2008年4月更新

手島 仁 の 記 録

「熟慮断行」の伝説の男

このホームページは、父親が本人に相談無く勝手にアップしているものです。 (^^ゞ

担任の先生から「お前が合格したら伝説になる!」と言われた男


 手島仁は、親から見ても高校時代には、勉強してなかった。いや、本当は勉強する暇がなかったのだ。
それはそうだ、親が知っている中でも、神奈川県のトップ高校といわれた翠嵐高校時代には、学業以外にいろんなことをやっていた。
いや、やりすぎていたのだ!

 @「音楽部」の部長、⇒ 今でも城戸先生はじめお世話になっているが・・・。
 A「生物部」、翠嵐名物の主(ぬし)であるニワトリと魚の世話、夏休みは欠かさず学校に行って面倒を見ていた。
 B「天文学部」で夜中に校舎に忍び込んで天文観測、(親からすれば、大丈夫なのかな??)
 C「国際交流」、
 D「演劇部」に属していたかは親にもよく分からない。しかし、大西良さんや、「大佐」と素人演劇を文化祭
   で、訳のわからない筋書きの劇の「王子さま役」をしていたが・・・・

 E「柔道部」に一時属して黒帯を目指したが、音楽部の城戸先生に、「音楽部の部長職をしっかりできないなら
   音楽部の部長職を降りなさい」と言われて柔道部を泣く泣く辞めた。それは、そうだろう毎日、音楽部長
   職を放り出して柔道に明け暮れていたようだから。(しかし、これは大学に入ってから、合気道の黒帯で
   夢を実現させたが・・・)

それから、まだ何かやっていたように思うが、親も忘れた。とにかく何でもやる、忙しい男だった。

 成績は当然最低で、37人のクラスで36番目であった。親としては、そこまでくると、もう言う事はない。「仁君それは、ゴルフで言うとブービー賞と言って貴重なんだよ。ペケ(一番最後)は誰でも取れるが、後ろから2番目というのは、中々取れないから、賞をくれるんだよ!」なんて訳の分からない褒め方をしたものだ。

 そんな彼が、ある日「医学部に行きたい」と言うから、親は「いいんじゃない!」と他人事の返事をした。

しかし、担任の先生はあきれ返ったようだ。「お前が受かったら伝説になる!」と言われたという。先生は、半分あきれて、半分怒っていたであろう。だけど、先生の判断は、通常正しい判断である。それまでまったく、勉強せずに37人中36番の成績だったのだから、もう落ちこぼれもいいところで、「典型的な、代表的な落ちこぼれ」なのある。
 それから手島 仁の猛勉強が始まった。
しかし、世の中甘くはない。次の試験で猛勉強をしたにもかかわらず、成績は相変わらず37人クラスで36番目であった。つまり同じブービー賞であった。ここで、彼は「こりゃ〜いかん!」と思ったようだ。それは確か、3年生の1学期ではなかったか?


それからは、確かに一日中、一生懸命勉強していた。その時、親はビール片手に、ごろっと寝てテレビを見ていたのです。
(^_^;)

しかし、自分の目標を持つということは、良いことだと思う。そして「伝説」は生まれた。落ちこぼれでも、自分の目標を持って一生懸命勉強し続ければ、成果は出てくるという。                                  
                                                                (父・伸夫記)

 

 
遊びほうけていた翠嵐高校時代


「なでしこに 乙女が 凛と居座りぬ」
(実は、東先生の校正が入っているという!)

その後「三日月や 虚空に浮かぶ 神の船」で○○をいただく。


     
五月の小さな緑地にて

 勉強に疲れた私は、大学病院の構内の隅にある、小さな緑地に向かった。この小さな緑地は池があり、患者や医療者が心を癒しに訪れるのであった。


 あたりを見回すと、木には新緑が映えて、草には小さな花が咲き、その花に虫が蜜をすいにやってきた。暖かい風、雲一つない青空に、明るい目差し。それらに心を留めると、その瞬間何かが私の心をつかんだように思えて、はっとした。

 風にのって春そのものが心に語りかけてきたようだった。ほんの一瞬の心での出来事であったが、その時もっとも豊かな時間が私を包んでいた。

 人は心配事や悩みがあると、ありふれた豊かな時間を味わうことが難しいが、豊かな時間はこの小さい緑地の中にも流れている。そして、病院の中にも、どこの家の庭にも、地に果てに咲く一輸の花の中にも、きっと流れている。

