手島 恵子の世界

 楽しい中国語 入門 (動画)

※ 中国語の声調と発音をわかりやすく教えます


北京短期留学 2001年



真夏の8月、たった2週間の北京留学だったが、確実に私は変った。中国はものすごくアバウトで、それでいてせこいんだけど、私は前世は中国人だったんじゃないかと思うくらい、はまった。得手不得手の激しい私は、穴があったら入りたいくらいトロイとこがある。しかし中国での生活は信じられないくらい、いい日常茶飯事、それでも毎日が回転していく。どんなことでもそれがどうした!私は、とっても気楽になれた。90分ふたコマの中国語の授業は、もう一度勉強に再挑戦する意欲をかきたててくれた。

 ←留学で一緒になった若い人達と・・・

                                                
第一話

 「鍵は?」
  「鍵はフロントのシャオジェ小姐が持っているから安心ですよ。」
  空港で出迎えてホテルまで連れてきてくれた大学の事務の先生がそういい放って帰って行った。ドアはボタンを押したら鍵がかかるようになっている。でも帰ってきた時は必ずフロントに言って開けてもらわなければならない。このシステムが後でまた事件に?なるのだが…。
 ツインのベッドと小さなテーブルの上にはおなじみの大きなポットと木の栓がしてある。
  このポットのお湯は飲んでも大丈夫だ。テレビもある。クーラーも一応ついている。ガーンという音を気にしなければだが。
  バス・トイレ付と言ってたなと思いドアを開けてびっくり。風呂タブがない。正確にいうと洗面 所と鏡、トイレは一応洋式の水洗、むきだしのシャワーに床は全面コンクリートでまん中に穴がある。つまりシャワーは浴びれるのだ。くたびれてはいるが一応洗濯してあるタオル大小がふたつづつかかっている。気をとりなおしてシャワーを浴びようと栓をひねったら、ガガガガガという大きな音がして水しかでない。これはシャワーがこわれていると思い、フロントの小姐に言うと
 「お湯は夜七時から十一時まで、朝は七時から九時まで」
 とこともなげに言われる。 そうだここは中国なのだ。めげてはいけない。14日間泊るホテルだが食事はつかない。ツインで一泊十二ドル。
 翌日は日曜日、ホテルを出てまもなくたくさんの地元の人が食べてるレストラン?ではなく食堂があった。何だかパンみたいなものが入り口にたくさん並べてある。留学の世話をしてくれた旅行会社の人は
  「きれいなレストランに入って下さいね」
  といってたな。きれいとはいえないがいっぱいお客さんも入ってるし、パンの様なものを三つ、ドロッとしたスープの様なものが三種類、適当にさすと大きなドンブリにドバッとよそってくれた。後に並んでいるおじさんが、これをかけろと言ってくれたので何だかわからないが適当にかけて席へと着く。
 一口食べてみるとパンじゃなかった。なんかきなこもちみたい。スープらしきものはみかけよりおいしい。
 北京は二度目だ。去年の春、夫と四日間だけ北京に滞在してあるきまわってる。
  ひとまず行ったことのある、日本の銀座通りとも言えるワンフージン王府井に行ってみよう。
 小姐に道も教えてもらった。バスで三ツ目の停留所だ。北京のバスは一元(一元十五円位 )で全区間のれて安くてとても便利。
 去年はボロボロのバスだったが、きれいなバスになっていた。しかも運転席の横に電動で「次は寛街」という様にサインがでる。
 滞在中利用したバスはほとんどきれいなこのスタイルになっていた。多分北京五輪に向けて中国も頑張ってるんだ。
 王府井はデパートや大きなビルがならんでいて、道路はゆったりしたバリヤフリーになっている。だが少しほこりっぽい感じで目がチカチカする。たぶん光化学スモッグかもしれない。デパートに入る。日本とあまり変わらない。最上階でバーゲンをしている。二十元(三百円位 ?)で銀色のきれいなサンダルを買う。ブラウスも買おうかな。薄紫のブラウスは気にいった。店員さんが二十元という。でも少しきついというと色違いで少し大きめのを持ってきてくれた。形も同じ、
 「じゃ、これを買うわ」
 「四十元です。」
 えっ、だって色違いのものを二十元と言ったじゃない。思わず、いらないといって腹をたてて出てきてしまった。
 後で交渉すれば良かったんだと思ったが、まあいいや。これから先どんなに値切って買ってもなんかぼられた気がぬ ぐえない。
 見栄をはるわけではないが、そういうかけひきのやりとりに東京育ちの私は慣れないのだ。
 そういえば後で学校からバスで行った万里の長城でシャンベン(山本の中国語読みです。)が水を五元と言ったので三元にねぎったという。
 「どう言って値ぎったの?」
 と聞くと、五元といわれた時、
 「ウーン!」 と不気味な顔をしたら三元になったという。
  私も水がなくなったので値切って買おうと思っているとみやげものやのおばさんが水のペットボトルをさしだして
 「シュエイ水。」といったので思わず三元というと、三元といってニッコリして売ってくれた。シャンベンに話すと
 「えっ、手島さんが三元といっちゃったの。そういう時は一元から始めなきゃ。」 まだまだ私は修行がたりない。
第二話

