから学んだようなものである。真実三分嘘七分の会話を愉しむすべとともに。ただし、これを日本でやると、たいがいの人が、全部真実と思うから因ってしまう。

 再び歴史に話をもどすが、坊主さえこれほど現世的なイタリアで、ルネサンスが起ったのも当然であった。しかも、ギリシア・ローマの文芸を復興しただけでなく、あの時代以来の外国品好みの嗜好まで復興したのだから面白い。当時の宴会の記録など読むと、ギリシア産のマルヴァジア酒なしには夜も日も明けなかった様子がわかる。イタリアの中でも、修道士の努力のかいあって、美味い葡萄酒にこと欠かなかったのである。それなのに、ペロポネソス半島産のこの甘口の葡萄酒が、ヴァティカンはもとより、ヨーロッパ中の宮廷や大商人から珍重されたのであった。今のシャンパンの占めている地位と働きを、当時のマルヴァジア酒は占めていたと言ってよい。

 この酒の輸入元は、地中海を縦横に活躍していたヴエネツィア商人であった。彼らは、マルヴァジア産のそれだけで満足せず、キプロス島でもクレタ島でも、葡萄の栽培をはじめる。

この二ヵ所でできた葡萄酒が、ルネサンス時代の”ブルゴーニュ””ボルドー”であったのである。

ちなみに、ブルゴーニュもボルドーも、その頃はまったく影が薄かった。十六世紀の中頃に法王であったパオロ三世の酒蔵係をしていた男が、記録を残している。それには、フランスの葡萄酒は、主人方の飲む酒ではなく、使用人の飲むものだと酷評している。葡萄酒の嗜好は、このように時代につれて変るものなのだ。

 言わずもがなのことだが、この稿は、葡萄酒を飲みながら書いている。脱線ばかりしたのはそのためである。もちろん、非常識な値段によって私を現実に引きもどす、フランスの酒ではない。日本産の、それも最も安いために国産の葡萄を使ってなく地中海産の安い原酒をブレンドしたものを飲んでいる。日本産の中では最も安い葡萄酒が最も美味いというのは、ある人に教えられて試したがほんとうだった

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