 どんな状況にあっても、いのちあるひとときを感じること。ありふれたものの中に、喜ぴを感じられる心を忘れずに持っておきたいと思った。

                                             詩誌 人言(ひとこと) 遠藤 拓さん編集 47号より


  梅  

                てしましゆん

箱を開けた瞬間に
甘いにおいが部屋中に広がる
取りたての梅はスモモのように
フルーティな香りで僕を誘惑する
ころころかわいい子たち
ひとつ口に入れてみる
なんて酸つぱい!!
その中にもほんのり廿みがある
初夏の香りは私に
子供の頃の記憶を呼ぴ戻す

昔私の祖父母の家には
梅の木が二本あった
初夏になると梅雨空の中
木に登って一家総出で梅を穫った
祖父の手入れの行き屈いた梅は
毎年ダンボール三箱分の実をつけ
祖母の手によって漬けられた
私はそんな
「おじいちゃん家の梅の木」が大好きだった
「おばあちゃん家の梅干し」が大好きだった

あれから二十年の歳月が経ち
祖母は他界し祖父は施設に入つた
私達を毎年楽しませてくれた梅の木は
主のいなくなったあの庭で
今年も実を結んでいるだろうか

目の前には黄色い梅つ子たち
今年こそ梅干し作りをやつてやろう
祖父母のようにうまく漬けてみたい
そしていつの日か
自分の子や孫に
味わつてもらえるようになるだろうか
もう一度においをかいでみる
初夏の実が私の心を躍らせた

詩誌 人言(ひとこと) 遠藤 拓さん編集 47号より

ホームランノートの「萩原ひろみ先生」(大豆戸小)ありがとうございました!

 この手島仁を育ててくれた人は、いっぱいいる。その中でも、横浜市立大豆戸小学校の5年と6年の時に、萩原ひろみ先生に担任になっていただいた。この先生の教育が、彼の人生に大きく影響をしている。すばらしかった。
 書いてみれば、何のことはない。子どもたちに、毎日(だったように思う?)何か自分の研究記録を付けさせて、それを先生が、見て一生懸命やっていると「◎のホームラン」とノートに書いて返してくれるのである。言ってみればそれだけであるが、
この毎日の余分な作業は、先生にとって大変なご負担であっただったろう。
ところが、有名中学受験勉強しか頭にない「PTAばばあ〜」からは、なんと「もう止めてください!子供が受験勉強そっちの気になります」と散々PTA・授業参観の中で、反対されたのである。
 しかし、萩原先生は、馬鹿な親の反対をものともせずやり通された。それは大変なことであったろうと思う。


 その中で、子どもは喜んだ。好きな事をやって先生に褒められるのだから・・・・。
仁君は、これに熱中した。
彼は、飛行機が好きだったから、飛行機のことを調べてノートにまとめて書きつづる。毎回「ホームラン賞」をもらってきた。とにかく何かを調べて、それを文章にまとめる。自分の好きなことであるから、いろいろ一生懸命調べる。私から見ると、何かを真剣に調べて、まとめるという「学問の基本」は、この萩原ひろみ先生の「自由研究ノート」に始まっている。この力はすごい。もしこの欄を読んでいるあなたが、人の子の親で、子供の勉強に悩んでいたら、これをやるといい。子どもの好きな研究をまとめさせて、家庭教師に見てもらうのである。人間は、好きなことをやっているといろいろな工夫や力が出てくるものである。せめて小学生時代には、「何かに熱中」させることが重要なのではないだろうか。

夏休みになると、実際に飛行機作りが始まった。

 彼は、熱中すると、もうそれしか頭にないタイプである。彼の伯父さん(伸夫の兄)が、本格的なラジコンを何機も持っていて、飛ばしていたから、たまらない。
夏休みに入る前から、毎日、毎日手作りの飛行機をつくった。それも全長1m以上ある本格的な飛行機である。
 しかし、飛行機を作ったことがある人なら分かるであろうが、模型飛行機を飛ばすのは、本当に困難なのである。ましてや、小学5年生の手作り飛行機が、そんなに飛ぶわけはない。見ていると初期の頃は、ミニカーのモーターと単1型の重い電池であるから推力も、重量も飛行機を飛ばすのには無理があった。