 大学での授業が始まった。朝は8時から、90分授業が二コマだ。  最初にクラス分けテストがあり、一、二、三班に分けられた。私は三班になった。かわいい20才位 の法国人ファーグオレン(フランス人)が二人、ガッツのありそうな美国人メイグオレン(アメリカ人)、彼女も20才くらいかな、そして中国語歴50年のおじいさん、日本人の大学生が5人位 、30代位の日本人女性が数名、これが私のクラスメートだ。他の班には独国人ドークオレン(ドイツ人)、加拿大人ジャナァダレン(カナダ人)と国際色豊かだ。
 彼らと共通語はここでは中国語だ。授業はもちろん中国語のみ。中国女性特有の先生の高音で美しい発音にウットリ。でも言っていることは全然わからない。まあそのうちに慣れるだろう。
 お昼に学食に行った。百人位入れるかな?かなり混んでいるが、空いたテーブルの上は食い散らかしたすさまじい有様。 「きれいにして下さい。」と言うと庭ぼうきの小型な物をバケツの水につけて、拭くんじゃなくて掃いた。
 うーん、まあいいか。チャーハンやラーメン?等は四元、結構おいしい。  
  この日部屋に戻ってから、トランクの鍵の入ったポーチを忘れたのに気付いた。あわてて学食に戻ると、食堂のおじさんがニコニコしてポーチを差し出してくれた。
 とっても嬉しかった。お礼に日本のカレンダーをプレゼントすると喜んでくれた。
 食堂のおばさん、おじさんはいつも親切にしてくれた。
――――ある日ホテルに戻って部屋を空けてもらおうとシャオジェ小姐に頼むと、いろいろ探している様子。もう一人の小姐とヒソヒソ話し合った後、私にソファーに坐ってくれという。思わず、「私わかってるわよ、あなた達、鍵をなくしたんでしょう。」
 すると小姐が答えた。
 「さっき別のお客さんの部屋を開けた時に鍵束を忘れてきちゃったの。そのお客さんは今外出してるの。」  
  えっ、じゃその人が帰ってくるまで私、部屋には入れないじゃん!!と思ったが腹もたたず、ひとまずソファーに坐った。
 数分して気のきく?小姐がひきだしから何か持って部屋に行き、ドアの所でコチョコチョやるとドアが開き、
 「あった、あった。」とニコニコして鍵束を持ってきた。  
  ちょっとこの成り行き恐いよね、普通に考えると。
――――国際電話を直通でかけられる公衆電話がホテルの1階にある。――――
  「電話をかけてすぐに戻ってくる。」と小姐に言って階段を降りた。なんかあんまり頻繁に鍵を開けさせるのが悪い気がしたからだ。  
 日本に電話をして二、三十分後戻ってくるとさっき鍵束をなくした小姐がニッコリ。
「鍵を開けておきました。」  
 さっきの失敗を気にして気を遣ってくれたんだな、いい娘だな、なんて思ってびっくり、小姐は鍵だけじゃなく、ドアーも大きく開けといてくれたのだ。
第三話