 「出来た!ととさん、飛ぶかな?」
 「どうかな?」と言って、毎回鶴見川の土手に行く。飛行機を飛ばすのに調度いい高さなのである。
彼の手を離れた飛行機は、わずか滑空しただけで、墜落してバラバラになる。いつも同じだ。彼は、メゲもせずにそれを拾って家に帰り、また次の制作にかかる。懲りないタイプというより、楽しいのである。
こうして、彼の夏休みは、飛行機作りで、過ぎって行くのである。
 毎回それを見ている親は、なんとなくかわいそうになって、高い「電動の飛行機」の完成品を買ってやった(当時は、親も経済力があったのである)。そしたら、喜んでそれを持って帰って、次の日にはバラバラにしていた。そして、高価な電動飛行機は彼の手作りの飛行機の部品になっていた。モーターや高機能電池はいいが、電動リモコンの重い部品が付いた手作り飛行機は、余計に飛ばない。

やがて小学6年生になっても、彼の飛行機作りは、止まらない。しかし親も、本当に子どもの事がよく分かっていない馬鹿だから、また、かわいそうになってこの年も、電動飛行機を一機買って与えた。(バブルの時代でもあったのですよ!)結果は同じで、電動飛行機としては一回も飛ぶことなく、また手作り飛行機の部品になっていた。

 ある時、親は気がついた。出来た飛行機は、すぐバラバラになるのだから、写真に撮っておいてやろう。そうして撮ったごく一部が下の写真である。(本当は、べらぼうな数の飛行機が作られました。)
伯父さんの電動飛行機・取手にて 飛んだ!!でも・・・・・・
93年5月(プロペラでなくヘリ的ローターである⇒飛ぶわけがない!) 93年5月(左記飛行機のローターを取ったところ)
93年6月(通常の電動形式、尾翼を補強) 93年8月(夏休みは飛行機作りのためにあるのだ!)
93年11月(全手作り電動飛行機) 94年4月(機体は発泡スチを利用して軽量化?)
2006年2月 さすがにこれはすばらしく飛んだ



<二浪のつぶやき>                              「人言」(28号より)

 勉学は、基本的に白分の努カが素直に結果につながると言われる。しかし、一年間の努カが紙切れ一枚で、電話一本で、簡単に否定された時は、理不尽さを感じずにいられるだろうか。おまけに二浪と同時に、彼女にもふられてしまった。自分が逃してしまいたくないものを両方とも逃してしまった。何にも手元に残らなかった気がした。

 暖かい風に吹かれて、今年も桜が舞い踊るが、今の自分にとって心地よい日差しは余計に不快なものだ。こういう時は冷たい雨でも降る方がまだましだ。花が咲き、春が来る、そんな小さな幸せを素直に喜ぺないというのは、何ともつらいものである。やはり、本当にどん底な気持ちの時に、人は、場違いな明るさよりも、共感を求めるものなのだろう。医学部を目指す僕は、春風のそよそよとした、よそよそしさから、患者さんの心をひとつ学んだ気がした。新しい一年の始まり。たかだか受験と失恋だけだが、やっぱり苦しい。自分はなんてダメなんだろうとも思ってしまう。自信も、気合いもあったものではなかつた。

 受験が終って、何も得られなかった一年に少しでも達成感が欲しいと思い、自転車で京都旅行に出た。しかし、ナマツた身体に、無謀な計画のツケと、強い西風ですぐにバテてしまい、名古屋の ユースホステルに白転車を置かせてもらい、電車の旅に変更した。またも挫折してしまった。
しかし、自分を見つめるいい機会ではあった。僕がこの旅で考えたことは、早く目的地に着くことだけが旅の目的でないということだ。朝早く出て、次の旅館までひたすら走り、夜遅くに着き、景色も見ずに、旅先の交流もなく、先ぱかり急いでも仕方がない。特に向かい風が吹いていたりしたら焦りは疲労となって返ってくるだけである。人生もそうだ。向かい風、登り坂、通行止め雷雨、三車線歩道付の道から、じゃり道まで、何でもありだ。まわり道、雨宿りが必要な時もある。みんな各々の道を行く。他人がどんなに先に行こうとも、自分は自分の道でしかない。友達がどんどん追い越してゆく中、僕は自分だけの追い風を待たなければならない。その間に、おにぎりを食ぺ、水を飲み、足をマッサージして、自転車を整備する。そうすればいつの目か、追い風が吹いた時にトップギアーで走行できるのだと自分に言いきかせる。

 順調な時間は誰でも使える。しかし、不調な時間の。使い方こそが重要なのだろう。悶々とした気持ちを抑えて、いかに不調を乗り越えるか。不調な時間を大切に使わなければ、順調な時間も有効に使えない。今は今でやるぺきことがある。なら、それをやれぱいいじゃないかと、帰りの電車の中で考えた。

 今、僕はせっせと走り出す準備をしている。果して、来年は青信号が点灯してくれるだろうか。一年はまだ始まったぱかりだ。


<二浪のたわごと>   人言(ひとこと) 30号(2000年9月)

 夏休みは、学生達にとって天国である。そして、受験生にとっては関ヶ原とは言わぬまでも天王山とよく言われる、大事な戦いだ。
遊べないかわりに、僕はよく自分の思い出の棚から、何冊かアルバムを取り出す。僕の大切な心の糧だ。これは、そんなひとつ。
 中学を卒業して、高校へ入学するまでは一ヶ月ほど休みがあるが、その時期を利用してタイに旅行した。日本の夏とは比べられない暑い思い出である。その時は、タイの僕村やスラムで貧しい人々を応援するボランティア団体が主催したツアーで十目間の目程だった。

 初めてのアジア、物心ついて最初の旅なので、緊張した分、一五才の心には刺激的であった。

  着いた時、夜のバンコクは高層ビルが並んで、ライトやネオンで輝いていた。ホテルヘ車で三十分、まるで子供のように景色に釘付けになった。植物から人からビルから、見るものは山ほどある。緊張で疲れた体が一瞬で好奇心の塊となった。すべて英語のホテルで 一夜を明かした後、翌日はいきなり四百q離れた田舎へ車を5時間とばした。農村でのNGO の活動を見学するためだった。五感で体験することはこんなに大事なことだったと初めて味わった。木の伐採された山や、サバンナやステップといった荒れ地なども多く、自分の目で見ることはすごく衝撃的である。田舎につくと、屋台で食事をしてから丘の上にのぼって、森を見下ろしながらスタッフの人の話をきく。タイの政治や経済のこと、NGOの活動のこと、その他の問題のこと。目本とは違う種類のセミの鳴き声の中、丘から見える森が地平線まで続いているのを眺めながら、三十年前にはトラがいた、なんて話もきいた。ここに入植した大昔の人や、今住んでいる人の暮らしはどんなだろうと思いをめぐらす。夜、雷で停電した。ロウソク一本を灯し、虫が集まってくる中で、スタッフの人が、精霊信仰の話と、怪談をしてくれた。突然ドアが開きカゼが吹く。それに次いでスコールが屋根を打つ。本当の闇を体験し、自然を生で感じると、精霊信仰の起源もよく理解できる。教科書もテレビもインターネットも生の体験には劣る。

 翌日は村の農家の人の話を聞く。自然の中に生きる大変さや、経済的な苦労などを話しながら、目焼けしたおじさんは広い畑を案内してくれた。重労働のためか七〇才台に見えたその人は、五十才になったばかりだそうだ。
しかし澄んだ目をしていた。きっと、真っすぐに五十年間生きてきたのだろう。二軒目は、一家八人の大家族。木陰に腰を下ろしてフルーツをいただきながらお話する。時間の流れがちがう。農村の静かな午後、こんな暮らしに出会えただけでも感動だ。ここのお宅は若い息子夫婦を中心に、農地拡大を試みているとこだった。農村の生活の話をたくさん聞きながら、楽しい午後を過ごした。

 バンコクヘ戻り、スラムの見学も行った。 スラムと言うと、すぐに犯罪多発地域を思い浮かべるが、僕が行ったバンコクのスラムは、農村から都市に来た人々があき地にバラックの家を立てた所である。現地のNGOスタッフが、それぞれにホストの子供達を募集してくれて、彼らの家におじゃまさせてもらった。 その子達の家はスラムではわりとお金がある方で、オーディオやテレビなども置いてあったが、立ちのきをせまられたり、失業中だったりと、彼等問題は山ほどある。でも、僕らをとても暖かく迎え入れてくれ、いろいろと気づかつてくれた。子供達とも仲良くなり、イメージとは全然違ったスラム街に驚いた。