 痛い!
  突然の激痛で目覚めるとベッドの上ではなく、床にいた。ベッドから落ちたんだ。落ちて初めて気づいた。顔が痛い!  手をあてるとヌメッとする。血だ。時間は午前三時半。あわてて洗面所に飛びこんで、鏡を見ると、左顔面 の眉毛の上から縦に5、6・の傷が走って血だらけになってる。まるで丹下左善みたい。(知らない人は知らないが、知ってる人は知っている…よね)
 依頼心の強い私だが、北京に短期留学を決めた時点で腹が座っていたのか、ホテルの小姐とか医者の事は頭にも浮かばず、日本から持ってきたオキシフルをティッシュにふくませて、冷やすのと消毒を兼ねて30分位 、何度も傷におしあてることを繰り返した。ようやく血がとまったので、化膿止めをぬ り、バンドエイドをはって寝た。
  普段は横着な私だが、旅行書を読んでいっぱい北京に持ってきていた物がある。
  まずは正露丸、(若い子も皆持ってきていて、北京の下痢にはよく効くと言っていた。本当に効いた。)ポケットティッシュ。(北京のトイレには紙がない、鍵が壊れている所も多い、直す気もない、ドアのない所もある!) トイレの事を書いていたらきりがない。トイレは中国に来た外国人にとってかなり大きな問題だ。私は日本からトイレットペーパーまで持ってきていたのだ。薬品類など何が役にたつかわからない。
  話がそれたが、傷の状態から察するにベッドから落ちた時、横にあるポットなどを置いている小さな机の上に角が磨耗しているガラスがおいてあり、その角に頭をうちつけたようだ。  翌日バンドエイドをべたべた貼っていくとみんな驚いた。汗でバンドエイドがすぐはがれるので、素顔でいることにした。3、4日した頃、若いドイツ人のクラスメートに「カンハオ看好。」よくなりましたねと言われた。中国人はほとんど目もとめない。
  ホテルの小姐が部屋に入って来た時、珍しく「どうしたの?」と聞かれた。傷の説明をすると、即、机をベッドの横からひきずって置き換えてくれた。実は私、ベッドから落ちた翌日から、逆向きで寝ていたんだけど、小姐の親切が身にしみた。
  中国の人達いろいろいるけど、思っていたより親切な人も多い。中国語を勉強しに来てるというと、みな、ニコニコする。日本人って電車の中とか、他人同士の所では能面 みたいな顔してるけど、北京で感じた事、良くも悪くも表情が生き生きしていて、いい人は一目でいい人って顔をしている。素朴に。 ベッドから落ちたのも疲れのせいかと、翌日からはお昼寝をするようにした。とにかく、午後部屋へ戻ると、テレビをつけ、ベッドに横になった。毎日が中国語のシャワーだ。 ちなみに、小泉首相の靖国参拝が浮上していた時なので、中国ではどう報道されるのかニュースは欠かさず見ていた。毎日小泉首相の姿と参拝のニュースが放映されていたが、その後は必ず、日本の参拝反対のデモの様子が流されていた。参拝当日はその様子が放映された後、民主党、公明党の党首の名前と参拝に反対する彼らの声明が、文書で流れ、関心はあるが過度な刺激をしないように配慮されている気がした。 テレビは欽ちゃんの仮装大賞や、コカコーラのCM等流れていて日本とあまり変わらない気がした。
第四話

  大学では若い子達と友達になった。一番の仲良しはジンズ。京子の中国語読みで、私が名づけた。彼女とは30才年が離れていて私は彼女のお母さんと同じ年だが、私達、ポンヨウ朋友(友達)だよねと言いあっていた。
  ジンズは大学四年生、カナダに一年留学の経験もあり、ベトナムに一ヶ月間、一泊一ドルのゲストハウスに泊まり、自転車で走りまわっていた事もあるという。彼女は好奇心旺盛で、本当に天津甘栗が天津にあるのか、一人で確めに天津まで行ったりした。観光客相手に売ってはいたが、他ではみなかったので、天津甘栗が、本場天津の名物として存在するのかどうか、結論は彼女にいわせると「わからんかった。」
  クラスメートで中国語歴四ヶ月と言った、大学生の亮介君に私は関心があった。中国語の発音に一年近くかかった私には、たった四ヶ月で発音もよくできる彼が、どうやって勉強したのか知りたかったのだ。 ―――ラジオの中国語講座を毎日5回聞きながら書き写し、図書館の中国語の本を読みまくったと言う。お金がないので北京には船で来たそうだ。船底の16人部屋で二日かかって北京に到着。費用は行きが二万七千円、帰りが一万八千円だったとか。
  彼は万里の長城からくだる時も、一人ロープウェイでなくすべり台でおりたつわもの強者である。このアバウトな国の、かの万里の長城からすべり台でおりる勇気のなかった私だが、10分程かかっておりてきて「最高!」といった彼の言葉を聞いて、絶対にいつか私もと思っている。すべり台は子供がダンボールで-すべる様に、金属でできたシートに一本の棒のようなブレーキがついている。
  外語大の中国語専攻の秋子ちゃんは、来年一年間北京に留学する気になったという。 18才のまり子ちゃんは、夜遅くまでよく勉強していた。
  演劇をやっていて思う事があり大学に入りなおした広ポンは何となく香港ぽい顔立ちねというと、香港なら俳優で成功するかもって言われた事があるんだって。彼は大学で日本語を話せる中国人の学生にアタックしてお友達になったりしていた。
  レストランで鍵のこわれてるトイレでノックもなしにドアを開けられたるみ子ちゃんは、(私は外で待っていた。)出てきても怒った風もなく何もいわないので、「ドア開けられたね。」というと、 「手島さん、だってここは中国じゃないですか。」とさらりと答えた。
 若い二十歳前後の彼らが、信じられないことが毎日起きてる中国で文句をいわず、一人でも積極的にがんがん出かけて行って、お互いに情報交換したりしているたくましさに私は正直驚いていた。英語ではなく、中国語で、短期でも旅行でなく、留学を選んだ子達だからだろうか。
 そして特に若い女の子達が、50才すぎて留学している私の存在を受け止めてくれて、帰国したらお母さんに手島さんの事を絶対に話すと言ってくれた。
 たった二週間だったが、旅人でなく、毎日勉強し、英語も日本語も話せる人のいない小さなホテルに泊まって生活を体験できたのが、今回の大きな収穫だった。
  北京でお友達になった皆、ありがとね。顔の傷まで愛しい。
―――実は私、今年も短期留学狙ってるんだ。再見。