 そこでも様々な社会問題や、政治的間題の話をきけたが、最後にNGOのスタッフの方が、言ったのは、本当に様々な生活があるので、もっともつと低収入の人達がいることを、目先の判断だけで忘れないでほしい、ということだった。
  十五才の僕は好奇心で一杯になった。世界にはもっと知らないことがある。知らない人生があり、知らない人がおり、知らない生活がある。世界に通用する人間になりたい。どこにでも生きてゆける人間、どこに行っても誰かの力を借りながらも、自分も誰かに力を借せる人間になりたい。こう思ったのが、今、医学部と言う選択に至る所以である。そして、十年後はどこかの途上国で汗とほこりにまみれながら、それでも力強く働きたいと思っている。ただの奉仕精神や義務感だけで僕はこの道を選んだ訳ではないが、誰かの手助けをし、自分もその地域からいろいろなことを学びたいというのが僕の原点である。そして、それが僕に一番強い力を与えている原動力だ。

  受験勉強中の僕にはその先にある困難が全く見えていないだろう。しかし、何かを始め、何かをやる、ということは、ほんの小さなことが原因になることも多い。人から見ればただの旅行。しかし、タイの人々と、彼らを本気で支援する人々の姿は僕に大きな影響を与えた。こんな思い出を大切にしてゆきたい。



                      

遠藤 拓さん発行「人言」(ひとこと)より 
イラストは遠藤 慶子さん          .


<水俣の地に立ちて> (その1)

 九州の海岸沿いを列車はひたすら走る。時計は午後九時をまわつており、外の景色も通
り過ぎてゆく駅の看板すら見えない。不安になって車掌さんに尋ねると、水俣までは八代 市からは一時間以上かかるとのこと。こんなに遠いとは思つていなかった。二両編成の列 車には僕くらいしか客がおらず、本当に到着するのかという不安が増すばかり。
 僕が水俣病の実態と現状を見るべく和歌山をとぴだしたのは去年の十一月のことである。 横浜の実家にいる母の友人の紹介で、最近建てられた胎児性水俣病の作業所を訪れること にした。この時は偶然一週間ほど休みを得られたため、何か医学や治療の勉強に役立つよ うな経験をしたいと思い、熊本県の南端、水俣市へ行ったのである。

 水俣病は四十年以上前の公害問題であり、もはや解決済み、和解済みの間魍であるとい う印象がある。
僕自身、教科書で読んだ程度しか覚えていない。しかし、徐々に忘れられてゆくこの問 題の現状に待ったをかける人達がいた。3年前に作業所“ほっとはうす”を開き、水俣病 の現状を杜会に訴えようとする人達の存在を知った僕は、また新たな出会いを求めて旅に 出たのだった。

 夜十時過ぎに水俣駅に着く。最初の印象はなんて遠い所だろうという思いと同時に、こ の地の現状が果して東京の人、全国の人にどの程度伝わるのだろうか、という思いだっ た。目本経済発展という名の下に犠牲になつた地。それは水俣病という社会問題を取り上 げる東京の机上からはあまりに遠かった。そのような印象を受けた。関空を飛ぴ立ったの は午後三時である。午後十一時ホテルから水俣の夜景を見ながら思いをめぐらす。

 バスや鉄道があまりないので、自転車を飛行機に乗せてきた。水俣市は人口約三万。見 るぺき場所をまわるには自転車か車が便利。海岸や山の方を走りまわるととても美しい所 であることがわかる。海は澄んでいて海岸はとてもきれい。
 ここが公害の舞台であつたな
どとは信じられない。だが、その美しい海辺の町の一番いい所にはチッソの工場が残っていたのには驚いた。歴史の中でとっくに消えていたと思っていたものに出会ったのだ。集 団食中毒を起こし、牛肉偽装事件を起こした雪印がつぶれる時代から見れぱ、何数人、何 万人の人生を変えたチッソの存続という事実には本当に驚いた。

 作業所「ほっとはうす」を訪ねる。僕が訪れた時には三人のメンバーの方がおられた。どの人も体に障害を持たれてはいるが、笑顔で迎えて下さった。どの人もとても明るく、気さくな方達であった。一日作業を手伝わせてもらう。ほっとはうすでは、喫茶と食事もで きる、地域に閉かれた作業所であり、メンバーの方達はしおり作りやシール切りなどの作業をする。いろんなおしゃべりをしながら楽しく過ごす。水俣病に対してとてもしっかり とレた意識を持っておられるメンバーの方も多く、自分達がいる限り水俣病は終わらない し、水俣病という事実を風化させない様に杜会にアピールする。という強い思いで結束さ れている。このようなしっかりした主張には心が打たれるものがあった。また、職員の方 もメンバーに敬語を使っていたのが印象的であつた。考えてみれぱどの方も四十才以上。

 僕も自然と敬語を使う。当たり前のことだが、意外と忘れがちなことである。こういう態度 の細かい配慮がメンバーの方に勇気と自信を与えるのだと思った。作業所の代表の加藤さ んという方にも大変お世語になつた。作業所や、水俣の地を見ておく場所や訪れるべき人 をいろいろと紹介して下さり、ご自宅にも招いて下さった。加藤さんのお宅は山を切り開 いた中の二戸建て。目の前の家庭菜園でとれた野菜をごちそうして下さった。いろり、五 右衛門風呂のあるとても素敵なお宅で、家の裏山を登った所からは不知海がとても美しく 見られる。「水俣病が起こる前の、美しい水俣の原風最、水俣という土地の暮らしを見てほ しかった。」という加藤さんの熱意に感謝している。水俣の様カな人々、の心に触れられたの はひとえに加藤さんのおかげであつた。

 「ほっとはうす」で、水俣病が騒がれる以前か らチッソに働いていた方にもお会いすることができた。今は六十過ぎて退職されているが、当時の貴重なお話を聞くことができた。
 昔、
ここにチッソができた頃には、.水俣は熊本の 産業の一大拠点となっていたそうだ。何にも なかった寒村には巨大な科学プラントが建て られ、専用の鉄道が設けられ、専用の発電所 から送られる電気で灯がともつた。多くの労 働者がここで働き、チッソによって水俣には 大きな恩恵がほどこされた。まだ明治、大正の時代である。

 全人口のほとんどがチッソと何らかの関わ りを持っており、チッソは町の誇りであった そうだ。
戦後、朝鮮で植民地特有の地元民の存在を 無視して工場を運営していた者達が、復員し て水俣工場のトップになる。公害も産業発展 の名の下に許されていた時代、地元や環境に 配慮という考えは全くなく、水銀以外にも多 くの薬品がたれ流しにされ、徐々にその被害 が明らかになっていても、患者の存在は隠さ れていた。1950年代当時は、産業エネルギー の石油化の時代であった。チッソは他企業と 共同で千葉に石油プラントの建設を推進して いたが、資金調達のために水俣工場が水銀をたれ流しで稼動していた。日本経済を優先した国策として、この病気が生まれる現状を放 置したという解釈もできるだろう。

  水俣病患者の認定が始まったのは、千葉県 の石油化学プラントが完成した後の1968年 であった。水俣病患者認定の開始は、何も人類が環境に配慮するようになつたからでなく、『 水俣工場がその役目を退いたからにすぎない』 この事実に触れて、僕は本当に驚いた。経 済優先の気風は、今でも存在するし、今後も 同じようなことが十分起こりうると思う。ほっとはうすの方々が言った、水俣病は決して解決した訳でないという主張が、急に心に染み込んできた。

水俣病が残した問題をもう一つ聞かせて頂 いた。人間関係の修復である。僕は学校で差 別という言葉を用いて、水俣病の心の被害を教わったが、この言葉では現実の悲惨さの一 握りをも伝わってこない。ズタズタにされた 人間関係の真実を初めて知ったのもこの旅行だ。

 貧困のために魚をとってそのまま主食にし ていた人達が最初に発病した時、もとからあ った所得の格差による差別意識に拍車をかけ る原因となった。原因がわかっても町を支えるチッソを擁護する立場に立つ人も多く、魚が売れなくなったことで漁業関係者からも水 俣病の隠蔽を考える人もおり、病気の申請患 者と対立した。そのような人も年を経て発病 することも多く、人間関係をさらに複雑化さ せた。申請患者の中にも様々な亀裂が生じた。
 同じように団結して訴えていても、一人一人ぱらぱらに認定されて見舞金を受けとる。昨日まで共に闘ってきた仲間が今日は多額のお 金をもらって脱けてゆく。嫉妬や不信感の温 床となったようだ。四十年経た今でもわだかまりは残っているというお話をたくさん聞かせてもらったが、これこそが杜会病としての水俣病の姿であるのかもしれない。