以下の写真は、本人の承諾なく「夫である伸夫」が、勝手に選択してアップしたものです。 (^^♪



松本城・月見櫓にて


信州の湖(青木湖と思われる)


「サービス管理課」での恵子さん


千葉・外房・三日月ホテルにて


信州・白馬村にて





「むむむ・・・な〜に??」

金閣寺
↑ 大倉山梅林にて
横浜山下公園
新横浜プリンスホテル KDDのパンフレットから     
(あのころは可愛かった?!)
 
かわいいKDD新人時代
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素敵なカコ姉と一緒に


 めずらしいショートヘア時代
(テニスコートにて)




「日経新聞(S48年) 


日経新聞 昭和48年(1973)8月16日版    あの頃は国際電話をかけるのは大変なことだったのです
「オペがるた(KDD国際電話局) 


現代は、携帯で海外と話せる時代ですが、1980年代の各国の国際電話の状況がよく分かります。恵子の楽しい力作です。


高校時代の写真ですが、

これらの写真は、夫である伸夫が

撮ったのではありません!


「では誰が・・・・!?」


「どういう関係だ〜!!」
                       (*_*;

 お姉さん夫婦に連れて行ってもらった、コロラドにて

  テニスコートにて



マルタ・英語短期留学 2012年2月



湾岸クルーズの船からマルタの城壁

 世界遺産となっているヴァレッタの首都の風景

大砲の並ぶ城壁をアッパーガーデンから望む
紀元前のタルシーン宮殿
学習の合間に観光? ⇔ 観光の合間に学習?

クラスメート (私は先生みたいでしょ!)

クラスメイトのウィリアムとミホ

ロシア人のマックスとパベル

ホットチョコレート(手前のグラス)で一服

ヴァレッタのカーニバル

お母さんの許可を得てパチリ!!

お人形さんみたいでしょ!!



『おばあちゃん語録』 
 



フランス・ペリゴールの旅 2004.9 


 

KDD時代に可愛がってくれたオランダのO先輩のフランスの別荘にて


      ペリゴールのジャンヌダルクの時代のお城


義母を連れて常磐ハワイアンセンターへ
  義母は、な・なんと94歳で、この後水着で泳いだのです。元気!!
義母と白寿99歳のお祝い。 後ろのポスターは、ひ孫が作った。
  早苗おばちゃんの家。この後、伊豆高原の温泉旅館でお泊りでした


「ひまわり通信 1号(創刊号)」  

 「ひまわり通信 2号」

  「ひまわり通信 3号」
 「ひまわり通信 4号」


 「ひまわり通信 5号」 
 「ひまわり通信 6号」



 「ひまわり通信 7号」 
 「ひまわり通信 8号」
「ひまわり通信 9号」 


 
 
「ひまわり通信 10号」
 
「ひまわり通信 11号」


ひまわり通信  12号


「ひまわり通信 13号」
「ひまわり通信 14号」


 



手島 伸夫の