  しかし、悲劇が起これぱ、それに立ち向かお うとする人間の強さも見ることができた。三 年前にオープンした「ほっとはうす」には、多くの人が癒しと学ぴを求めてやってくる。僕も、水俣病という大事件から多くのことを学ぴ、心を動かすドラマにたくさん出会えたし、同じ気持ちで水俣を学ぴ、家路についた人も多かろう。人の悪さだけでなく、良さ、強さに出会えた旅でもあった。

 ほっとはうすの人々の笑顔に見送られて帰路についた。海岸線を走る列車から見た海は、まるで何事もなかったかのように、ただ ただ美しかつた。


〈水俣の地に立ちて〉   (その2)           2004.8月 「人言」(ひとこと)43号

<再び水俣の地に立つ>
 朝六時、不知火海から朝日が昇ってくる。
揺れる漁船の上では、夏だというのに風が冷たく感じられた。綱をたぐりよせると、小さな白子イワシの稚魚が透明な体をくねらせて上がってきた。大きなバケツいっぱいに収める。四人の漁師達が黙々と作業をする。水俣の若い漁師達は本当によく働く。早朝の空気を吸いながら、朝日の下で働く。自然と共に生きる人間の姿、本来の姿を見た気がした。
 僕が水俣病を学ぶために九州を訪れたのは、去年の夏であった。胎児性水俣病の人達の作業所を運営している、加藤たけ子さんという方の家に泊まらせて頂きながら、様々な人とめぐり合わせて頂いた。そんな中、一人の女性漁師の方とめぐり合う機会を与えてもらうこととなった。


〈ある一人の漁師の生き方〉
 杉本エイ子さん、66才。水俣の地に生まれ育ち、海と共に生きてこられた方である。
水俣病は発生当初、海辺で魚をとって生活していた人々から始まった。漁業に携わる人々の生活と、漁の風景を見せて頂くために紹介して頂いた。杉本エイ子さんは普段は息子一家や夫と共に漁をする傍ら、水俣病を伝えるために講演をされている。ジャーナリストの柳田邦男さんなどと共に講演されたこともあるそうだ。ご自身の水俣病の体験を通して語られ至言葉は、本当に聞く者の心に響きわたる。昔に比べて今の時代はどうですか、と尋ねると、
 「今は、不景気だと世間では言われているが、親にも頼らず、他人をあてにせず、自分一人で生きていく時代ぞ。自分の力を試せる時代ぞ。いい時代が来たと思いなさい。」
 
 今までこのような言葉を言ってくれる人はい衣かった。同じ世代の友人は就職難をなげ
き、医学生である僕も、社会に出る厳しさを思うと不安がある。だからこそ、自分を試し、自分の力で生きてゆける、という積極的な言葉に心打たれた。昭和三十年代、水俣病のおこった高度成長期、好景気の下に捨てられた何かがあったはずだ。
 「たとえ、どんなに困難な時があっても、人をうらんではいけない。そして人に見捨てられたと思った時でも、海や山や川に見捨てられる人間になってはいけない。私は両親からそう教わってきました。」
 海、山などの白然に感謝して生きる。エイ子さんの言葉には自然と共に生き、海を汚した水俣病を乗り越えた者がもつ魅力と、オーラが出ている感じがした。そんな杉本エイ子さんの歴史は、波乱万丈であった。


〈水俣病発生〉
杉本さん一家は、ご両親が綱元の親方として、多くの人をつかいながら漁を仕切る立場にあった。ゆえにエイ子さんご自身、豊かな海と仲間に恵まれて育っていったようだ。そんな中で、突然、奇病が一家をおそった。エイ子さんが20代の頃であった。ご両親が病に侵されると、村の人達の態度が急に冷たくなった。小さな漁師達の村であるから、病気を認めてしまえば、食べてゆく道がなくなってしまう。部落からは一人も忠者は"いないことにする。という、非情な決定がされたとも聞いた。当然、患者は肩身の狭い思いをする。

 ある日、エイ子さんの母親が道を歩いていると、「患者は貝立たないように道の真中を歩.くな」とまで言われたという。それだけ差別は厳しく、また村も生き残りで必死であった。 時が経つにつれてエイ子さん自身も発病する。 漁にはいけず、ギリギリの生活をしていた矢先に、体が動かなくなる怖さは想像も出来ない。そのような状態にあっても、エイ子さんは結婚し、四人の男の子を生む。現在二人は都会に出ているが、長男と四男のお二人が、杉本家の漁の中心になっている。エイ子さんのご主人も、とても優しそうな感じの方であつた。頼もしい家族だと語ったエイ子さんの嬉しそうな顔が今でも眼に浮かぶ。

〈企業との闘い〉
そんな家族に支えられながら、病身のご両親と共に裁判をはじめられた。回りの患者が死んでいく中、エイ子さんご自身も死を覚悟しながらの決断であつたに違いない。
 それでも、夫や子供達に支えられながら、神川地区でも先頭になって裁判を続けられた。裁判を続けていれば、企業側の切り崩しにもあう、住民との対立もある。他の住民によるいじめで、ケンカに出向こうとするエイ子さんに、エイ子さんの父親がこう言った。
 「仕方ない。どうせ死ぬなら人をいじめて死ぬより、いじめられて死んだ方が・…。人様は変えられないから、自分が変っていけばよかがね。」と。  エイ子さんの父親は綱の親方として、多くの人を使いながら漁をしてゆく立場であつた。どんなに水俣病に対する周囲の差別が厳しくともこう言っていた。
 「綱の親方は人を好きにならねば一人前にはならん。人様のおかげだと思って魚は捕らんと」 
苦しい時代をふり返って、なお、エイ子さんはこう言い切る。「水俣病は自分にとっての、"のさり"です。」

 "のさり"とは、求めないで得られた大漁という意味である。神に与えられた恵み。自分の人生における幸運という意味だそうだ。杉本さん一家を水俣病がおそった、昭和33〜34年は、まだあまり病気の知られていない初期であった。この時病気になっていなければ、まさに、いじめる側。に立たされただろうというのである。

〈裁判に勝つ〉
 やがて、時代は移り、昭和四十八年、杉本さんはついに勝訴を勝ちとった。その間、いじめた側もいじめられた側も多くの人が水俣病で亡くなったという。どんな立場の人間であっても、それなりの辛さをもっているものだ。勝訴となり、周囲の人々が杉本さん一家の生き方に勇気付けられるにつれ、エイ子さんの心も少しずつ周りを許せるようになっていったという。
 怒りと増悪の体験を、人間信頼と自然を敬う心に変えるということ。これは本当に困難なことであると思われるし、ある意味奇跡といってもいいのではないだろうか。人間のもつ最低、の部分から、最高の人生哲学が生まれる瞬間。公害病という負の遺産を、白然と共に生きるということの大切な教訓に変えていく。この転換は奇跡としか言えない。


〈海に生きるということ〉
 自然の豊かさというと、漢然としているが、いかに水俣の海が豊かであるかを、僕はとりたての魚の刺身に教わった。口に入れるとじわっと甘みがひろがる。廿海老のよう校まろやかな味。信じられないほど海の豊かさがいっぱいつまった味がした。魚を陸上げすると、すぐにこれらを釜上げにする。作業場に湯気がたちこめる。ゆでられたイリコは、潮風にあたる海岸にもってゆき、天目の下で干す。海の潮風と太陽をあびて、格別のイリコが仕上がる。昔から伝わる方法で無添加のイリコをつくる。その味に真かれ、杉本さんのイリコは評判であるようだ。自然の流れに逆らわず、真っ当に働けば必ず神様が助けて下さる。エイ子さんは言う。
 「海はこわいです。欲をかいたら、一匹も魚がとれんようになる。だから、海に感謝せないかん。海があるからこうして生きてゆけるのだから。」
 半世紀近くも水俣病と闘ってきた一人の女性の言葉には、激動の人生からくる重みと、漁師としての誇りが感じられた。


〈祈りの地蔵〉
 出発の日、かつて水銀が流された場所に立つ。今は埋立地となり、海臨む公園となっている。その一角に、大小様々な地蔵がたっていると聞いて見に行った。二度とこのような悲劇がおこらないようにと、水俣の人達が手づくりで彫った地蔵は五十体もあっただろうか。祈りをこめてつくられたお地蔵様は、静かに海を見つめていた。七月の不知火海は、ただ美しかった。

     

2歳の彼のお気に入りの場所! 向井のおじいちゃんの秘蔵子でした
この「破れ」を誰が作ったかは、おわかりですよね! 

   このホームページは、父親が本人に相談無く勝手にアップしているものです。 (^^ゞ

手島 伸夫の
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